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第四章

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「ん? もう一度ちゃんと答えて下さい。遺言状はあったのですか、なかったのですか。どちらです?」
「ゆい、ごんじょう、は……ありません、でした」
「そうですか。なら仕方ないですね」

 あからさまなため息を一つ吐くと、黒田は冷たい視線を香澄に向けた。

「約束は約束です。今すぐ店と家を明け渡してください」
「……わかりました」
「おい、待ちいや。どういうことなんや、これは」
「雲井さん……」
「あなたには関係ありません。さあ、早くしてください。俺も忙しいのですから」

 淡々と言う黒田とは対象的に雲井は苛立ちを隠さないまま文句を言い続けている。

 香澄は黒田に促されるまま店内へと足を踏み入れた。キッチンの隅に置いたトランク一つ。香澄に持ち出せる量はたったこれだけだった。本当はもっと持っていきたいものがたくさんあった。弥生との思い出のマグカップ。弥生の誕生日に送った姿見。他にもたくさんの思い出がここには詰まっている。けれど、全てを持っていくことは、できないから。

「今までありがとう」

 レインボウに別れを告げると、香澄は店の外に出た。

「それ一つですか」
「はい」
「香澄ちゃん、ほんまに出て行くんか? こんな奴の言うことや聞かんくてええやろ」
「失礼な方ですね。ここにこうして虹林弥生さん直筆の遺言状があるのです」

 スーツの胸ポケットから取り出されたそれを雲井は奪い取ろうとする。けれど、そんな行動を黒田は読んでいたのか、雲井の手が届くより先にポケットの中へと戻してしまう。歯がゆそうな雲井を前に黒田はあからさまにため息を吐いた。

「遺言状は個人の遺志です。それを奪い取ろうとするなんて、弥生さんも浮かばれませんね」
「なっ、お前に弥生さんの何がわかんねん」
「遺言状を残されるような関係ですからね。あなたよりはわかるかもしれませんよ」
「なにをっ⁉」

 今にも黒田に殴りかかりにいきそうになる雲井を早瀬や他の商店街の人たちが必死に止める。香澄も「雲井さん⁉」と慌てて黒田と雲井の間に入った。

「仕方がないことなんです。もうどうしようもないんです」
「せやかて……こんなことになっとるんやったら、相談してくれてもよかったやろ……。水くさいわ、香澄ちゃん」
「すみません……。みんなに、心配かけたくなくて」

 結果として、もっと心配も迷惑もかけることになってしまった。これじゃあ弥生の心配した通りだ。一人で抱え込んで、どうしようもなくなってみんなに迷惑をかけて。

「それでは、ここの鍵を」

 香澄がポケットから取り出した虹のキーホルダーがついた鍵を、差し出された黒田の手のひらに置こうと――したとき、人垣の外から声が聞こえた。

「香澄ちゃん、ストップ」
「え?」

 振り返る香澄の視線の先には、人垣を割って入ってくる杉下の姿があった。手には大きなトランクを持っていた。

「ど、どうしたんですか」
「どうしても気になってね。一つ手前の港で下りて、そこから飛行機で帰ってきたんだ」
「そんな……」
「それで? 君が黒田の孫息子か。私のことを覚えているかい? 幼いころに会ったのだけれど」
「知らないですね」

 肩をすくめる黒田に「そうかい」と杉下は笑顔のまま話を続ける。

「君が譲り受けたという遺言書、私にも見せてもらっていいかな。ああ、私はこういうものだ」
「……弁護士か」

 差し出された名刺を受け取ると、黒田は仕方ないなと言うかのように首を振り、胸ポケットに入れた遺言状を取り出した。それを杉下に手渡す寸前、黒田は手を止める。

「これ、弁護士先生にだから渡すんです。他の人間、特にそちらにいらっしゃる大声を上げたり暴力を振るったりする、挙げ句の果てに無理矢理俺からこれを奪おうとしたその人には、くれぐれも渡さないで下さいね」
「ああ、わかったよ」

 微笑みながら頷く杉下を信用したのか、黒田は遺言状の入った封筒を杉下に手渡した。

 しばらくそれを見つめていた杉下の表情が、だんだんと険しいものに変わっていくのがわかった。

「……そうだね。名前もある。住所もある。そして実印も押されている。もちろん内容だって問題がない。どこからどう見ても瑕疵のない遺言だ」
「当たり前でしょう」

 首を振る杉下に、黒田は冷たい視線のまま口角だけを上げた。

 ああ、全てが終わった。もう一縷の望みも残されていなかった。目頭が熱くなり、目尻に涙が溜まるのを感じる。こんなところで、人前で泣きたくない。けれどこれ以上はもう限界だった。

 香澄の頬を一筋の涙がこぼれ落ちる。そんな香澄の姿を見て、黒田は片眉を上げ意地悪く笑った。
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