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旅立ち

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 目が覚めたとき、メルリーナはひとりきりだった。

 カーテンが開け放たれたままの窓の外では、すでに陽は高く、中天を過ぎているようだ。

 のろのろと身体を起こせば、汗や体液で汚れていたはずの身体は綺麗に拭われていて、ナイトガウンもきちんと着ていた。
 
 昨夜の名残は、シーツに滲んだ鮮血と、身体に残る鈍い痛み。肌に無数に散っている痣だけだ。

 そのどれもが、ディオンが齎したものだという証はなく、ディオンがここにいたという証もない。

 それでも、メルリーナの肌は、ディオンのぬくもりと重みを覚えているし、目を瞑ってその愛撫を思い出すだけで、開かれたばかりの場所から、ドロリとしたものが滲む。
 
 ただ、身体が覚えているのとは逆に、昨夜感じたはずの喜びや幸せに似たものは消え失せていて、ヒリヒリとした痛みが痣だらけの胸の奥にあった。

 夢では片付けられない生々しい記憶が、美しい思い出に変わるには時間が掛かりそうだ。

 蹲ってしまいたくなる気持ちを、いい加減起きなければ一日を無駄にしてしまうからと奮い立たせてベッドから下り立ち、下腹部の鈍い痛みに顔をしかめながら、ガクガクする足を引き摺って、壁伝いにどうにか浴室まで辿り着くと、震えながら盥に張っていた冷たい水を浴びた。

 肌に残っている感触も、身体の奥に燻っている欲望の熾火も、綺麗に消し去ってしまいたかった。

 濡れた髪を拭った後、マクシムの遺品をしまっている部屋から、男物の服を引っ張り出し、あちこちを折ったり無理やりたくし込んだりして、どうにかそれらしく着こなした。 
 
 船乗りたちが着ているような質素で丈夫なシャツと汚れてもかまわない黒のトラウザーズに、頑丈な黒のブーツという格好なら、多少身体に合っていなくとも目立ちはしないだろう。

 髪は、黒いバンダナでひとつに束ねてみた。
 一年前からは肩の下あたりで切り揃えていたので、男性と言っても不自然ではない長さだ。
 
 仕上げに、一般的な船乗りが持っている湾曲した剣ではなく、マクシムが船長ことラザールから貰ったという赤い鞘に黄金の装飾が施された短剣を腰に下げ、こちらもラザールに貰った羅針盤を懐に入れた。

 念のため、マクシムが何かあったときのためにとくれていた銀貨を二枚ポケットに忍ばせて、昨夜からそのままになっていたチェス盤を片付けて、しっかりと抱える。

 どこもおかしなところはないかと、鏡に姿を映したメルリーナは、駆け出しの海賊見習いといった風体の自分の姿に、目を瞬いた。
 
 そこに映っていたのは、昨日までの自分とは似ても似つかぬ、見知らぬ人物だった。


◇◆   


 申し訳程度に辺りを窺って邸を出たメルリーナは、まだ昼間だというのに多くの酔っ払いが騒ぐ港を通る大通りを、脇目も振らずに目的の店を目指して足早に進んだ。
 
 ディオンを乗せて来たに違いない、ひと際大きなカーディナル帝国の軍艦や異国風の装飾が施された商船が沖合に停泊していて、港に沿って延びる大通りは、久しぶりの陸を満喫中の船乗りで溢れかえっていた。

 冬は北風のせいで荒れることも多いアンテメール海も、春になると穏やかになり、行き来が楽になる。

 カーディナルで冬の間に造られた織物や手工芸品などがリヴィエールの港から運び出され、温暖な地方で収穫された香辛料や織物の原材料となる綿花が運び入れられる。
 商船が活発に行き来するようになると、それを狙った海賊も冬眠から覚める獣のごとく穴倉から這い出して来る。
 そして、彼らが奪った財宝をカーディナル海軍も、目を光らせて獲物を追い駆けることとなり、アンテメール海には実に様々な船が押し寄せるのだ。

 アンテメール海に面する国は、リヴィエールをはじめ十を下らない。
 リヴィエールの対岸にあるリーフラント王国。リーフラント王国の隣国ウィスバーデン王国。そこからぐるりとリヴィエールまで海岸線を辿る間には、良質な港を確保しようと躍起になっている小国が小競り合いを繰り返して乱立している。

 リーフラントやウィスバーデンの港も決して小さくはないが、リヴィエールの港は、船大工から娼婦まで、必要なものは何でも手に入る最も便利な港であり、最も安全な港でもあった。

