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26.筑紫の国
26-2. 暘谷庵の客人
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京、暘谷庵。
厩へ足を運ぶと、見慣れぬ立派な鞍をつけた馬が繋がれていた。
義太夫は首を傾げる。
「どなたか、客人が来ておるようで」
珍しいこともあるものだ。
助九郎がちらりと母屋を伺うが、ここからではよく見えない。
「はて。若殿の連れであろうかのう」
しかし、三九郎の馬はいない。
どうやら三九郎ではないらしい。
だとすれば、一体誰が――。
何とはなしに、義太夫は足音を忍ばせ、そっと母屋へと入っていく。
遠目に風花の前に座る客人の姿が見えた。
(大層ないで立ちじゃ。あれは上州の者ではない)
馬の鞍の立派さ、小袖の華やかさ――。
それなりに身分が高い者であることは明らかだった。
殊更に華やかないでたちを好むのは、かつての織田家の家臣たち……。
(何やら、込み入った話のような……)
義太夫は、気づかれぬように静かに隣の部屋の襖を開け、そっと中へと忍び込んだ。
――隣の部屋から漏れ聞こえる話に、耳を澄ませる。
襖越しに聞こえてくる、低く抑えた声。
「ご案じ召さるな。出陣は来月。大軍を率いて遠国へと向かいまする。一月もかかる旅路ののち、戦さとなりましょう。しばらく皆、上方には戻りませぬ」
(どこかで聞いたことのある声……)
思い出そうとするが、記憶の奥に霞んでいて、はっきりとは思い出せない。
「されど、どこかからか漏れることはなかろうか」
風花の声だ。
「存じておるのは、ここにおる者と、傍付の侍女以外では、それがしが連れてきた薬医のみ。これも口の堅い者を連れて参りました」
(他聞を憚る内容……それに、薬医とは……誰か、病か?)
義太夫は眉をひそめる。
「三九郎殿が去ってから分かるとはのう」
「三九郎殿はいずこへ?」
「信濃へ戻ると言うておった。雪から知らせを受け、急ぎ使いを送ったが、まだ追いついてはおらぬであろう」
(雪……? ああ、御台様の姉の吹雪殿のことか。いや、まてよ。吹雪殿が病? であれば、話している相手は……吹雪殿の知人か?)
「むしろ、呼び戻さぬほうがよいかもしれませぬ。忠三郎が寄り付かぬとはいえ、今、蒲生家に出入りするのはちと拙い」
――蒲生家に出入り?
若殿が、そのようなことを?
義太夫は思わず声を上げそうになり、慌てて口を押さえた。
(はて、拙いとは……? 若殿と吹雪殿の間に、何があったというのじゃ)
何が何やらさっぱり分からず、頭の中が混乱する。
「いずれにせよ、病と称し、屋敷からは決して出ぬようにと伝えおきました」
「それがよい。今は久太郎殿だけが頼りじゃ」
――久太郎!
義太夫は再び声を出しそうになり、ウッと息を止める。
(堀久太郎か!)
思い出した。
確かに、声も、後ろ姿も見覚えがある。
織田信長に仕えた堀久太郎――こと、堀秀政。その名を聞けば、誰もが目を細め、ある者は憧れ、またある者は嫉妬を滲ませる。
若くして織田信長に認められた俊英。
その才は、春の陽のごとく眩く、光あるところには影が生まれるがごとく、多くの者の胸に深い印象を刻んできた。
常より煌びやかな衣装をまとい、その立ち姿は京の雅を思わせるも、決して華やかさに溺れることはない。
才知に秀で、機略に長け、時に冷徹、時に情に篤く、主君のためには躊躇なく刃を振るう覚悟を持つ。
その剛胆さ、そして武の才――。
戦場においては、烈風のごとく駆け、火花の舞う刃の中にあっても微塵も怯まぬ。
若さゆえの血気盛んな振る舞いがあるかと思えば、老練の将ですら唸るほどの深慮遠謀を巡らせることもある。
――華と剣を併せ持つ男。
しかし、その一方で忠三郎とは若年の折より犬猿の仲としても知られている。考え方も、戦の立ち回りも、何もかもが相容れぬ二人。
かつて、信長の御前にて言葉を交わすたび、火花が散ったことは一度や二度ではない。
(それにしても、何故、堀久太郎が……)
どうやら吹雪が久太郎に相談を持ちかけたらしいが、その背後には三九郎の名がちらついている。
そして、吹雪は他聞を憚る病。
(まさか業病か?なるほど、若殿が業病を吹雪殿にうつした……それゆえ、吹雪殿は……)
だが、ふと義太夫は首をかしげる。
(いや、待て。そもそも、若殿は何ゆえ吹雪殿に会うたのか?)
