獅子の末裔

卯花月影

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26.筑紫の国

26-1. 旧主のこころ

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 大坂城城下。秀吉が自ら足を運び、慎重に地を検分して定めた場所に南蛮寺は荘厳に姿を現した。秀吉の篤き庇護を受け、高山右近の熱心な勧めにより、多くの武将がこの地に集った。
 堺や京に並ぶ南蛮寺と比べても、その威容ははるかに凌ぎ、壮麗なる会堂は見る者を圧するほどである。この南蛮寺には身分問わず数多くの人が足を運び、日々賑わいを見せている。

 その一方で弁舌さわやかな修道士ロレンソは、その機知と穏やかな物腰で秀吉の目に留まり、ひとかたならぬ寵愛を受けているらしい。
 大坂の蒲生屋敷を出た義太夫は、ふらりふらりと南蛮寺に足を向けた。
「ロレンソの奴。やけに多忙そうじゃ。行ってもおらんかもしれぬ」
 それで独りごちながらも、気まぐれに門をくぐる。さて、もしやと思いきや

――いた。意外にもロレンソは会堂付近で掃き掃除をしている。

「おぬしでも落ち葉程度のものなら見えるか」
 義太夫がそう言って話しかけると、ロレンソは箒を動かす手を止めて顔をあげる。
(おや、ずいぶんと…)
 老けたようだ。そう感じるほど会っていなかったろうか。
「その声は、義太夫か」
 いつもなら、素浪人だの、流浪人だのと言うロレンソが、きちんと名前を言うのも珍しい。
「ロレンソ、やけに年を食ったのう。関白の御伽衆となり左扇かと思ていたが、如何した。関白の機嫌取りも疲れたか?」
 義太夫が腕を組み、からかうように言うと、ロレンソは箒を選んだまま、ふっと笑った。
「その方には分かるか」
 図星だったようだ。
「異国の慈悲とやらを説くより、関白の気まぐれに付き合うほうが骨が折れるであろう。されど今少し辛抱しておれば、そのうち関白はキリシタンになるとか言いだすのではないか?」
 義太夫が軽く言うと、
「キリシタンになると言うておった」
「な、なに?関白がキリシタンになると?」
 冗談のつもりで言ったのだが、すでにそんな会話が交わされていたとは。

 無論、条件付きだった。ある日、機嫌よくロレンソを迎えた秀吉は、
『側女を侍らすことを認めるのであれば、キリシタンになってやってもよいぞ』
 と言い出した。
「ほう、さすがは関白。何はともあれ女子が一番というだけのことはある。…で、その方、なんと答えたのじゃ」
 ロレンソは涼しい顔で
「なるがよい、と答えた」
「ほう……というと、側女を抱えたままでキリシタンになると?」
 キリシタンの教えの中で、最も困難なものは、そこである。それさえ許すというのであればキリシタンになる。秀吉はそう言ったという。それを聞いたロレンソは大きく頷き、
『殿下、キリシタンにおなりあそばせ。殿下がキリシタンとなれば、国中の者共が伴天連の教えを聞くために南蛮寺に集いまする。さすれば殿下が地獄に落ちても、この国の多くのものはパライソへ向かうこととなりましょう』
 と答えたという。
「ぷっ……はははは! かようなことをぬけぬけと言うたのか!」
 義太夫は腹を抱えて笑い転げた。 ロレンソらしい辛辣な返しだ。
「…で、関白はなんと?」
「笑うておったわい」
 ロレンソは肩をすくめた。

「関白はこの国の平定が終わった後、海の向こうまで攻め入るというておるではないか。その時は伴天連も連れて行き、そこでもキリシタンを増やせというておるとか。よかったのう。これで高句麗も明もキリシタンだらけじゃ」
 義太夫が皮肉めいた笑みを浮かべて言うと、ロレンソは鋭い眼差しを向けた。
「戯けたことを申すな。戦乱が続くだけじゃ。なんのよいことがあろうか。その上…」
 ロレンソは言葉を切り、深く息をついた。
 イエズス会は、秀吉からこれまで以上に硝石や鉛を求められている。

