理由を与えなかった聖女は、名を呼ぶことを選んだ

鷹 綾

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第八話 疑念という名の、最初の割れ目

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第八話 疑念という名の、最初の割れ目

 

 エルディア王国の王都に、朝霧が立ち込めていた。

 季節外れというほどではない。
 だが、視界を奪うほど濃い霧が、街全体を包み込んでいる。

「……最近、霧が多くないか?」

 城門の衛兵がそう呟いた。

「前は、こんなことなかった気がするが……」

「気のせいだろ。
 天候なんて、年によって違う」

 そう言い合いながらも、彼らの視線は落ち着かない。
 霧に慣れていないわけではない。
 ただ、“重なりすぎている”のだ。

 

 王宮では、朝の定例会議が始まっていた。

「農村部からの報告が増えています」

 宰相補佐が、抑えた声で告げる。

「水路の詰まり、用水の決壊、
 それに伴う小規模な作物被害が各地で」

「また原因不明か」

 ルーファス・ヴァルディオスは、書類を机に置いた。

「修復で対処できる範囲だろう」

「……はい。今のところは」

 “今のところは”。
 その言葉が、会議室に重く落ちる。

「新聖女の祈祷は?」

「滞りなく行われています。
 国民向けの公開祈祷も、評判は上々です」

「なら、問題ない」

 ルーファスは断言した。

「国は揺らいでいない。
 揺らいでいるように見えるのは、人心だ」

 誰も反論しなかった。
 反論できるほど、確かな証拠がまだない。

 

 一方、別室では。

 ミレイア・ルミナスが、静かに手を組んでいた。
 目の前には、数枚の報告書。

「……これ、全部“偶然”なの?」

 独り言のような呟き。

 水路の破損。
 家畜の異変。
 軽傷の増加。

 致命的ではない。
 だが、祈祷の“後”に起きている。

「私が……足りない?」

 その考えが浮かんだ瞬間、胸が締めつけられた。

 光は降りている。
 奇跡は起きている。

 それなのに、国は良くならない。

 ふと、前任の聖女の記録が脳裏をよぎる。

 ――派手な奇跡なし。
 ――祈祷回数、少。
 ――災害、ほぼゼロ。

「……そんな、はず……」

 ミレイアは首を振る。

 彼女が“本物”であるためには、
 セラフィーナ・アッシュクロフトは
 “役立たず”でなければならない。

 それが崩れた瞬間、
 自分の立場が、音を立てて崩れる。

 

 その日の昼、城下町の広場で、小さな事件が起きた。

「……あれ?」

 露店の主人が、木箱を開けて首をかしげる。

「確かに、昨日は問題なかったはずなのに……」

 保存していた穀物が、湿っていた。
 腐敗ではない。
 だが、商品価値は落ちる。

「またかよ……」

 隣の店から、同じような声が上がる。

 誰かが言った。

「……前の聖女様の頃は、こんなことなかったよな」

 一瞬、空気が止まった。

「おい、そんなこと言うな」

「聞かれたらまずい」

 否定の言葉は出る。
 だが、“完全な否定”ではない。

 人々の心に、
 小さな疑念が芽を出し始めていた。

 

 夕刻。

 王宮の回廊を歩くルーファスの耳に、
 かすかな噂が届く。

「……前の聖女がいなくなってから、
 妙なことが増えたらしい」

「偶然だろうが……」

「本当に?」

 その声は、確信を持っていない。
 だが、消えもしない。

 ルーファスは足を止め、窓の外を見た。

 霧は、まだ晴れていない。

「……馬鹿馬鹿しい」

 吐き捨てるように呟く。

「国が傾くほどの力を、
 一人の女が持っているわけがない」

 その言葉は、
 “あってほしくない”という願いに近かった。

 

 一方、シュヴァルツガルト公国。

 セラフィーナは、図書室の窓辺で本を読んでいた。
 静かな午後。
 紙の擦れる音と、時折ページをめくる音だけがある。

「……ここでは、霧も薄いですね」

 何気なく言うと、そばにいたアーヴィンが答える。

「この土地は、もともと気候が安定している」

「……それだけ、ですか?」

「それだけだ」

 だが、彼の視線は、
 どこか遠くを見ている。

「“守られていた均衡”が、
 どこにあったのかを知る者は少ない」

 セラフィーナは、本を閉じた。

「向こうで……
 私のことを、思い出す人はいますか?」

「いるだろう」

 即答。

「だが、それは後悔の形で、だ」

 胸が、少しだけ痛む。
 それでも、戻ろうとは思わない。

「私は、何もしていませんでした」

「だからこそ、だ」

 アーヴィンは、静かに言った。

「“何も起こらなかった理由”は、
 失って初めて、疑われる」

 

 エルディア王国では、
 まだ誰も結論に辿り着いていない。

 だが、確実に。

 疑念という名の、最初の割れ目が、
 王国全体に走り始めていた。
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