5 / 40
第五話 迎えられるということ
しおりを挟む
第五話 迎えられるということ
国境を越えた先の空は、驚くほど澄んでいた。
同じ大陸のはずなのに、空気が違う。
重さがない。
胸の奥に、静かに溜まっていた緊張が、少しずつほどけていくのがわかった。
セラフィーナ・アッシュクロフトは、街道の先に見える城塞都市を眺めながら、無意識に足を止めていた。
シュヴァルツガルト公国。
堅牢な城壁と整った街並み。
華美ではないが、落ち着いた気配が漂っている。
「……きれいな街ですね」
独り言のように呟いた瞬間、背後から落ち着いた声がした。
「そう言われるのは、久しぶりだ」
振り返ると、黒を基調とした外套を纏う青年が立っていた。
年は、私とそう変わらないだろう。
鋭さを感じさせる目元と、無駄のない立ち姿。
「ようこそ、シュヴァルツガルト公国へ。
私はアーヴィン・フォン・シュヴァルツガルト」
淡々と名乗るその声には、威圧も、警戒もなかった。
ただ、事実を述べているだけ。
「……セラフィーナ・アッシュクロフトです」
名を告げた瞬間、彼の視線がわずかに揺れた。
驚きではない。
確認に近いもの。
「やはり、君か」
「……?」
首をかしげる私に、アーヴィンはそれ以上説明しなかった。
「長旅だっただろう。
まずは休むといい。話は、その後で構わない」
それだけ言って、彼は踵を返す。
付いて来い、と命じるでもなく、
だが置いていくつもりもない歩調。
――不思議な人だ。
私は、自然とその背中を追っていた。
城内は、想像以上に静かだった。
使用人たちは忙しそうに動いているが、慌ただしさがない。
「こちらだ」
案内された部屋は、必要以上に広くも、豪華でもない。
けれど、清潔で、居心地が良さそうだった。
「この部屋を使ってくれ」
「……聖女用の部屋、ですか?」
そう尋ねると、アーヴィンは即座に首を振った。
「客室だ」
きっぱりと。
「君は、ここでは聖女ではない。
ただの、客人だ」
その言葉に、胸の奥が小さく揺れた。
――ああ。
それを、どれほど待っていたのだろう。
「……ありがとうございます」
私がそう答えると、彼は短く頷いた。
「食事は後ほど運ばせる。
無理に話す必要はない。今日は休め」
それだけ言い残し、彼は部屋を出ていった。
扉が閉まる音が、やけに優しく聞こえた。
椅子に腰を下ろし、私は大きく息を吐いた。
「……疲れていたんですね」
今になって、全身の力が抜けていく。
ここでは、祈る必要がない。
“何も起こらないように”願う必要もない。
それだけで、こんなにも静かになれるのかと、自分でも驚いた。
しばらくして、食事が運ばれてくる。
豪勢ではないが、温かく、丁寧に作られているのがわかる。
一口食べて、気づいた。
「……美味しい」
思わず漏れた言葉に、苦笑する。
聖女だった頃、食事は“体調維持のためのもの”だった。
味を感じる余裕など、なかった。
その夜、私は久しぶりに、夢を見ずに眠った。
翌朝。
窓から差し込む光で目を覚ます。
身体が、軽い。
「……よく、眠れました」
扉をノックする音がして、アーヴィンが入ってくる。
「顔色がいい。
やはり、ここでは無理をしなくていいらしい」
まるで、最初からそうなると知っていたかのような言い方。
「……私を、どうして迎え入れたのですか?」
意を決して尋ねると、彼は少しだけ考える素振りを見せた。
「理由はいくつかある」
そして、静かに告げる。
「だが一番大きいのは――
君がいなくなったその瞬間から、
エルディア王国で“異変”が始まったからだ」
胸が、わずかに跳ねた。
「それは……偶然では?」
「偶然なら、いい」
アーヴィンは私をまっすぐ見つめる。
「だが、私は偶然に国を預けるほど、楽観的ではない」
その視線に、責める色はない。
試す色もない。
ただ、理解しようとする目だった。
「君は、何をしていた?」
私は、少し考えてから答える。
「……何も」
正直な答え。
「毎日、祈っていました。
何も起きませんように、と」
アーヴィンは、小さく息を吐いた。
「……なるほど」
そして、こう続けた。
「君は、奇跡を起こす聖女ではない。
だが――」
一拍置いて。
「奇跡が“不要な世界”を、維持していた聖女だ」
その言葉は、静かに、しかし確かに、胸に落ちた。
私は、初めてここで、
“迎えられた”のだと理解した。
利用価値ではなく。
役目でもなく。
――存在そのものを。
エルディア王国では、もう戻らない日々が、
確実に崩れ始めている。
だが、私の新しい日常は、
この公国で、静かに始まろうとしていた。
国境を越えた先の空は、驚くほど澄んでいた。
