6 / 40
第六話 聖女ではない居場所
しおりを挟む
第六話 聖女ではない居場所
シュヴァルツガルト公国で迎える朝は、驚くほど静かだった。
窓を開けると、冷たく澄んだ空気が流れ込み、遠くで鳥の声が聞こえる。
王都にいた頃のような、胸を締めつけるざわめきがない。
「……何も起きていない」
それが、こんなにも心を落ち着かせるものだとは思わなかった。
身支度を整えて廊下へ出ると、すでに城内は動き始めている。
使用人たちは互いに声を掛け合いながら、無駄のない動きで仕事をこなしていた。
誰も私に跪かない。
聖女様、と呼ばれることもない。
――それが、少しだけ嬉しかった。
「よく眠れたようだな」
階段を降りたところで、アーヴィンと出会う。
彼はいつものように簡潔な挨拶を寄越し、私の顔を一瞥した。
「はい。久しぶりに……」
「夢も見なかったか」
問いではなく、確認。
私は頷いた。
「それでいい」
それだけ言って、彼は歩き出す。
私は自然と、その後をついていった。
案内されたのは、城の中庭だった。
広すぎず、狭すぎない庭園。
整えられてはいるが、見せるための華美さはない。
「ここでは、君に特別な役目はない」
アーヴィンは、淡々と告げる。
「祈祷も、儀式も、求めない。
ただ、好きに過ごせばいい」
「……それで、公国は困りませんか?」
思わず、そんなことを聞いてしまう。
癖のようなものだ。
“役に立たなければ存在してはいけない”という、長年染みついた感覚。
アーヴィンは、ほんのわずかに眉を動かした。
「困るかどうかを、君が考える必要はない」
きっぱりとした言い切り。
「ここでは、私が判断する」
胸の奥で、何かがほどけた。
その日の午前中、私は城内を自由に歩くことを許された。
図書室、回廊、訓練場の端。
どこへ行っても、誰も私を止めない。
訓練場では、兵士たちが剣を交えていた。
鋭い音が響くが、不思議と危うさは感じない。
「……落ち着いていますね」
思わず口にすると、そばにいた兵士が笑った。
「ええ。最近は怪我も減りました」
「最近、ですか?」
「はい。理由はわかりませんが」
理由を知っているのは、たぶん私だけだ。
――いや。
アーヴィンも、気づいている。
昼食は、他の客人と同じ食堂で取った。
長い卓に並んで座り、同じ料理を口にする。
誰も私を特別扱いしない。
それなのに、疎外感もない。
ただ、一人の人間として、そこにいる。
「慣れないだろう」
食後、アーヴィンがそう言った。
「……正直に言うと、はい」
「だろうな」
彼は小さく息を吐く。
「エルディア王国では、君は“機能”だった。
だが、ここでは違う」
視線が、まっすぐこちらに向けられる。
「君がここにいる理由は、結果ではない」
結果。
奇跡。
守護。
そのどれでもない理由で、私は今ここにいる。
夕刻、城門近くで小さな騒ぎがあった。
荷車の車輪が外れ、荷が道に散らばったのだ。
「怪我人は?」
「いません。
……不思議なことに、誰も巻き込まれなかった」
兵士の報告に、アーヴィンは頷く。
「処理を頼む」
それだけで、事態は収束した。
大事にならない。
混乱が連鎖しない。
それが、どれほど異常な安定か。
私は、もう理解している。
夜。
部屋に戻る前、私は立ち止まって空を見上げた。
星が、はっきりと見える。
「……祈らなくても、大丈夫ですね」
独り言のように呟く。
背後で、足音が止まった。
「祈りは、必要な時にすればいい」
アーヴィンの声。
「君は、もう“守るために存在する”必要はない」
その言葉に、胸が静かに熱くなる。
私は、ゆっくりと息を吸い、吐いた。
何も起こらない夜。
何も求められない居場所。
それが、これほどまでに、
人を生かすものだとは知らなかった。
エルディア王国では、
今日もまた、小さな不運が重なっているだろう。
けれど、ここでは。
私は初めて、
“聖女ではない自分”として、
眠りにつくことができた。
シュヴァルツガルト公国で迎える朝は、驚くほど静かだった。
窓を開けると、冷たく澄んだ空気が流れ込み、遠くで鳥の声が聞こえる。
王都にいた頃のような、胸を締めつけるざわめきがない。
「……何も起きていない」
それが、こんなにも心を落ち着かせるものだとは思わなかった。
