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 大きな窓の外には満天の星に似た街の明かりが輝いている。
 並んだテーブル。カウンターの奥には巨大な水槽があり、湧き上がっては消えていく水泡の中で美しい赤い魚たちが泳いでいる。
 既視感のある光景だ。私は、以前もこの場所に来たことがある。
 なんだかとても懐かしい気がしたし、郷愁にも似た物悲しさが同時に湧き上がってくる。
 カウンターの奥にはすらりとした、執事服に似た服装の男性が二人。カウンターに肘をついて座っている男性は緩く癖のある黒髪で、睫毛が長く、やや垂れた目元の目尻に小さな黒子がある、女性のような綺麗な顔をしている。
 もう一人の男性は、カウンターに肘をついている方と瓜二つの容姿で、髪の色は白い。

「マリアンヌちゃん!」

 どうして二人いるのかは良く分からないけれど、それがマリアンヌだとすぐに分かった私はカウンターに肘をついている男性の方へと駆け寄った。
 男性は顔いっぱいに笑みを浮かべると、片手をひらひらと振ってくれた。

「きゃー! アリスちゃん~! 会いたかったわぁ~!」

 駆け寄った私の手を強い力で掴むと、ぶんぶんと揺さぶる。
 その口調も声もマリアンヌそのものだ。私は一度ここで彼女に会っている。その時は顔が見えなかったけれど、とても綺麗で色香のある容姿をしている。
 にこにこ笑っている姿は聖母のように慈愛に満ちていて、全ての罪を許されている気がして私は泣きそうになってしまった。 

「こいつじゃなくてあたしのところに来るなんて、流石あたしのアリスよ~! 本物のマリアンヌちゃんは、輝きが違うでしょ? 偽物なんか霞むどころか透明で見えなくなっちゃうぐらいよね、あたしの他には誰もいないでしょ~!」

「隣にもう一方、全く同じ容姿の方がいらっしゃいますわ」

「幻よ~!」

 幻には見えないのだけれど。
 白髪の方のマリアンヌは、困ったように笑った。

「……アリスベル、よく頑張ったわね」

 白髪の方のマリアンヌも、マリアンヌと殆ど口調は一緒だけれど、落ち着いていてどこか退廃的な印象を受けた。
 こちらのマリアンヌも、私は知っているような気がした。

「あたしの見た目と口調で喋るんじゃないわよ~! そりゃあたしは神様も裸足で逃げるぐらい美しいけど、そうやって隣に居られると気持ち悪いのよぅ!」

「どういうこと、ですの?」

「……少し黙っていてくれないかしら、四家美弦しげみつるちゃん」

「ミツルちゃん?」

「あ、あんた、あんた、本名言ってるんじゃないわよぉ! シゲミ・マリアンヌよあたしは、その他に名前なんてないのよ!」

 白髪のマリアンヌの言葉に怒るマリアンヌ。
 なんだかよく分からなくなってきた。
 白色のマリアンヌが口元に指をあてる。黒色のマリアンヌは不満そうに唇を尖らせたあと、渋々黙り込んだ。

「アリス。……きちんと挨拶するのははじめてね。……あたしは、クロノス」

 何となく、気付いていた。
 クロノス様を呼んだ時に返事をしてくれたマリアンヌの声で、そうではないかと思っていた。
 世界を作った七人の主神のうちの一人。クロイツベルト王国に降り立ったといわれる父なる神、それがクロノス様。
 ずっと私の心の支えだった方。
 平伏しそうになった私の手を、黒髪のマリアンヌが掴む。そんなことしなくて良いのだとでもいうように、ぶんぶんと首を振った。

「クロノス様……、マリアンヌちゃん……?」

 薄々は気づいていたけれど、でもどうしてこんな状況になっているのかが分からない。
 マリアンヌがクロノス様ではなさそうだ。二人は姿は同じだけれど、違う人に見える。

「人の体を勝手に奪ったやつに敬意なんて払わなくて良いのよ~、泥棒と一緒なんだからね!」

「あら~、アリスちゃんが可愛い可愛いって言って、喜んでたじゃない。嫌だったのかしら」

「それとこれとは別よ! そりゃアリスちゃんは可愛いわよ、あたしの愛弟子だもの~! でも途中からあたしの意識を半分以上乗っ取りやがったわね、あんた! オスカー様とアリスちゃんの貴重な告白シーンを特等席で見られなかったじゃないの~! 声は聞こえたけど、はっきりくっきりとは見えなかったわよ、一番良いところだったのに、一生恨んでやるんだから!」

「だってミツルちゃん、自我が強過ぎて邪魔なんだもの~」.