疑問は深まるばかりだったが、いつまでも聞き耳を立てているのは拙い。
義太夫はそっと部屋を抜け出し、具足櫃のある蔵へと向かった。
***
「これまでも臥せっておられた由。病と言うておけば、疑う者はおりますまい。それよりも、まずは虎殿に精をつけてもらわねば」
堀久太郎が静かに言うと、風花も頷いた。
「まことに……。それにしても、まさかかようなことになろうとはのう」
不安げな風花に、久太郎はわずかに笑みをたたえた。
「吹雪様にお声かけいただき、まことに恐悦至極。それがしが全て取り計らいましょう程に、どうか御案じ召さるな」
吹雪が幼い頃から親しくしていた堀久太郎に相談すると言い出したとき、風花は思わず止めたが、今となっては頼るしかない。
さすがは父・信長が信頼して傍に置いていただけのことはある。
彼は恭しく一礼すると、何事もなかったかのように暘谷庵を後にした。
冬の風が、乾いた落ち葉を巻き上げ、夜の闇へと消えていった。
****
蔵に入った義太夫は、具足櫃を前にして開けるのを躊躇っていた。
先ほどの堀久太郎と吹雪の会話を思い返す。
(若殿が……重い病か……)
具足よりも気になることができてしまい、しばし思案に沈む。
そんな義太夫の様子を見かねた助九郎が、待ちかねたように言った。
「義太夫殿。そのように具足櫃を睨んでいても、今更どうにもなりませぬぞ。ここは男らしく、一気に蓋を開けては?」
「戯けたことを申すな。それどころではない。若殿が重い病じゃ」
「若殿が重い病?それは由々しきことでは?」
「然様。それゆえ、どうしたものかと考えておったのじゃ」
義太夫がしたり顔で言うと、助九郎はポンと手を打つ。
「義太夫殿ならば若殿の病を治せるのでは?」
「……な、何?」
突拍子もないことを言い出した。義太夫は思わずたじろぐ。
「殿でもあるまいし…わしは薬草は育てても調合は…」
「されど、玉姫殿のときは難しい漢書を読みあさり、薬を作っておられたではありませぬか。若殿のときはできぬと?」
「ムム…おぬしの言うこと尤もじゃ」
助九郎の言葉に妙な説得力を感じた義太夫は、腕を組んで考え込む。
(やってやれないことはない……どれ、わしがひとつ、若殿のために薬を――)
と思い立ち、漢書を探そうと立ち上がったところで、ふと首を傾げた。
「……待て。そもそも、若殿の病はなんであろうか?」
「それを存じてはおられぬので?」
助九郎が呆れたように問い返す。
「……他聞を憚る病らしいとは聞いたが、病の名までは聞いておらぬ」
「いっそ、御台様に聞いてみては?」
「御台様に……。ふむ、わしが薬を作ると申し上げれば、教えてくださるかもしれぬな」
六郎や九郎がいる場所では、話しにくい。
義太夫は、子供たちが寝静まるのを見届けると、意を決して風花の前に伺候した。
冬の風が廊下を吹き抜ける中、義太夫は静かに膝をついた。
「御台様。教えてくだされ。若殿は何の病で?」
思いつめた顔でそう問うと、風花は不思議そうな顔をした。
「三九郎殿が病?」
「これが他聞を憚ることはそれがしもよく存じておりまする。されど、今こそ殿が残された数多くの医書を用いる時。恐れながらこの義太夫めが、若殿のために薬を…」
義太夫が意気込むと、風花は突然、声をあげて笑った。
「義太夫。何を思い違いをしておるのじゃ。三九郎殿は病などではない。さほどの重い病であれば、上州に向かう筈がなかろう」
言われてみれば、その通りだった。
義太夫が「はて?」と首をかしげて後ろを振り返ると、助九郎はホッと胸をなでおろしていた。