身支度を整えて廊下へ出ると、すでに城内は動き始めている。
使用人たちは互いに声を掛け合いながら、無駄のない動きで仕事をこなしていた。
誰も私に跪かない。
聖女様、と呼ばれることもない。
――それが、少しだけ嬉しかった。
「よく眠れたようだな」
階段を降りたところで、アーヴィンと出会う。
彼はいつものように簡潔な挨拶を寄越し、私の顔を一瞥した。
「はい。久しぶりに……」
「夢も見なかったか」
問いではなく、確認。
私は頷いた。
「それでいい」
それだけ言って、彼は歩き出す。
私は自然と、その後をついていった。
案内されたのは、城の中庭だった。
広すぎず、狭すぎない庭園。
整えられてはいるが、見せるための華美さはない。
「ここでは、君に特別な役目はない」
アーヴィンは、淡々と告げる。
「祈祷も、儀式も、求めない。
ただ、好きに過ごせばいい」
「……それで、公国は困りませんか?」
思わず、そんなことを聞いてしまう。
癖のようなものだ。
“役に立たなければ存在してはいけない”という、長年染みついた感覚。
アーヴィンは、ほんのわずかに眉を動かした。
「困るかどうかを、君が考える必要はない」
きっぱりとした言い切り。
「ここでは、私が判断する」
胸の奥で、何かがほどけた。
その日の午前中、私は城内を自由に歩くことを許された。
図書室、回廊、訓練場の端。
どこへ行っても、誰も私を止めない。
訓練場では、兵士たちが剣を交えていた。
鋭い音が響くが、不思議と危うさは感じない。
「……落ち着いていますね」
思わず口にすると、そばにいた兵士が笑った。
「ええ。最近は怪我も減りました」
「最近、ですか?」
「はい。理由はわかりませんが」
理由を知っているのは、たぶん私だけだ。
――いや。
アーヴィンも、気づいている。
昼食は、他の客人と同じ食堂で取った。
長い卓に並んで座り、同じ料理を口にする。
誰も私を特別扱いしない。
それなのに、疎外感もない。
ただ、一人の人間として、そこにいる。
「慣れないだろう」
食後、アーヴィンがそう言った。
「……正直に言うと、はい」
「だろうな」
彼は小さく息を吐く。
「エルディア王国では、君は“機能”だった。
だが、ここでは違う」
視線が、まっすぐこちらに向けられる。
「君がここにいる理由は、結果ではない」
結果。
奇跡。
守護。
そのどれでもない理由で、私は今ここにいる。
夕刻、城門近くで小さな騒ぎがあった。
荷車の車輪が外れ、荷が道に散らばったのだ。
「怪我人は?」
「いません。
……不思議なことに、誰も巻き込まれなかった」
兵士の報告に、アーヴィンは頷く。
「処理を頼む」
それだけで、事態は収束した。
大事にならない。
混乱が連鎖しない。
それが、どれほど異常な安定か。
私は、もう理解している。
夜。
部屋に戻る前、私は立ち止まって空を見上げた。
星が、はっきりと見える。
「……祈らなくても、大丈夫ですね」
独り言のように呟く。
背後で、足音が止まった。
「祈りは、必要な時にすればいい」
アーヴィンの声。
「君は、もう“守るために存在する”必要はない」
その言葉に、胸が静かに熱くなる。
私は、ゆっくりと息を吸い、吐いた。
何も起こらない夜。
何も求められない居場所。
それが、これほどまでに、
人を生かすものだとは知らなかった。
エルディア王国では、
今日もまた、小さな不運が重なっているだろう。
けれど、ここでは。
私は初めて、
“聖女ではない自分”として、
眠りにつくことができた。
0
あなたにおすすめの小説
《完結》金貨5000枚で売られた王太子妃
ぜらちん黒糖
恋愛
「愛している。必ず迎えに行くから待っていてくれ」
甘い言葉を信じて、隣国へ「人質」となった王太子妃イザベラ。
旅立ちの前の晩、二人は愛し合い、イザベラのお腹には新しい命が宿った。すぐに夫に知らせた イザベラだったが、夫から届いた返信は、信じられない内容だった。
「それは本当に私の子供なのか?」
白い結婚を捨てた王妃は、もう二度と振り向かない ――愛さぬと言った王子が全てを失うまで』
鍛高譚
恋愛
「私は王妃を愛さない。彼女とは白い結婚を誓う」
