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第一章
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雲井の言葉に香澄はハッとなる。この店の権利を黒田に渡すということは、弥生との思い出の場所を奪われるだけでなく、自分が明日から生きていく場所もなくなってしまうということに気づく。そんなことにも思い当たらないぐらい、弥生と過ごしてきたこの場所を奪われることがショックだった。
香澄は黒田に勢いよく頭を下げた。
「お、お願いです。この店を取らないでください!」
「そちらの事情など知ったことじゃありません。この遺言書が有効なことは確認済みです。まあすぐに出て行けと言っても難しいでしょうし、俺もそこまで鬼じゃありません。そうですね、二ヶ月」
「二ヶ月……」
「ええ、二ヶ月待ちます。その間に荷物を持って出ていってください」
それだけ言うと呆然と立ち尽くす香澄に背を向け、黒田は店を後にした。
閉まるドアを見つめ、香澄はその場に座り込んでしまう。何が何だかわけがわからない。でも、弥生だけでなく、弥生と暮らしたこの店も家も奪われてしまうのだと、それが悲しくて悔しくて仕方がなかった・
「香澄ちゃん……」
心配そうに雲井は香澄を見つめる。その声に、香澄はなんとか顔を上げた。笑え。泣き顔を見せたら心配をかけてしまう。ただでさえ弥生が死んだことで心配させてるんだ。これ以上心配させるわけにはいかない。
「えっと、ビックリしちゃいました。遺言書って……そんな、もの」
けれど気丈に振る舞おうとすればするほど、無理矢理上げた口角は痙攣を起こしたようにピクピクと震える。今自分が笑えているのかそれとも泣きそうな顔をしているのかもわからなかった。けれど、眉をひそめる雲井の表情を見るに、上手く笑えてはいないようだった。
雲井が口を開こうとするのが見えた。「これからどうするの?」とか「大丈夫?」とかきっとそんなことを言おうとしてくれているのはわかる。でもそんなの香澄が一番知りたいことで、聞かれても答えられるはずがなかった。
だから香澄は雲井が何かを言う前に無理矢理声を出した。
「とりあえず! 一度誰かに相談してみます。その、おばあちゃんが懇意にしていた弁護士の方とか」
「あ、ああ。そうやな。それがいいわ。それから商工会議所の会長にも聞いてみるのもええかもしれん。無理矢理、店を取ろうとしているんやったら何か打つ手もあるかもしれんからな」
雲井の言葉に「ありがとうございます」と言うと香澄はへらっとした笑みを浮かべた。
幼い頃からの癖だった。何か嫌なことがあったり困ったことがあったり辛かったりするときにそれをごまかすためについへらへらと笑ってしまう。笑いたくないときは笑わなくていいのだと言ってくれた弥生はもういない。
雲井は香澄の笑みに少し安心したのか「何かあったら頼って」と言い残し店を後にした。一人残された香澄はこれからのことを考える。この店と家を奪われるなんて考えたくもない。できることはなんでもやろう。雲井の言っていたように商工会議所の所長に相談して、それから弁護士の杉下にも連絡を入れよう。それで、それで。
「それでも駄目なら、どうしたらいいんだろう」
思わず漏れた声の頼りなさに不安は大きくなる。大人になったと思っていた。もうあの頃みたいに小さな子どもじゃないと、いざとなったら自分が弥生を支えるのだとそう思っていた。なのにこうなってみて初めて結局自分は弥生に守られていたのだと思い知らされる。こんなときどうしたらいいのか何一ついいアイデアが思い浮かばない。弥生ならどうしただろう。
「おばあちゃん……」
鼻の奥がツンとなり目頭が熱くなるのを感じて慌てて香澄は顔を上げた。泣いていたって何にもならない。それよりは今できることをやるんだ。涙が滲んだ目尻を掌で拭うとポケットからスマホを取りだした。そのうち必要になるからと入れておいた商工会議所の番号をこんな形で使うことになるなんて。
発信ボタンを押すとコール音が聞こえてきて、緊張で胃が痛くなる。掌で胃の辺りをさすっていると、数回のコールののちにスマホの向こうから声が聞こえた。
『はい』
「あ、あのすみません。私ほほえみ商店街に出店しております虹林と申します。会長さんはいらっしゃいますか」
『どのようなご用件でしょうか?』
「えっと……その」
香澄は今日あった出来事を電話に出た事務員らしき人に伝える。しばらく無言になったあと『大変でしたね』と労るような口調でその人は言った。
『それでは少々お待ちください』
