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黒崎隆也

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 香ばしい匂いで目が覚めた。ペタペタと湿った足を踏み鳴らしながら、寝室を出てリビングへ向かう。
「おはよう、ヒロさん」
 白シャツ姿の市川がキッチンに立っていた。俺を見るなり、にこりと微笑む。
 アイランドキッチンの前、ダイニングテーブルにはポテトサラダや焼き魚、野菜炒めなどが乗っている。
 昨日、市川は泊まっていきたいと言った。夜は外食で済ませ、その帰りにスーパーで朝食用の食材を買ったのだ。
「ご飯と味噌汁、よそっていい?」
 市川に聞かれ、「あ、ああ」と気の抜けた声が出た。
 昨日、汗にまみれながら、ひっきりなしに喘いでいた男が、涼しげな顔でご飯をよそう。
「これ、全部カオル殿が作ったでござるか」
「うん。ヒロさんの口に合うと良いんだけど」
 そう言って、ご飯と味噌汁をランチョンマットに置く。
 真っ先に焼き魚に手をつけた。普段はピザやドーナツ、効率的にカロリー摂取できるものばかり食べている。ちなみに昨日の夜はステーキだ。
 一口食べて、和の味付けに胸が沁みた。
「どう?」
「う、うまい……うますぎるでござる」
 白米もかきこんだ。素朴な味が食欲を誘い、テーブルにあるものに片端から手をつけていく。どれもめちゃくちゃ美味かった。
「よかった。たくさん食べてね」
「かたじけない」
「ううん。ヒロさんのお金で買ったものだもん。昨日だって美味しい肉食べさせてもらったし、感謝するのは俺の方」
 よくできた芝居だ。自主的に「何かしてあげたい」と思えてくる。
 これはマニュアルの力だろうか。
 それとも、それだけ場数を踏んでいるということだろうか。 
「カオル殿」
 まあそんなことはどうでもいい。さっさと茶番を終わらせよう。俺は水を向けた。
「某、こんなに人を好きになったのは生まれて初めてでござる。ここで、一緒に暮らしてほしいでござる。某の人生にはカオル殿が必要なのでござるよ」
 市川が頬を紅潮させる。喜びに満ちた表情。それを不意に曇らせ、言った。
「ありがとう。俺も、こんなに人を好きになったの初めてだよ。できればヒロさんとずっと一緒にいたい」
 市川は意味深に黙り込む。やってんなあ。俺は白けた気分で続きを待った。
「その……俺、実は、人に追われてるんだ」
 ほほう。俺は身を乗り出す。
「どういうことでござるか」
「……言ったらヒロさん、俺に幻滅するかも」
「しないでござる」
「……俺、借金があるんだ。俺が作ったわけじゃないよ。母さんが作った借金。でも母さん死んじゃって、俺が全部返さなきゃいけなくて……でもそんな大金、とても返せないから、今も追われてるんだ……」
 嘘に決まっているのに、「母さん」の単語にドキリとする。窓の隙間からジッとこちらを見つめる女を思い出し、頭の隅に「もしかしたら」が浮上する。
 だからなんだ。それがどうしたと自分に言い聞かせ、俺は聞く。
「いくらでござるか」
 市川はサッと目を伏せ、「三千万」と絶妙な金額を口にした。
「某が代わりに払うでござる」
「えっ、ほんとっ? いいのっ?」
 市川の声が弾む。ついでのように、「でも悪いよ……」と付け足した。
「それでカオル殿と一緒になれるなら、お安いご用でござるよ」
「でも……そんな大金、どうやって用意するの?」
「うちは資産家でござる。金に困ることはないでござるよ」
 市川の顔から一瞬、表情が消えた。
「そう……なんだ。だからヒロさん、働かなくてもこんな良い暮らしができるんだね」
