獅子の末裔

卯花月影

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25.南勢の鳳凰

25-2. 三河の海

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 蟹江合戦の敗北――。

 これにより、秀吉は織田信雄・徳川家康との和議を余儀なくされた。
 しかし、それも束の間。

 四国・紀州・越中の平定を終えた秀吉は、再び徳川との戦を公言し、尾張・美濃の諸将に陣触れを出した。
 それが、一年前の五月。
 だが、徳川勢の反撃に遭い、大敗。

 この報せを受けた秀吉は、なおも攻めの手を緩めず、今度は「陸がダメなら海から攻める」と宣言する。
 九鬼海賊の大将・九鬼嘉隆を総大将に据え、
 安濃津の織田信包、そして松ヶ島にいる蒲生忠三郎に出陣命令を下した。

 ――その知らせを受けた忠三郎は、すぐには返答ができなかった。

「海から攻めるとは……」
 九鬼嘉隆を総大将とし、織田信包と共に伊勢海賊を率いて、西三河へ攻め入れという。

 だが――
 忠三郎は、水軍を率いて戦ったことがない。
 これまで陸戦を主とし、戦場を駆け抜けてきた彼にとって、海戦は未知の領域だった。それは家臣たちも同じこと。
「我が家で海戦の経験があるのは、滝川家から来た者たちのみ。これは容易く引き受けるには難儀な問題かと」

 傅役の町野左近は、難色を示した。
「うーむ……」
 忠三郎が唸ると、今度は町野長門守が口を開いた。
「これは、いささか拙うござります。殿、お忘れで?」
 その言葉に、忠三郎は「……そうだった」と、ある記憶を思い出した。

 ――かつて、義兄・一益が、自分を大船に乗せ、指揮を執らせようとしたことがある。
 だが、どう頑張っても船に慣れることができなかった。
 乗船して間もなく、ひどい船酔いに見舞われ、指揮どころではなかった。
(義兄上も、九鬼殿も、呆れた様子であった……)
 さらに、あの場にいた海賊衆は、面白がるように言い放った。
「育ちのよい公達に、海賊の真似事などできるものか」
 あの嘲笑、あの屈辱――。
 決して、忘れることはできない。

 しかも、今度は秀吉からの要請――。
 断ることなど、許されるはずがない。
「あの下賤な猿に、船酔いが酷いゆえ水軍の指揮は取れませぬ、などと、口が裂けても言いたくはない」
 忠三郎の声には、悔しさと意地が滲んでいた。

 町野長門守は、なおも渋い顔で言う。
「されど、総大将に担がれた九鬼殿は、蟹江合戦でも手痛い敗北を喫したとか。まして、ともに行くのが織田三十郎殿では、全くあてにはなりませぬぞ」
 それを聞いた忠三郎は、すぐさま声を荒げた。
「長門!臆したか!」
 鋭い視線が、長門守を射抜く。
「海が怖くて武士が勤まるか!この蒲生忠三郎に怖いものなどない!」
 声に力を込め、言い放つ。
 そして、まるで己にも言い聞かせるように、「三河まで行き、陸に上がってしまえば済むことではないか」と続けた。

 ――そう、問題は船の上だけ。
 陸に上がれば、戦の勝手は知っている。
 ならば、何を恐れることがある。

 忠三郎が覚悟を決め、生涯初となる海戦へ向かったのは、十月――。

 松ヶ崎を出航し、大船に乗る。
 三河沖に浮かぶ佐久島で、九鬼海賊と合流。
 五千の兵を三百余りの船に分乗させ、目指すは三河湾に面した幡豆砦。
 その攻略のため、砦近くの寺部湊へと向かった。

 だが――。
 松ヶ崎を出て、合流地点の佐久島に至るまで、海は荒れ狂った。
 伊勢湾内とは比べものにならぬほどの大波が、船を激しく揺らす。
「うっ……!」
 忠三郎は、もはや甲冑を脱ぎ捨て、船のへりにつかまり続けるしかなかった。
 喉の奥からこみ上げる吐き気を抑えきれず、何度も胃の中のものを吐き出す。

 ――だが、それは忠三郎だけではなかった。
 船に慣れぬ家臣たちも、ほとんどが同じ有様だった。
 次々と顔を青ざめさせ、戦どころか、まともに立つことさえままならぬ者が続出する。

 佐久島で九鬼海賊と合流した後も、状況は変わらなかった。
 寺部湊が見えてくるまでの間、彼らはただ、五臓六腑が飛び出しそうな吐き気と頭痛に苛まれ続けるばかりだった。

「と、殿! あれなるは、寺部湊らしゅうござりますぞ!」
 船酔いでふらふらになりながらも、町野長門守が前方を指さす。
「ほれ、三十郎殿の大船が速度を落として近づいて……」
 忠三郎は、おぉ、と顔を上げた。
「それは朗報じゃ! 皆、三河に上陸するぞ!」
 長きにわたる苦しみも、ついに終わる――。
 忠三郎は、ようやく戦場に立つ覚悟を固める。

「鎧を着て――」
 だが、その言葉を最後まで言い終える前に――。
 轟音が響き渡った。
「これは……?」
 衝撃に体が揺れる。
 続いて、船上に響き渡る叫び声――。
「敵襲! 敵襲でござりまする!」
 瞬間、激しい銃声が鳴り響いた。
 忠三郎は、慌てて振り返る。
 そして、息を呑んだ。
 気づかぬうちに、背後には敵船と思われるおびただしい船影が見えていた。

「我らの動きは敵に筒抜けではないか!」
 忠三郎は叫んだ。

 奇襲を仕掛けるはずが、逆に奇襲を受けている――!
 背後ばかりか、右斜め前方にも敵船が現れ、すでに先陣を切った織田信包の船が次々に沈められていく。
「これは拙い! すぐに船の向きを変えて引き上げるのじゃ!」
 声を限りに叫ぶ。
 だが――
 銃声が激しく鳴り響き、その声はかき消された。
「殿! まずは甲冑をつけねば、敵の矢玉が……!」
 すでに何発かの弾丸が腕をかすめていた。
 この距離で大鉄砲を撃ち込まれれば、ひとたまりもない。

 ――そう思った、その刹那。
 轟音。
 次の瞬間、船が激しく傾いた。
 忠三郎の視界が回転する。
 重力に引かれるように、身体が宙に舞い――
 大海原へと、真っ逆さまに落ちていった。
「殿――!!」
 家臣たちの絶叫が、波の轟きにかき消されていく。

 冬の海――。
 だというのに、水は想像していたよりも暖かかった。
 だが、それどころではない。
(苦し…… 早く上にあがって……!)
 必死にもがき、水面に顔を出す。

 すると、次々と人影が海へ飛び込んでくるのが見えた。
(家臣たちが助けに来てくれたのか……?)
 そう思ったが、何かがおかしい。
 あまりにも人数が多すぎる。

 目を凝らして見ると――
 乗っていた大船が、今にも沈みそうになっている。
(船が沈む……!)
 沈没に巻き込まれれば、船と共に海の底へ引きずられる。
 それだけは避けねばならない。
 忠三郎は、必死に手足を動かして泳いだ。
(早く、早く船から離れねば……!)
 波を掻き分け、ただひたすらに――。
 そして、ふと気づく。
 かなり遠くまで泳いでいた。

(わしはかように泳ぎが達者であったのか…)
 必死で泳ぐうちに、ふと不思議に思った。
 なぜ、これほどまでに海の中で身体が動くのか。
 そして――気づいた。
(そうか、義太夫……)

 かつて、一益が義太夫に言った。
「鶴を船に慣れさせろ」
 義太夫はその命を受け、なぜか水練を教えてくれたのだった。
『馬術と水練、これさえ身につけておれば、なんとかなる』
『ふむ……なんとかなる、とは?』
『逃げられるということよ』
『戯けたことを申すな。敵に背を向けるなど、あり得ぬ』
『今はそう思うておろう。されど、いつかわしに手を合わせて礼を言いたくなるときがくる』

