余命一年の聖女は、初恋の騎士に殺されたい

深渡 ケイ

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第1章 氷の檻と届かない手紙

第1話

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 神殿の朝は、いつも白い。

 磨き上げられた大理石は冷たく光を返し、天井近くのステンドグラスから落ちる色彩さえ、どこか凍った飴のように硬い。私はその中心に立ち、祈りの言葉を繰り返す。唇が形をなぞるだけで、心は遅れてついてくる。

 香炉から立ちのぼる乳香と白百合の匂いが、胸の奥に薄い膜を張る。息を吸うたび、肺の内側まで清められていくみたいで――それが、怖い。清いものほど、人を遠ざけるから。

「聖女エリス様」

 神官の声に促され、私は壇上へ進む。裾の長い白銀のドレスが足首に絡み、衣擦れがさらり、さらりと耳元で囁く。腕を上げれば、指先に集まる魔力が淡く灯り、薄青い光が祈りの文様を空に描いた。歓声が下から押し寄せる。ありがたい、救われた、聖女様――。

 その言葉のひとつひとつが、私を人ではなく「器」にしていく。

 あと一ヶ月。そう告げられた時から、私の時間は透明な砂時計になった。落ちていく砂の音だけが、夜になると聞こえる。

 儀式が終わると、私は回廊を歩く。外の庭園から流れ込む風が、花の香りを運んでくる。薔薇の甘さ、刈りたての草の青さ。そのどれもが生きている匂いで、私は思わず立ち止まりそうになる。けれど、侍女たちの視線が背中を押した。

 聖女は立ち止まらない。聖女は振り返らない。

 ――聖女は、誰のものにもならない。

 私は袖の中で手紙を握りしめる。夜ごと書いては破り、書いては隠した、宛名のない手紙。たった一人の名前を書くだけで、私の心はほどけてしまうから。紙の角が指先に食い込み、痛みが現実に縫い留める。

「本日より、護衛が交代いたします」

 神官が淡々と告げた。護衛。私の傍に立つ影。いつも甲冑のきらめきだけが視界の端にあり、声は必要最低限、距離は計算されている――はずだった。

 回廊の曲がり角で、足音が止まる。

 次の瞬間、空気が変わった。

 金属の匂い。雨上がりの土の匂い。遠い記憶の中で、馬小屋の藁に混じって嗅いだ匂い。胸が、ひどく小さく縮む。私は顔を上げることができないまま、呼吸の回数だけを数えた。

「……エリス様」

 低い声が、私の名を呼ぶ。

 その呼び方は、昔と同じだった。聖女様ではなく、ただ、エリス。

 視線を上げた先にいたのは、王国筆頭騎士の黒い外套をまとった男。肩幅の広さも、口数の少なさも、変わっていない。けれど、目だけが違った。あの頃の少年の目ではない。守るために傷を重ね、誰かを斬る覚悟を抱えた目だ。

 レオン。

 名前を心の中で呼んだだけで、胸の奥が熱くなる。喉が痛い。私は笑ってしまいそうになった。こんなにも、会いたかったのだと――今さら。

 彼は一歩、近づいた。

 その距離が、怖かった。近づかれれば近づかれるほど、私の中の「最後」が鮮明になるから。彼の体温を思い出してしまうから。冬の納屋で凍えた手を握ってくれた、あの掌の温かさを。

「護衛任務を拝命しました。以後、あなたの安全は――」

 形式的な言葉のはずなのに、声の端がわずかに震えていた。私の耳は、そんな小さな揺れを拾ってしまう。

「……必要ありません」

 私の声は、驚くほど澄んで響いた。自分でも冷たさに息をのむ。けれど、ここで柔らかくしてはいけない。彼の名前を呼んではいけない。私が望むのは、彼の優しさではなく、彼の未来だ。

 神官と侍女たちが見守る中、レオンは静かに膝をついた。甲冑がかすかに鳴る。その音が、私の心臓と同じ速さに聞こえてしまう。

 彼が立ち上がる瞬間、ふと私の足元がよろめいた。儀式で魔力を流しすぎた時の眩暈。世界が白く滲む。次の瞬間、硬い手が反射的に伸びてくるのが見えた。

 触れられる。

 彼の掌が、私の腕に――

 その予感だけで、胸が跳ねた。痛いほどに。

 だから私は、先に刃を突き立てるように言葉を放つ。

「触れないで」

 声が、回廊の冷気を裂いた。私は微笑む練習をしてきた。慈愛の聖女の笑み。その仮面を、今は氷のように固める。

「……穢れるから」

 嘘だ。

 穢れるのは私だ。あなたの手を汚すのは私だ。あなたの人生に、私の死を刻むのは私だ。

 レオンの手が、空中で止まった。指先が、わずかに震えるのが見える。触れられない距離のまま、彼の体温だけが幻みたいに近い。私はドレスの下で握りしめた手が震えているのを悟られないよう、背筋を伸ばした。

 ――お願い。近づかないで。

 近づけば、私はあなたを好きなまま死んでしまう。あなたに、私を好きなまま生きてほしくない。

 白い回廊に、花の香りだけが優しく漂い続ける。私の胸の高鳴りだけが、誰にも聞こえないまま、氷の檻の内側で暴れていた。

 レオンは息を呑んだまま、私の言葉を胸の内で噛み砕いているようだった。神殿の白い石壁に反射した魔法灯の光が、彼の鎧の縁を淡く縁取る。銀色のきらめきが、あの頃――泥だらけの庭で一緒に走った夕暮れの水たまりみたいに揺れて見えて、視界の奥が熱くなる。

「……承知しました、聖女様」

 たったそれだけ。声は低く、刃物みたいに研ぎ澄まされているのに、私の胸はその音に縫い留められた。名前を呼ばれないことが、こんなにも痛いなんて。私が望んだはずなのに。

 彼は一歩、引いた。距離が生まれる。空気が薄くなる。触れられないはずの体温が、逆に際立ってしまう。さっきまで伸びてきた掌の残像が、私の腕の上に透明な熱として残っていて、そこだけがじんと疼いた。

 眩暈はまだ続いていた。足元の大理石は冷たく、薄い靴底越しに氷のような感触が伝わってくる。ドレスの裾がすれる音が、やけに大きい。衣擦れのたびに、私の中で何かが崩れそうになる。

「次の祈祷の時間まで、ひとりにして」

 言い放つと、香の煙が喉に絡んだ。百合と没薬の匂い。清めの香りなのに、今は息をするたび罪を吸い込んでいるみたいだ。私は聖女の仮面をさらに固める。冷たい目を作る。レオンの目を見ない。

 それでも、彼の視線は離れなかった。見えない糸で引かれているように、背中のあたりが熱い。彼が何か言いかけて、言葉を飲み込む気配がした。鎧がわずかに擦れる音。剣の鞘が揺れる金具の小さな鈴鳴り。あの音は、私の未来を終わらせる音でもあるのに――どうして胸が、甘く痺れるの。

「……お加減が悪いように見えます」

 やっと落ちた言葉は、責めるでもなく、ただ不器用に私を気遣っていた。私は笑いそうになって、喉の奥を噛んだ。笑ったら、終わってしまう。私が彼を好きだと、ばれてしまう。

「聖女の務めに、体調など関係ないわ」

 自分の声が、自分のものじゃないみたいに硬い。冷たい水を含んだ石の声。けれど、言った瞬間、胸の奥で何かが小さく鳴って割れた。彼を傷つけた音だとわかるのに、止められない。

 レオンはほんの一瞬だけ眉を寄せ、それから、跪くように頭を下げた。忠誠の礼。護衛の礼。私はそれを望んだ。望んだはずなのに、彼の首筋に落ちる光の影が、ひどく寂しく見えた。

「……失礼します」

 立ち去る足音が、回廊に吸い込まれていく。規則正しい、騎士の歩幅。遠ざかるほど、胸の鼓動が乱れる。追いかけたい。呼び止めたい。あの手を取って、眩暈のせいにして寄りかかりたい。たった一度でいいから、ただのエリスとして――。

 けれど、私は唇を噛みしめて耐えた。彼の背中が角を曲がって見えなくなるまで、瞬きもしないで見送った。見えなくなった瞬間、膝から力が抜けた。

 壁に手をつく。冷たい石が掌を刺す。ドレスの内側で、震えが止まらない。さっき握りしめていた手を開くと、爪の跡が白く残っていた。痛みが、私が生きている証みたいで、泣きたくなる。

