7 / 40
第七話 失われた日常は、音もなく積み上がる
しおりを挟む
第七話 失われた日常は、音もなく積み上がる
エルディア王国の朝は、いつも通りに始まった――はずだった。
王都の鐘は鳴り、人々は仕事へ向かい、露店は店を開く。
表面だけを見れば、昨日と何一つ変わらない。
だが、違和感は確実に存在していた。
「……また、ですか」
城下町の役所で、書記官が報告書をめくる手を止める。
・倉庫の扉が閉まらなくなった
・舗装された道に新たな陥没
・井戸水の濁り
・家畜の流産が三件
どれも、単独なら「運が悪かった」で終わる事案だ。
致命的ではない。
即座に国を揺るがすものでもない。
――だが、数が多すぎる。
「……対応は?」
「修理班を回しています。ただ、人手が足りず……」
役人は言葉を濁した。
修理班が足りないのではない。
修理“だけ”が、増え続けているのだ。
王宮では、朝の会議が開かれていた。
「また農地の報告か」
ルーファス・ヴァルディオスは、苛立ちを隠そうともしない。
「収穫量の低下が予想より早いそうです」
「原因は?」
「……特定できておりません」
沈黙。
誰もが、同じことを考えている。
“特定できない原因”が、あまりにも増えていることを。
「新聖女の祈祷を、増やせ」
ルーファスは言った。
「国民には“神の加護は続いている”と示す必要がある」
「……祈祷は、すでに毎日行われています」
「なら、回数を増やせ」
強い口調での命令に、反論は出なかった。
同じ頃、王宮の奥で。
ミレイア・ルミナスは、静かに椅子に座っていた。
手には祈祷書。
だが、文字は目に入ってこない。
――増やせば、何とかなるのだろうか。
祈れば、光は降りる。
それは事実だ。
だが、光が降りた後も、
問題は、確実に“残っている”。
「……私は、ちゃんとやっています」
誰に向けた言葉でもなく、そう呟く。
だが、胸の奥では、
“やっている”と“足りている”の違いが、
はっきりと形を持ち始めていた。
その日の昼、王都の市場で、小さな騒ぎが起きた。
「魚が……腐っている?」
「朝は問題なかったはずだぞ!」
夏でもないのに、保存の利かない魚が傷む。
原因は不明。
人々は顔をしかめ、別の店へ向かう。
売れ残った魚は、廃棄された。
それだけの話。
――それだけの話、だった。
だが、その“それだけ”が、
日を追うごとに増えていく。
小麦粉の袋が破れる。
荷車の軸が折れる。
靴の底が剥がれる。
扉の蝶番が外れる。
命に関わらない。
だが、生活を確実に削る。
夕刻。
城門前で、商人たちが口論していた。
「予定通りに運べないんだ!」
「こちらだって困る!」
「最近、道中で必ず何か起きる!」
事故ではない。
災害でもない。
ただ――うまくいかない。
その夜、ルーファスは一人、執務室で書類を睨んでいた。
「……些細な問題ばかりだ」
自分に言い聞かせるように呟く。
「国が傾くほどの話じゃない」
だが、机の上に積まれた報告書の量が、
その言葉を否定している。
些細な問題が、
“解決されないまま”積み上がるということ。
それが、どれほど厄介か。
彼は、まだ理解していなかった。
一方、シュヴァルツガルト公国。
セラフィーナは、城の中庭で、
小さな鉢植えに水をやっていた。
「……元気ですね」
葉は青く、土は安定している。
何の奇跡もない。
ただ、順調に育っている。
「当たり前のことが、当たり前に続く」
その背後で、アーヴィンが言った。
「それは、奇跡よりも価値がある」
「……以前は、それを“何もしていない”と呼ばれました」
「多くの者は、失うまで価値に気づかない」
淡々とした言葉。
だが、確信に満ちている。
セラフィーナは、水差しを置き、空を見上げた。
雲は穏やかに流れ、風は静かだ。
「……向こうは、どうなっていますか?」
「小さな不運が、積み上がっている」
アーヴィンは、事実だけを告げる。
「音もなく、確実に」
セラフィーナは、目を伏せた。
自分が去ったことで、
誰かが苦しんでいるかもしれない。
だが――
戻る理由には、ならない。
「私は、何もしていません」
静かに、そう言う。
「だからこそ、だ」
アーヴィンは即答した。
「君は、これ以上、誰かの失敗を肩代わりする必要はない」
その言葉に、胸の奥が、ようやく静かになる。
エルディア王国では、
今日も“少しだけ不運な一日”が終わった。
誰もが、まだ笑っている。
誰もが、まだ耐えられると思っている。
だが――
失われた日常は、もう戻らない。
それは、音もなく、
確実に、積み上がっていくのだから。
エルディア王国の朝は、いつも通りに始まった――はずだった。
王都の鐘は鳴り、人々は仕事へ向かい、露店は店を開く。
表面だけを見れば、昨日と何一つ変わらない。
だが、違和感は確実に存在していた。
「……また、ですか」
城下町の役所で、書記官が報告書をめくる手を止める。
・倉庫の扉が閉まらなくなった
・舗装された道に新たな陥没
・井戸水の濁り
・家畜の流産が三件
どれも、単独なら「運が悪かった」で終わる事案だ。
致命的ではない。
即座に国を揺るがすものでもない。
――だが、数が多すぎる。
「……対応は?」