「では病は吹雪様で?」
「雪が? 何故そのような……。義太夫、戯けたことばかり言うでない」
風花は呆れたように微笑み、一笑すると、手文庫の中から包みを取り出し、義太夫の前にそっと置いた。
「それよりも、そなたがここへ戻った時に見せようと思うていたものがある」
「これは?」
「殿が関東下向の折、わらわに送ってくだされた書状じゃ。読んでみるがよい」
「そのような大切なものを…見てもよろしいので?」
一益が風花にあてた手紙と聞いては、さすがの義太夫も読むのを躊躇った。
風花は微笑みながら、静かに言った。
「殿が何を考えて関東に向かわれたか、それを読めばわかる。三九郎殿といい、義太夫といい、皆、頭に血が上りすぎておる。殿の御心を知るときと思うたゆえ、これを見せるのじゃ」
「殿の御心を…」
今となっては知る由もない旧主の心。
それがここには書かれているという。
(ロレンソも言うておったし、ここは殿の心の内を知るよい機会やもしれぬ)
義太夫は包みを有難く押し頂くと、懐にしまって蔵に戻った。
冬の風が、遠くの木立をざわめかせる。
そこには、まだ見ぬ一益の想いが、秘められているのかもしれなかった。
蔵に戻った義太夫は、具足櫃の上に風花から渡された書状をそっと置き、腕を組んで悩んでいた。
――開くべきか、開かざるべきか。
「義太夫殿。そのように勿体つけず、早う読んでくだされ」
助九郎が興味津々に促すが、義太夫は渋い顔をする。
「いやいや、それでは余りに勿体ない……されど、まことに読んでもよいのであろうか」
主の手紙を無断で読むなど、不忠ではないか――
迷いが消えぬ義太夫に、助九郎はあっさりと言ってのけた。
「されど、御台様がよいと仰せになっているのです。これは読むべきかと」
「うーん…では、読んでみるか」
義太夫は改めて書状を押し頂き、恐る恐る封を解いた。
「懐かしや…」
広げた瞬間、見慣れた一益の筆跡が飛び込んできた。
その途端、胸が熱くなり、懐かしさに涙が込み上げる。
義太夫は無言のまま、書状に目を走らせた。
そこには――。
伊勢に戻りたいのは山々ではあるが、関東に留まらなければならない、とある。
(やはり殿は伊勢に戻りたいとお考えであったか)
一益が大国の主となったとき、家臣たちは皆、手を打って喜んだ。
無論、一益も供に喜び、酒宴の席でも皆に請われて一差し舞っていたのを覚えている。
だが、その宴のさなか、ふと遠くを見つめるような横顔を、義太夫は何度も目にしていた。
書状を読み進めると、一益の胸の内が浮かび上がってくる。
「我が身、信長公の名代として関東に留まれば、東の動乱鎮まり、大掛かりな戦さは避けられん」
(そうであった)
あの頃、北条、伊達、佐竹といった東国の大名たちは、武田を滅ぼした織田家を恐れ、次々と和議を求めていた。
西国に目を向ければ、毛利との戦さのさなか、九州の島津すらも信長に恭順し、毛利攻めに加わることとなっていた。
(それが今や、北条も島津も敵…)
原因はひとえに秀吉の出自の卑しさにある。
北条も島津も、信長には従うことができても、秀吉に臣従するのは名折れと感じているのだ。
――もし殿が関東に留まり続けていたならば。
戦さを止めることはできたのだろうか。
その先には、義太夫や新介が城持ちとなり、手放しで喜んでいたことが事細かに書かれている。
詳細に書いてあることを鑑みるに、家臣の喜ぶ姿に、一益も少なからず喜びを覚えていたようだ。
「有難い主じゃ」
涙を拭って続きを読むと、義太夫の目が最後の一節に止まった。