 市川は微笑みを浮かべるが、頬が不自然に引き攣っていて、唇は左右非対称。何度も唾液を飲み込む。何か言うのかと俺は黙ったまま見つめるが、市川は唾液をゴクリ、ゴクリと飲み込むばかり。次第に、しゃっくりのように苦しげに喘ぎ出した。
「いちっ……カオル殿っ、大丈夫でござるかっ」
 俺は席を立ち、駆け寄った。手を伸ばす。光の速さでパシンと弾かれた。
「さわ……なっ……このデブッ!」
 今なんて? 頭が空白になる。
 市川は両手で顔を覆い、ブルブルと肩を震わせる。
「カオル殿?」
「うるさいっ! デブがッ……喋んなっ!」
 驚いて、背筋が伸びた。お前、わかってんのか。三千万まであと少しだぞ。こんなところで本性出してどうすんだ。茶番を台無しにする気か。
「くそっ……くそっ……お前みたいなっ、七つの大罪みたいな醜男ぶおとこがっ……なんでこんなっ、こんな……ッ」
 市川は座ったまま地団駄を踏む。
「朝っぱらからッ……ばくばくばくばく……見苦しいっ! 誰がお前となんか暮らすかよっ! デブっ! 公害ッ!」
「三千万は、いらないでござるか」
 市川は足を止め、顔から手を離した。充血した三白眼で俺を睨む。涙で潤んでいるが、か弱い雰囲気は皆無。瞳の奥、怒りの炎がメラメラと燃えているように見えた。
「お前の金じゃ、ないだろ……ッ」
「でも、自由に使える。三千万、カオル殿にあげるでござるよ」
 勝ち気な瞳が見開かれ、怒りの炎がフッと消えた。市川は視線を落とし、卑屈に笑った。
「……いらねえよ」
 市川は立ち上がった。投げやりな態度。椅子に置いたトートバッグを持って、玄関へと向かう。
「カオル殿ッ」
 腕を掴んだ。抵抗されたが、逃すまいと強く握った。
「汚い! 湿った手で触んなッ!」
「……好きって言葉……あれは嘘でござったか」
「ハッ! 鏡を見ろッ! お前みたいな醜いデブッ、誰が好きになるもんかッ!」
 罵倒の言葉に、傷付くどころか、胸がはやった。
「離せっ、離せよッ!」
「全部嘘でござったか。カオル殿は、こういうことをよくするでござるか」
「勘違いすんなッ! 誰がッ……」
 ほろりと彼の瞳から雫が落ちた。
「誰がこんな……こんなこと……」
 掴んだ腕が脱力した。よろけた彼の体を、咄嗟に抱き止める。
「はなせ……お前、臭いんだよ」
 悪態が嬉しかった。俺が「でゅふふ」と笑えば、「きもい」と返ってくる。もう彼が俺に嘘をつくことはない。彼は嘘を貫けない。
「申し訳ないことをしたでござる。一晩一緒にいてくれた分は、謝礼を払うでござる」
 市川はえっと俺を見た。
「……いい。いらない。お前の親の金なんか欲しくない」
 ぶすっとした口調が懐かしかった。市川だ。思わずぎゅうぎゅうと抱きしめた。
「く、苦しいっ……離せっ、離せよっ!」
「楽しい時間のお礼をしたいでござる。何か力になれるかもしれない。某、これでも顔は広い方でござるよ。カオル殿、何か困っていることがあれば、なんでも言ってほしいでござる」
「……うざ。俺が困ってるって決めつけるなよ」
「カオル殿は、理由もなく人を騙したり傷つけたりしない。根が優しいから、やろうとしてもできない。だから困っていることがあれば、某を頼るでござるよ」
 市川は強がるように鼻で笑った。
「なに? まだ俺に幻想抱いてる? 何かの勘違いって思ってる? 悪いけど俺の本性はこっちだよ。お前みたいな醜男、もう関わりたくない。視界にも入れたくない」
「カオル殿が幸せに暮らしていけるなら、それでいいでござるよ。でもそうじゃないなら、某を頼って欲しい」
 腕を離す。
 市川は前のめりによろけたが、踏ん張った。戸惑うような目で俺を見る。
「……見返りとか、求めないわけ?」
「求めない」
 即答する。
 市川は唇を噛み締めた。彼が口を開くのを、俺は静かに待ち続けた。


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