「修理班を回しています。ただ、人手が足りず……」
役人は言葉を濁した。
修理班が足りないのではない。
修理“だけ”が、増え続けているのだ。
王宮では、朝の会議が開かれていた。
「また農地の報告か」
ルーファス・ヴァルディオスは、苛立ちを隠そうともしない。
「収穫量の低下が予想より早いそうです」
「原因は?」
「……特定できておりません」
沈黙。
誰もが、同じことを考えている。
“特定できない原因”が、あまりにも増えていることを。
「新聖女の祈祷を、増やせ」
ルーファスは言った。
「国民には“神の加護は続いている”と示す必要がある」
「……祈祷は、すでに毎日行われています」
「なら、回数を増やせ」
強い口調での命令に、反論は出なかった。
同じ頃、王宮の奥で。
ミレイア・ルミナスは、静かに椅子に座っていた。
手には祈祷書。
だが、文字は目に入ってこない。
――増やせば、何とかなるのだろうか。
祈れば、光は降りる。
それは事実だ。
だが、光が降りた後も、
問題は、確実に“残っている”。
「……私は、ちゃんとやっています」
誰に向けた言葉でもなく、そう呟く。
だが、胸の奥では、
“やっている”と“足りている”の違いが、
はっきりと形を持ち始めていた。
その日の昼、王都の市場で、小さな騒ぎが起きた。
「魚が……腐っている?」
「朝は問題なかったはずだぞ!」
夏でもないのに、保存の利かない魚が傷む。
原因は不明。
人々は顔をしかめ、別の店へ向かう。
売れ残った魚は、廃棄された。
それだけの話。
――それだけの話、だった。
だが、その“それだけ”が、
日を追うごとに増えていく。
小麦粉の袋が破れる。
荷車の軸が折れる。
靴の底が剥がれる。
扉の蝶番が外れる。
命に関わらない。
だが、生活を確実に削る。
夕刻。
城門前で、商人たちが口論していた。
「予定通りに運べないんだ!」
「こちらだって困る!」
「最近、道中で必ず何か起きる!」
事故ではない。
災害でもない。
ただ――うまくいかない。
その夜、ルーファスは一人、執務室で書類を睨んでいた。
「……些細な問題ばかりだ」
自分に言い聞かせるように呟く。
「国が傾くほどの話じゃない」
だが、机の上に積まれた報告書の量が、
その言葉を否定している。
些細な問題が、
“解決されないまま”積み上がるということ。
それが、どれほど厄介か。
彼は、まだ理解していなかった。
一方、シュヴァルツガルト公国。
セラフィーナは、城の中庭で、
小さな鉢植えに水をやっていた。
「……元気ですね」
葉は青く、土は安定している。
何の奇跡もない。
ただ、順調に育っている。
「当たり前のことが、当たり前に続く」
その背後で、アーヴィンが言った。
「それは、奇跡よりも価値がある」
「……以前は、それを“何もしていない”と呼ばれました」
「多くの者は、失うまで価値に気づかない」
淡々とした言葉。
だが、確信に満ちている。
セラフィーナは、水差しを置き、空を見上げた。
雲は穏やかに流れ、風は静かだ。
「……向こうは、どうなっていますか?」
「小さな不運が、積み上がっている」
アーヴィンは、事実だけを告げる。
「音もなく、確実に」
セラフィーナは、目を伏せた。
自分が去ったことで、
誰かが苦しんでいるかもしれない。
だが――
戻る理由には、ならない。
「私は、何もしていません」
静かに、そう言う。
「だからこそ、だ」
アーヴィンは即答した。
「君は、これ以上、誰かの失敗を肩代わりする必要はない」
その言葉に、胸の奥が、ようやく静かになる。
エルディア王国では、
今日も“少しだけ不運な一日”が終わった。
誰もが、まだ笑っている。
誰もが、まだ耐えられると思っている。
だが――
失われた日常は、もう戻らない。
それは、音もなく、
確実に、積み上がっていくのだから。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】婚約破棄して泥を投げつけた元婚約者が「無能」と笑う中、光り輝く幼なじみの王子に掠め取られました。
ムラサメ
恋愛
「お前のような無能、我が家には不要だ。今すぐ消えろ!」
婚約者・エドワードのために身を粉にして尽くしてきたフィオナは、卒業パーティーの夜、雨の中に放り出される。
泥にまみれ、絶望に沈む彼女の前に現れたのは、かつての幼なじみであり、今や国中から愛される「黄金の王子」シリルだった。
「やっと見つけた。……ねえ、フィオナ。あんなゴミに君を傷つけさせるなんて、僕の落ち度だね」
汚れを厭わずフィオナを抱き上げたシリルは、彼女を自分の屋敷へと連れ帰る。
「自分には価値がない」と思い込むフィオナを、シリルは異常なまでの執着と甘い言葉で、とろけるように溺愛し始めて――。
一方で、フィオナを捨てたエドワードは気づいていなかった。
自分の手柄だと思っていた仕事も、領地の繁栄も、すべてはフィオナの才能によるものだったということに。
ボロボロになっていく元婚約者。美しく着飾られ、シリルの腕の中で幸せに微笑むフィオナ。
「僕の星を捨てた報い、たっぷりと受けてもらうよ?」
圧倒的な光を放つ幼なじみによる、最高に華やかな逆転劇がいま始まる!