~全て剣をとる者は剣にて亡ぶる也~
武田滅亡を目の当たりにした一益の本音なのかもしれない。
(確かに昔、殿がそう言っていた……)
その時は、軽く聞き流していたが――。
(御台様にあてた文の最後に書かれたということは、殿はそれだけ、重く受け止めていたのか……)
義太夫は、ぷっつりと黙り込んだ。
それを見た助九郎は待ちきれず、覗き込んで尋ねた。
「一体、なんと書いてあるので?」
「そのほうも読んでみよ」
「いやいや、殿の文はほぼ漢文。仮名がなく、読み解くのは至難の業にて」
「おぉ、確かに……帰するところ、殿は関東から戦さをなくすために、東国へ行ったと、そう書いてある」
「これほど文字で埋め尽くされた文が、たったそれだけとは思えませぬ。もう少し丁寧に教えてくだされ」
「嫌じゃ」
「え?」
「口に出すと有難味が減るではないか」
「なんと小さきことを仰せになるのか」
「では今から寺へ行き、文字を習うて参れ」
助九郎が、そんな、と怒って立ち上がると、勢い余って具足にぶつかり、蓋がガタリと外れた。
具足櫃の中にある具足がキラリと光った。
「落ち着け、助九郎…や、これは…」
具足櫃の中には、丁寧に仕舞われた南蛮胴と南蛮兜があった。
「義太夫殿、ご覧あれ!」
助九郎が蓋を開けると、籠手、拗当、鎧下、脚絆まですべてが揃っていた。
「おぉ!錆びてはおらぬ!」
「玉姫殿が手入れしくだされたのでは?」
その隣には、綻び一つない鎧下が畳まれている。
そして――。
「この脚絆の柄は…」
義太夫は思わず息を呑んだ。
それは、玉姫が着ていた小袖の布で仕立てられていた。
(玉姫殿が、小袖を下ろして……)
戦さが終わるたびに、玉姫はすべての装束を手入れしてくれていた。
鎧についた刀傷や弾痕を見つけるたびに、彼女は暗い顔をしていたものだ。
(いつも、わしのことを案じて……)
兄である武藤宗右衛門は、戦場に出たまま戻らなかった。
だからこそ、玉姫にとって義太夫を見送る心中は穏やかならぬものがあっただろう。
気丈に振る舞いながらも、無事に戻る姿を見るまでは、どれほど不安な夜を過ごしたことか。
(あの頃は、気に留めることもなかった……)
しかし今、ようやくその想いに気づく。
「如何なされた。これで九州に赴き、槍働きができるというものではありませぬか」
助九郎に言われ、ハタと我に返る。
「おぉ……さすがは玉姫殿じゃ。これでもう怖いものはない。しっかり働いて、姫様を返してもらわねばなるまいて」
今一つ、気持ちに力が入らない。
だが、行くと言った以上、今更後には引けない。
(葉月様を取り戻すと、若殿にも約束している)
――にしても、堀久太郎と御台様の話は……あれは何だったのか。
結局、誰のことを話していたのかも、分からないままだった。
(されど、若殿がご病気ではないと分かったのじゃ。よしとしよう)
まずは忠三郎と共に九州へ。
今度こそ、悲願を果たさねばならない。
厩へ足を運ぶと、見慣れぬ立派な鞍をつけた馬が繋がれていた。
義太夫は首を傾げる。
「どなたか、客人が来ておるようで」
珍しいこともあるものだ。
助九郎がちらりと母屋を伺うが、ここからではよく見えない。
「はて。若殿の連れであろうかのう」
しかし、三九郎の馬はいない。
どうやら三九郎ではないらしい。
だとすれば、一体誰が――。
何とはなしに、義太夫は足音を忍ばせ、そっと母屋へと入っていく。
遠目に風花の前に座る客人の姿が見えた。
(大層ないで立ちじゃ。あれは上州の者ではない)