 ――これでいい。

 彼が私をただの「聖女」として見てくれるなら。彼の心が、私の死に縛られないなら。私が消えたあとも、彼が自分を責めずに生きていけるなら。

 けれど、胸の奥の柔らかい場所が、どうしても囁く。

 触れたかった、と。

 あの掌の温度を、最後まで覚えていたかった、と。

 花の香りが、変わらず優しく漂っている。その優しさが、今は残酷だった。私は息を吸い込み、涙を飲み込む代わりに祈りの言葉を口の中で転がした。聖女の言葉。世界を救うための言葉。

 そして、誰にも届かない手紙を胸の奥に折り畳む。

 ――レオン。お願い。私を嫌って。

 私があなたを好きなまま、死なないために。あなたが私を好きなまま、生きないために。

 祈りの言葉は、喉の奥で砂のように崩れた。口にすればするほど、私は「聖女」になっていく。ひとの名前を失い、肌の温度を失い、ただの器に近づいていく。

 廊下の向こうから、鈴の音がした。侍女が持つ香炉の鎖が揺れ、甘い乳香がふわりと流れてくる。次の儀式の支度だ。白い花弁を散らした水盤、銀の器、祈祷文の巻物。整えられたものたちの中で、私の心だけが整わない。

「聖女さま。お身体を冷やされます。お部屋へ」

 背を押されるように歩き出す。ドレスの裾が石床を撫で、さらり、と布が鳴った。その音が、さっきの――レオンの鎧の擦れる音と重なる。金属が動くたび、彼の存在が空気を切り替えてしまう、あの低い音。

 私は自分の肩を抱いた。指先が、ほんの少し前の温度を探してしまう。触れられていないのに、触れられた気がする。あの掌が近づいた瞬間、私の身体は勝手に覚悟をほどきかけた。たった一歩、彼のほうへ倒れてしまいそうだった。

 ――だめ。

 だめだ、エリス。望んではいけない。

 神殿の回廊は高く、窓から差す光が薄い青に見えた。魔法の結界が張られているせいで、昼の光さえ氷の膜を通して届くみたいに冷たい。壁に刻まれた聖句が、淡い金色で脈打つ。世界を守るための言葉が、私を閉じ込める檻になる。

 角を曲がったところで、突然、空気が変わった。

 花の香りが、ひどく濃い。白百合の束が供えられた祭壇の前――そこに、影が立っていた。背が高く、まっすぐで、動かない影。見間違えるはずがない。

 レオン。

 胸が、痛いほど跳ねた。さっき見送ったはずの背中が、今、正面にある。喉がきゅっと狭くなり、息がうまく吸えない。私は反射で足を止めた。侍女が困惑したように視線を向ける。

 彼は私を見た。目が合った瞬間、世界が静まる。結界の光も、香炉の煙も、遠くの祈りの声も、全部が薄くなる。残るのは、彼の瞳の色だけ。夜の底みたいに深いのに、私のことを見つけると必ず少しだけ柔らかくなる、その色。

「……聖女さま」

 呼び方が、刺さった。私の名前ではない。彼が選んだ距離。さっき私が押しつけた距離。

 それでも、彼は一歩、近づいた。鎧の革がきしみ、金具が小さく鳴った。近づくほどに、彼の体温が空気を変える。冷えた回廊の中で、そこだけ春があるみたいに。

「先ほどのこと、失礼を――」

 言いかけた彼の言葉を、私は息で切った。聞いてしまえば、崩れる。謝られたら、許したくなる。許したら、触れてしまう。

「あなたは、任務に戻りなさい」

 声が、思ったより硬く出た。聖女の声。氷の檻の声。胸の内側で、柔らかい私が泣き叫んでいるのに。

「……任務は、あなたを守ることです」

 守る。守る、という言葉が、残酷に甘い。守られる未来があるみたいに聞こえるから。私は一年の余命を、あと一ヶ月にまで削っている。守ってもらう権利なんてないのに。

「守る? 私を?」

 笑うつもりで、唇だけが動いた。花の香りが、喉の奥をくすぐる。涙の味が混じりそうで、私は舌先でそれを押し戻した。

「私は聖女。あなたの守るべきは、私ではなく――封印の儀式よ」

 言った瞬間、彼の眉がわずかに動いた。痛みを飲み込むときの、あの癖。私の言葉を受け止めるために、彼はいつも自分を傷つける。

「……承知しました」

 そう言って、彼は下がろうとした。けれど、私の足元がふらついた。儀式のために削られた魔力が、身体を軽くするどころか、空っぽにしていく。視界が一瞬白く揺れた。

 その瞬間、彼の手が伸びた。

 指先が、私の肘に触れる――触れかける。布越しに、熱が落ちてくる。ドレスの袖が擦れ、さら、と音がした。ほんの一瞬、世界の冷たさが溶ける。彼の体温が、私の皮膚の下にまで染み込んでくる気がした。