聖女を追い出しても平気だと思っていた国の末路
藤原遊
ファンタジー
聖女が国を去った日、神官長は分かっていた。
この国は、彼女を軽く扱いすぎたのだと。
「聖女がいなくても平気だ」
そう言い切った王子と人々は、
彼女が“何もしていない”まま国が崩れていく現実を、
やがて思い知ることになる。
――これは、聖女を追い出した国の末路を、
静かに見届けた者の記録。
【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?
アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。
泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。
16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。
マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。
あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に…
もう…我慢しなくても良いですよね?
この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。
前作の登場人物達も多数登場する予定です。
マーテルリアのイラストを変更致しました。
氷の王弟殿下から婚約破棄を突き付けられました。理由は聖女と結婚するからだそうです。
吉川一巳
恋愛
ビビは婚約者である氷の王弟イライアスが大嫌いだった。なぜなら彼は会う度にビビの化粧や服装にケチをつけてくるからだ。しかし、こんな婚約耐えられないと思っていたところ、国を揺るがす大事件が起こり、イライアスから神の国から召喚される聖女と結婚しなくてはいけなくなったから破談にしたいという申し出を受ける。内心大喜びでその話を受け入れ、そのままの勢いでビビは神官となるのだが、招かれた聖女には問題があって……。小説家になろう、カクヨムにも投稿しています。
お飾りの婚約者で結構です! 殿下のことは興味ありませんので、お構いなく!
にのまえ
恋愛
すでに寵愛する人がいる、殿下の婚約候補決めの舞踏会を開くと、王家の勅命がドーリング公爵家に届くも、姉のミミリアは嫌がった。
公爵家から一人娘という言葉に、舞踏会に参加することになった、ドーリング公爵家の次女・ミーシャ。
家族の中で“役立たず”と蔑まれ、姉の身代わりとして差し出された彼女の唯一の望みは――「舞踏会で、美味しい料理を食べること」。
だが、そんな慎ましい願いとは裏腹に、
舞踏会の夜、思いもよらぬ出来事が起こりミーシャは前世、読んでいた小説の世界だと気付く。
存在感のない聖女が姿を消した後 [完]
風龍佳乃
恋愛
聖女であるディアターナは
永く仕えた国を捨てた。
何故って?
それは新たに現れた聖女が
ヒロインだったから。
ディアターナは
いつの日からか新聖女と比べられ
人々の心が離れていった事を悟った。
もう私の役目は終わったわ…
神託を受けたディアターナは
手紙を残して消えた。
残された国は天災に見舞われ
てしまった。
しかし聖女は戻る事はなかった。
ディアターナは西帝国にて
初代聖女のコリーアンナに出会い
運命を切り開いて
自分自身の幸せをみつけるのだった。
【完結】残酷な現実はお伽噺ではないのよ
綾雅(りょうが)要らない悪役令嬢
恋愛
「アンジェリーナ・ナイトレイ。貴様との婚約を破棄し、我が国の聖女ミサキを害した罪で流刑に処す」
物語でよくある婚約破棄は、王族の信頼を揺るがした。婚約は王家と公爵家の契約であり、一方的な破棄はありえない。王子に腰を抱かれた聖女は、物語ではない現実の残酷さを突きつけられるのであった。
★公爵令嬢目線 ★聖女目線、両方を掲載します。
【同時掲載】アルファポリス、カクヨム、エブリスタ、小説家になろう
2023/01/11……カクヨム、恋愛週間 21位
2023/01/10……小説家になろう、日間恋愛異世界転生/転移 1位
2023/01/09……アルファポリス、HOT女性向け 28位
2023/01/09……エブリスタ、恋愛トレンド 28位
2023/01/08……完結
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる