幸せのかたち

春廼舎 明

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 まさか、本当にここまでされるとは思わなかった。好きなタイミングでいいと言ったのは確かに私だけど。でも、そんなに想ってくれているのかとも思えて止めなかった、幸せを感じていたのも事実だ。

「うぐぐ……」

 昼休み直前、複合機を睨む。席に着いたら椅子から立つ気力も体力ももうなくなっていた。生理痛と似ているけど違う、腰がずんと重い。三歩先の複合機から書類を出力することすら面倒臭い。

「鈴木さん、そんなに体調悪いなら休んじゃえばよかったのに。」
「いや、そうもいかないでしょ。昨日結局このコードのエラー放置しちゃったし。」
「ああ~、いい子だねー。」
「子供扱いしないでくださいよ。そもそも、これ、自分の仕事を期限内にやってるだけで当たり前のことですから。」

 結局昨日のエラーはtureと似たようなミス、半角スペースが抜けていた、それだけだった。今日も身体の状態はよろしくないのに、それでも気がつくとはそれだけ、集中力が欠けていた証拠だろう。それとも、肉体がヘロヘロでも精神はたっぷり元気補充できているからだろうか。
 キーボードからマウスに手を移すのすら辛い。がっちり何かを握りしめてたので指先まで筋肉痛だ。おかげでタッチタイピングも力が入らないから軽やか、カタカタカタカ、タ・ターンの『ターン』ができない。
 今日はさっくりと仕事が進んだ。昨日の遅々として進まなかった状態は一体なんだったんだというくらいだ。

 安藤さんの送別会は職場の最寄駅の小洒落たダイニングレストラン・バーで行われた。総務のメンバーを中心に、私を含め彼女にお世話になった女性社員スタッフが数名参加していた。後任の原さんはまだ小さな子がいるのでと、歓迎会の開催を断り安藤さんの送別会で軽く挨拶をしたのみで退出した。私もまた彼女にお世話になっていたので乾杯と少し話をし退出するが、原さんと同じタイミングだった。
 安藤さんはサンキャッチャーを喜んでくれただろうか。

「原さん、お疲れ様。駅まで一緒に行きませんか?」
「お疲れ様です。えっと…」
「鈴木です。この間パソコンの設定しました。」
「ああ、はい。鈴木さんももう帰られるんですか?」
「うん、私総務の所属じゃないしね。」

 原さんはあまり喋らない人だった。人見知りか、緊張しているのか、疲れているのか。でも、この人も私と同じ、喋ることがないなら喋らないでいても気にしない人っぽかった。そう思って改札前で聞いてみたら、緊張していたとのことだった。
 彼女と別れて一人電車を待っている時、大樹さんにもう帰るとメッセージを送る。
 駅に着けば、今日はお店が定休日でお休みの大樹さんが迎えに来ていた。過保護だなあと思う。

「ただいま。お腹すいた。」
「お帰り。ご飯食べてないの?」
「乾杯だけして帰って来た。」
「なんか、菜津のことだから本当に『乾杯お疲れ様でした、じゃ』って帰ってきそう。」
「失礼な。もう少しちゃんとお話ししてから帰って来たよ。」

 大樹さんが左手を差し出す。手を繋ぎ駅前商店街を通る。

「食ってく?作る?」
「角の中華屋さんの五目そば食べたい。くらげのサラダ食べたい。」
「わかった。行こうか。」

 彼は私の鞄を持たない。別に意地悪とか、変な格好つけとかそんなんじゃない。私の鞄にはパソコンが入っている。車道側を歩く彼が鞄を持つと、すれ違う人にぶつけられても困るからだ。
 彼は機械が苦手で最近ようやくスマホに変えた。ガラケーのテンキーから様々な機能を呼び出すより、ちゃんと文章で説明が出て来たり、アイコンの絵柄から機能が想像できる、直感的に操作ができるスマホの方が簡単だと思う。ライブの時足元にスイッチのついた機械をいくつもコードで繋げたり、ろくに説明がないスイッチの機能を覚えたり、いつどんなタイミングでそれを使うのかそっちの方が難しいと思うんだけど、そうではないらしいのがよくわからない。
 IT機器が苦手な人は質問してくるくせに、こちらが教えようと口を開いた途端に『わかんないわかんないわかんない』『難しい』『専門用語使わないで!!』『無理無理無理無理無理!!』と全てをシャットアウトして聞く耳を持たない。『マウス』は別に専門用語じゃないと思う。ヘルプデスクにいると、そういう人たちを相手にしなければならず非常に疲れる。仕事で使うツールなんだから、仕事で必要になる最低限の使用方法くらい、【Alt】【Ctrl】【Del】くらいは覚えて欲しい。そもそも人の話を聞く気がないのに、なんでヘルプデスクに電話してくんの? こっちの言葉聞いて指示に従ってくれなきゃ助けらんないじゃん。
 話を聞く気になったらかけて来てほしい。『話聞ける状態になったらまたかけて来てください』と何度口から出掛かったことか。2度とかけて来ないだろう。

 その点、私は彼をすごいと思った。初めこそ『わかんない・無理。難しい!』と見猿聞か猿言わ猿の状態だったが、文字通り手取り足取りスポーツのフォームの矯正か、二人羽織かというくらいがっつり手を掴んで、指を添わせて、目を瞑っていないか虚ろになっていないか確認しつつ、強制的に作業させ、克服させた。
 後から聞いてみたところ、二人羽織状態でそんなことすれば、体が密着して胸が当たるし、耳元で囁き、私が目を確認しに覗き込む隙にキスするのが楽しかったとか言いやがる。男ってやつは。アホなのか。

 下心のおかげでこちらが丁寧にゆっくり説明すれば難しい顔をしながらも、言葉を遮らずに聞いてくれた。途中で投げ出しそうになるが、『頭空っぽにして言われた通りにだけ指動かしてみて』と言えば、菩薩のような顔をして操作してみる。素直でよろしいと思った。一度やってみれば簡単だとわかり、ぱぁっと顔が輝いた。それ以降、『わかんない』『難しい』と人の言葉をシャットアウトする状態を抜け出た。この状態を抜け出た人を私は初めて見た。
 嬉しそうにお店のHPに載せる料理の写真を撮って加工したりキラキラ女子並みの腕前で、さらにはちゃんとバックアップすることまで覚えた。
 え、キラキラ女子ってもう古い?

「3年も付き合ってて、今更知ったんだけど、もしかして菜津ってくらげ好き?」
「うん。キクラゲとかも。食感が楽しい。」

 五目そばのキクラゲをモリモリ食べる。このコリコリがたまらない。

「菜津の作るきゅうりとくらげの和物の方が、俺好きだな。」
「そう? ありがと。大樹さん、今度カポナータのレシピ教えて。」
「え、お店で作ってるのは分量が違うから無理。企業秘。」
「じゃあ、作って。日本のナスでも美味しくできる?」
「できるよ。いいよ今度作るか。ナスが美味しい季節になったもんなー。」

 今日も大樹さんはうちに泊まった。でも添い寝だけ。後ろから抱きしめられ、抱き枕にされている。

「明け方、菜津がいないとなんか違うんだよなー。肌寒い。」
「私抱き枕ですか。そろそろ秋ですから。」

「……菜津……寝ちゃった?」
「んー…眠い。」
「俺、今週末ちょっと実家帰ってくる。」
「んー…行ってらっしゃい。」
「うん……」
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