空蝉

ひさかはる

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 熱くしたシャワーの湯で丁寧に流して帰った。ボディソープは使わず済ませたと、風呂上りの匂いをさせない男の身体と左手の指輪を見る限り、夜にもう一度現れることはないと判じたそばから下腹部の熱が頭をもたげてあなたを苛んだ。たった一度の戯れで恋をするはずはなくとも家庭という今の自分にはないものを持つ電気屋とその妻に覚える嫉妬は確かにあった。

 全身から染み出たよだれのように乾き固まるソファやテーブルや床の汚れを次に逢うまで残しておきたい心を落ち着かせて、水で濡らし搾った布で拭っていった。ソファはてらてらと輝き全体が女の陰になり、拭ったそばからより深い穢れであなたを照らした。頬の温みは羞恥であるのか欲望であるのか。そのどちらであれ悦びに近しいものであることに疑いはない。幾日か怠けていた床も形跡を消す魂胆であれ、掃除は掃除として喜ぶ艶があった。ソファと床を濡らせた布を脇に置き、台所の流しの前に立った。

 テーブル用の布巾を濡らして強めに搾ると捻じられた布から滴る雫にそよぐ心の襞があった。自身の捩れた腰もこうして溢れさせていたとシンクを鳴らす音が耳に囁く。

 赧くした耳でテーブルに向き拭っていった。綺麗にすることが穢れを自覚させ、夫との食卓を嘲笑った先ほどの自分の愚行に重くなった。冷静になってしまえば罪悪の感情は情け容赦なく鞭を打つ。打たれた鞭に熱をあげる性感をひとりのリビングで演出できるほど女の現実は甘くなく、容易に剥がされた幻想の隙間を割って冷房は入り込み、冷静さに拍車をかけた。

 魂というものが無ければ良いと男と繋がっていた時間とは真逆の事を願った。妻を養う為にも汗を流し、日々の労働を厭わなかった夫に、他人との交接を見せつけ昂るなど正気の沙汰ではない。

 が、犯そうとした男を怨む気までは起せず、強姦による怯えから身を守る為の術であった、などと自身を偽り騙し切れるものではないとあなたの女が言う。

 自己否定をしたところで否定できるものではなく、肯定的に捉えられる材料もなく、淫らであった事実以外には何もない。

 死んでしまったアナタが悪い、と言えずにいる自分があった。

 もしも夫が生きているうちにこういったことがあったとしたら自分はどうであっただろうか、と考えても歓ばしい結果にはならない、と知りながらも問わずにおけなかった。誰かに問われなくとも語ってしまう自意識がひとりの時間を浸してゆく。

 幸福とは自己を考える余裕のないことなのだろうとあなたは悟った。

 利他的である、とは他人に向けた優しみではなく、人生のなかに自身の心を参加させず、何処か第三者でいられる保護を得られる利己があるのだろう。自己中心的な人間とは迷惑な存在ではあるが、常に当事者で在り続けるそれは紛れもなく自身を生きており、自己を否定しなくてはならない局面には尋常ではない痛みを覚えるのではないか。そこから逃れようとする弱さで言い訳を繰り返し、自分本位の生き方を改められずにいるのだろう。

 けれど強い人間などいるのだろうか。利他的であろうとする試みは自己の心の揺れを失くさせる保全になる。強い訳ではない。鈍い人間はそもそも痛みを伴わない。決して強い訳ではない。

 近しい人間に利他的であろうとした決意にヒビが入れば積み重ねたストレスに自己は一気に崩壊するだろう。利己的である人間も自信を失えば手前勝手ではあれ心は壊れるだろう。

 もしかすると精神の病に効果的な治療法とは見知らぬ他人へのボランティアなのではないか。素直に他者を想うしかない時間を増やし自己から逃避させられる。実際に誰かに悩みを打ち明けるよりも誰かに相談され必要とされている実感に救いがあるような気がしなくもない。

 他者と同化させてしまう優しみを持つカウンセラーは心を病ませるのだろうけれど、自分を必要とされている自信と誰かを救ってやろうとする正義感に支えられる医者は多くの闇と対面し、却って充実した人生を送れるのかもしれない。

 誰かを想うとは果たして誰を想う事なのだろう。

 あなたは夫の魂を想った。

 仏壇の前から離れられない地縛霊のようであって欲しいと自身の為に祈った。

 陰に残る男の熱に再度繋がりを求める近い未来は疑えず、当事者になり生きてゆくしかないと認めざるを得ない。

 今日一日。仏壇の前に顔を出していないという事実が妻の肩に重く圧し掛かったが、成り立つ言い訳はなくともそのまま顔を見せずに置いた。

 
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