 義太夫はオヤ、と首を傾げる。
「喜んでおるかと思えば…。キリシタン大名たちは皆、此度の島津攻めも、九州一帯をキリシタンの国にする戦さじゃというておるぞ。戦乱が続いたとしても、キリシタンが増えればよいのではないのか」
 すると、ロレンソはまるで怒りを抑えきれぬように言い放った。
「人の命をなんと心得ておるのか。キリシタンの教えを広めるために戦さするなど神をも恐れぬ愚行。いかなる戦さであろうと、戦さに大儀などはない」
 ロレンソが少し怒ったように言ったので、義太夫はハッと口をつぐむ。
 冗談めかして言ったつもりが、ロレンソの言葉には、まるで刃のような鋭さがあった。

――信仰と戦、どちらが正義なのか。そもそも、正義とは何なのか。

 冬の風が強く吹き抜ける。
(殿も同じことを……)
 義太夫の胸に、かつての一益の言葉が蘇る。

――そもそも、戦さに大儀などはない。
 勝者が正義を掲げ、敗者が無念を呑み込む。
 戦の理由など、あとからいくらでもこじつけられるものだ。
 そう語った一益の横顔は、どこか遠くを見つめていたように思う。

 戦は、ただ人を殺し、国を焼き、虚しい名ばかりを残すもの。そこに、真の大儀など存在しない。

 そして今、ロレンソもまた、同じことを言った。
(やはり、戦とは、そういうものなのか……)
 義太夫は、ふと空を仰ぐ。
 鉛色の冬の雲が、重く垂れ込めている。

「命うんぬんというが、伴天連は牛や馬を食うのじゃろう? それは殺生ではないのか?」
 義太夫が問いかけると、ロレンソは一瞬、言葉を飲み込んだ。
 仏法では、あらゆる命を奪うことを「殺生」と呼び、最も悪しき行いとされている。
 また、神道においても、肉食は「穢れ」とみなされ、忌むべきこととされた。

 しかし、それはあくまで建前にすぎない。
 時代と共に変化し、戦国の世では家畜を殺して食べることこそ禁じられていたが、狩猟で得た肉を食すことは許されていた。
 実際、人々は鹿、猪、兎、狸、鼠、猿、さらには犬や猫までも口にしていた。
 それらを「薬喰い」と称し、病を防ぐものとすら考えられていたのだ。

「殺生も、功徳を積めばよし」

――それが、この国における命の理であった。

義太夫の問いに、ロレンソはゆっくりと息をつき、やがて静かに口を開いた。
「……命を奪うことそのものが、悪なのではない」
 その声には、どこか深い思慮が滲んでいた。
「これはフロイス殿が申されたことじゃが…」
 ロレンソが箒を片手に傍にある石に腰かけて話し始める。

 イエズス会東インド管区の巡察師ヴァリヤーニに『日本通』と称されたフロイス。フロイスは自らが見聞きして感じたヨーロッパと日本の違いを細かく記録に残していた。
 その中の一つに、書物についての記述がある。
『我々の書物の最後の頁が終るところから、彼らの本は始まる』

 この一文を聞いた義太夫は、怪訝な顔をして首を傾げた。
「終わるところから始まる?とは?」
「南蛮では書物は後ろから始まるのじゃ」
「ほぉ?それは知らなんだ」
 義太夫は腕を組み、しばし考え込む。
「最後から読むとは奇怪な…では、下から読むのか?読みにくくはないのか。中身がよう分からなくなるのではないか?」
 まるで狐につままれたような顔で尋ねる義太夫に、ロレンソはふっと笑い、
「いや、上から下へ、左から右へ読むのじゃ」
「左から右……?」
 義太夫はますます混乱し、何やら空中に指を動かして想像しようとする。

 日本と南蛮。
 遠く隔たった土地の文化の違いは、こうした些細なことにも表れる。
「まぁ、おぬしが喜びそうな違いとしては、厠についての記述もある。『我々は坐り、彼らはしゃがむ』と」
「何!」
 義太夫は目を剥いた。
「厠に座って用を足すのか?そのようなことをしては、尻の穴も袴も汚れる。座っていては出るものも出なくなろう。南蛮人は存外に無頓着じゃなぁ」
 仰天した様子で言い放つと、ロレンソは思わずウームと唸る。どうも義太夫に理解させるのは難しい。

「我々は親指または人差し指で鼻をほじる。彼らは鼻孔が小さいために小指を用いておこなう』」
 ロレンソがそう言うや、義太夫は思わず鼻を触った。
「ほう、親指で鼻をほじるとは……南蛮人は皆、鼻の穴が大きいのか?」
 ロレンソは肩をすくめ、少し困った顔をして笑った。
「フム…、にしてもフロイスは抜け目なく厠を覗いたかと思えば、我らが鼻をほじる指まで観察しておるのか。恐ろしい奴め」
 言われてみるとフロイスの鼻の穴は大きかった。

「他には——」
 ロレンソは掃除の手を止め、少し得意げに
「『我々は喪に黒色を用いる。彼らは白色を用いる。白色はわれわれにとって楽しい、喜ばしい色であるが、彼らにとっては喪の、悲しみの色である。彼らは黒色と桑実色とを楽しい色としている』」
「白が喜ばしい色とは奇怪な」
 義太夫は腕を組んで辺りを見回した。
「皆、白を着ておるわい。あぁ、鶴は鈍色の束帯であったな。いまどき珍しく、公方様が来たかと思うた。…にしても、黒が喪とは奇なり。鶴など戦場ではいつも喪中ということか」
「もしや、宣教師の目にはそう移っておるやもしれぬな」

「あとは?」
「『我々は人を訪れる時は何も持って行かないのが普通である。彼らは訪問の時、いつも何かを携えて行かなければならない』」
「南蛮人は土産なしか。これは礼儀に反する」
「いや、我らのほうが特異やもしれぬ」
 ロレンソは肩をすくめる。 しかし、義太夫は気にするふうもなく、懐から何やら取り出した。
「わしなどは常より饅頭を持ち歩いておる。数多の者に喜ばれておるわい」
 そう言って、まるで自らの徳を示すかのように、一つ頬張った。

「『我々の間では偽りの笑いは不真面目だと考える。彼らの間では品格のある高尚なこととされている』」
「ほぉ?では鶴など不真面目の極みで、信長公は真面目ということか」
 義太夫は口の中の饅頭もぐもぐさせながら、どこか愉快そうに話した。
「信長公は滅多に笑わぬお方であったのう。かの御仁ほど真面目な御方はおるまい」
「されば、鶴は公儀の剽者ということになろう」
 義太夫は饅頭もう一つ懐から出し、にんまりとした。

「他には?」
「『我々は言葉の明瞭であることを求め、曖昧な言葉を避ける。彼らの間では曖昧な言葉が最も優れた言葉で、最も重んぜられている』」
 義太夫は目を丸くし、饅頭をごくりと飲み込んだ。
「南蛮人はまるで信長公のような…。曖昧な返事を返すと鉄扇が飛んできたというからのう。それだけか?」
「食べる物についてもある。『我々は犬は食べないで、牛を食べる。 彼らは牛を食べず、家庭薬として犬を食べる』」
「牛を食えば、農耕に困るではないか。子らは難儀しておろう。百姓どもにとって、牛や馬は家族同様という。南蛮人は農耕に犬を使うのか。なんとも不可解な」
「『我らの国において、嬰児が生まれたのち命を奪われることは滅多に、というより全くない。されど彼の地では、育てることが叶わぬと見れば、母が己が足を嬰児の喉に当て、その命を絶つ』」
「口減らしのことを言うておるのか。それも生きているものが飢えることなきようにしておるのじゃ。それにのう、わしは数多の殺生を繰り返してきておるが、功徳も積んでおる。坊主は功徳を積めば極楽に行けると、そう言うておるぞ」
 義太夫が誇らしげに言う。

「功徳?寺でも建てたか?」
「阿呆なことを申すな。そのような金がどこにある」
 口の中でもごもごと饅頭を頬張りながら、遠くを見つめる」
「昔のことじゃ。買うてきた大あさりを憐れに思い、海に返してやったのじゃ」
「あさりとな?」

 それはまだ尾張にいたころ。
 あさりを買う費用は滝川家の懐から出ていた。唐突な信長来訪に備え、膳を整えるための食材――それが、義太夫の手にある大ぶりのあさりであった。
『かような大あさりは早々あるまいて』
 思わずまじまじと見つめていると、ぴゅっと水が飛んだ。
(ほう、粋がよいのう)
 感心しつつも、よくよく眺めれば、その殻の隙間からのぞく顔が、なんとも愛嬌に満ちているではないか。
(もしや…わしに命乞いしておるのか)
 そう思った途端、義太夫の胸の内に、妙な情が湧いた。
(なんとも愛い奴よ)
 命を奪うは易し。されど、見つめるうちに不憫になり、義太夫はとうとう悩んだ末に砂浜へと向かった。そして、大あさりを海へと返してやったのだった。

