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①信乃という男−2
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三津弥の想い人は名を蓮治と言い、江戸時代から続く廻船問屋喜多屋の主だった。
蓮治は大店の主の癖に三十路も半ばを過ぎた今も独り身で、店を大番頭に預けてはフラフラと遊び歩いてばかりいる。
本人は付き合いだぁこれも社会勉強だと嘯いて憚らないが、享楽的な性格なのは誰の目にも明らかだった。
それでも然して後ろ指をさされずにこれたのは、既に二親も兄弟もなく煩い親戚筋もいないからだった。
それに店を傾けている訳ではなく、寧ろこの男の代になって身代は大きく膨らんでいる。
蓮治は傲ること無くそれもこれも優秀な雇い人のお陰だと言って労いも厚いので、店の者には存外と慕われている。
今日も今日とて店の事などうっちゃって、どう過ごそうかと呑気に考えていた。
「さぁて今日は何処へ行こうか。本当は信乃に会いたいんだが、わたしが誘っても会っちゃくれないだろうからねぇ」
蓮治はもう作らないと言い張る信乃に仕事をさせようと、あの手この手で迫ったがするりするりと逃げられている。
終いには会ってもくれなくなったので、一旦は仕事の話を振るのを止めて、自分からやる気を起こさせようと目論んだ。
それで贔屓にしている役者の初日公演に信乃を誘ってみたが、一向に色好い返事を貰えない。
美しいものを眺めるのを至上の喜びとしている男だから、自分の後援する役者を一目見てくれさえしたらきっと心を動かす筈なのだけれど。
(彦十朗は今回の芝居ではタチと女形の一人二役をやっているから、その演じ分けに感心しない訳が無い。背が高く様子の良いイナセな男がなよやかな美姫に変身するのだ。いかな情の強い信乃といえど、大したものだと感心し創作意欲も湧いてくるだろうよ)
蓮治はそんな思惑を胸に信乃に使いを出したのだが、手代は空手で帰ってきた。
「断られたって? 本当かい? 今一番の人気役者、彦十朗の一人二役の舞台だとちゃんと言ったんだろうね?」
「勿論です。手前だって一生一度は拝んでみたいと思っているお人の芝居です、熱を籠めて口説きましたとも」
「でも興味が無いと言われてしまったんだね?」
「『人の美醜なんぞ、皮一枚で計れやしねぇ』だそうです」
「ああっ、もう!」
信乃は何にも分かっていない、と喜多屋の主は思う。彦十朗は姿が良いというだけで人気を博している訳ではない。人の感情を表す表現力、言葉もなく伝わる空気、切なさだとか健気さだとか人が大事に思うものを思い出させてくれるひたむきな演技が真骨頂だ。
(あれをちっと面が良いだけで人気が出たような役者と一緒にして欲しくは無いね)
主は本来の目的すら忘れて憤然と立ち上がった。
「ちょっと行ってくるよ」
「え、旦那様が?」
「何か不都合があるかい?」
店の事は大番頭に任せておける。重要な会合も、付き合い酒も今日は予定が入っていない。
最初から自分で行けば良かったと思いつつ、蓮治は信乃の住処へ出掛けて行った。
「信乃、いるんだろう? 邪魔するよ」
ほとほとと障子を叩いたが訪いに応えないので、蓮治は勝手に家へと上がりこむ。
「おい、不法侵入かよ」
ごろりと不貞寝をしていた信乃が蓮治を不機嫌そうに見上げた。
「近頃じゃあ家人に無断で上がりこむ輩を捕まえて貰えるらしいぜ」
刺々しく言われて蓮治は不敵に口元を歪めた。
「いいとも、だったら試しに通報してみるがいいさ。わざわざ忙しい官警の手を煩わせるなって、君の方がお叱りを受けるよ」
「……はっ! 違いねぇや」
幾ら明治だハイカラだと言ったところで、お上への付け届けが幅を利かせる事には代わりが無い。
野垂れ死のうが行方知れずになろうが痛くも痒くもない天涯孤独の信乃の言葉などより、大店の主で普段から袖の下をばら撒いている男の機嫌の方が大事なのは当然だった。
