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薫子の力

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 月帝神宮にいるのは、月帝と呼ばれるこの国の統治者である。
 帝とは神の別称なので、いわば生き神のようなものなのだろう。

 日ノ本と呼ばれるこの国には、各地にその統治者である帝がいる。
 帝都も一つではない。俺たちは現在住んでいる都を帝都と呼ぶが、正確には月帝帝都という。

 月帝様は、燿帝様と対をなす存在で、この国を二分するほどに力の強い帝である。
 その家来で居続ける七鬼様もまた、我らのような神と呼ばれるあやかしの血を受ける者たちの中では、群を抜いて力が強い。

 月帝神宮に足を踏み入れると、肌がびりびりと震えるような感覚がある。
 七鬼様の力と、月帝様の力が混じり合ったものがこの場所には満ちている。

 どこまでも続くような長い回廊の両端には、清廉な水が流れている。
 その水の中には赤い金魚が泳いでおり、壁に等間隔に並んだ行燈が、暗い回廊を照らしていた。

 月帝神宮の表門を抜けると、いつもこの回廊に辿り着く。
 神力により屋敷のつくりを変えているのだろう。
 目的を持つ者をその目的の場所に送り届ける役割を、門番である狛犬たちはしているのだ。
 
 入り口を閉ざすことや、入り口を開き道を示すことは、彼らの役割である。

 長く真っ直ぐな回廊が突然開ける。
 その先にあるのは、祭礼用の祭壇のような場所である。
 四つ角には炎杯があり、いつでも橙色の炎が高く燃えさかっている。

 七鬼様は、祭壇の上に足を組んで座っている。
 鬼――といっても、俺がいつでも耳や九本の尻尾をはやしているわけではないように、七鬼様にもいつでも角があるわけではない。

 七鬼様は長い黒髪を一つに縛っている、背の高い男である。
 昔は凶暴だったとはとても思えない、優男風の外見をしている。
 最近流行りはじめている、外つ国から仕入れられてくる三つ揃えのスーツを着ている。
 長らく生きている割に、新しいものが好きなのだ、七鬼様という人は。

「ご無沙汰しております、七鬼様」
「よく来たな、由良。お前がここに来るのは――真白のことがあって以来か」
「はい」
「その顔。……癒えたのだな」
「ええ。お陰様で」

 俺は七鬼様に礼をして、頷いた。
 悪鬼となった真白を捕縛して月帝神宮に届けたときに、七鬼様には会っている。
 俺の真白によってぐちゃぐちゃに潰された顔も、見られている。

 七鬼様には「巫女の力で癒せ」と言われたが、俺はそれを拒否した。
 巫女の力で癒すとは、巫女を娶ることである。
 あの時は家族を失ったばかりで、そんな気には、とてもならなかったのだ。

「八十神薫子を嫁に娶らせていただきました」
「八十神薫子? 八十神家の巫女は、咲子という名ではなかったか」
「咲子は妹。薫子は姉です。薫子には神癒の力はないといわれていたようですが」
「……すさまじいまでの、生の気だ。長らく放置された怪我を癒すというのは、並の巫女では行うことができない。まして、同族につけられた傷ではな」
「ええ。俺も、驚いていますよ」

 薫子の神癒の力は――本人は気づいていないだろうが、現状存在しているどの巫女よりも強いものだ。
 他の鎮守の神に知られたら、欲しがられるほどに。
 鎮守とは、帝都を守るために存在している。そのため、ある程度の人格を求められる。
 他者の嫁を奪うような愚か者はいない――はずだ。
 だから、実際奪われたりはしないだろう。

 だが、悪鬼や魍魎たちは違う。
 薫子を食いたいと、薫子が玉藻の屋敷から出てくるのを手をこまねいて見ているはずだ。

「なるほど。数日前よりやけに、餓鬼たちが騒がしいと思ったら、そういうことか」
「薫子の力が発現したのは、俺との初夜でのことでしたから」
「確かに、巫女の力は感情と直結しているという説もある。お前への親愛の情で、開化することもあるだろう。だが、ずいぶんと……」
「はい」

 餓鬼とは、下級の鬼のことだ。
 人が悪鬼に成り果てたとき、その匂いを敏感に感じとり、深淵から現れるものである。
 七鬼様も鬼ではあるが、鬼にも色々な種類がいる。

 七鬼様は餓鬼のことを、「あんなものは、まともな知性もない。醜悪だ」と嫌っている。

「我らとしては、由良の力が保たれるのは、喜ばしいことだ。真白の件があり、玉藻の力は弱っていただろう。家族に不幸があったとしても、お前には人々を守る責務がある」
「心得ております」
「薫子と共に、よく励むように」
「ありがとうございます、七鬼様。本日は結婚の報告と、それから――」
「真白のことか」
「はい」

 真白は、月帝神宮に幽閉されている。
 悪鬼に身を堕としたとはいえ、もとは玉藻の血筋だ。
 争いの中でのどうしようもない私刑ならまだ許されるが、捕縛されたものを処刑することはできない。
 
 それができるとしたら、その役割は俺である。
 だが、俺は真白の身柄を七鬼様にあずけてしまった。
 それが正しいかどうか、分からないままに。

「真白は、俺の婚礼を耳にしたら怒り狂うのではないでしょうか。玉藻の血を絶やしたいと願い、両親を食ったような男です」
「その上、薫子の巫女の力を知れば、お前と共に薫子も食いたいと願うだろう。一度人を食うと、その味が忘れられんものだ。俺がそうだったように」
「……七鬼様も、かつては」
「帝に倒されるまでは、ただの鬼。悪鬼だった。……だが、今の俺は帝に忠誠を誓っている」
「真白も、いつかは」
「変わるかどうかは、真白次第だろう。とはいえ、悪鬼を牢から出すことはない」
「……はい」

 俺は真白を殺すことができなかった。
 だが今は、真白を――殺しておけばよかったと、心の片隅で考えてしまった。

 そのことが、水に墨を落としたように黒い染みとなり、広がっていく。

「由良。鎮守の神とは、もののけの力を与えられているが、所詮は人だ。人である以上は、そこには感情がある。好いた女を守りたいと考えるのは、自然なことだ」
「……ありがとうございます、七鬼様」

 心の内を見透かされたように、七鬼様に言われて、俺はもう一度深々と礼をした。
 七鬼様は僅かに沈黙した後に「さて、仕事の話をしよう」と、気持ちを切り替えるようにして言った。


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