香澄が何か言うよりも先にその人は保留にしてしまう。先程までの胃の痛みが少しだけ和らいだ気がするのは、事務員がどこか香澄に同情するかのようか声を出していたからだろう。もしかしたら会長も香澄を気の毒がって何かいい手を教えてくれるかも知れない。
香澄は黒田に勢いよく頭を下げた。
「お、お願いです。この店を取らないでください!」
「そちらの事情など知ったことじゃありません。この遺言書が有効なことは確認済みです。まあすぐに出て行けと言っても難しいでしょうし、俺もそこまで鬼じゃありません。そうですね、二ヶ月」
「二ヶ月……」
「ええ、二ヶ月待ちます。その間に荷物を持って出ていってください」
それだけ言うと呆然と立ち尽くす香澄に背を向け、黒田は店を後にした。
閉まるドアを見つめ、香澄はその場に座り込んでしまう。何が何だかわけがわからない。でも、弥生だけでなく、弥生と暮らしたこの店も家も奪われてしまうのだと、それが悲しくて悔しくて仕方がなかった・
「香澄ちゃん……」
心配そうに雲井は香澄を見つめる。その声に、香澄はなんとか顔を上げた。笑え。泣き顔を見せたら心配をかけてしまう。ただでさえ弥生が死んだことで心配させてるんだ。これ以上心配させるわけにはいかない。
「えっと、ビックリしちゃいました。遺言書って……そんな、もの」
けれど気丈に振る舞おうとすればするほど、無理矢理上げた口角は痙攣を起こしたようにピクピクと震える。今自分が笑えているのかそれとも泣きそうな顔をしているのかもわからなかった。けれど、眉をひそめる雲井の表情を見るに、上手く笑えてはいないようだった。
雲井が口を開こうとするのが見えた。「これからどうするの?」とか「大丈夫?」とかきっとそんなことを言おうとしてくれているのはわかる。でもそんなの香澄が一番知りたいことで、聞かれても答えられるはずがなかった。
だから香澄は雲井が何かを言う前に無理矢理声を出した。
「とりあえず! 一度誰かに相談してみます。その、おばあちゃんが懇意にしていた弁護士の方とか」
「あ、ああ。そうやな。それがいいわ。それから商工会議所の会長にも聞いてみるのもええかもしれん。無理矢理、店を取ろうとしているんやったら何か打つ手もあるかもしれんからな」
雲井の言葉に「ありがとうございます」と言うと香澄はへらっとした笑みを浮かべた。
幼い頃からの癖だった。何か嫌なことがあったり困ったことがあったり辛かったりするときにそれをごまかすためについへらへらと笑ってしまう。笑いたくないときは笑わなくていいのだと言ってくれた弥生はもういない。
雲井は香澄の笑みに少し安心したのか「何かあったら頼って」と言い残し店を後にした。一人残された香澄はこれからのことを考える。この店と家を奪われるなんて考えたくもない。できることはなんでもやろう。雲井の言っていたように商工会議所の所長に相談して、それから弁護士の杉下にも連絡を入れよう。それで、それで。
「それでも駄目なら、どうしたらいいんだろう」
思わず漏れた声の頼りなさに不安は大きくなる。大人になったと思っていた。もうあの頃みたいに小さな子どもじゃないと、いざとなったら自分が弥生を支えるのだとそう思っていた。なのにこうなってみて初めて結局自分は弥生に守られていたのだと思い知らされる。こんなときどうしたらいいのか何一ついいアイデアが思い浮かばない。弥生ならどうしただろう。
「おばあちゃん……」
鼻の奥がツンとなり目頭が熱くなるのを感じて慌てて香澄は顔を上げた。泣いていたって何にもならない。それよりは今できることをやるんだ。涙が滲んだ目尻を掌で拭うとポケットからスマホを取りだした。そのうち必要になるからと入れておいた商工会議所の番号をこんな形で使うことになるなんて。
発信ボタンを押すとコール音が聞こえてきて、緊張で胃が痛くなる。掌で胃の辺りをさすっていると、数回のコールののちにスマホの向こうから声が聞こえた。
『はい』
「あ、あのすみません。私ほほえみ商店街に出店しております虹林と申します。会長さんはいらっしゃいますか」
『どのようなご用件でしょうか?』
「えっと……その」
香澄は今日あった出来事を電話に出た事務員らしき人に伝える。しばらく無言になったあと『大変でしたね』と労るような口調でその人は言った。
『それでは少々お待ちください』
香澄が何か言うよりも先にその人は保留にしてしまう。先程までの胃の痛みが少しだけ和らいだ気がするのは、事務員がどこか香澄に同情するかのようか声を出していたからだろう。もしかしたら会長も香澄を気の毒がって何かいい手を教えてくれるかも知れない。
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