「それで大店の主様がこんなしもた屋に何の用だよ」
「分かってるだろう。芝居に誘いに来たんだ」
蓮治は相変わらず寝そべったままの信乃の前にきちんと膝を揃えて座った。その仕立ての良い着物から雅な香が匂ってきて、信乃は眉宇を顰めた。
(相変わらず鼻に付く野郎だぜ)
同じ歳の男の隙の無さが癇に障る。自堕落な自分とは余りにも違う人種で、本当は付き合いなど一切絶ちたいのだが相手がそうさせてくれない。
「いい加減、諦めちゃくれねぇか?」
信乃は無理だろうと思いつつため息混じりにそう言ってみた。男は案の定きっぱりと断ってきた。
「それこそ諦めて欲しいね。俺は恩人に背く事は出来ないし、それが無くたって君を諦める事は出来ない。いいかい、度を越した才能というものは閉じ込めちゃいけないんだ。それは上手く出してやらなければその身を損ない破滅させてしまう。君の師匠がそうだったように――」
「師匠の事は言うな」
信乃が昏く重たい声で言った。ゆらりと身を起こし、立てた膝に腕を預けて頭を垂れる。その姿は穴蔵で蹲る傷付いた獣のようで、誰も寄せ付けない空気を醸し出していた。
暫らく気詰まりな沈黙が続き、やがて根負けしたように信乃が言った。
「芝居に行けば良いんだな? それで義理を果した事になるんだな?」
「初段は」
「……チッ、食えない男だぜ」
信乃はぐしゃぐしゃと寝乱れた髪を掻き混ぜて男を見た。
「いいぜ、蓮治。お前と一緒に行ってやるよ」
蓮治はホッとして頬を緩め、それから慌てて視線を逸らせた。
信乃の肌蹴た身頃から覗く肌が、立てた膝の割れた裾奥が、目を射るように蒼白くてどきりとしたのだ。
「着物くらい直したらどうだい」
「そりゃあ悪うござんした」
お育ちの良い奴にはさぞ野放図に見えるんだろうよ、と見当外れの感想を抱いて信乃は衿と裾を直した。
蓮治はホッとして、日時と手筈を言い置いて軽い足取りで帰って行った。
信乃はもう一度寝直そうと横になり、どうにも眠れずに直ぐに起き上がった。
(あいつぁ、騒々しくていけねぇ)
厄介な相手でもふいっといなくなられると寂しいものらしい。
信乃は大分早いが馴染みの店へ上がる事にした。
蓮治は大店の主の癖に三十路も半ばを過ぎた今も独り身で、店を大番頭に預けてはフラフラと遊び歩いてばかりいる。
本人は付き合いだぁこれも社会勉強だと嘯いて憚らないが、享楽的な性格なのは誰の目にも明らかだった。
それでも然して後ろ指をさされずにこれたのは、既に二親も兄弟もなく煩い親戚筋もいないからだった。
それに店を傾けている訳ではなく、寧ろこの男の代になって身代は大きく膨らんでいる。
蓮治は傲ること無くそれもこれも優秀な雇い人のお陰だと言って労いも厚いので、店の者には存外と慕われている。
今日も今日とて店の事などうっちゃって、どう過ごそうかと呑気に考えていた。
「さぁて今日は何処へ行こうか。本当は信乃に会いたいんだが、わたしが誘っても会っちゃくれないだろうからねぇ」
蓮治はもう作らないと言い張る信乃に仕事をさせようと、あの手この手で迫ったがするりするりと逃げられている。
終いには会ってもくれなくなったので、一旦は仕事の話を振るのを止めて、自分からやる気を起こさせようと目論んだ。
それで贔屓にしている役者の初日公演に信乃を誘ってみたが、一向に色好い返事を貰えない。
美しいものを眺めるのを至上の喜びとしている男だから、自分の後援する役者を一目見てくれさえしたらきっと心を動かす筈なのだけれど。
(彦十朗は今回の芝居ではタチと女形の一人二役をやっているから、その演じ分けに感心しない訳が無い。背が高く様子の良いイナセな男がなよやかな美姫に変身するのだ。いかな情の強い信乃といえど、大したものだと感心し創作意欲も湧いてくるだろうよ)
蓮治はそんな思惑を胸に信乃に使いを出したのだが、手代は空手で帰ってきた。
「断られたって? 本当かい? 今一番の人気役者、彦十朗の一人二役の舞台だとちゃんと言ったんだろうね?」