 それは、滝川家の膳のために買い求めたあさり。つまりは、公の銭で手に入れたものである。
 しかし、義太夫は意気揚々と戻るなり、誇らしげに言った。
『功徳を積んで参りました!』
 話を聞いた一益は、言葉もなく疲れたようにため息をついた。そして、義太夫の代わりに助太郎が台所を預かることとなった。

「うつけに効く薬はないというが…。おぬしの主となるものは心労が絶えぬな」
 ロレンソは深く嘆息し、呆れたように首を振った。

 フロイスは、さまざまな事柄を客観的に比較して記録に残している。
 だが、宣教師たちが最も驚愕したのは、ある一点だった。
 この国では、人の命よりも獣の命が尊ばれるということ。
 南蛮では、人の命を何よりも重んじ、獣の命は食のために奪う。
 しかし、この国では、獣の命は尊ばれる一方で、人の命が容易く捨てられている。
 間引きや口減らしのために赤子が殺されることすら珍しくない。
――その価値観の違いに、彼らは驚愕したのだった。

「おぬしはあさりよりも価値なきものか?」
 ロレンソが静かに問うと、義太夫は鼻で笑った。
「わしが、あさりよりも価値がない? 然様なわけがなかろう」
「人は皆、あさりよりも価値あるものじゃ。人は神の作品。神に似せて作られたもの。されど獣はそうではない。獣も草も、神が人のために作ったものじゃ」
 しかし、義太夫は鋭く切り返した。
「では何ゆえに伴天連どもは鉄砲を持ち込み、火薬を調達しておるのじゃ。火縄銃は人を殺める武器。おかしな話ではないか」

 ロレンソは言葉に詰まった。
 そう――義太夫の言う通りだった。
 布教許可を得るための代償として関与してきた南蛮貿易。

 それが、イエズス会の手に余るほどの軍備増強へと繋がり、気づけば秀吉の力を押し上げる一因となっていた。
 そして、少しずつ、イエズス会と豊臣家の間に綻びが生じ始めている。高山右近やロレンソといったキリシタンの悩みは、まさにそこにあった。
 信仰を広めるために手を貸したはずが、いつしか戦を助長する形となっている――。
 ロレンソは困った顔をしていたが、それ以上、何も言わなかった。
 冷たい冬の風が、静かに吹き抜けた。

 その後、若い修道士が現れ、義太夫を広い南蛮寺へと案内した。
(関白がここまでキリシタンを贔屓にしておるとは……)
 これまで数多の南蛮寺を見てきたが、ここまで立派なものはなかった。
――荘厳な礼拝堂、高く掲げられた十字架、規律正しく整えられた修道士たちの営み。
 もし、イエズス会がこれからも秀吉に協力し続けるならば、この繁栄は揺るがぬものとなるだろう。
(このままなら、キリシタンも安泰か……)
 そう思いつつ、義太夫は修道士に出兵準備のため伊勢に戻ることを伝えた。
 すると、奥からロレンソが静かに姿を現し、門まで見送りに出た。

 別れ際、ロレンソは義太夫をじっと見つめ、静かに言った。
「おぬしが生涯捧げた主は、何と言っておったか。よう思い起こしてみるがよい」
 義太夫は目を細めた。
 何を言いたいのか――すぐには理解できなかった。
 しかし、その言葉は、不思議と心に引っかかるものを残した。
 義太夫は何も答えず、振り返ることなく門を出た。
 冬の陽が傾き、南蛮寺の十字架の影が長く伸びていた。
 
 一益は義太夫に何と言っていただろうか。
「そなたはこの滝川家で一番、男ぶり良く、賢く、働きの良い家人である」
 義太夫は得意げに胸を張り、一益の口ぶりを真似て言った。
 その横で、付き従う助九郎は、眉をへの字に曲げる。
(そのようなことを…仰せになるとは思えぬが…)
 いかにももの言いたげな助九郎を見て、義太夫は大まじめな顔になる。
「これは口には出さぬ殿の心の声じゃ。わしは常より心の耳を持って殿の心の声を聞いておったんじゃ」
 助九郎は苦笑し、軽くうなずいた。
「然様で…」
 あえて否定するのも気が引ける。
 義太夫がそれで満足しているのなら、一生、勘違いさせておいたほうが幸せかもしれぬ――。助九郎はそんなことを考えつつ、ハタと気づいた。
「義太夫殿。戦さに行くというに、屋敷に具足がありませぬぞ」
「お?…おぉ、そうであった」
 最後の合戦以来、具足は具足櫃ごと暘谷庵に置き捨てたままだった。
「すっかり忘れておったわい。使い物になるであろうか」

 元々、合戦のたびに義太夫が身に着けていたのは胴丸。
 祖父の代から伝わる室町時代に流行った鎧で、桶狭間合戦以来、同じものを着ていた。
 しかし、胴丸は一人で着るには不便なもの。
 時代が下るにつれ、身に着けやすい「当世具足」が流行り、さらに改良が加えられた「南蛮胴具足」が登場する。

 ――南蛮胴は、鉄砲の弾を通さぬ具足。
 その魅力は大きかったが、何しろ高級品。
 織田家の中でも、大将級の武将しか持つことが許されなかった。
 それが、ある日。
 桑名城の広間に、燦爛と光り輝く南蛮胴が置かれていた。
『このまばゆい輝きはまさしく南蛮胴じゃ』
 義太夫が感動して眺めていると、玉姫が可笑しそうに笑った。
『皆が矢玉に当たるのを見かねて、殿が忠三郎殿に頼み、日野の鉄砲鍛冶に作らせたと仰せであった』
『殿が……?』
 なんとも有難い――そう思った義太夫は、その夜、南蛮胴を寝所に持ち込み、抱いて寝た。

 そして、いざ戦場へ――。
 勇んで出陣すると、従兄弟の佐治新介が、全く同じ鎧を着ているではないか。
 よくよく見れば、新介だけではない。
 木全彦一郎、津田秀重――主だった家臣たちが、皆、同じ鎧を着ている。
(当家筆頭家老のわしだけに与えられたものかと思うていたが……)
 一瞬、落胆したものの、ふと気づいた。
 滝川家の財力では、とてもこのような大盤振る舞いはできぬはず。

 不思議に思い、一益に尋ねた。
『殿。我が家はさほど懐暖かい家でありましたか?』
 一益は苦笑しながら答えた。
『懐暖かかったことなどはない。皆に渡した具足は上様からのもの』
『上様?』
『常に先陣切って戦う、あるいは退陣しんがりを務める騎馬鉄砲隊を我が家で作るため、上様に願い出て、金を用立てていただいたものじゃ』
『常に先陣切って戦い、退陣まで…』

 ――それは、極めて危険な役目である。
(南蛮胴が簡単に手に入るなどと、そんな美味い話があるはずもないと思うていたが、こんなからくりとは…)
 しかし、結局、騎馬鉄砲隊が先陣を切ったのはたった一度。
 そして、討死の可能性が最も高い「退陣」の任を負わされたことは、一度もなかった。
(もしや殿は、最初からそのおつもりで…)
 先陣を切り、退陣を務める――それは、家臣たちに南蛮胴を与えるための口実だったのではないか。
 本当のところは分からぬ。
 しかし、南蛮胴はたびたび義太夫の命を救ってくれた。
 そして、戦が終わるたびに、玉姫がそれを丁寧に手入れしてくれていた。

「玉姫殿がおらんようになってから戦さがなかったゆえに、忘れておったわい」
 義太夫はぼやくように言ったが、助九郎は眉をひそめた。
「義太夫殿。もしや蟹江合戦以来、何も手入れしていなかったのでは…」
 蟹江合戦で海水を被っている。
(錆びだらけではなかろうか……)
「烏帽子も籠手も拗当もボロボロであったような」
 あれほど大事にしていた具足を始め、合戦になくてはならない装束一式が、使い物にならなくなっているかもしれない。
 義太夫は不安げに続ける。
「烏帽子は兜を被れば誤魔化せるが、籠手と拗当は直せる範囲を超えていたような…」
「しかも義太夫殿の鎧下は得も言われぬ悪臭を放っていたはず。もしや、あの汚物をそのまま具足櫃に入れてしもうたのでは…」
「汚物とは無礼な」
 義太夫は顔をしかめたが――
 確かに、鎧下(よろいした)を干すことも洗うこともなく、そのまま具足櫃に押し込んだ記憶がある。
(しもうた…。わしはもう男やもめ。己で手入れせねばならぬ身分であった)
 妻帯してからというもの、何もかも玉姫にやってもらっていた。
 具足の手入れなど、すっかり忘れていたのだ。
「致し方ない…とりあえず、具足が使えるかどうか、見てみることとしよう」
 もし錆びてボロボロなら、新しく買いそろえるか、誰かにもらうしかない。
 具足櫃を開けるのは憂鬱だったが、足取りも重く、大坂から京へと向かった。

 冷たい冬の風が、義太夫の背を押していた。
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