馬の鞍の立派さ、小袖の華やかさ――。
それなりに身分が高い者であることは明らかだった。
殊更に華やかないでたちを好むのは、かつての織田家の家臣たち……。
(何やら、込み入った話のような……)
義太夫は、気づかれぬように静かに隣の部屋の襖を開け、そっと中へと忍び込んだ。
――隣の部屋から漏れ聞こえる話に、耳を澄ませる。
襖越しに聞こえてくる、低く抑えた声。
「ご案じ召さるな。出陣は来月。大軍を率いて遠国へと向かいまする。一月もかかる旅路ののち、戦さとなりましょう。しばらく皆、上方には戻りませぬ」
(どこかで聞いたことのある声……)
思い出そうとするが、記憶の奥に霞んでいて、はっきりとは思い出せない。
「されど、どこかからか漏れることはなかろうか」
風花の声だ。
「存じておるのは、ここにおる者と、傍付の侍女以外では、それがしが連れてきた薬医のみ。これも口の堅い者を連れて参りました」
(他聞を憚る内容……それに、薬医とは……誰か、病か?)
義太夫は眉をひそめる。
「三九郎殿が去ってから分かるとはのう」
「三九郎殿はいずこへ?」
「信濃へ戻ると言うておった。雪から知らせを受け、急ぎ使いを送ったが、まだ追いついてはおらぬであろう」
(雪……? ああ、御台様の姉の吹雪殿のことか。いや、まてよ。吹雪殿が病? であれば、話している相手は……吹雪殿の知人か?)
「むしろ、呼び戻さぬほうがよいかもしれませぬ。忠三郎が寄り付かぬとはいえ、今、蒲生家に出入りするのはちと拙い」
――蒲生家に出入り?
若殿が、そのようなことを?
義太夫は思わず声を上げそうになり、慌てて口を押さえた。
(はて、拙いとは……? 若殿と吹雪殿の間に、何があったというのじゃ)
何が何やらさっぱり分からず、頭の中が混乱する。
「いずれにせよ、病と称し、屋敷からは決して出ぬようにと伝えおきました」
「それがよい。今は久太郎殿だけが頼りじゃ」
――久太郎!
義太夫は再び声を出しそうになり、ウッと息を止める。
(堀久太郎か!)
思い出した。
確かに、声も、後ろ姿も見覚えがある。
織田信長に仕えた堀久太郎――こと、堀秀政。その名を聞けば、誰もが目を細め、ある者は憧れ、またある者は嫉妬を滲ませる。
若くして織田信長に認められた俊英。
その才は、春の陽のごとく眩く、光あるところには影が生まれるがごとく、多くの者の胸に深い印象を刻んできた。
常より煌びやかな衣装をまとい、その立ち姿は京の雅を思わせるも、決して華やかさに溺れることはない。
才知に秀で、機略に長け、時に冷徹、時に情に篤く、主君のためには躊躇なく刃を振るう覚悟を持つ。
その剛胆さ、そして武の才――。
戦場においては、烈風のごとく駆け、火花の舞う刃の中にあっても微塵も怯まぬ。
若さゆえの血気盛んな振る舞いがあるかと思えば、老練の将ですら唸るほどの深慮遠謀を巡らせることもある。
――華と剣を併せ持つ男。
しかし、その一方で忠三郎とは若年の折より犬猿の仲としても知られている。考え方も、戦の立ち回りも、何もかもが相容れぬ二人。
かつて、信長の御前にて言葉を交わすたび、火花が散ったことは一度や二度ではない。
(それにしても、何故、堀久太郎が……)
どうやら吹雪が久太郎に相談を持ちかけたらしいが、その背後には三九郎の名がちらついている。
そして、吹雪は他聞を憚る病。
(まさか業病か?なるほど、若殿が業病を吹雪殿にうつした……それゆえ、吹雪殿は……)
だが、ふと義太夫は首をかしげる。
(いや、待て。そもそも、若殿は何ゆえ吹雪殿に会うたのか?)
