獅子の末裔

卯花月影

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20.戦乱再び

20-2. 風雲急を告げる

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 忠三郎は複雑な思いを抱えつつ広間に足を踏み入れた。
 広間に入ると、主の久太郎に負けず劣らず折り目正しい男が、丁寧にあいさつをした。
 ちらりとその男の顔を見やると、どこかで見覚えがあるのに気がついた。

(こやつは久太郎の従兄…確か、原田とかいう名の…)
 すぐに記憶がよみがえる。原田三右衛門――かつて岐阜城で共に信長の近侍を務めたこともある。
 忠三郎が岐阜に行った当初は、小姓頭の万見仙千代や堀久太郎と組んで、余所者を見下すような冷ややかな態度をとってきた。今、そんな久太郎の従兄である原田三右衛門がここにいるというのも、不思議な巡り合わせとしか言いようがない。忠三郎は、思わず少し背筋を伸ばし、かつて見返そうと心に誓った日々を思い返しつつ、目の前の三右衛門をじっと見つめた。

「おぬしが使者とは…」
 忠三郎が、いつものように曖昧な笑顔で声をかけると、原田三右衛門はにこりともせず、律儀に言葉を返した。
「此度の蒲生家の働き、大儀であったと皆、言うておる」
「我らは織田家の臣。右大臣様の妻子をお守りするのは当然のこと」
 微笑を称えつつも、内心は困惑していた。忠三郎は秀吉の家来ではない。「皆」とは一体誰を指すのか。羽柴秀吉やその一党だろうか、それとも他の者たちか。
 何とも言い難い物言いだ。

「逆臣、明智日向守とその一党は我らが倒し申した。されば、いまだ主家に仇なす不逞の輩がこの近江にも潜んでおる。その者らを捕らえ次第、安土の羽柴筑前殿の元へ送られよ」

 三右衛門の言葉には、忠三郎を羽柴方の一員と見なしているかのような含みがあった。彼が言う「近江に潜む不逞の輩」とは、間違いなく忠三郎の江南の従弟たちを指している。暗に、彼らを庇わず、罪人として差し出せと言わんばかりの圧力だ。

 しかも、明智光秀を討ったことをこれ見よがしに強調するかのような口ぶりには、さらに嫌な含みが漂う。忠三郎はわずかに目を伏せ、少しの間、従弟たちと自らの立場について思案した。三右衛門は、忠義と縁戚との狭間で揺れる心を察しているのか、それとも最初から忠三郎を試すつもりで言っているのだろうか。

 曖昧に頷きつつも、胸中で渦巻く微かな違和感がじわじわと膨らんでいき、やがてその理由に思い至った。
(遺領配分か)
 信長、信忠、そして光秀が治めていた広大な領地。その分配が、これからの天下の勢力図を塗り替える重要な鍵を握っている。誰がどれだけの領地を手にするのか――その配分によって、主導権を握る者が決まる。秀吉はその遺領の多くを自らの手中に収め、一味する将や家臣たちにも分け与えながら勢力を固めようとしているのではないかと気づいた。

(己の功を殊更に強調し、今後の遺領配分に有利なように事を進めようとしておるのか)
 忠三郎は内心で薄く笑みを浮かべたものの、表には出さず、わざとおっとりとした口調で応じた。

「おお、羽柴殿もお喜びでありましょう。ただ、こうして原田殿がわざわざ来られたのは、何か新しき御沙汰があったゆえでござりましょうな?」
 原田三右衛門はじっと忠三郎を見据え、一瞬、表情が引き締まったがすぐに口を開いた。
「上様はすでに亡く、城介様もこの世におらぬとあらば、今後の織田家の行く末を皆で決めねばならぬ。それゆえ、尾張・清須にて、皆で集まり、話をつけようということに相なり申した」
 原田三右衛門の言葉を静かに受け止めつつも、胸の奥に一抹の不安が広がっていくのを感じた。織田家をまとめ上げていた信長、そしてその嫡男・信忠が亡くなり、かつての勢力は一気に分裂の危機にさらされている。残された者たちが集まり、新たな体制を作ろうというのは尤もだが、その「皆」とは果たして誰を指しているのか。

「清須にて皆が集まり、かような大事を決するとは…さりながら、宿老の一人、滝川殿は関東にあり、いまだ帰らぬと聞き及んでおるが、いかがなものか」
 一益が関東から退こうとしているという風聞は耳にしていた。しかし、それが今どうなっているのか、その先の事情は何一つ伝わってはこない。
「その義なれば、ご案じ召さるな。すでに羽柴殿が滝川殿に宛て、上方のことは一切お任せあれと、しかと知らせを送られたゆえ」
 三右衛門の落ち着いた物言いには、秀吉の思惑が透けて見えた。一益の不在をことさらに軽んじる口ぶりで、胸中に疑念が広がっていく。

(義兄上が戻れば、羽柴筑前も遠慮せざるを得ぬ。それどころか、遺領の分配にも滝川家が相応の取り分を得ることは避けられぬはず。それをあらかじめ防がんとして…)
 秀吉は、一益を話し合いの席に加えることなく、遺領分配の手筈を整え、己に有利な配分で事を進めようとしている。
 忠三郎は静かに三右衛門を見つめ、その思惑に潜む陰影を感じ取り、心の底でひとつ冷たいものがさっと流れるのを覚えた。

 梅雨が明けたばかりの空には、夏の鋭い陽光が降りそそぎ、草木の青葉を一層濃く映し出していた。だが、この朗らかな光景とは裏腹に、忠三郎の胸中には曇りが消えぬままだった。信長の妻子を守り抜き、大軍を迎え撃って辛うじて危機を乗り越えたとはいえ、心が落ち着くことは一つとしてない。
(せめて城介様だけでも生きながらえていれば…)
 まだ混乱は避けられただろう。その思いが胸の奥底でしこりのように疼く。

 織田家の嫡流をなす信忠はなく、家督をめぐる思惑が交差し、争いが再び燃え上がるのは避けがたい。
 清須で織田家の未来を決めようと一同が集うことにはなっているが、その裏で次男の信雄と三男の信孝、二人の間にはすでに家督を巡る駆け引きが垣間見える。二人の背後には、いずれ劣らぬ英気を持つ者たちが控えており、その切磋琢磨が、次第に争いへと転じはしないかと、懸念が募ってやまない。
(万が一にも、二人が相争うようなことにでもなれば…)
 織田家が二つに裂かれ、その勢力が刃を交える未来が不吉に浮かび上がる。

(義兄上はいかなる決断をされるであろうか)
 脳裏に浮かぶのは、関東で奮戦し続けている滝川一益の姿。五万を超える北条の大軍と戦い、ついには無念の撤退を余儀なくされ、伊勢への帰途についていると耳にしている。
(家老が何人か討死したと聞いたが…)
 戦乱の中、身近な者たちが命を散らしていく報せが耳に入るたび、心の一部が削られていく。なかでも、義太夫の安否が気にかかってならない。義太夫に限って戦場で華々しく散るなどと潔い死に様は考え難いものの、激戦であれば、万が一ということもある。

 だが、それ以上の情報は何も入ってこない。
 風が木々を揺らし、さわやかな夏の気配を漂わせる。しかし、その清涼さもまた忠三郎の心には届かぬまま、ひそやかに散りゆく木の影が一抹の不安をさらに募らせていった。



 尾張・清須の地。ここは信長が若き日を過ごし、数々の試練を乗り越えた場所でもある。清須城は、城下に静かに流れる川に守られ、季節の移ろいとともにその姿を変え、長きにわたり織田家を支え続けてきた。
 その周囲には、夏の陽光を受けて輝く蓮が群れ咲き、青田の香りが風に乗り漂う。盛夏の空には高く白い雲が浮かび、陽射しにきらめく水面が、城の堅牢さと簡素さとを映し出している。その風情は、信長の若き日の野望と無骨な武威の象徴にも見え、清須城はまさしく織田家の命脈そのものとさえ思われた。

 城は堅牢にして簡素でありながら、どこか威厳に満ち、信長の武威を象徴するかのようだ。城下の家々には、市が立ち、商人や町人たちの喧騒が絶えず、今もなお繁栄の名残をとどめている。ここ清須は、若き信長の野心と情熱が詰まった場所でもあり、信長が天下統一の夢を初めて抱いた場所であろう。
 
 そして今、かつて信長の夢と情熱が宿ったこの地に、織田家の重鎮たちが一堂に会している。忠三郎は、初めてこの地を目の当たりにし、歴史の舞台が再び繰り広げられようとしていることを実感していたが、その場の空気はかつての輝きとは異なるものに感じられた。

 信長亡き今、光秀を討った者たちの間で結束が生まれつつあるのは否応なく見て取れる。彼らは皆、秀吉を中心として、安定した体制の構築に動こうとしている。しかし、筆頭家老の柴田勝家とその与力たちは、その一派と交わることなく、表立って秀吉に敵対の意を示している様子だ。かねてより勝家と秀吉の間に不仲の噂はあったものの、今やその対立は一段と鮮明で、ここ清須では、名目こそ「家中の話し合い」であっても、火種がくすぶり続けている。

 その中にあって、忠三郎はただ一人、どちらの陣営にも加わることなく、静かに末席に身を置いていた。秀吉の側近にしても、勝家の与力にしても、皆それぞれに織田家の未来を背負うべく自らの立場を明らかにし、時折その声が威圧感をもって広間に響く。しかし忠三郎は、その場に身を置きながらも、まるで影のように、誰の側にもつくことなくただ留まっていた。

(右府様や義兄上がここにいれば、いかにしてこの場を収められたか…)

 一抹の寂しさが胸をよぎる。どちらに従うべきかも、言葉を挟むべきかもわからぬまま、ただ静かにその場に佇んでいると、まざまざと思い知らされるのは、信長が存命であった頃とはすべてが変わってしまったという現実だった。
 かつては織田家中の誰もが信長を中心に一枚岩となり、言葉一つで事が進んだ。だが今や、広間に渦巻くのは家中の力関係をめぐる駆け引きと、互いを牽制する重苦しい空気。

(あの時の織田家は、もう戻ってこぬのだ…)
 今や、発言力を持つのは光秀を討った者たち、とりわけ秀吉であり、宿老である柴田勝家でさえも、秀吉に異を唱えることをはばかる様子であった。かつての豪胆な勝家であれば、相手が誰であれ物申す姿が思い浮かんだが、この場ではまるで別人のように沈黙を守り、秀吉の動きに目を光らせるにとどまっている。

 ましてや、年若い忠三郎が言葉を挟む余地など微塵もなく、ただその場にいるだけで息苦しささえ覚えた。両派が互いに睨み合う中、織田家の一体感は消え失せ、ただ目に映るのは、今まさに始まらんとする新たな秩序への移り変わりだけだ。

 今回の合議で加増を受けたのは、光秀討伐に直接加わった者以外では柴田勝家のみ。宿敵ともいえる堀久太郎もまた、新たに佐和山城とその周辺及び日野のすぐそばである近江八幡までの領地を加増され、さらなる権勢を得ていた。

 柴田勝家が、かつて与力だった誼で父・賢秀の功績を取り上げてくれたおかげで、忠三郎もどうにか一万石の加増にありついたが、もしそれがなければ、ここに足を運ぶ価値さえ見いだせなかっただろう。合議に臨んだ意義がないと感じるほどに、自らの立場の小ささと、かつての織田家とは様変わりした力関係を痛感させられた。

(されど、このままでは終わるまい)
 秀吉の野望が次第にその姿を現し始めている。それは、この場にいる者なら誰しもが感じ取っていることだ。ひとたび光秀を討ったことで一枚岩になったかに見える織田家だが、今やその実、幾つもの思惑が渦巻き、隠された対立が静かに火種となっているのだ。

 遅かれ早かれ、天下を巡る覇権争いがこの織田家の内で勃発するのは避けられぬ定めだろう。勝家も秀吉も、それぞれの忠義と野望を胸に秘め、いずれ激突する日が来るはずだ。そしてその時、自分は一体どこに立ち、何を守るべきなのだろうか――。
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