 カーディナルを後ろ盾に持つリヴィエール公国が保有する船は、最新鋭の装備を持つ。
 代々の公爵が自ら海に出るお国柄とあって、船員の練度も高く、軍人というよりも海賊気質が抜けきらないため、荒っぽい交戦や接舷攻撃もお手のものだ。

 もちろん、陸の上でもリヴィエールは最も安全だと言われている。

 酔っ払いの喧嘩が起きるくらいには物騒だが、一度リヴィエールで大きな騒ぎを起こせば、その本人だけではなく、騒ぎを起こした者を乗せていた船までもが港に出入り禁止となるので、凶悪な事件は滅多に起きない。

 ひしめき合う酒場や娼館も、客の様々な用途と懐具合に応じて住み分けが出来ており、うっかり入る店さえ間違わなければ面倒ごとに巻き込まれる確率は低かった。
 船の修理や補給のために、限られた日数しか陸に上がれない船乗りたちは、ある程度の警戒心さえ失わなければ大丈夫という安心感から、昼間から浴びるように酒を飲み、目いっぱい楽しもうとする。

 メルリーナは、賑やかな大通りから一本通りを入ったところにひっそりと佇む、比較的落ち着いた雰囲気の酒場へ足を踏み入れた。

 『気まぐれ亭』という名の酒場は、通りに面した入り口の黒い扉に、素っ気ない白い錨が描かれているだけで、看板もなければ呼び込みもいない。知る人ぞ知る店。誰かに連れて来てもらって、初めて知るといった具合の店だった。

 客層は、年齢か地位が高い者が多く、引退した船乗りか、現役ならば船長。または、少なくとも「長」と付く仕事をしている者ばかり。
 決してお高くとまった店ではないが、青二才がふんぞり返って飲める場所でもない。

「……」

 そっと扉を押し開けると、昼でも薄暗い店の中に漂う酒の香りとタバコの匂いに息を詰め、なるべく目立たないように、足音を殺して中へ滑り込んだ。

 不揃いな椅子を侍らせた丸テーブルが四つ。
 天井から流れ落ちるように薄紅色の透けたカーテンで覆われている、壁際に設えられた深紅のソファー。
 店の奥には、くすんだ硝子窓の傍に寄せられた寝椅子と透明に磨き抜かれたグラスがずらりと並ぶカウンターがある。

 客と言ってもいいのは、カウンターの端で鼾をかきながら寝ているらしい大柄な男。深紅のソファーで白い太股をむき出しにした女性と戯れている海賊風の男。窓辺の寝椅子で本を読んでいる軍人らしき若者だけだ。

 本――おそらく真面目な内容と思われる――を読んでいた若者は、メルリーナの気配に気づくと顔を上げ、何を思ったか立ち上がった。

 かっちりとした詰襟の濃紺のコートは、さすがに前の釦は外していたものの、磨き抜かれた黒いブーツといい、ぴたりと形の良い長い脚に沿う白いトラウザーズといい、こういった店では違和感の塊に見える。

 当然のごとく、日に焼けた滑らかな肌には髭などない。

「迷子かな?」

 にっこり笑って、長い脚であっという間に歩み寄り、メルリーナの目の前に立った若者は背が高く、メルリーナが知る限り、ディオンの次に格好いいと言っても過言ではない容姿をしていた。

 春に芽吹いたばかりの柔らかな木の芽を思わせる瞳と艶のある褐色の髪。
 優しそうな下がり気味の目尻の下、高い頬骨に二つ並んだ黒子がある。
 弧を描いた唇から微かに見える歯は、真っ白だ。  

「それとも、誰かを探しているのかな?」

 にこやかに、しかし逃さないというようにメルリーナを捕らえる瞳の奥に、真っ当な見た目からは推し量れないものが秘められている。

 その腰に細身の剣があるのを見て、メルリーナはぎゅっと抱えていたチェス盤を抱き締めた。

「おっと! そんなに怯えないで欲しいなぁ。別に、取って食べたりはしないから。ただ、君のような若くて可愛い子が、こんな店に来るなんて用があってのことだろうと思ってね。僕は暇を持て余しているから、お手伝いしようかと思っただけだよ」

