理由を与えなかった聖女は、名を呼ぶことを選んだ

鷹 綾

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第七話 失われた日常は、音もなく積み上がる

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第七話 失われた日常は、音もなく積み上がる

 

 エルディア王国の朝は、いつも通りに始まった――はずだった。

 王都の鐘は鳴り、人々は仕事へ向かい、露店は店を開く。
 表面だけを見れば、昨日と何一つ変わらない。

 だが、違和感は確実に存在していた。

「……また、ですか」

 城下町の役所で、書記官が報告書をめくる手を止める。

 ・倉庫の扉が閉まらなくなった
 ・舗装された道に新たな陥没
 ・井戸水の濁り
 ・家畜の流産が三件

 どれも、単独なら「運が悪かった」で終わる事案だ。
 致命的ではない。
 即座に国を揺るがすものでもない。

 ――だが、数が多すぎる。

「……対応は?」

「修理班を回しています。ただ、人手が足りず……」

 役人は言葉を濁した。

 修理班が足りないのではない。
 修理“だけ”が、増え続けているのだ。

 

 王宮では、朝の会議が開かれていた。

「また農地の報告か」

 ルーファス・ヴァルディオスは、苛立ちを隠そうともしない。

「収穫量の低下が予想より早いそうです」

「原因は?」

「……特定できておりません」

 沈黙。

 誰もが、同じことを考えている。
 “特定できない原因”が、あまりにも増えていることを。

「新聖女の祈祷を、増やせ」

 ルーファスは言った。

「国民には“神の加護は続いている”と示す必要がある」

「……祈祷は、すでに毎日行われています」

「なら、回数を増やせ」

 強い口調での命令に、反論は出なかった。

 

 同じ頃、王宮の奥で。

 ミレイア・ルミナスは、静かに椅子に座っていた。
 手には祈祷書。
 だが、文字は目に入ってこない。

 ――増やせば、何とかなるのだろうか。

 祈れば、光は降りる。
 それは事実だ。

 だが、光が降りた後も、
 問題は、確実に“残っている”。

「……私は、ちゃんとやっています」

 誰に向けた言葉でもなく、そう呟く。

 だが、胸の奥では、
 “やっている”と“足りている”の違いが、
 はっきりと形を持ち始めていた。

 

 その日の昼、王都の市場で、小さな騒ぎが起きた。

「魚が……腐っている?」

「朝は問題なかったはずだぞ!」

 夏でもないのに、保存の利かない魚が傷む。
 原因は不明。

 人々は顔をしかめ、別の店へ向かう。
 売れ残った魚は、廃棄された。

 それだけの話。
 ――それだけの話、だった。

 

 だが、その“それだけ”が、
 日を追うごとに増えていく。

 小麦粉の袋が破れる。
 荷車の軸が折れる。
 靴の底が剥がれる。
 扉の蝶番が外れる。

 命に関わらない。
 だが、生活を確実に削る。

 

 夕刻。

 城門前で、商人たちが口論していた。

「予定通りに運べないんだ!」

「こちらだって困る!」

「最近、道中で必ず何か起きる!」

 事故ではない。
 災害でもない。

 ただ――うまくいかない。

 

 その夜、ルーファスは一人、執務室で書類を睨んでいた。

「……些細な問題ばかりだ」

 自分に言い聞かせるように呟く。

「国が傾くほどの話じゃない」

 だが、机の上に積まれた報告書の量が、
 その言葉を否定している。

 些細な問題が、
 “解決されないまま”積み上がるということ。

 それが、どれほど厄介か。
 彼は、まだ理解していなかった。

 

 一方、シュヴァルツガルト公国。

 セラフィーナは、城の中庭で、
 小さな鉢植えに水をやっていた。

「……元気ですね」

 葉は青く、土は安定している。
 何の奇跡もない。
 ただ、順調に育っている。

「当たり前のことが、当たり前に続く」

 その背後で、アーヴィンが言った。

「それは、奇跡よりも価値がある」

「……以前は、それを“何もしていない”と呼ばれました」

「多くの者は、失うまで価値に気づかない」

 淡々とした言葉。
 だが、確信に満ちている。

 セラフィーナは、水差しを置き、空を見上げた。

 雲は穏やかに流れ、風は静かだ。

「……向こうは、どうなっていますか?」

「小さな不運が、積み上がっている」

 アーヴィンは、事実だけを告げる。

「音もなく、確実に」

 セラフィーナは、目を伏せた。

 自分が去ったことで、
 誰かが苦しんでいるかもしれない。

 だが――
 戻る理由には、ならない。

「私は、何もしていません」

 静かに、そう言う。

「だからこそ、だ」

 アーヴィンは即答した。

「君は、これ以上、誰かの失敗を肩代わりする必要はない」

 その言葉に、胸の奥が、ようやく静かになる。

 

 エルディア王国では、
 今日も“少しだけ不運な一日”が終わった。

 誰もが、まだ笑っている。
 誰もが、まだ耐えられると思っている。

 だが――
 失われた日常は、もう戻らない。

 それは、音もなく、
 確実に、積み上がっていくのだから。
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