 ――他愛もない、そんな会話を交わしたことがあった。
(義太夫の言うていたことは、かようなことか……)
 船が破壊されたとき、泳げなければ命は助からぬ。
 義太夫は、それを見越して教えてくれたのだろう。
(義太夫殿……忝い。)
 忠三郎は、荒れる波間に身を任せながら、胸の奥で静かに呟いた。

 義太夫に、はじめて感謝しながら、来る途中に目にした小島を目指して泳いだ。
 義太夫に泳ぎを習ったのは、川だった。
 あの時と比べると、海は身体を浮かべるのも容易く、甲冑をつけていなかったのも幸いした。
 泳ぎ疲れても、ただ浮かんでいることができた。
 やがて、数名の兵とともに、小島へとたどり着く。

 だが、今度は寒さが襲った。
 陸に上がると、潮風が容赦なく濡れた身体を冷やし、歯の根も合わぬほどに震えた。
 ――いつ来るとも分からぬ助けを、ただ待つしかなかった。

 そして、夜が明ける前。
 小船を出し、海に落ちた兵を探し回っていた九鬼嘉隆が、彼らを救い上げてくれた。
 幸いにも、家臣たちは皆、無事だった。
 だが――

 船と兵の半数を失っていた。
 忠三郎は、暗い海を見つめながら、静かに呟いた。
(ここまで酷い負け戦は初めてじゃ……)

 三河の地を踏むことさえ、叶わなかった。
『我らの動きは敵に筒抜け。これでは戦さにはならぬ』
 九鬼嘉隆はそう言い、撤退を提案した。
 忠三郎も、もはや従うしかなかった。

 こうして、三河の地を一歩も踏むことなく、伊勢へと戻る。
 しかし、帰りの船旅もまた地獄だった。
 船酔いはひどくなるばかり。
 さらに、冬の海を泳いだせいか、忠三郎は風邪をこじらせ、高熱を出した。
 瀕死の状態で、息も絶え絶えに松ヶ島へ帰還した――。

 秀吉へ使者を送ったものの、忠三郎はついに床から起き上がれなくなった。
 だが――。
 そんな忠三郎の有様を知る由もない秀吉は、二週間後、再び出陣命令を下した。
「前回と同じく、船で三河を目指せ」
 その命に、家臣たちは青ざめ、ついに泣き言を漏らし始める。
「もうこりごりじゃ……殿、もう堪忍してくだされ……!」
 忠三郎にはもはや、叱咤激励する気力すら残されてはいなかった。
 ついに、決意する。
 ――義兄上に泣きつくしかない、と。

『義兄上。士気は低く、このまま三河へ向かうは死地へ赴くも同じ。どうか水軍の指揮をとってはくださらぬか』
 忠三郎は、胸中に燃える焦りを抑えながら、旧臣の谷崎忠右衛門を使者として送った。
 一益には、一度、退けられている。 しかし、今の窮状を訴えれば、必ずや動いてくれるはず――。
 が、一益の返事は変わらなかった。
『詮無き戦さ。兵をあげるのはしばし待てと、そう仰せでござりました』
「待て」とは、何を意味するのか。

 一益の真意を測りかねた忠三郎の胸に、じくじくと怒りがこみ上げる。
『来月はじめには三河出陣の命が下っておる』
 声が震えた。
『義兄上はわしがこれほど頼んでも旗揚げしてくだされぬのか。葉月殿を取り戻したいとお考えであれば、上洛して関白と話をつけ、此度の大戦さに参陣すべきではないか。まして九鬼殿やわしが何度も尽力を仰いでおるというに、いつまで隠居などと生ぬるいことを仰せになっておるのか』
 板挟みになっている谷崎忠右衛門は冷や汗を流し、額を畳に擦り付けるばかりだった。
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