私の名前を呼ぶ貴方

豆狸

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最終話 貴方の名前を呼ぶ私

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 離縁の日、王都へと戻る途中で──

「なんだか、ずっと長い間夢を見ていたみたいな気分だわ」

 馬車の中、私は呟きました。
 トマが絶対にヴァンサン侯爵家の館には泊まりたくないと言ったので、私達は離縁が成立してすぐに王都へと旅立ちました。
 今夜は車中泊で、明日からは王都へ続く街道沿いの町で宿に泊まります。向かいの座席にはトマが座っていて、大神官様はべつの馬車にいらっしゃいます。車外には御者と護衛も同行しています。

 デロベは本当に悪霊になって私に宿っていたのでしょうか。
 髪の色まで変わっていたようなので、そうだったのかもしれません。
 でも私は私自身を疑っていました。

 あの初夜から、三年経ったら白い結婚を証明して離縁すると決めていました。
 だけどその日が近づくにつれ、私は怖くなっていったのです。
 怖いというよりも不安でしょうか。

 ずっとセパラシオン様の妻になることを夢見て生きてきた私が、離縁後にどうやって生きていけば良いのか。
 白い結婚だったことを証明しても、セパラシオン様はなにも思わないのではないか。
 トマにも見捨てられて、父や父の愛人に利用されてしまうのではないか。

 そんなことを思い悩んで、暗い闇の底に沈んでいくような気分になっていたのです。
 特に白い結婚だったと証明してもセパラシオン様がなにも思わないのではないかと考えると、この三年間が虚無だったかのように感じました。
 たぶんまだ彼への想いが残っていたのでしょう。私を愛さなかったことを後悔して欲しいと思っていたのでしょう。

 それで自分がデロベだと思い込んでいたのではないか、そんな気もするのです。

「……ジャンヌはジャンヌだよ」
「トマ、眠っていなかったの?」
「僕が寝るのは馬車の外に出て護衛と見張りを交代しながらだよ。白い結婚での離縁が認められて、未婚の令嬢に戻ったジャンヌと同じ馬車で寝るわけないだろ」
「義姉弟なのに」
「僕は最初からジャンヌを義姉だなんて思ってなかったよ。ユタン伯爵家の当主になる貴女の夫になれると思ったから養子の話を受け入れたんだ。貴女がセパラシオン殿に嫁ぐためだったと知っても……諦められなかった」
「……私、貴方よりみっつも年上よ」
「たったみっつだろ。学園を卒業して大人だと認められたら、みんな同じだよ。それに僕、ジャンヌより背が高くなったもの」

 そんなことをなんだかとても自慢げに言うのは、まだまだ子どもの証拠だと思います。

「どうしてさっき、私は私だと言ってくれたの?」
「不安そうな顔してたから。大神官様も、悪霊に憑りつかれた人間は、どこまでが自分の意思だったかわからなくなって混乱するって言ってたし」
「……本当に悪霊だったのかしら」
「セパラシオン殿のことがあるからね、ジャンヌの中に少しだけデロベみたいになりたいって気持ちがあったのかもしれない。けどさ、今さら考えても仕方がないだろ? 悪霊だとしても幻だったとしてもデロベはもういなくなったんだ。ジャンヌはジャンヌとして生きて……いずれは僕の妻になって欲しい」
「私でいいの?」
「ジャンヌが良いんだ。花壇を眺めてぼーっとしてたり園芸に夢中で泥だらけになったりしてるジャンヌが」
「……もっと良いところを言ってくれると嬉しいのだけど」
「僕が名前を呼ぶと、嬉しそうに振り向いてくれるところが好き」
「それは……貴方に名前を呼ばれるのが嬉しかったんですもの」
「僕も貴女に名前を呼ばれるのが好きだよ」
「……トマ?」
「ジャンヌ」

 互いに名前を呼び合った後、私達は顔を合わせて笑い合いました。
 今はまだトマは名前を呼んでくれる可愛い義弟です。
 けれどいつか男性として意識する日が来るかもしれません。少なくとも今もすでに以前知っていた少年とは違う、凛々しい青年に成長しているのは理解しています。

「私、父親が殺されたと聞いても少しも悲しんでいない酷い人間なのよ。むしろホッとしているくらいなの」
「それは仕方がないんじゃない? アイツが生きてる状態でジャンヌが王都へ戻ったら、絶対父親面して近寄って来たと思うし」
「お母様はあの人達に殺されていたのね」
「うん、デロベの恋人が証言したよ。人を殺しただけでなく、禁じられている邪悪な儀式をおこなった彼も僕達が王都へ着く前に処刑されると思う」
「そう……」
「……ごめん、そろそろ車外に出るよ。だけど、名前を呼んでくれたら、すぐにジャンヌのところへ来るから」
「ありがとう。おやすみなさい、トマ」
「おやすみ、ジャンヌ。また明日」

 トマは明日も私の名前を呼んでくれるでしょう。
 そして、私も彼の名前を呼ぶのです。
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