疑問は深まるばかりだったが、いつまでも聞き耳を立てているのは拙い。
義太夫はそっと部屋を抜け出し、具足櫃のある蔵へと向かった。
***
「これまでも臥せっておられた由。病と言うておけば、疑う者はおりますまい。それよりも、まずは虎殿に精をつけてもらわねば」
堀久太郎が静かに言うと、風花も頷いた。
「まことに……。それにしても、まさかかようなことになろうとはのう」
不安げな風花に、久太郎はわずかに笑みをたたえた。
「吹雪様にお声かけいただき、まことに恐悦至極。それがしが全て取り計らいましょう程に、どうか御案じ召さるな」
吹雪が幼い頃から親しくしていた堀久太郎に相談すると言い出したとき、風花は思わず止めたが、今となっては頼るしかない。
さすがは父・信長が信頼して傍に置いていただけのことはある。
彼は恭しく一礼すると、何事もなかったかのように暘谷庵を後にした。
冬の風が、乾いた落ち葉を巻き上げ、夜の闇へと消えていった。
****
蔵に入った義太夫は、具足櫃を前にして開けるのを躊躇っていた。
先ほどの堀久太郎と吹雪の会話を思い返す。
(若殿が……重い病か……)
具足よりも気になることができてしまい、しばし思案に沈む。
そんな義太夫の様子を見かねた助九郎が、待ちかねたように言った。
「義太夫殿。そのように具足櫃を睨んでいても、今更どうにもなりませぬぞ。ここは男らしく、一気に蓋を開けては?」
「戯けたことを申すな。それどころではない。若殿が重い病じゃ」
「若殿が重い病?それは由々しきことでは?」
「然様。それゆえ、どうしたものかと考えておったのじゃ」
義太夫がしたり顔で言うと、助九郎はポンと手を打つ。
「義太夫殿ならば若殿の病を治せるのでは?」
「……な、何?」
突拍子もないことを言い出した。義太夫は思わずたじろぐ。
「殿でもあるまいし…わしは薬草は育てても調合は…」
「されど、玉姫殿のときは難しい漢書を読みあさり、薬を作っておられたではありませぬか。若殿のときはできぬと?」
「ムム…おぬしの言うこと尤もじゃ」
助九郎の言葉に妙な説得力を感じた義太夫は、腕を組んで考え込む。
(やってやれないことはない……どれ、わしがひとつ、若殿のために薬を――)
と思い立ち、漢書を探そうと立ち上がったところで、ふと首を傾げた。
「……待て。そもそも、若殿の病はなんであろうか?」
「それを存じてはおられぬので?」
助九郎が呆れたように問い返す。
「……他聞を憚る病らしいとは聞いたが、病の名までは聞いておらぬ」
「いっそ、御台様に聞いてみては?」
「御台様に……。ふむ、わしが薬を作ると申し上げれば、教えてくださるかもしれぬな」
六郎や九郎がいる場所では、話しにくい。
義太夫は、子供たちが寝静まるのを見届けると、意を決して風花の前に伺候した。
冬の風が廊下を吹き抜ける中、義太夫は静かに膝をついた。
「御台様。教えてくだされ。若殿は何の病で?」
思いつめた顔でそう問うと、風花は不思議そうな顔をした。
「三九郎殿が病?」
「これが他聞を憚ることはそれがしもよく存じておりまする。されど、今こそ殿が残された数多くの医書を用いる時。恐れながらこの義太夫めが、若殿のために薬を…」
義太夫が意気込むと、風花は突然、声をあげて笑った。
「義太夫。何を思い違いをしておるのじゃ。三九郎殿は病などではない。さほどの重い病であれば、上州に向かう筈がなかろう」
