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第6章 乗馬訓練・ささやかな嫉心と焦り

第28話 人馬一体

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 小坂部おさかべさんはいつもの人好きのする笑顔で空さんに声をかけた。

「馬に乗ったことはないんですか?」

 一瞬自分に声をかけられていると思わなかった空さんは、しばらくシエロと無表情に無言で静かにじゃれ合っていたが、ふと小坂部おさかべさんに気付いた。

「あ、はい、ありません」

 無表情に答える。

「もったいないなあ。それだけシエロと気持ちが通じていればいい騎手になれただろうに」

 空さんが目を丸くする。初めて見せる表情だ。

「あの、私、乗れるんですか? シエロに? 乗っていいんですか?」

「もちろん」

 今まで見たことのない空さんの顔だった。少し、ほんの少しだけど輝いたような気がした。

「乗りたい。乗りたいです」

 ここに来て初めて力のある声で小坂部《おさかべ》さんに訴える空さん。

「どうかな?」

 小坂部おさかべさんは僕の方をちらりと見て言った。

「いいと思います。空さんがそう望むのならやってみるべきです。ムネさんにもそう言っておきます」

「決まりだ。じゃ、空さん頑張ってみて」

「はい」

 僕は空さんの目に決意のようなものを見た。初めて見る生き生きとした目だった。
 小坂部おさかべさんは冗談めかして言う。

「空さんがシエロに乗って引退競走馬杯で優勝するのも夢じゃないかもね」

「えっ」

 空さんは意外そうな顔をした。

「そうだよ。俺やあそこの大城おおき君なんかお呼びじゃないってくらいこんなに相性がいいんだから。それこそ人馬一体になれるんじゃないかな」

「人馬、一体……」

 小坂部おさかべさんの言葉を噛みしめるようにしてシエロを眺める。
 僕は釘を刺した。

「まあまあ、始める前からそんな大きすぎる夢を言っても仕方ないですよ。とにかく明日からトレニンーグ開始、でいいですか」

 僕の言葉に小坂部おさかべさんはいつものように気さくに答えた。

「こっちは構わないよ、この時間なら少しは手も空いてるし。ただ教えられるのは一日に一鞍ひとくらくらいだけど。ね、大城おおき君構わないよね」
 大城おおきさん? 話にはよく聞くがこうして直接会うのは初めてだ。曰くイケメン。態度もカッコよくて紳士的でシェアトの女子で彼に心を奪われない者は原沢以外にはいないのだとか。見た目、歳は30になるかどうかといった感じで、僕と違い逞しい体格をしている。さっきからずっと目も心も奪われたような顔をして空さんを見つめていたが、小坂部おさかべさんに声を掛けられるとはっとした顔になって短く答えた。

「え、ええ、構いません。大丈夫です」

「ありがとうございます。よろしくお願い致します」

 小坂部おさかべさんにお礼を言い、大城おおきさんに挨拶をする空さん。僕は初めて空さんが気持ちの入ったお礼を言ったような気がした。馬場からの帰り道の空さんは、ずっと心ここにあらずといった様子だった。そしてその心を占めていたのはいつも空さんを覆っていた暗いかげではないように思えた。

 そうして翌日から空さんは大城おおきさんの指導のもと乗馬の練習を始める。
 午前の練習は大城おおきさんにお願いするとして、午後の空き時間はやはり一鞍ひとくら程度に限られるけれど僕が教えた。

 空さんを乗せる時のシエロは驚くほど慎重に歩く。普通、元競走馬というものは現役時代のくせが抜けず姿勢を低くし速く走りたがるものだが、シエロそんな素振りを見せることは全くなかった。空さんは乗馬に関して驚異的な資質を持っていた。その資質の高さをもって、みるみる上達していった。正に「人馬一体」。これは本当に現実のものになるかもしれない。僕は空さんとシエロの先にある未来に輝くものを見たような気がした。

 小坂部おさかべさんが言った通り、空さんは初めて会った時以来シエロと僕にしか心を開くそぶりを見せず、時間があればぴったり僕のそばにいた。と言っても、これと言って何か会話があるわけでもなく、たいていは静かに時間が過ぎていくだけのだった。この状態は、空さんがまた危険なことをしでかさないか見張ることができて僕にとっては有り難かったし、それに僕自身なぜかとても心安らぐものがあった。

 しかし、ほかのスタッフに馴染めないのは仕事をする上で大きな問題だった。ほかのスタッフにも心を開くのが今の空さんの課題のひとつでもあると僕は考えていた。



【次回】
第29話 見回りと原沢
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