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章第四「熟穂屋姫命、八河江比売」
(六)
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校長室のドアを三回ノックする。なかから人の声がして、稲穂は「失礼します」とドアを開けた。そこにいたのは校長先生ではなく、運動会の日に出会った男性だった。妖怪に詳しい勝彦の言うとおりであれば、これは妖怪の総大将である、ぬらりひょんの特徴と合致しているらしい。某アニメのイメージどおりであれば、悪役……だよね?
「ああ、五瀬くんだね。敏斉は席を外しているようだ」
谷崎敏斉。校長先生の名前だ。着物を羽織った男性の腰から、きらりと黒光りするものが見える。それは、長い棒のようだった。木刀、もしかしたら真剣が納まった鞘なのかもしれない。どちらにせよ、周りへ危害が及んではいけない、と瞬間的に稲穂は思った。帯刀している腰元へ、ぬらりひょんは手を這わせる。
「それじゃあ、時間も惜しいし。さっそく、きてもらおうか」
稲穂の心のなかで、緊張の糸がピンと張りつめた。ツノの生えた巨体の男性が、きのう、家へ来たときのことを思い出す。怖くて堪らなかったが、そんなことを言っている場合ではない。彩は用事があるらしく、忙しそうだった。ここは、自分でなんとかしないと! と意気込む。おもむろに近づくような動きを見せた相手に対し、稲穂は距離を取ろうと思って後退る。
そこで、なにかが背中へぶつかった。恐る恐る振り返ると、そこにはキュウリ柄の着物を羽織った別の男性が、腕を組んだ状態で仁王立ちしている。稲穂は脇をすり抜けて校長室を飛び出した。校長室は職員室の隣りにある。職員室の正面にある女子トイレへ、稲穂は急いで駆け込んだ。個室に鍵をかけ、ドアへ凭れかかる。
結局、逃げてしまった自分のことで、稲穂は、嫌悪感に陥った。彩たちがいないと、ひとりではどうしようもできない。無意識のうちに、首から提げていた御守へと手が伸びる。両面宿儺が現れたときに、彩からもらったものだった。あれから、お風呂へ入るとき以外は、ずっと身に着けている。ふと、空気の変わる感覚がした。
「……たく。手間をかけさせんなよ」誰かの声が、真上から聞こえる。「おい、聞いてんのか」
さっきよりも近いところで、その声が聞こえた。御守を固く握りしめ、自分自身へ喝を入れる。動け、動け、動け、わたしの脚! 自己催眠のように奮い立たせた稲穂は、個室を抜け出し、隣りにある用具入れのドアを開けた。そこでトイレ掃除に使うモップを取り出す。
「おお? なんだ、ヤル気か?」
女子トイレを出た先にいたキュウリ柄の着物の男性が、嬉しそうな笑みを湛えたまま歩を進めてきた。ニタニタと気味の悪い表情で、どんどんと稲穂へ近づいてくる。妖怪が相手では物理攻撃は効かないかもしれないが、せめてもの時間稼ぎくらいにはなるだろう。しかし「時間稼ぎ」だと思っている時点で、端から人を頼っているのが否めず、我ながら情けない限りだった。きらりと光る刀身を鞘から覗かせる男性に、モップを刀のように構えた稲穂は向き合う。
相手の動きが早すぎて、視界へ捉えきることもできなかった。モップの柄の部分に、カツンと相手の振りかざした刀身が当たる。その一撃をくらっただけで、稲穂の全身に衝撃が行き渡る。手が痺れるのみに留まらず、脚がガクガクと震え、防ぎきるのにも限界を感じた。相手めがけてモップを放り出し、せめてもの目隠しを兼ねて、自分が脱出する時間稼ぎに利用する。
モップに気を取られている隙に、稲穂は廊下を逆方向に走った。ちょうど職員室から出てくるところの養護教諭に、危うく激突しかける。養護教諭は稲穂と男性とを交互に見て、「五瀬さん、だいじょ……あの、どちらさま……」と慌てふためいていた。一般人に見られたことが嫌なのか、男性は面倒くさそうに舌打ちする。