華やかな王宮の大聖堂で交わされたのは、愛の誓いではなく、冷たい拒絶の言葉だった。
王子アルフォンスの婚姻相手として選ばれたレイチェル・ウィンザー。しかし彼女は、王妃としての立場を与えられながらも、夫からも宮廷からも冷遇され、孤独な日々を強いられる。王の寵愛はすべて聖女ミレイユに注がれ、王宮の権力は彼女の手に落ちていった。侮蔑と屈辱に耐える中、レイチェルは誇りを失わず、密かに反撃の機会をうかがう。
そんな折、隣国の公爵アレクサンダーが彼女の前に現れる。「君の目はまだ死んでいないな」――その言葉に、彼女の中で何かが目覚める。彼はレイチェルに自由と新たな未来を提示し、密かに王宮からの脱出を計画する。
レイチェルが去ったことで、王宮は急速に崩壊していく。聖女ミレイユの策略が暴かれ、アルフォンスは自らの過ちに気づくも、時すでに遅し。彼が頼るべき王妃は、もはや遠く、隣国で新たな人生を歩んでいた。
「お願いだ……戻ってきてくれ……」
王国を失い、誇りを失い、全てを失った王子の懇願に、レイチェルはただ冷たく微笑む。
「もう遅いわ」
愛のない結婚を捨て、誇り高き未来へと進む王妃のざまぁ劇。
裏切りと策略が渦巻く宮廷で、彼女は己の運命を切り開く。
これは、偽りの婚姻から真の誓いへと至る、誇り高き王妃の物語。
【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
将来を誓い合った王子様は聖女と結ばれるそうです
きぬがやあきら
恋愛
「聖女になれなかったなりそこない。こんなところまで追って来るとはな。そんなに俺を忘れられないなら、一度くらい抱いてやろうか?」
5歳のオリヴィエは、神殿で出会ったアルディアの皇太子、ルーカスと恋に落ちた。アルディア王国では、皇太子が代々聖女を妻に迎える慣わしだ。しかし、13歳の選別式を迎えたオリヴィエは、聖女を落選してしまった。
その上盲目の知恵者オルガノに、若くして命を落とすと予言されたオリヴィエは、せめてルーカスの傍にいたいと、ルーカスが団長を務める聖騎士への道へと足を踏み入れる。しかし、やっとの思いで再開したルーカスは、昔の約束を忘れてしまったのではと錯覚するほど冷たい対応で――?
婚約者が妹と結婚したいと言ってきたので、私は身を引こうと決めました
日下奈緒
恋愛
アーリンは皇太子・クリフと婚約をし幸せな生活をしていた。
だがある日、クリフが妹のセシリーと結婚したいと言ってきた。
もしかして、婚約破棄⁉
遊び人の令嬢が目を付けたのは、私の真面目な婚約者でした
おいどん
恋愛
子爵家の令嬢エリーネと伯爵家の次男のノルトが婚約を結んだのは、半年前だった。
真面目で優秀なノルトに相応しい婚約者であろうとするものの、エリーネには自信がなかった。
ある日、遊び人と噂の令嬢べルティーナとノルトが共にいるところを見てしまう。
「真面目クンは壁さえ破っちゃえばこっちのもんだからね〜」
「きっと、彼女の美しさに嫉妬しているのだわ…」
「…今度は、ちゃんと言葉にするから」
【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?
アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。
泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。
16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。
マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。
あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に…
もう…我慢しなくても良いですよね?
この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。
前作の登場人物達も多数登場する予定です。
マーテルリアのイラストを変更致しました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる