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月帝神宮
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薫子が家に来てから、しんと静まり返っていた玉藻の家に明るさが戻った。
薫子は八十神の家ではひどい扱いをされていたようだが、穏やかでまっすぐで明るい女性だ。
雪の下から顔を出す、小さな春の花ような愛らしさと素朴さがある薫子の存在は、俺にとってもハチにとっても、それからシロやクロにとっても、ありがたいものだった。
神癒の巫女を娶ることにしたのは、兄によってつけられた傷を治したかったからということもあるが、万が一兄が再び俺の前に姿を現した時に、次は負ける可能性があると考えたからでもある。
俺たち帝都守護職に就く鎮守の神は、神癒しの巫女を傍においてこそその本来の力を存分に振るうことができる。
今から約千年前の時代に、神獣と呼ばれる者たちが人に血を与えた。
俺の玉藻家は九尾狐の力を継いでいる。
九尾狐とはその名の通り、九つの尻尾を持つ狐の姿の神獣である。
今より古い時代、帝都には魑魅魍魎が我が物顔で跋扈していた。
通りには行き倒れや罪人の死体が転がり、今よりもずっと死が、人々の暮らしと身近にあった頃の時代だ。
魂の淀みは大地に溜まり、大地に溜まった澱みが怨霊を生む。
怨霊、妖怪、幽霊。呼び方は様々だが、人ならざる者が蔓延っていた時代だ。
時の帝は強い男だったらしい。俺はその時代の記憶はないので、玉藻家当主として物語のように教育の中で話を聞いた程度だが。
武勇に優れる強い男だったそうだ。
その帝が、荒臥山の七鬼という鬼を討伐した。
帝は鬼に羅漢という名前を与えた。仏の弟子。尊敬される者という意味だ。
それ以来、七鬼様は羅漢七鬼として名前を変えて、帝に従い続けている。
九尾狐は七鬼様の呼びかけにこたえた四人の神獣のうちの一人で、七鬼様の家来に血を与えて玉藻家という家ができた。
人ではない力を受け入れた人である鎮守の神は、その力を抑えるため、その力を安定させるために巫女の力を借りた。
巫女とはものの怪たちを鎮めるために古くから贄とされてきた家の女たちの中で、神力を持つ女のことをいう。
彼女たちは化物の贄にされる代わりに、今度は神の贄になることになったのである。
鎮守は都を守り、巫女は鎮守の気を鎮め体を癒し、その力を増幅させる。
千年間、繰り返されてきたことだ。
正直、疑問を感じていた。巫女は贄ではないのか。好きな男と結ばれず、神の贄になることは不幸ではないのか。
それに、俺の兄──真白は、兄なのに当主になれなかった。
その憂さ晴らしをするように、家にいる使用人の女たちに手をつけていた。
人の目があっても憚らなかった。まるで、見せつけるようでもあった。
元々素行の悪かった真白だが、家の者を惨殺して出奔するとは思っていなかった。
優しい兄とは言わないが、会話はできる、冗談も言える。出かけるとよく、団子を買ってきてくれた。
家族だった。兄だったのだ。
薫子には、全てを話していない。彼女には聞かせたくなかった。
あの優しい人に、残酷な事実を伝えるのは嫌だったのだ。
真白は、両親を食った。真白を慕っていた使用人を食った。俺の、目の前で。
それでも俺は真白を殺せなかった。真白が俺に傷を負わせるぐらいに強かったということもあるが、情があったのだ。
「情か……」
「どうされました、由良様」
「いや。兄のことを、思い出してね」
「真白様ですか」
「あぁ。俺が生まれていなければ、真白は悪鬼になどならなかったのだろうなと思って」
バックシートがゆったりとした作りになっている黒い車の運転席に座っているハチと、ミラー越しに一瞬目が合った。
「人の性とは、そう変わるものでもないかと。真白様は、由良様がいようがいなかろうが、いつかは道を踏み外していたのではないかと思いますよ」
「そうかな」
「そうです」
ハチは俺を慰めているのだろう。
蜂須賀は、昔から玉藻家に仕えてくれている。今の玉藻家にただ一人残ってくれたほどに、忠誠心が高い。
「では、行ってくるよ」
「お気をつけて、由良様」
車を降りて、鮮やかな紫陽花が咲き乱れている丸石の敷き詰められた道の中央、白い石畳を前方の赤い鳥居に向かって歩く。
薫子に出かけてくると挨拶をして、ハチの運転する車で帝都の中央にある、月帝神宮まで出向いた。
神宮という名だけあって、それは広大な敷地と神殿作りの建物のある神社に見える。
端から端まで歩くのに、二日かかりそうなほどに広い。
鳥居の左右に鎮座している狛犬が、石の瞳を動かしてじろりと俺を確認した。
「通っていい」
「通っていいぞ」
狛犬たちは七鬼様の法力を帯びている。
少年と少女のような声に許可をもらって、俺は鳥居の先へと進んだ。
月帝の住まうこの場所に、俺たちの上司である七鬼様がいる。
俺たちは九尾の力を継いではいるが、人とさほど変わらない。
だが、七鬼様は人ではない。鬼だ。千年以上生きているらしいが、詳しいことは知らない。
個人的な話などはしたことがない。上司ではあるが、友人ではないのだ。
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