泡沫には消えないもの。永遠には残らないもの。

唯純 楽

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細波 3

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 緊張せずにはいられないだろうと思っていた夕食の席は、アランが落ち着いた声音で当たり障りのないごく一般的な質問をし、ブラッドフォードかゲイリーがそれに答えるという形で和やかに進んだ。
 グレースは、夫の隣で微笑みを絶やさずに上品な仕草で食事をしながら、客人たちの食の進み具合をつぶさに観察し、給仕に時折耳打ちしたり、料理の感想を尋ねたりしながら、あまり食が進まない様子のフランツィスカを気遣うように、時折話しかけていた。

 アランも、顔なじみであるフランツィスカには、ブラッドフォードたちに対するよりも、気安く砕けた様子で接しているように見えた。

 ディオンは、話しかけられればきちんと受け答えはするが、フランツィスカが何か言いたげな視線を向けるとさり気なく目を逸らし、料理に集中するフリをしている。

 二人の間に何があったのか結局わからないままのメルリーナは、それがいいものであれ悪いものであれ、言葉以外の何かで繋がっている様子を目の当たりにして、じくじくと胸の奥の方が痛んだ。
 ウィスバーデンへもう一度戻って、ジゼルとアデルが異父姉妹であることを確かめると決めているのに、自分がいない間に、今度こそディオンがフランツィスカと婚約してしまうのではないかと思うと、行きたくないという気持ちが俄かに湧き起る。

 海の泡のごとくふわふわと浮き上がる不安を潰すように、グサリと香草をまぶして焼いた鶏肉にフォークを突き立てる。
 なかなか新鮮なものを食べられない船の生活で、目の前にある美味しいものは食べられるときにたくさん食べておくのが習慣になっているせいか、食べたくないと思ったりはしなかった。
 今の自分なら、泣きながらでもきっと目の間にある料理は食べ切るだろうと思いながら、せっせと肉や野菜を口へ運ぶ。
 上質のワインと、洗練されてはいるが気取ってはいないごく普通の郷土料理の数々は、メルリーナの胃袋を喜ばせてくれる。

 食べてさえいれば、返答に困るような話を振られることもないという思惑もあった。

「スタンリー伯爵は、十年ほど前から父とは知り合いだと聞いたが?」

 アランは、ブラッドフォードとゲイリーの日々の航海の様子を聞いた後、本当に訊きたかったと思われることをようやく口にした。

「ええ……まぁ……その、前リヴィエール公爵は命の恩人です」

 ブラッドフォードが渋々答えると、アランは身を乗り出すようにして「詳しく聞きたい」と言い出す。
 嫌だとも言えず、ブラッドフォードは少年時代の無謀な冒険について話す羽目になった。

 食べながら、耳だけはそちらに向けていたメルリーナだったが、視線を感じて横を見ればゲイリーがくすくす笑っていた。

「メル。そんなに美味しいの?」

 今まさに、大きな口を開けて指で摘まんだ橙色の甘い果実を頬張ろうとしていたメルリーナは慌てて口を閉じた。
 恥ずかしさから顔が熱くなるのを感じながら頷く。

「はい……美味しいです」

「じゃあ、ひとつくれるかな?」

 何を、と目を見開けば、ゲイリーの目線がメルリーナの手元へ落ちる。
 今、手にしている果実を要求されているらしいと気付いた時には、柔らかなものが指を覆っていた。

「ひぁっ」

 間抜けな声を上げてしまい、ハッとして口を覆ったがその場の視線を一身に集めてしまった。

「うん、確かに……」

 ゲイリーは、まるでそんな視線になど気付いていないとばかりに、テーブルの上の果物ではなく、メルリーナを見つめ、微笑む。

「メルの唇みたいに柔らかくて、美味しいね」
 
 間違いなく誤解を招く発言に、メルリーナはそれ以上何も言わなくていいと、手近にあった果物を慌ててゲイリーの口に押し込めようとした。

「食べさせてくれるの?」

 素早くメルリーナの手首をつかんだゲイリーは、再びメルリーナの指をパクリと咥える。
 引き抜こうにも、手首をつかんだ大きな手の力は思った以上に強く、舌が指先を掠めたくすぐったさにビクリと跳ね上がる。