 私の身体は、勝手にその温度へ寄ろうとした。怖いくらい正直に。胸の鼓動が耳の内側で鳴り、花の香りが甘く濃くなる。彼の近さに、息が震える。

 ――触れたら、終わる。

 私は反射で、腕を引いた。

「触れないで」

 声が、鋭く跳ねた。自分でも驚くほどの強さで。彼の指が空を掴み、熱が断ち切られる。冷気が一気に戻ってきて、肌が痛い。

 彼の瞳が、揺れた。傷ついた色。私が望んだ色。

「……穢れるから」

 嘘の言葉が、舌の上で血の味になった。聖女の清廉さを盾にすれば、彼は引く。彼は、私を尊重する人だから。私がどんなに残酷でも、最後まで。

 レオンの喉が動いた。何か言いたいのに、言葉が見つからないときの沈黙。彼の手が、ゆっくりと下がる。握った拳が震えていた。震えているのは、私だけじゃない。

「……申し訳ありません」

 その声が、あまりにも静かで、優しくて、私の胸の奥が裂けそうになった。謝ってほしくない。謝るべきは私なのに。

「下がりなさい」

 私は目を逸らした。彼の表情を見たら、崩れるから。見てしまえば、名前を呼んでしまうから。

 彼の足音が、遠ざかる。金属の擦れる音が、回廊の冷たい空気に吸われていく。最後に、花の香りだけが残った。白百合は、何も知らない顔で咲いている。

 一人になった瞬間、私は壁に手をついた。冷たい石が、さっきよりも鋭い。ドレスの下で、さっき引いた腕がまだ熱い。そこだけ、彼の温度が残っているみたいで、余計に苦しい。

 ――嫌われた?

 嫌われて。そうしたかったのに。

 喉の奥で、嗚咽がほどけそうになるのを、私は祈りで縛った。聖女の言葉を、鎖のように巻きつける。

 レオン。お願い。

 あなたの手が、私を救ってしまう前に。

 私の嘘が、あなたを守りきる前に――どうか、私を見失って。

 私を見失って――そう願ったはずなのに、胸の奥では、彼の背を追いかけてしまう。

 回廊の先、扉が閉まる気配。重い木と鉄の軋みが、神殿の静謐にひびを入れて、すぐにまた吸い込まれていく。残されたのは、冷えた空気と、白百合の甘い匂いと、私の呼吸だけ。

 息を吸うたびに、さっきの体温が肺の奥に刺さる。触れられていないのに、触れられたみたいに。

 私はそっと腕を抱いた。ドレスの布が擦れて、絹の音が小さく鳴る。指先が震えて、刺繍の糸を引っかけそうになる。祈りのための白い衣は、いつだって清らかで、いつだって私を閉じ込める檻だ。

「聖女様」

 背後から、侍女の声。気配を殺して近づくのは、神殿で生きる者の癖だ。振り向けば、銀盆に乗せられた封蝋の手紙が、淡い光を受けてうっすらと赤く滲んで見えた。

「……何?」

「王城より。執行者殿の任命状と、今後の儀礼の確認書でございます」

 “執行者”。その言葉が、舌の上で血の味になる。任命状――レオンに、私を殺す役目を正式に与える紙。世界を救うための、綺麗な文字。

 私は手紙に触れなかった。触れたら、紙の冷たさが現実になって、泣いてしまうから。

「机に置いて」

 侍女が一礼して去る。足音が遠ざかり、再び静寂が降りる。私は壁から離れ、ゆっくりと歩いた。足元の石は冷たく、靴底越しに骨にまで沁みる。祈りの間へ続く小さな扉の前で立ち止まると、扉の隙間から、灯明の匂いと、薬草を煮たような甘苦い香りが流れてきた。