同じ大陸のはずなのに、空気が違う。
重さがない。
胸の奥に、静かに溜まっていた緊張が、少しずつほどけていくのがわかった。
セラフィーナ・アッシュクロフトは、街道の先に見える城塞都市を眺めながら、無意識に足を止めていた。
シュヴァルツガルト公国。
堅牢な城壁と整った街並み。
華美ではないが、落ち着いた気配が漂っている。
「……きれいな街ですね」
独り言のように呟いた瞬間、背後から落ち着いた声がした。
「そう言われるのは、久しぶりだ」
振り返ると、黒を基調とした外套を纏う青年が立っていた。
年は、私とそう変わらないだろう。
鋭さを感じさせる目元と、無駄のない立ち姿。
「ようこそ、シュヴァルツガルト公国へ。
私はアーヴィン・フォン・シュヴァルツガルト」
淡々と名乗るその声には、威圧も、警戒もなかった。
ただ、事実を述べているだけ。
「……セラフィーナ・アッシュクロフトです」
名を告げた瞬間、彼の視線がわずかに揺れた。
驚きではない。
確認に近いもの。
「やはり、君か」
「……?」
首をかしげる私に、アーヴィンはそれ以上説明しなかった。
「長旅だっただろう。
まずは休むといい。話は、その後で構わない」
それだけ言って、彼は踵を返す。
付いて来い、と命じるでもなく、
だが置いていくつもりもない歩調。
――不思議な人だ。
私は、自然とその背中を追っていた。
城内は、想像以上に静かだった。
使用人たちは忙しそうに動いているが、慌ただしさがない。
「こちらだ」
案内された部屋は、必要以上に広くも、豪華でもない。
けれど、清潔で、居心地が良さそうだった。
「この部屋を使ってくれ」
「……聖女用の部屋、ですか?」
そう尋ねると、アーヴィンは即座に首を振った。
「客室だ」
きっぱりと。
「君は、ここでは聖女ではない。
ただの、客人だ」
その言葉に、胸の奥が小さく揺れた。
――ああ。
それを、どれほど待っていたのだろう。
「……ありがとうございます」
私がそう答えると、彼は短く頷いた。
「食事は後ほど運ばせる。
無理に話す必要はない。今日は休め」
それだけ言い残し、彼は部屋を出ていった。
扉が閉まる音が、やけに優しく聞こえた。
椅子に腰を下ろし、私は大きく息を吐いた。
「……疲れていたんですね」
今になって、全身の力が抜けていく。
ここでは、祈る必要がない。
“何も起こらないように”願う必要もない。
それだけで、こんなにも静かになれるのかと、自分でも驚いた。
しばらくして、食事が運ばれてくる。
豪勢ではないが、温かく、丁寧に作られているのがわかる。
一口食べて、気づいた。
「……美味しい」
思わず漏れた言葉に、苦笑する。
聖女だった頃、食事は“体調維持のためのもの”だった。
味を感じる余裕など、なかった。
その夜、私は久しぶりに、夢を見ずに眠った。
翌朝。
窓から差し込む光で目を覚ます。
身体が、軽い。
「……よく、眠れました」
扉をノックする音がして、アーヴィンが入ってくる。
「顔色がいい。
やはり、ここでは無理をしなくていいらしい」
まるで、最初からそうなると知っていたかのような言い方。
「……私を、どうして迎え入れたのですか?」
意を決して尋ねると、彼は少しだけ考える素振りを見せた。
「理由はいくつかある」
そして、静かに告げる。
「だが一番大きいのは――
君がいなくなったその瞬間から、
エルディア王国で“異変”が始まったからだ」
胸が、わずかに跳ねた。
「それは……偶然では?」
「偶然なら、いい」
アーヴィンは私をまっすぐ見つめる。
「だが、私は偶然に国を預けるほど、楽観的ではない」
その視線に、責める色はない。
試す色もない。
ただ、理解しようとする目だった。
「君は、何をしていた?」
私は、少し考えてから答える。
「……何も」
正直な答え。
「毎日、祈っていました。
何も起きませんように、と」
アーヴィンは、小さく息を吐いた。
「……なるほど」
そして、こう続けた。
「君は、奇跡を起こす聖女ではない。
だが――」
一拍置いて。
「奇跡が“不要な世界”を、維持していた聖女だ」
その言葉は、静かに、しかし確かに、胸に落ちた。
私は、初めてここで、
“迎えられた”のだと理解した。
利用価値ではなく。
役目でもなく。
――存在そのものを。
エルディア王国では、もう戻らない日々が、
確実に崩れ始めている。
だが、私の新しい日常は、
この公国で、静かに始まろうとしていた。
0
あなたにおすすめの小説
裏切りの先にあるもの
マツユキ
恋愛
侯爵令嬢のセシルには幼い頃に王家が決めた婚約者がいた。