「自我が強くて何が悪いのよぅ! あたしの最強にプリティなメンタルを見込んであんたはあたしを乗っとったんでしょ!」

「そうだけど~、アリスちゃんが誰かと折角良い関係になりそうなのに、うるさいんだものミツルちゃんてば。アリスちゃん、あんたの声が気になりすぎて全然集中できないんだもの。あたし、可愛いアリスちゃんの恋愛をじっくり見守りたいのに、台無しなんだもの~」

 二人のマリアンヌが喧嘩している。
 二人のマリアンヌではなくて、正確にはマリアンヌとクロノス様なのだろうけれど、見た目も声も一緒なので混乱しそうになる。
 クロノス様は特に悪びれた様子もなく、腕を組んで体をくねらせた。
 マリアンヌは苛立ったようにばんばんとカウンターを叩いた。

「その名前で呼ぶんじゃないわよ! なんなのあんたんとこの神様は! こんなふざけたのが神様で良いの?」

「クロノス様はいつでも私の心の支えでしたわ」

 まさかこうしてお話できるだなんて思っていなかったけれど。
 どんな性格であれ話し方であれ、私はクロノス様を敬愛している。もちろんマリアンヌちゃんも好きだけれど、二人とも大切だからどちらの味方にも付くことはできない。
 困り果てていた私に気づいたのか、マリアンヌは心を落ち着かせるように深く息をつく。
 それから「ごめんねぇ、怒ってないわよ」と言って眉尻を下げた。

「可愛いわねぇ、可愛いわねぇ、だんだん熱心にあたしにお祈りを捧げてくれる人なんていなくなったのに、ほんと良い子。幸せにしてあげたいわ~」

 にこにこしながら近づいて来たクロノス様が、私の頭に手を伸ばそうとするのをマリアンヌがぱしりと払った。

「ちょっと、あたしの体でアリスに触るんじゃないわよ! あたしの愛弟子なのよ、あんたのじゃないんだからね!」

「良いじゃない、あたしってばミツルちゃんの体の同居人なんだから、触っても減らないでしょ?」

「クロノス様は、マリアンヌちゃんの世界にいるのですか……?」

 今までの会話の中で、クロノス様はマリアンヌの体の中にいるということが分かった。
 でも、マリアンヌの世界は私の世界とは違う。
 クロイツベルト王国に存在してくださっているとばかり思っていたのに、いつの間にかいなくなってしまっていたのだろうか。

「そうそう。事情を説明しようとしてアリスちゃんを呼んだのよ。……ええとね、このあたしクロノスは、時空を司るそれそれは凄い神様なんだけれど、……今も昔も未来も、あたしには同じように感じられてね。それで、熱心に祈ってくれていたアリスちゃんが不幸になる未来が分かっちゃうのよね」

 クロノス様が落ち着いた声音で言った。
 それは、マリアンヌに言われていたことだ。
 私がコゼットを敵視し続けていたら私はレオン様に婚約破棄されて、領地へ逃げ帰り、きっと抜け殻のような毎日を過ごすことになっていただろう。
 今の私の状況はまるで違うけれど、それはマリアンヌの言葉で私が変化しようとしていたから。
 マリアンヌがいなければ、こんなに満ち足りて幸せな日々を送ることはできていなかったように思う。

「でね、あたしはアリスちゃんを助けられる人を探したの。クロノスで~すってあんたの前にあたしが現れたら、きっとあんたは萎縮しちゃうだろうし、神様であるあたしが直接人の運命に手心を加えるのは駄目なのよ。それで、いくつかの時空を彷徨って、あたしたちの世界が物語になっている場所を見つけたわけよ」

「……マリアンヌちゃんは、灰かぶりと王子様というお話って言っていましたわ」

「そうなのよ。なんで物語になってるかっていうと、世界の時間の流れが違うからなのね。アリスちゃん、あんたはいつかマリアンヌの思い出を誰かに話すわ。そのお話が知らない誰かに伝わって、いくつかの分岐のある物語になるのよ。世界は一つだけじゃないから、やがて時空を超えてそれが別の世界での物語になることもあるでしょうね。……で、そのうちの一つが、マリアンヌの居る世界ね」

「意味わかんない。説明下手なの、神様って?」

 マリアンヌが眠そうに欠伸をしている。

「ま。いいのよ別に、たいして重要なことじゃないんだから。……それでね、あたしはこの世界であたしの器として相応しい上に、アリスちゃんの物語をよく知るミツルちゃんを見つけて、アリスちゃんを助けてくれるように、ちょっとだけ体を借りて、ミツルちゃんとアリスちゃんの精神を繋げたんだけど……」

「なんの説明もなくアリスちゃんの姿が目の前に見えたから吃驚したわねぇ、ま、そんなこともあるかって受け入れたけど」

 癖のある髪の毛をくるくると指に絡めながら、マリアンヌが言う。
 そんなこともあるかとすぐに受け入れられるマリアンヌは流石だと思う。事情もわからないのに私に手を貸してくれるなんて、やっぱり天使だ。マリアンヌが誰であれ、私にとっては守護天使のマリアンヌちゃんなことには変わりない。

「でも困ったことになったのよ。マリアンヌの自我が強すぎて、アリスちゃんてば他の誰よりもマリアンヌを気にかけるんだもの。依存するのは駄目だわ。あたしは、アリスちゃんの自分自身の力で運命を変えて欲しかったの。マリアンヌの言葉ばかり気にしてたらいけないわ。強くて逞しくて強烈だから、気持ちは分からなくもないけれど」

「世界一麗しい恋の堕天使マリアンヌちゃんを一番気にしちゃうなんて、当たり前よ~! アリスちゃんがあたしに惹かれちゃうのは仕方ないわよね、だってあたしだもの~!」

 マリアンヌは好きだけれど、そういう好きではない。
 でも依存と言われたらそうなのかもしれない。
 声が聞こえないと不安になっていた時期が確かにあった。今は一度ここに呼び出されて叱られたからか、大丈夫だけれど。
 私は今までその時の記憶をなくしていた。でもきっと、心の奥底には刻まれていたのだと思う。

「……そんなわけでね、あたしはもう、アリスちゃんは大丈夫だろうと思うのよ」

 クロノス様は優しく微笑んだ。
 それは別れを感じさせる穏やかで切ない言葉で、私は胸の奥が痛むのを感じる。
 ずっと一緒にはいられないだろうと、覚悟はしていた。
 それでも、苦しい。

「アリスちゃん、自分の心を信じて。あんたは真っ直ぐで、真面目過ぎて、騙されやすくて堅苦しい良い子だわ。でも、我儘を言っても良いの。誰かを傷つけることを心配しなくても良い。アリスの人生はアリスのものだわ。思うように、生きなさい」

「クロノス様……っ」

「ちょっと、勝手なこと言ってんじゃないわよ! オスカー様とレオン王子がアリスちゃんを巡って争う、これからが一番良いところでしょ! ここまで付き合わせておいて、最後まで見せないつもりなのあたしに? ちょっと、クロノス!」

 マリアンヌと、お別れなのだろうか。
 悲しくて寂しくて泣き出しそうになった私が、本当に泣いてしまう前に、何故かマリアンヌがぼろぼろ泣き始めた。
 私以上に激しい感情を発露している方がいると、なんだか冷静になってしまう現象が起きた。
 私は涙を引っ込めて、よしよしとマリアンヌの頭に手を伸ばして撫でる。あんまり泣いているので心配になったからだ。

「うぅ、アリスちゃん、嫌よぉお~! あたしはアリスちゃんとオスカー様の子供とぉ、孫まで見届けるんだから! 折角のファーストキスをクロノスのせいで見逃したんだからねぇ、あたしの生活の楽しみをよくも奪ってくれたわね~!」

「だって、自我が強いんだもの~」

 クロノス様は肩を竦めた。マリアンヌは嗚咽を漏らしているのに、クロノス様は全く悪びれてないように見えた。
 ファーストキスというのは、あれのことだろうか。
 私は遺跡の中でのことを思い出して頬を染める。
 オスカー様、素敵だった。
 あんな素敵なオスカー様を見て騒がないなんておかしいと思っていたのだ。どうやらマリアンヌはクロノス様に騒ぐことを邪魔されていたらしい。

「アリスちゃん、絶対に、絶対に全部見届けてやるんだから! あたしとお話しできなくても寂しくて泣くんじゃないわよ!」

 断末魔の叫びのような、激しさのある声に追い出されるように私の視界がぼやけていく。
 クロノス様の「往生際が悪いわねぇ」という言葉が遠くに聞こえた。


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