言われてみれば、その通りだった。
義太夫が「はて?」と首をかしげて後ろを振り返ると、助九郎はホッと胸をなでおろしていた。
「では病は吹雪様で?」
「雪が? 何故そのような……。義太夫、戯けたことばかり言うでない」
風花は呆れたように微笑み、一笑すると、手文庫の中から包みを取り出し、義太夫の前にそっと置いた。
「それよりも、そなたがここへ戻った時に見せようと思うていたものがある」
「これは?」
「殿が関東下向の折、わらわに送ってくだされた書状じゃ。読んでみるがよい」
「そのような大切なものを…見てもよろしいので?」
一益が風花にあてた手紙と聞いては、さすがの義太夫も読むのを躊躇った。
風花は微笑みながら、静かに言った。
「殿が何を考えて関東に向かわれたか、それを読めばわかる。三九郎殿といい、義太夫といい、皆、頭に血が上りすぎておる。殿の御心を知るときと思うたゆえ、これを見せるのじゃ」
「殿の御心を…」
今となっては知る由もない旧主の心。
それがここには書かれているという。
(ロレンソも言うておったし、ここは殿の心の内を知るよい機会やもしれぬ)
義太夫は包みを有難く押し頂くと、懐にしまって蔵に戻った。
冬の風が、遠くの木立をざわめかせる。
そこには、まだ見ぬ一益の想いが、秘められているのかもしれなかった。
蔵に戻った義太夫は、具足櫃の上に風花から渡された書状をそっと置き、腕を組んで悩んでいた。
――開くべきか、開かざるべきか。
「義太夫殿。そのように勿体つけず、早う読んでくだされ」
助九郎が興味津々に促すが、義太夫は渋い顔をする。
「いやいや、それでは余りに勿体ない……されど、まことに読んでもよいのであろうか」
主の手紙を無断で読むなど、不忠ではないか――
迷いが消えぬ義太夫に、助九郎はあっさりと言ってのけた。
「されど、御台様がよいと仰せになっているのです。これは読むべきかと」
「うーん…では、読んでみるか」
義太夫は改めて書状を押し頂き、恐る恐る封を解いた。
「懐かしや…」
広げた瞬間、見慣れた一益の筆跡が飛び込んできた。
その途端、胸が熱くなり、懐かしさに涙が込み上げる。
義太夫は無言のまま、書状に目を走らせた。
そこには――。
伊勢に戻りたいのは山々ではあるが、関東に留まらなければならない、とある。
(やはり殿は伊勢に戻りたいとお考えであったか)
一益が大国の主となったとき、家臣たちは皆、手を打って喜んだ。
無論、一益も供に喜び、酒宴の席でも皆に請われて一差し舞っていたのを覚えている。
だが、その宴のさなか、ふと遠くを見つめるような横顔を、義太夫は何度も目にしていた。
書状を読み進めると、一益の胸の内が浮かび上がってくる。
「我が身、信長公の名代として関東に留まれば、東の動乱鎮まり、大掛かりな戦さは避けられん」
(そうであった)
あの頃、北条、伊達、佐竹といった東国の大名たちは、武田を滅ぼした織田家を恐れ、次々と和議を求めていた。
西国に目を向ければ、毛利との戦さのさなか、九州の島津すらも信長に恭順し、毛利攻めに加わることとなっていた。
(それが今や、北条も島津も敵…)
原因はひとえに秀吉の出自の卑しさにある。
北条も島津も、信長には従うことができても、秀吉に臣従するのは名折れと感じているのだ。
――もし殿が関東に留まり続けていたならば。
戦さを止めることはできたのだろうか。