男性を挟んだ廊下の向こうから、自分のことを呼ぶ声が聞こえ、稲穂は振り返った。叫びながら駆けてくる彩の姿を見て「よかった、助かった」と、内心、胸を撫でおろす。しかし、その安心も束の間のことだった。彩の背後、つまり稲穂から見て廊下の奥に、あのぬらりひょんが接近してきているのを視認する。その直後、ぬらりひょんの怒声が飛ぶ。それは、稲穂たちに対してではなかった。
「助三郎! なにしているんだ!」彩たちを追い越し、助三郎と呼んだ男性のもとへ、一直線に向かってくる。つかつかと迫るぬらりひょんに、助三郎はビクッと身を縮こまらせる。「女子を追っかけまわすでね! 神使たるもの……!」
シンシ? ぬらりひょんは、たしかにそう言った。なおも説教が続くなか、稲穂は少しばかり産毛の多い彩の腕に抱かれる。大丈夫よ、と声をかける小学生姿の彩の隣りに、おとな姿の彩も駆けつけた。おとな版の彩が血相を変え、子ども版の彩に「いったい、なにごと?」と問い質す。しばらくして、ふたりの男性の姿を認め、おとな版の彩は、表情を一気に曇らせた。
「サンキチくん? どうして、ここに?」「えっ。し、知り合い?」
稲穂は、驚きとともに質問する。三吉霊神さまです、と答えてしまったあとに、子ども版の彩は、話してよかったのかな、という顔で「あっ」と声を漏らした。オオカミ? 狼? ……神!
すると、そのときのことだ。ミヨシノオオカミでもなければ、助三郎と呼ばれたキュウリ柄の着物を羽織った男性でもなく、今度はナス柄の着物を羽織った別の男性が、どこからともなく姿を現した。懐から家紋らしきマークの印字された印籠を取り出し、そして声高に言い放つ。「無礼者! こちらに坐すお方をどなたと心得る! 恐れ多くも、太平山の大神さまにあらせられるぞ!」
「一同の者、神の御前である! 頭が高い! 控えおろう!」
ナス柄の着物を羽織った男性の言葉を引き継ぐように、決まり文句を助三郎が叫んだことによって、稲穂は速攻で、額を地べたに擦りつけた。ふたりの彩は直立不動のままだったが、ついでに養護教諭も、意味がわからないまま平伏すこととなった。
「ああ、五瀬くんだね。敏斉は席を外しているようだ」
谷崎敏斉。校長先生の名前だ。着物を羽織った男性の腰から、きらりと黒光りするものが見える。それは、長い棒のようだった。木刀、もしかしたら真剣が納まった鞘なのかもしれない。どちらにせよ、周りへ危害が及んではいけない、と瞬間的に稲穂は思った。帯刀している腰元へ、ぬらりひょんは手を這わせる。
「それじゃあ、時間も惜しいし。さっそく、きてもらおうか」
稲穂の心のなかで、緊張の糸がピンと張りつめた。ツノの生えた巨体の男性が、きのう、家へ来たときのことを思い出す。怖くて堪らなかったが、そんなことを言っている場合ではない。彩は用事があるらしく、忙しそうだった。ここは、自分でなんとかしないと! と意気込む。おもむろに近づくような動きを見せた相手に対し、稲穂は距離を取ろうと思って後退る。
そこで、なにかが背中へぶつかった。恐る恐る振り返ると、そこにはキュウリ柄の着物を羽織った別の男性が、腕を組んだ状態で仁王立ちしている。稲穂は脇をすり抜けて校長室を飛び出した。校長室は職員室の隣りにある。職員室の正面にある女子トイレへ、稲穂は急いで駆け込んだ。個室に鍵をかけ、ドアへ凭れかかる。
結局、逃げてしまった自分のことで、稲穂は、嫌悪感に陥った。彩たちがいないと、ひとりではどうしようもできない。無意識のうちに、首から提げていた御守へと手が伸びる。両面宿儺が現れたときに、彩からもらったものだった。あれから、お風呂へ入るとき以外は、ずっと身に着けている。ふと、空気の変わる感覚がした。