「美味しかった。ありがとう、メル」

 まるで何の特別なこともしていないとばかりに微笑むゲイリーが手を緩めた瞬間、メルリーナはバッと自分の手を引き抜いて、背中に隠した。

「くっ……くくっ、メルの指が美味しかったわけじゃないよ」

 心臓がバクバクして、恥ずかしさのあまり泣きそうだった。
 指が美味しくないことなんてわかっている、と唇を引き結んで睨みつけると、ゲイリーはまるでとっても好きなものを見つめるような甘くて優しい笑みを浮かべる。

 とにかく、もう注目されたくないし、もうからかわないで欲しいとやや涙目になって睨むと、ゲイリーは嬉しそうに眼を輝かせる。

「メル。あんまり可愛い顔していると、本当に食べちゃうよ?」 

「……っ!」

 これ以上ゲイリーを見ていたら、何だかとても怖いことになりそうな気がして、メルリーナがぎゅっと目を瞑って俯いたとき、ガタン、と大きな音がした。

 驚いて顔を上げれば、ちょうど向かいに座っていたディオンが、セヴランに両肩を掴まれて椅子に沈められていた。
 アランは、ラザールと似た悪戯っけのある笑みを浮かべてちらりとディオンを見遣る。

「さて……メルリーナの冒険譚もじっくり聞きたいところだが、今それをすると、血の雨が降りそうだから止めておこう。本題に入る前に……料理は楽しんでいただけただろうか?」

「ええ、とても。船上では味わえないものばかりで、とても美味しかったです。公爵夫人のお気遣いのお陰で、ワインもたっぷり料理ごとに各種楽しませていただきました。やはりリヴィエール公爵家は、美しさが色あせることのない財宝を手に入れる幸運に恵まれているのでしょうね」

 出される料理ごとに違うワインを用意させていたグレースに、ゲイリーが改めて礼を言うと、ほんのりと頬を染めて微笑む。

「お世辞は結構ですわよ、ゲルハルト殿下」

「世辞だなんて、とんでもない。私の父は、グレース様に求婚する気でいたらしく、リヴィエールへ嫁ぐと聞いて、とても落胆したことを覚えています」

「ハワード国王が?」

驚きに薄い水色の瞳を見開いたグレースは、とても若々しく見えた。

「カーディナル皇帝には、内々に打診していたようですが、別の相手は何年も前からグレース様を降嫁させてくれと言い続けているので、とても断れない。ここで父にグレース様を与えようものなら、その人物がカーディナルに反旗を翻すかもしれないからと言われたとか」

「……ん、んんっ、ゲルハルト殿下。面白く脚色された昔ばなしも興味深いが、まずはウィスバーデンがエナレスに付く気なのかどうか、はっきり聞きたい」

 無理矢理、話の軌道修正をしたアランの問いに、ブラッドフォードはその瞳に鋭い光を浮かべた。

「今のところ、どっちに付くとも決めてない。ただ、エナレスの線は薄い。あちらは、ここのところ内紛続きで、共倒れになりかねないからな。皇帝の座を巡ってのゴタゴタに巻き込まれたくないというところが、本音だ」

「もちろん、攻撃されれば反撃します。それは、カーディナルであっても同じですが」

「なるほど。では、今回の件は本当に偶然ということか」

「まぁ、まさか王女様が乗っているとは思わなかった」

「ただ、リーフラントがリヴィエールに援助を求めるだろうということは、予想していました。相変わらず、フランツィスカ王女との婚約の噂は根強く残っていますし、それを否定するような噂もない。エナレスに見つかる危険を冒して迎えに来た上に、再会の熱い抱擁を交わしているのを見れば……一目瞭然ですね」