結婚式の日取りも決まり数か月後の挙式を楽しみにしていたセシル。ある日姉の部屋を訪ねると婚約者であるはずの人が姉と口づけをかわしている所に遭遇する。傷つくセシルだったが新たな出会いがセシルを幸せへと導いていく。
白い結婚を捨てた王妃は、もう二度と振り向かない ――愛さぬと言った王子が全てを失うまで』
鍛高譚
恋愛
「私は王妃を愛さない。彼女とは白い結婚を誓う」
華やかな王宮の大聖堂で交わされたのは、愛の誓いではなく、冷たい拒絶の言葉だった。
王子アルフォンスの婚姻相手として選ばれたレイチェル・ウィンザー。しかし彼女は、王妃としての立場を与えられながらも、夫からも宮廷からも冷遇され、孤独な日々を強いられる。王の寵愛はすべて聖女ミレイユに注がれ、王宮の権力は彼女の手に落ちていった。侮蔑と屈辱に耐える中、レイチェルは誇りを失わず、密かに反撃の機会をうかがう。
そんな折、隣国の公爵アレクサンダーが彼女の前に現れる。「君の目はまだ死んでいないな」――その言葉に、彼女の中で何かが目覚める。彼はレイチェルに自由と新たな未来を提示し、密かに王宮からの脱出を計画する。
レイチェルが去ったことで、王宮は急速に崩壊していく。聖女ミレイユの策略が暴かれ、アルフォンスは自らの過ちに気づくも、時すでに遅し。彼が頼るべき王妃は、もはや遠く、隣国で新たな人生を歩んでいた。
「お願いだ……戻ってきてくれ……」
王国を失い、誇りを失い、全てを失った王子の懇願に、レイチェルはただ冷たく微笑む。
「もう遅いわ」
愛のない結婚を捨て、誇り高き未来へと進む王妃のざまぁ劇。
裏切りと策略が渦巻く宮廷で、彼女は己の運命を切り開く。
これは、偽りの婚姻から真の誓いへと至る、誇り高き王妃の物語。
【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
将来を誓い合った王子様は聖女と結ばれるそうです
きぬがやあきら
恋愛
「聖女になれなかったなりそこない。こんなところまで追って来るとはな。そんなに俺を忘れられないなら、一度くらい抱いてやろうか?」
5歳のオリヴィエは、神殿で出会ったアルディアの皇太子、ルーカスと恋に落ちた。アルディア王国では、皇太子が代々聖女を妻に迎える慣わしだ。しかし、13歳の選別式を迎えたオリヴィエは、聖女を落選してしまった。
その上盲目の知恵者オルガノに、若くして命を落とすと予言されたオリヴィエは、せめてルーカスの傍にいたいと、ルーカスが団長を務める聖騎士への道へと足を踏み入れる。しかし、やっとの思いで再開したルーカスは、昔の約束を忘れてしまったのではと錯覚するほど冷たい対応で――?
婚約者が妹と結婚したいと言ってきたので、私は身を引こうと決めました
日下奈緒
恋愛
アーリンは皇太子・クリフと婚約をし幸せな生活をしていた。
だがある日、クリフが妹のセシリーと結婚したいと言ってきた。
もしかして、婚約破棄⁉
遊び人の令嬢が目を付けたのは、私の真面目な婚約者でした
おいどん
恋愛
子爵家の令嬢エリーネと伯爵家の次男のノルトが婚約を結んだのは、半年前だった。
真面目で優秀なノルトに相応しい婚約者であろうとするものの、エリーネには自信がなかった。
ある日、遊び人と噂の令嬢べルティーナとノルトが共にいるところを見てしまう。
「真面目クンは壁さえ破っちゃえばこっちのもんだからね〜」
「きっと、彼女の美しさに嫉妬しているのだわ…」
「…今度は、ちゃんと言葉にするから」
【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?
アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。
泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。
16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。
マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。
あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に…
もう…我慢しなくても良いですよね?
この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。
前作の登場人物達も多数登場する予定です。
マーテルリアのイラストを変更致しました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる