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56話 いつ死んでもおかしくない

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 セルペンスの言葉は張り付いて離れない影のように、つきまとった。寝ても覚めても、食事中でも牧場にいても、リヒャルトと愛し合っていても……
 別のことに集中していても、気を緩ませたとたんさいなんでくる。ソフィアを責めてくる。

 ──あなたのせいで人がたくさん死ぬことになる。行いが正しくても、人を救えるとは限らないのですよ

 最後の最後まで嫌な男だった。一番目を背けたいこと、それも真実を突きつけてきた。ソフィアには呪いの言葉を変える力がない。自分を犠牲にする他は、やれることなど一つだってないのだ。

「ソフィア? どうしたんだ? また、上の空だ」

 リヒャルトの腕の中、ソフィアは我に返った。ベッドで最愛の人と抱き合っていたのである。幸せの絶頂のはずが、罪深いぬくもりがソフィアを責め立てる。

「なんでもありませんわ、お気になさらないで」
「いつも、そうやってごまかす。私はそんなに頼りないだろうか? なにかあるんなら、一人で抱え込まないでほしい」

 彼の腕から逃れようとしたところ、ふたたび捉えられた。銀髪がふわっと口を撫でる。ソフィアはその愛しい髪に口づけしたいのを、グッとこらえた。

「リヒャルト様だって、わたくしに隠していたじゃありませんか?」
「おや? なにをだ?」
「ご自分の胸にお聞きになって」

 ルシアのことでグーリンガムから謝罪要求されていたことを、リヒャルトはずっと黙っていた。だが、ルツから聞いて知っていても、ソフィアはそれを責めるつもりはなかったのだ。

「自分の胸に聞いてみても、わからない。はぐらかすのはやめろ」

 リヒャルトは妙に突っかかってくる。ソフィアはいらだった。

「わたくしはまだ、地下牢であったことが恐ろしくて忘れられないでいるのです。もしあの時、助けが間に合わなかったら、わたくしは男たちの慰み者になっていました」

 これでリヒャルトはおとなしくなるだろう。地下牢でのトラウマがソフィアを苦しめているのは事実だ。あれから何日も経っているのに悪夢で起こされるし、いまだに暗い所が怖い。彼に抱かれていないと、寝つけない日もある。

「汚れてしまったわたくしに、リヒャルト様は愛想を尽かすでしょう」
「そんなことあるものか!」

 トラウマではぐらかすのは、卑怯だとわかっていた。

(こんなの、わたくしらしくない。彼を愛してるのに、どうして傷つけるようなことを言ってしまうの)

 締めつけるリヒャルトの腕にしがみつく。キツく抱き合うことで、ソフィアは自分の存在を確認していた。


 その日、ソフィアは牧場へは行けなかった。床に伏している国王がソフィアとリヒャルトを呼び寄せたのである。
 気温は上昇しているというのに、国王の容態は下降の一途をたどっている。春になり、回復したのは一時だった。寝たきりに戻り、なんとか体を起こそうとする国王をソフィアはリヒャルトと手伝った。

「すまぬな。世話をかける。ソフィア、余のせいでそなたにはつらい思いをさせてしまった。何度、詫びても足りぬぐらいだ」
「陛下のせいではございません。それに、もう済んだことです。どうか、お忘れになって」

 こんなやり取りを謁見するたびにする。国王の顔はシーツに同化しそうなほど白かった。光沢を失った髪と髭がシーツに溶け込んで見える。
 弱っていく国王を前にして、ソフィアは気丈にふるまうよう努めた。まず近況の報告をと促され、口を開いた。最近、リヒャルトには見せない笑顔で牧場の話をする。遠隔地ではボドという男が中心になって、牧場を経営していること、牛乳やヨーグルトだけでなく最近ではチーズの生産も始めたこと、受注が生産量を上回って嬉しい悲鳴を上げていること……

 国王は終始、ニコニコして話を聞いてくれた。だが、話し終わった時、突然真顔になったのでソフィアは不安になった。

「ここからは至極真面目な話をする。よいか?」

 緊張が走る。ベッドの前でひざまずいていたソフィアとリヒャルトは、床の上で互いの手を握り合った。国王の白濁した左目も、薄い水色の右目も悲嘆に満ちている。良い話ではないのは、わかっていた。

「余はもう長くないだろう。夏の終わりまで生きられるかはわからぬ……」

(そんなこと、おっしゃらないで? アイスの一件のまえは普通にご自分の足で立って、歩かれていたじゃない。またすぐ元通りに……)

 希望を言って励ますのは心の中だけにとどめた。ソフィアはともすれば緩みそうな涙腺を引き締めようと、眉間にしわを寄せる。国王は皮膚と変わらぬ色の唇を弱弱しく開閉した。

「そなたたちに国の未来を託したいと思うのだ。この命が尽きるまえに」

 ぬくもりがソフィアから離れた。国王の手を両手で握り、リヒャルトは涙をにじませる。

「陛下……いえ、兄上。なぜ、そんなことをおっしゃるのです? 前向きでなければ、治るものも治りません」
「死期というのは、自分でわかるものだ。今の余はかろうじて、生かされている状態。いつ終わってもおかしくない。今のうちに、やれることはやっておきたいのだ」

 国王からは並々ならぬ決意がうかがえた。リヒャルトの手を握り返すことができないほど弱っているのに、声音には言いようのない迫力があった。王位を譲渡するのは、彼のなかでビクともしない決定事項なのだろう。

 その後、国王は早速重臣らを呼び、即位の宣言、事務手続き、戴冠式など、王位継承の段取りの確認となった。戦時下のため、主だった諸侯全員を召し出すことはできない。他国へは告知だけして、小規模の戴冠式を計画することになった。話はソフィアを置いてどんどん進んでいく。流水のごときその様子を、ソフィアは夢見心地で眺めるしかできなかった。

 とうとうリヒャルト様が国王になってしまう――

 その重責にソフィアは耐えなくてはならない。ソフィアも公爵夫人ではなく、リエーヴ国の王妃となる。今後、いつどこにいてもソフィアたちの挙動は注目されることだろう。リヒャルトはソフィアだけのものでなくなり、国の……国民みんなのものになる。彼がどこか遠くへ行ってしまう気もしていた。

(権力などいらないから、片田舎の牧場でひっそりと二人、暮らしていけたらどんなに幸せなのでしょう)

 はた目からはすべてを得たように見えていても、当人たちはない物ねだりをしていたりする。
 
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