 脳裏に、胸に飛び込んで来たフランツィスカを抱き止めたディオンの姿が瞬時に浮かび、メルリーナは手にしていた果物の最後のひと欠片を口に含むと飲み込んだ。
 急いで飲み込んだせいか、喉が引きつれるような痛みに、じわりと涙が滲む。

 ディオンは、その後メルリーナと再会したときは、抱きしめたりしなかった。
 瞼にキスしたのも、メルリーナが泣きそうになっていたからだろう。
 幼馴染だから、親しく振舞っているだけかもしれない。

「なっ……熱い抱擁なんてしていないっ!」

 ディオンが、今にも飛びかからんばかりの勢いで噛みつくと、ゲイリーは「客観的に見た光景を語っただけだ」と嘯く。

「俺には、そんなつもりは……」

 フランツィスカは、黙ってこの話がどこに流れ着くのかを見守っていたようだが、不意に否定しようとするディオンを見据えて口を開くなり、驚きの言葉を吐いた。

「アラン様。私がリーフラントを単身離れたのは、ディオンに婚約者になってほしいと頼むためです」
  
「ディオンを婚約者に? この一年、何の動きもなかったというのに、何故今頃になって?」

 アランは、事の発端となった一年前ならまだわかるが、何故今なのだと問い返した。

「この一年、リーフラントはエナレスからの様々な圧力に耐えて来ました。エナレスを通ってリーフラントへと続く街道では、商人がリーフラントへ向かうと知れると身包み剥がされて、幸運ならば捨て置かれ、不運な場合は牢獄へ入れられることも……」

 ぎゅっとその赤い唇を噛んだフランツィスカは、ディオンを真っすぐに見つめた。

「エナレスは、現皇帝の血筋だという私の父ほどの年齢の貴族へ嫁ぐよう要求して来ました。これまでも、度々婚姻関係を求められてはいたのですが、私が国に不在であったり、エナレスの内紛が拡大するなど、どうにか断らず、しかし受けもせず、はぐらかし続けることが出来ていたのですが……」

 今回は、直接相手を送り込んでくるという強引な手段に出て来たため、フランツィスカは病気療養中ということにして、船に飛び乗った。
 エナレスが盤石であれば、大国の一部になるという選択肢もあるが、小石を投げられただけでも、脆く崩れ去ってしまいそうなほど、不安定な国に寄り添えば、ブラッドフォードが言うように共倒れになりかねない。
 
「嘘でもいいの。一年だけでも……エナレスが、諦めるまで形だけでもいいから、婚約してほしいの。そうすれば、取り敢えず、時間が稼げるわ。その間に、カーディナル皇帝へ父からの親書を送り、その返答次第で再びどうするかを検討することも出来る」

 フランツィスカは、唇を噛み締め、両手を胸の前で組んで懇願した。
 ペリドットの瞳から滴り落ちる透明な雫と濡れた長い睫毛。震える薄い肩。
 ロクな護衛もなく、ロクな装備もない船に乗り、海賊に襲われて、たくさんの人が殺されるのを目の当たりにし、自分もその中のひとりとなる運命だと絶望したかもしれない。

 メルリーナの知るフランツィスカは、いつでも王女らしく毅然としていたが、今ディオンにその身を投げ出そうとしている姿は、まったく違っていた。

「お願い……ディオン」

 ディオンは、そんなフランツィスカを見つめ、苦悩の表情になる。
 空色の瞳を彷徨わせ、ふとメルリーナと目が合ったディオンは、顔を背けた。

 ズキリ、と胸が痛んで俯いた耳に、ディオンの苦し気な声が聞こえた。
 
「ファニー……、俺は……」 

 聞きたくなかった。

 一年前とは違って、我儘で強引な振舞いをしないディオンが出す答えなど、メルリーナは聞きたくなかった。
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