「……たく。手間をかけさせんなよ」誰かの声が、真上から聞こえる。「おい、聞いてんのか」
さっきよりも近いところで、その声が聞こえた。御守を固く握りしめ、自分自身へ喝を入れる。動け、動け、動け、わたしの脚! 自己催眠のように奮い立たせた稲穂は、個室を抜け出し、隣りにある用具入れのドアを開けた。そこでトイレ掃除に使うモップを取り出す。
「おお? なんだ、ヤル気か?」
女子トイレを出た先にいたキュウリ柄の着物の男性が、嬉しそうな笑みを湛えたまま歩を進めてきた。ニタニタと気味の悪い表情で、どんどんと稲穂へ近づいてくる。妖怪が相手では物理攻撃は効かないかもしれないが、せめてもの時間稼ぎくらいにはなるだろう。しかし「時間稼ぎ」だと思っている時点で、端から人を頼っているのが否めず、我ながら情けない限りだった。きらりと光る刀身を鞘から覗かせる男性に、モップを刀のように構えた稲穂は向き合う。
相手の動きが早すぎて、視界へ捉えきることもできなかった。モップの柄の部分に、カツンと相手の振りかざした刀身が当たる。その一撃をくらっただけで、稲穂の全身に衝撃が行き渡る。手が痺れるのみに留まらず、脚がガクガクと震え、防ぎきるのにも限界を感じた。相手めがけてモップを放り出し、せめてもの目隠しを兼ねて、自分が脱出する時間稼ぎに利用する。
モップに気を取られている隙に、稲穂は廊下を逆方向に走った。ちょうど職員室から出てくるところの養護教諭に、危うく激突しかける。養護教諭は稲穂と男性とを交互に見て、「五瀬さん、だいじょ……あの、どちらさま……」と慌てふためいていた。一般人に見られたことが嫌なのか、男性は面倒くさそうに舌打ちする。
男性を挟んだ廊下の向こうから、自分のことを呼ぶ声が聞こえ、稲穂は振り返った。叫びながら駆けてくる彩の姿を見て「よかった、助かった」と、内心、胸を撫でおろす。しかし、その安心も束の間のことだった。彩の背後、つまり稲穂から見て廊下の奥に、あのぬらりひょんが接近してきているのを視認する。その直後、ぬらりひょんの怒声が飛ぶ。それは、稲穂たちに対してではなかった。
「助三郎! なにしているんだ!」彩たちを追い越し、助三郎と呼んだ男性のもとへ、一直線に向かってくる。つかつかと迫るぬらりひょんに、助三郎はビクッと身を縮こまらせる。「女子を追っかけまわすでね! 神使たるもの……!」
シンシ? ぬらりひょんは、たしかにそう言った。なおも説教が続くなか、稲穂は少しばかり産毛の多い彩の腕に抱かれる。大丈夫よ、と声をかける小学生姿の彩の隣りに、おとな姿の彩も駆けつけた。おとな版の彩が血相を変え、子ども版の彩に「いったい、なにごと?」と問い質す。しばらくして、ふたりの男性の姿を認め、おとな版の彩は、表情を一気に曇らせた。
「サンキチくん? どうして、ここに?」「えっ。し、知り合い?」
稲穂は、驚きとともに質問する。三吉霊神さまです、と答えてしまったあとに、子ども版の彩は、話してよかったのかな、という顔で「あっ」と声を漏らした。オオカミ? 狼? ……神!
すると、そのときのことだ。ミヨシノオオカミでもなければ、助三郎と呼ばれたキュウリ柄の着物を羽織った男性でもなく、今度はナス柄の着物を羽織った別の男性が、どこからともなく姿を現した。懐から家紋らしきマークの印字された印籠を取り出し、そして声高に言い放つ。「無礼者! こちらに坐すお方をどなたと心得る! 恐れ多くも、太平山の大神さまにあらせられるぞ!」
「一同の者、神の御前である! 頭が高い! 控えおろう!」
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