 祈れば、強くなれると思っていた。

 でも、祈るほどに、欲しくなる。彼の声。彼の手。私の名前を呼ぶ、あの低い音。

 祭壇の前に膝をつき、私は指を組む。指先の震えを隠すために、強く。爪が掌に食い込み、痛みが少しだけ私を現実に引き戻す。

 ――レオン。

 あなたが「申し訳ありません」と言ったとき、私は叫びそうになった。違う、謝らないで、と。私の罪は、あなたの優しさを利用することだ。あなたの誠実さを、私が壊すことだ。

 それでも。

 あの手が伸びてきた瞬間、胸の奥が熱くなった。触れてほしかった。支えてほしかった。たった一度でいいから、護衛騎士の手ではなく、幼い日のあなたの手で――私の指を、確かめるみたいに握ってほしかった。

 白百合の香りがする。さっき彼が通った場所に咲いていた花と同じ匂いが、祈りの間にも漂っている。花は咲くだけで、誰も殺さない。誰も救わない。ただ、香る。私も、そうであれたなら。

 机の上の手紙が、視界の端で赤く光っている気がした。封蝋の印。王家の紋章。運命の刻印。

 私は立ち上がり、ゆっくりと近づいた。指先で封蝋の縁をなぞる。冷たい。硬い。簡単には割れない。

 ――割ってしまえば、始まってしまう。

 それでも私は、封を切らずに、もう一通の紙束を引き寄せた。薄い便箋。誰にも出せない手紙を書くための、私だけの白。

 ペンを取ると、インクの匂いが鼻をくすぐる。灯明の光が揺れて、文字が滲みそうになる。私は息を整え、書き出しの一文字目で止まった。

「レオン」

 名前を書いただけで、胸が鳴る。鼓動が指先まで伝わり、ペン先が震える。触れないで、と言った口で、触れたい、と書いてしまいそうになる。

 私は、紙を裏返した。何も書かれていない白が、私を責めるように眩しい。

 ――嫌われたいのに。

 嫌われれば、あなたは少しだけ楽になる。私の死を、私の選択として片づけられる。あなたの手が汚れる前に、あなたの心が壊れる前に。

 けれど、もしも。もしも、あなたが本当に私を見失ってしまったら?

 その想像だけで、喉がきゅっと狭くなる。息ができなくなる。私は、何を守りたいのだろう。世界? あなた? それとも、最後の一ヶ月の中で、ほんの少しだけでも「エリス」として生きたかった自分?

 扉の外で、鎧が擦れる微かな音がした。護衛の交代。足音は一瞬だけ止まり、そして規則正しく遠ざかる。

 レオンではない。分かっているのに、身体が勝手に反応する。胸が跳ね、指が便箋を握りしめる。触れられなくても、彼の気配を探してしまう。届かない手紙を、何度も書こうとしてしまう。

 私は便箋を引き出しの奥へ押し込んだ。誰にも見つからないように、深く、深く。封をしたら最後、私はきっと彼に縋ってしまうから。

 代わりに、任命状の封蝋に指を当てる。割らない。ただ、冷たさを確かめるだけ。これが私たちの未来だと、肌に刻むために。

「……護衛騎士は、必要ありません」

 声に出してみる。誰もいない祈りの間に、私の嘘が落ちる。嘘は音になっても、やさしくはならない。むしろ鋭く、刃みたいに響く。

 それでも私は、その刃を手放せない。

 最後の一ヶ月。あと少しで、魔王の封印はほどける。私の魔力は満ちる。彼の剣は振り下ろされる。

 そのとき、彼が迷わないように。

 そのとき、私の名前を呼ばないように。

 私は祈りの間の窓を開けた。夜の風が流れ込み、灯明の炎が揺れる。冷たい空気が頬を撫で、涙の熱を奪っていく。遠くで鐘が鳴り、王都の眠りを告げた。

 窓の外、闇の中に白百合の影が揺れている。香りだけが、確かにここに届いてくる。

 ――レオン。

 お願い。どうか、私を憎んで。

 あなたの手が、私を救おうとする前に。

 私の嘘が、あなたを守りきれなくなる前に――どうか、あなたの目に映る私は、冷たい聖女のままでいて。

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