その先には、義太夫や新介が城持ちとなり、手放しで喜んでいたことが事細かに書かれている。
詳細に書いてあることを鑑みるに、家臣の喜ぶ姿に、一益も少なからず喜びを覚えていたようだ。
「有難い主じゃ」
涙を拭って続きを読むと、義太夫の目が最後の一節に止まった。
~全て剣をとる者は剣にて亡ぶる也~
武田滅亡を目の当たりにした一益の本音なのかもしれない。
(確かに昔、殿がそう言っていた……)
その時は、軽く聞き流していたが――。
(御台様にあてた文の最後に書かれたということは、殿はそれだけ、重く受け止めていたのか……)
義太夫は、ぷっつりと黙り込んだ。
それを見た助九郎は待ちきれず、覗き込んで尋ねた。
「一体、なんと書いてあるので?」
「そのほうも読んでみよ」
「いやいや、殿の文はほぼ漢文。仮名がなく、読み解くのは至難の業にて」
「おぉ、確かに……帰するところ、殿は関東から戦さをなくすために、東国へ行ったと、そう書いてある」
「これほど文字で埋め尽くされた文が、たったそれだけとは思えませぬ。もう少し丁寧に教えてくだされ」
「嫌じゃ」
「え?」
「口に出すと有難味が減るではないか」
「なんと小さきことを仰せになるのか」
「では今から寺へ行き、文字を習うて参れ」
助九郎が、そんな、と怒って立ち上がると、勢い余って具足にぶつかり、蓋がガタリと外れた。
具足櫃の中にある具足がキラリと光った。
「落ち着け、助九郎…や、これは…」
具足櫃の中には、丁寧に仕舞われた南蛮胴と南蛮兜があった。
「義太夫殿、ご覧あれ!」
助九郎が蓋を開けると、籠手、拗当、鎧下、脚絆まですべてが揃っていた。
「おぉ!錆びてはおらぬ!」
「玉姫殿が手入れしくだされたのでは?」
その隣には、綻び一つない鎧下が畳まれている。
そして――。
「この脚絆の柄は…」
義太夫は思わず息を呑んだ。
それは、玉姫が着ていた小袖の布で仕立てられていた。
(玉姫殿が、小袖を下ろして……)
戦さが終わるたびに、玉姫はすべての装束を手入れしてくれていた。
鎧についた刀傷や弾痕を見つけるたびに、彼女は暗い顔をしていたものだ。
(いつも、わしのことを案じて……)
兄である武藤宗右衛門は、戦場に出たまま戻らなかった。
だからこそ、玉姫にとって義太夫を見送る心中は穏やかならぬものがあっただろう。
気丈に振る舞いながらも、無事に戻る姿を見るまでは、どれほど不安な夜を過ごしたことか。
(あの頃は、気に留めることもなかった……)
しかし今、ようやくその想いに気づく。
「如何なされた。これで九州に赴き、槍働きができるというものではありませぬか」
助九郎に言われ、ハタと我に返る。
「おぉ……さすがは玉姫殿じゃ。これでもう怖いものはない。しっかり働いて、姫様を返してもらわねばなるまいて」
今一つ、気持ちに力が入らない。
だが、行くと言った以上、今更後には引けない。
(葉月様を取り戻すと、若殿にも約束している)
――にしても、堀久太郎と御台様の話は……あれは何だったのか。
結局、誰のことを話していたのかも、分からないままだった。
(されど、若殿がご病気ではないと分かったのじゃ。よしとしよう)
まずは忠三郎と共に九州へ。
今度こそ、悲願を果たさねばならない。
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