「勿論です。手前だって一生一度は拝んでみたいと思っているお人の芝居です、熱を籠めて口説きましたとも」
「でも興味が無いと言われてしまったんだね?」
「『人の美醜なんぞ、皮一枚で計れやしねぇ』だそうです」
「ああっ、もう!」
信乃は何にも分かっていない、と喜多屋の主は思う。彦十朗は姿が良いというだけで人気を博している訳ではない。人の感情を表す表現力、言葉もなく伝わる空気、切なさだとか健気さだとか人が大事に思うものを思い出させてくれるひたむきな演技が真骨頂だ。
(あれをちっと面が良いだけで人気が出たような役者と一緒にして欲しくは無いね)
主は本来の目的すら忘れて憤然と立ち上がった。
「ちょっと行ってくるよ」
「え、旦那様が?」
「何か不都合があるかい?」
店の事は大番頭に任せておける。重要な会合も、付き合い酒も今日は予定が入っていない。
最初から自分で行けば良かったと思いつつ、蓮治は信乃の住処へ出掛けて行った。
「信乃、いるんだろう? 邪魔するよ」
ほとほとと障子を叩いたが訪いに応えないので、蓮治は勝手に家へと上がりこむ。
「おい、不法侵入かよ」
ごろりと不貞寝をしていた信乃が蓮治を不機嫌そうに見上げた。
「近頃じゃあ家人に無断で上がりこむ輩を捕まえて貰えるらしいぜ」
刺々しく言われて蓮治は不敵に口元を歪めた。
「いいとも、だったら試しに通報してみるがいいさ。わざわざ忙しい官警の手を煩わせるなって、君の方がお叱りを受けるよ」
「……はっ! 違いねぇや」
幾ら明治だハイカラだと言ったところで、お上への付け届けが幅を利かせる事には代わりが無い。
野垂れ死のうが行方知れずになろうが痛くも痒くもない天涯孤独の信乃の言葉などより、大店の主で普段から袖の下をばら撒いている男の機嫌の方が大事なのは当然だった。
「それで大店の主様がこんなしもた屋に何の用だよ」
「分かってるだろう。芝居に誘いに来たんだ」
蓮治は相変わらず寝そべったままの信乃の前にきちんと膝を揃えて座った。その仕立ての良い着物から雅な香が匂ってきて、信乃は眉宇を顰めた。
(相変わらず鼻に付く野郎だぜ)
同じ歳の男の隙の無さが癇に障る。自堕落な自分とは余りにも違う人種で、本当は付き合いなど一切絶ちたいのだが相手がそうさせてくれない。
「いい加減、諦めちゃくれねぇか?」
信乃は無理だろうと思いつつため息混じりにそう言ってみた。男は案の定きっぱりと断ってきた。
「それこそ諦めて欲しいね。俺は恩人に背く事は出来ないし、それが無くたって君を諦める事は出来ない。いいかい、度を越した才能というものは閉じ込めちゃいけないんだ。それは上手く出してやらなければその身を損ない破滅させてしまう。君の師匠がそうだったように――」
「師匠の事は言うな」
信乃が昏く重たい声で言った。ゆらりと身を起こし、立てた膝に腕を預けて頭を垂れる。その姿は穴蔵で蹲る傷付いた獣のようで、誰も寄せ付けない空気を醸し出していた。
暫らく気詰まりな沈黙が続き、やがて根負けしたように信乃が言った。
「芝居に行けば良いんだな? それで義理を果した事になるんだな?」
「初段は」
「……チッ、食えない男だぜ」
信乃はぐしゃぐしゃと寝乱れた髪を掻き混ぜて男を見た。
「いいぜ、蓮治。お前と一緒に行ってやるよ」
蓮治はホッとして頬を緩め、それから慌てて視線を逸らせた。
信乃の肌蹴た身頃から覗く肌が、立てた膝の割れた裾奥が、目を射るように蒼白くてどきりとしたのだ。
「着物くらい直したらどうだい」
「そりゃあ悪うござんした」
お育ちの良い奴にはさぞ野放図に見えるんだろうよ、と見当外れの感想を抱いて信乃は衿と裾を直した。
蓮治はホッとして、日時と手筈を言い置いて軽い足取りで帰って行った。
信乃はもう一度寝直そうと横になり、どうにも眠れずに直ぐに起き上がった。
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