 何もしない、と両手を上げてみせた若者は、同意を求めるようにカウンターの奥で黙々とグラスを磨く店主を振り返る。

「ね? 僕は、善良だよね?」

 マクシムと古い知り合いでもあった店主は、灰色の太い眉をしかめ、ぶっきらぼうにメルリーナへ呼びかけた。

「メル。そこの虫ケラは無視していい。何の用だ?」

「虫ケラっ!? ちょっと! それ、不敬罪じゃないかなぁ?」

 大げさに嘆く若者を横目に、メルリーナは昨日ラザールから聞いた名をおずおずと告げた。

「ひ、人を探していて……そ、その、あの、ぶ、ブラッドフォード・スタンリーという人なんですが……」

 店主は眉を引き上げ、胸を押さえて嘆いていた若者が目を丸くする。

「ブラッド? ……ええと、それって、ブラッドが犯罪を更に犯したとかいうことではなく……?」

 犯罪とは何だろう、とメルリーナは首を傾げた。

「ブラッドなら、そこにいる」

 店主が、先が割れた顎で示したのは、薄布の向こうで、しなだれかかる女性のドレスの裾から手を差し入れて、零れ落ちそうなほど開いた胸元に口づけている男性だ。    
 
「ブラッド! この子が用があるんだってさ。はいはいはいはい、イチャつくのはおしまいだよ」

 若者は、メルリーナが直視出来ない態勢になっている二人にツカツカと歩み寄って、容赦なく赤いカーテンを引いた。 

「邪魔すんじゃねぇっ! ゲイリー」

「君はもうお帰り。実は、その外道で鬼畜でアホな男には、もの凄く嫉妬深くて恐ろしい婚約者がいるんだ。それはもう、金と権力に物を言わせてあらゆることをするのに躊躇いのない貴婦人でねぇ……。こんなことをしているとバレたら、君なんて片手で捻り潰されて海に沈められるよ? はい、これ報酬ね」

 ゲイリーと呼ばれた青年は青ざめた化粧の濃い女性の豊かな胸元に金貨を一枚押し込めて、微笑む。
 柔らかく、しかし有無を言わせぬ微笑みが、かえって怖い。
 女性はさっさと身を翻して出て行ってしまった。

「てめぇっ! 今夜の酒の肴だったんだぞっ!」

「あのねぇ、ブラッド。いくら欲求不満でも、見境なし、手当たり次第はいけないと思うよ? 割り切った関係なら構わないと思っているのかもしれないけれど、何をどう言い繕ったところで、裏切りは裏切りだからね」

 早口に起き上がったを窘め、メルリーナに向かい合って置かれたひとりがけのソファーへ座るように促したゲイリーは、にっこり笑う。

「さて。君はこのブラッドにどんな用があるのかな? メル」

 メルリーナは、思い切り不機嫌そうにこちらを睨むブラッドフォードを真正面から見つめ返し、ごくりと唾を飲み込んだ。

 肩の下まである緩やかに波打った黒い髪は無造作に縄で束ねられ、顎周りだけに髭を蓄えた顔は、思ったよりも若く、三十代のセヴランと同じくらいか、もしかしたら、もう少し下かもしれない。

 ラザールが言うには、『ヴァンガード号』という船の船長で、見どころのある若造らしいが……。

「おい。いつまでだんまりを決めこむつもりだ? さっさと用件を言え」

 低い声で唸るように命じ、小さなテーブルの上に放置されていたワインの入った杯を一息に呷る。

 ごくごくと飲み干す喉仏が上下する様は、大きな獣が水を飲むような迫力がある。
 乱暴に手の甲で唇を拭い、じっとメルリーナを見据えた黒い瞳は、夜の海のように静まり返っていた。

「……こ、これ……そ、その……」

 メルリーナは、震える手でどうにか懐にしまっていたラザールの羅針盤を取り出すと、テーブルの上に置いた。

「あぁ?」

 ブラッドフォードは、面倒くさそうに、かつ胡散臭そうに黄金の羅針盤を手に取って眺め、蓋を開けた途端、すっと目を細めた。

「……一体、老いぼれのジジイが何の用だ?」

 低い声には、警戒の色が滲んでいる。
 てっきり、ラザールとは仲が良いと思っていたメルリーナは、怪しい雲行きに不安を感じた。

 干上がりかけた喉を唾で潤しながら、どうにか言葉を絞り出す。

「ち、チェスの、し、勝負を……」

「チェスぅ? まさか、そんなことのために、わざわざ呼び出すってわけじゃねぇだろうな?」

 テーブル越しに身を乗り出したブラッドフォードに顔を覗き込まれ、仰け反りながら首を振る。

「まさか……?」

 メルリーナが抱きしめているチェス盤にその視線が向けられる。

 今を逃せば永遠に言えないかもしれないという焦燥感に駆られ、ずいっとチェス盤を突き出した。

「こ、ここで、わ、私と勝負してくださいっ!」
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