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黒崎隆也

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 市川が「拾った」と主張するロレックスは、遺失届が出されていて、すぐに持ち主が判明した。
 村瀬貴子むらせたかこ。市川の同級生の、母親だった。
「よりにもよって、母親のロレックスに手を出すとはなあ。せめて友達のものを盗めばいいのに、欲深い野郎だ」
 拾得者から窃盗犯に成り下がった市川は、刑事が来るまでの間、交番の奥の部屋で待機することとなった。
 上司は椅子に座り、市川をその前に立たせている。まるで教師が生徒にするように、チクチクと説教する。
「正直に謝ることはできないのかね。交番に届けて終わりにしようなんて根性曲がってるよ、お前。ロクな大人になんねえな」
「……すみません」
「謝る相手が違うだろうがっ!」
 バンッ、と上司が机を叩く。その薬指には結婚指輪が光っている。確か子供は高校受験を控えていると言っていたが……自分の子供に対してもこうなのだろうか。
「まったく、これだから片親は」
 そういう方向性で傷つけようとする上司に、怒りが湧いた。けれど市川は言われ慣れているのか無反応。上司は面白くないのか、バンバンと机を叩いた。大きな音に、市川の薄い体がビクッと震える。
「どうして盗んだ? 遊ぶ金が欲しかったか? それとも嫌がらせか。ああ、わかった。友達を困らせたかったんだ。幸せな家族が妬ましくて、仲違いさせたかったんだ。そうだろうっ!」
 上司が振り上げた手を、俺は咄嗟に掴んでいた。キッと鋭く睨まれる。
 言い過ぎですよと、止めるつもりだった。でも相手は指導官だ。この人に嫌われたら終わりだと思ったら、言葉が出なかった。すでに同期が三人辞めている。いずれも、退職理由は人間関係だった。
 そのとき、正面ドアが開いて、署の刑事が入ってきた。
 上司が立ち上がり、「ほら、お迎えだ」と言って、市川の肩を掴んで誘導する。
 刑事に引き渡された時、市川は肩越しに俺を見た。さりげなく頭を下げる。
 些細な動作に、ドッと心臓が跳ねた。今のは礼……だろうか。おとなしく連行されていく背中には、うっすらと靴跡がついていた。
「黒崎、ああいうのを更生させようなんて思うなよ。ああいう根っからの悪党は社会と交わっちゃいけねえんだ。わかるよな? 犯罪の抑止は、結局は棲み分けなんだよ。底辺には底辺の暮らしがある。そこから出ないように監視するのが、俺たち警察官の役目だ」
「……はい」
 慣れてきたと言っても、警察学校を卒業してまだ半年。仕事も、警察官としての心構えも、教えてもらわなければならない。
 けれど、こんなことを教わるために彼を見捨てたのだと思ったら、強烈な自己嫌悪が湧いてきた。「言い過ぎですよ」の一言くらい、言えばよかったのだ。いや、その前に止めるべきだった。
 深夜一時。仮眠のために署に戻ると、交通課の待合ソファに複数の人がいた。照明は階段と警務課しかついておらず、待合は暗い。それでも誰がいるかはわかった。生活安全課の刑事と、市川と、水商売風の派手な女……母親だろうか。
「まあ、お相手も大事にする気はないと言ってくれたから。でも謝罪には行かないとね。もう二度とやっちゃいけないよ」
 少年犯罪のベテラン刑事が優しい口調で言う。
「明日、ちゃんと謝りに行きます。同じことを繰り返さないよう、この子には私からちゃんと注意しておきます。ホント、ご迷惑をおかけしました」
 女が頭を下げる。
「ほら、あんたもっ」
 女が市川の頭を鷲掴んで下げる。市川はふらつき、一歩前に出て頭を下げた。
 事件化しないで済んだらしい。市川と母親らしき女は、そそくさと正面玄関を出ていった。
生活安全課セイアンは甘いんだよなあ」
 仮眠室へ向かう途中、給湯室から声が聞こえた。
「母親の誕生日プレゼントにしたかったって、そんなあざとい嘘信じるか?」
「でもまあ相手は許してるんだろ」
「俺だったら説得して被害届出させるね。そこで引くからガキがつけ上がるんだ。やったことにはきっちり責任取らせねえと」
 会話の内容は市川だった。俺は「お疲れ様です」と言って、給湯室に入った。二人の刑事がいた。給湯室は禁煙だが、平然とタバコをふかしている。
「さっきの中学生ですか?」
 俺は軽い調子で聞く。冷蔵庫を開け、コンビニのおにぎりを手に取った。
「お前んとこが対応したんだってな」
「はい。十七時くらいに」
 言って、九時間近く拘束されていたのだと気づく。何か食べさせてもらっただろうか。
「お前、どう思うよ? あの小僧、母親の誕生日プレゼントにするつもりで盗ったんだと。信じられるか?」
「いやあ、嘘くさいですね」
 別の回答など求めていない。俺は無難に同意した。刑事は満足そうに頷き、紫炎をくゆらす。
「だろう。それをセイアンは真に受けて、無罪放免だ。甘すぎると思わねえか。あれは間違いなく繰り返すぞ。知恵つけて、今度はバレないようにな。お前、しばらくあいつのこと監視しろ。わざと姿見せつけて、ビビらせろ。まだ終わってねえんだってな」
「……はい」
 善良な市民にとって制服警官は頼もしい存在だが、悪人にとっては煩わしい。
 刑事は、俺が姿を見せることで、市川なら恐怖を感じると確信している。
 同じことを繰り返すつもりでいるなら、悪人なら、そうだろう。
 なら、俺を見つけた瞬間、駆け寄ってきた場合は。「この前はすみませんでした」と謝ってきた場合は。
 市川の住むアパートの前だった。刑事に言われたことを、俺は早速実行したのだった。
「キミは、本当は盗んでなんかないんだろう」
 片手で掴めてしまいそうな頭を見つめていたら、言葉が勝手に口をついた。
 市川が「えっ」と顔を上げる。前髪が乱れたことで、それまで隠れていた青痣が目に止まった。
「おでこ、どうしたんだ」
 彼が交番に来た二日前にはなかった。
 市川は慌てて前髪を整えた。
「暴力を振るわれたのか」
 彼の手ごと、前髪を除けた。それだけでビクリと震える。自分の体格が威圧的であることを思い出し、俺は一歩下がった。
「違うよ。転んだんだよ」
 手のひらで痣を覆い隠しながら、市川は言った。ああこの子は嘘をつき慣れているんだなと、根拠もなく確信した。
「盗んでないんだろう。誰かを庇ってるのか」
 市川の瞳が怯えるように彷徨う。
「……俺がっ、盗んだんだよ……」
「お母さんか」
 考えるより先に口が動いていた。市川が両目をかっ開く。
「違うっ……お母さんは関係ないよ……」
「お母さんにプレゼントしたくて盗んだんなら、関係ないことはないだろ」
「……だから、俺が勝手にやったことで……お母さんは関係ない」
 どうしても彼の口から本当のことを聞き出したいと思った。距離を詰めると、彼は身震いし、まぶたをキツく閉じた。
「……お願い、信じて。お母さん見てるから……」
 ハッとし、顔を上げれば、小汚いアパートの二階、窓の隙間から女がこちらをジッと見ていた。
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