夢の終わり ~蜀漢の滅亡~

久保カズヤ

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第3章 高平陵の変

第35話 綻び

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「よくぞ、戻った」

 山中の隘路にて、張翼が掛け声を一つあげると、蜀軍は夏侯覇の部隊へ雨の様な矢を降らせた。
 両脇は高い坂となっており、そこから矢を射かけられ、魏軍は格好の的となっている。

「夏侯将軍っ、急ぎ撤退を。このままでは全滅です!」
「殿に五百の盾兵を残せ」

 事態の変化に夏侯覇は感情を冷静なところまで戻し、迅速な撤退を開始。
 いつ攻勢を掛けられても反撃出来る。
 そんな剥き出しの殺気のせいか、張翼は撤退を行う魏軍に攻撃を命令出来ずにいた。

 ただ、これ以上の好機も無い。
 地形でも完全にこちらが優勢であり、敵の一番の強みである騎馬隊も、この山中では活かしきれない。
 何より、蒋斌の命を賭したこの結果を無駄にするわけにはいかなかった。
 勢いそのままに、張翼は号令。蜀軍は、撤退中の魏軍へ大いに押し寄せた。

「……あそこか」

 それは、戦の中で培われた、絶対的な勘。左の前方、斜面中腹。
 蜀軍が動き出したと同時に、黒き獣は、敵の喉元を見つけた。

 兵の中に紛れていたはずの、張翼の本陣。

 坂道も木々も関係ない。夏侯覇は百騎の身を率い、恐るべき速さで飛び出した。
 まさか反撃に出てくるとは思わず、蜀兵は獣の餌食となり、いとも簡単に食い千切られる。

 殺す。それ以外の事は決して考えていない騎馬隊である。
 例え死んでも殺す。張翼はその顔色を青く染めた。

「盾兵を前にっ、弓兵、放てっ!!」

 それでもなお、突撃に対する最適解を叫んだ。
 盾兵でもって壁を作り、無数の弓矢が獣に吸い込まれていく。
 ただこれは、逆に林であったことが仇となった。
 騎馬隊は木々を上手く盾として、最小限の被害のまま駆けてくるのだ。

 ついに、盾兵は壁の役割を果たすことも出来ず、蹴散らされた。
 張翼は迅速に離脱してはいたが、この林の中で馬を乗りこなせるほどの馬術も無く、走りながら逃げている。
 このまま追いかければ、殺せる。戦況を覆せる。
 騎馬隊の誰もがそれを感じたが、夏侯覇のみが戦場の空気の異変を感じ取り、舌打ちをした。

「急ぎ戻るぞ」
「張翼の首は、取れますが……」
「その間に、本隊が全滅する」

 夏侯覇がそう言うと、周囲は後方の本隊を確認する。
 置き去りにした本隊の後方が、大きく断ち割れているのが見えた。

 朱色の「姜」の旗。
 僅か五百騎の騎馬隊が、万の軍勢を容易く切り裂いていた。

「我らが戻れば、姜維も退く。体勢を立て直すぞ」

 既に相当な被害が出ている様だった。
 急ぎ夏侯覇らが戻ると、案の定、姜維も引き返し、そのまま風のように消えた。
 なんとか撤退することは出来たものの、軍を立て直すには、相当な時間が掛かりそうである。
 これでは、すぐに再戦は適わない。夏侯覇は悔し気に吼えた。


 夏侯覇には勝った。蒋斌と張翼が、死線の際で良く戦った。
 これで此度の北伐の半分の勝利が開けたということになるが、もう半分の勝利を、得る事が出来なかった。
 姜維は柳起の報告を聞き、それを悟った。
 五百の騎馬隊は、夏侯覇の軍を搔き乱した後、急ぎ成重山へ急行していた。

「柳起」
「ここに」
「張翼将軍に伝えよ。直ちに成重山に向かい、廖化将軍と合流すべきと。豪族の集結を待つのは諦めよ、と」
「はっ」

 本来の作戦ならば、張翼の部隊が涼州近くで、豪族らを徴兵し、廖化軍は人質を確保しながら連絡線を保ち、こちらに靡かない豪族にも圧を掛けていくというもの。
 徴兵が出来れば、そのまま郭淮の本軍を叩き、狄道城などの重要拠点を落とす事だって可能であった。

 しかし今、廖化軍は成重山にて、郭淮軍の包囲を受けているというのだ。
 これでは、漢中との連絡線を保てず、兵の士気は大いに下がる。
 更に廖化軍が痛手を負えば、こちらは退路を断たれる形となるのだ。

 徴兵などしている時間は無かった。郭淮の包囲を解き、急ぎ漢中へ撤退しなければならない。
 士気の下がり切った軍で、これ以上の戦闘は不可能だ。
 最悪、人質さえ連れて帰れば、多くの豪族は益州へ流れてくるだろう。

 つまり最低限の戦果は得たという事である。今は、これで結果を落ち着くしかなかった。
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