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第七話

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「起きて、ねえ、起きてよ、ユーリ」

「、っ……? テオドール、さま……ケホッ」

 最早声にもなっていない掠れた音。これまでになく重い意識が、口元をなぞる湿った感触と、ぬるい液体が口腔内に流れ込む感覚によって、鈍く浮き上がる。

「飲み込んで」

 殆ど条件反射的に、口の中に溜まったものをコクリと飲み下す。行き過ぎた甘みの奥に潜む苦みが奥歯のあたりに迸り、いやに鼻につく風味で、こめかみのあたりがツキツキと疼いた。

「エリクサー入りの蜂蜜酒、貴方のために僕が調合したとっておきだよ。まだまだ、頑張ってね。一度出しただけじゃあ、全然安心できないんだ。貴方の体臭まで変えてしまうくらい、ココに沢山注いであげるから」

 次第、視界にかかった靄が晴れていくと同時、ゆりかごの中にいるかのようにふわふわと揺らぐ目の前の、妖艶に微笑まれるテオドール様の美貌が明らかになっていく。

 ああ、まだ続くのか……諦念混じりの絶望に息を呑む。しかし、理性が匙を投げたいま、夥しい快感の嵐に擦り切れた思考回路は、脳の芯に焼け付いて離れないあの絶頂に、期待を隠せないでいるのも確かで。

 抗いようもなく、身をゆだねた私を、テオドール様は、夜が明けるまで貪った。

 強かに気をやって私が意識を失うたび、蜂蜜酒を互いの喉に流し込み、無理やりに身体を回復させては、また挿れて……気が狂うほど、それを繰り返したのだ。

 執念とも言えるほどの愛を、一晩中、刻みつけられた。物分かりの悪い私が、テオドール様からの愛を、疑うべくもない事実だと、嫌でも理解できるほど、念入りに。

「今度は私の番か……」

 身体のあちこちが痛み、動かす以前の問題で、ベッドから起き上がることも叶わずに、天蓋の皴などをぼんやりと見つめる。室内には私以外誰もおらず、時刻はすでに夕刻に差し掛かろうとしていた。身体機能に優れたルーベルンゲンの血統のなかでも、特に頑丈にできている私の身体とて、昨晩の無理はさすがに堪えたらしく、随分な時間に目覚めてしまったものだ。

「どうすれば、分かってもらえるだろうか……」

 まず、あくまで身を引くつもりで申し出た婚約破棄だが、今や完全に裏目と言う点。

 ただでさえ、私がテオドール様をどんなにお慕いしているかなんて、本人には伝わるべくもない。その上に、私が犯してしまった壮絶なまでの自業自得により、テオドール様はすっかり、私に情夫が存在しているなどという誤解をなさってしまわれた。喫緊の課題として、その致命的なまでの誤解を雪ぎ、自身の潔白を信じてもらった上で、互いの認識のすり合わせをする必要がある。

 何とも気の遠い話だ。どんなに考えても、どんなに手を尽くしても、私の愛を彼に信じてもらえると思えないのだ。何せ、私の今までの言動や行動が何もかも、テオドール様の不信感を募らせる要素にしかなっていない。ああ、昔からそうだった。私のやることなすこと、たいていが思わぬ結果を招くのである。思うようにふるまえたのは、剣術の鍛錬場と戦場だけ。

「脳筋馬鹿野郎が……」

 つくづく、貴族社会で生きるのに向いていない性分だ。筋肉だけで全てをねじ伏せられるシンプルな世界であればどんなに良いことか。あてどない自身への憤懣を堪え、手枷に繋がった鎖を握りしめた。粉砕されてしまった。

「ああっ、テオドール様のお持ち物を勝手に……! この脳筋馬鹿野郎……!」

 何がどうして、無骨で粗野な、剣しか取り柄の無いような脳筋馬鹿野郎を、テオドール様は愛してくださるのだろうか。我ながら、思う……もっと他にあるだろう、と。

「ユーリ!!」

 身体にある全ての空気を出すような深い深いため息を吐いて、手のひらの上で哀れ、先程まで鎖としての役目を全うしていた鉄の欠片を見つめていれば、突如室内に、どこからともなく、血相を変えたテオドール様が現れる。幼いころから、ずば抜けた魔術の素養をお持ちだった彼だ。この年にして、最難関のうちのひとつとされる転移魔術の習得をなさっていても何ら不思議ではないだろう。

 ツカツカとこちらに詰め寄り、テオドール様は、壊れた鎖をお手に取って、信じられないものを見るような顔で私の顔を覗き込んだ。

「テオドール様、申し訳ございません。はずみで力を込めて握ってしまって……魔術の心得が無いばかりに、修復することもかなわず……」

「……逃げようとしたってわけじゃ、ないって言うんだね」

「逃げる……? ええ、恐れながら、騎士として、一度申し上げたことを違えるわけにはまいりません」

 そもそもの話になるが、私には逃げるつもりも、その必要性を感じたことも、はなから無いのである。しかし、テオドール様はなおも疑心暗鬼を瞳に宿し、渋面でこちらを鋭く見据えていた。こうなってしまったら、彼はとても手強い。

「もしかして、鎖が壊れたことを察知なさって、こちらにいらしたのですか?」

「……これでも、貴方の並外れた膂力を想定したうえで特注したものだったんだけど、そう、そうだよね。ユーリに、僕の想定なんか通用するわけがない。分かってたよ。まあ、逃げられてないのなら、なんでもいい」

 そう言って、テオドール様は魔術を発動させ、瞬く間に鎖を元通りに修復なさった。あからさまに拗ねたご様子で眉をひそめていらっしゃるその顔が、やけに幼気に見えて仕方がなかった。凛々しい青年になり、もはや別人だ、などと思っていたが、このように人間らしい一面を垣間見ると、変わっていないところもあるのだ、と、胸の閊えがほどけるような、じわりとぬるい安堵に満たされるのを感じる。

「テオドール様……信じて頂けないことは重々承知ですが、それでも……私には、逃げるつもりなどありません」

「何、それは、鎖を外してほしいって意思表示?」

「いいえ。しかし、私にとって、この鎖が何の意味もなさないことは、貴方様もお分かりかと……その上で、私は、ここにいるのです」

「……分かってるよ。でも、外さない」

 テオドール様は、上体だけを起こしていた私に覆いかぶさり、ベッドに縫い付け、肩口に顔を埋めた。大きく息を吸う音が震えている。

「もう、どこにもいかないで」

寂しがりなところも、どうやら、変わっていないらしい。

「ええ、必ず。貴方様のおそばに」
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