獅子の末裔

卯花月影

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26.筑紫の国

26-8. 静かなる敗北

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 四月――
 照りつける陽光が大地を焦がし、草木は青々と茂りながらも、どこか乾いた風が吹き抜ける。
 九州を快進撃する豊臣勢。
 いかに島津が強兵といえど、圧倒的な兵力の前には、屈するしか道はない。
 このまま一気に薩摩へ攻め入り、島津を討ち滅ぼす。
 誰もがそう信じ、寄せ手の士気は高まるばかりだった。

 だが――
 その前に、誰も予想だにしない問題が立ちはだかった。
「兵が飢えている?」
 忠三郎は思わず首を傾げた。
 陽炎の揺れる戦陣の中、あり得ぬ報せが耳に届く。
「兵站はすべて豊臣家の奉行衆に任せきりになっておろう。九州出陣の折、大量の兵糧・武器・弾薬を船で博多まで運び入れたと聞いていたが……」
 焦りを押し殺しながら問い返す。
 だが、町野左近の表情は険しいままだった。
「されど、全軍合わせて二十五万。とても賄いきれるものではありませぬ」

 敵を圧倒するはずの二十五万の大軍。
 だが、戦の要となるはずの兵糧が尽きかけているという。
「兵糧がなくては、戦さにならぬではないか……」
 忠三郎の呟きが、熱気に満ちた陣中に沈み込む。
 軍勢の進撃は、まるで一陣の嵐のごとく進められてきた。
 しかし、その嵐の勢いは、今や餓えによって急速に削がれつつある。
(このままでは、いずれ乱取りに走るしかなくなる……)
 行く先々で民の倉を荒らし、田畑を踏み荒らせば、今後の統治が難しくなる。
 それに、乱取りを行ったところで、この膨れ上がった軍勢の胃袋を満たせるはずもない。
「それでは困る。奉行衆は何というておるのか」
 忠三郎の問いに、町野左近は小さく息を吐き、重々しく答えた。
「まだ半月ほどの兵糧はござります。尽きる前に、手立てを講じる故、進軍を止めてはならぬとの通達が全軍に出ておりまする」
「手立てとは、いかなる手立てか」
 問いかける。
 しかし、返る答えはない。
 忠三郎は奥歯を噛みしめた。
 進軍は止められぬ。だが、その先に待つのは何だ――?
 飢えに喘ぐ兵たちの屍か、それとも、乱取りで荒れ果てた土地か。

 ――しかし、それは始まりに過ぎなかった。
 兵站の不安が広がる中、焦燥と疲労を押し殺しながらの行軍が続く。
 一日の行軍を終え、ようやく馬を下りようとしたその時だった。
「殿! 未曽有の一大事でござります」
 突如、町野左近が駆け寄ってくる。
 いつも冷静沈着ともいえない町野左近が、殊の外、焦っているようだ。
 息を荒げ、目はわずかに見開かれ、まるで何か恐ろしいものを見たかのような表情を浮かべている。
「どうか、兵どもにはお近づきになりませぬように!」
「未曽有の一大事?」
 忠三郎は眉をひそめた。
 ただならぬ雰囲気に、胸の奥で言い知れぬ不安がざわりと蠢く。
「兵の間で……疫病が流行り出しておりまする。」
「疫病……?」

 その言葉が耳に届いた瞬間、忠三郎の全身を冷たいものが駆け抜けた。

 疫病――
 それは、戦場においてさえ恐れられる見えざる悪霊。
 敵の刃よりも恐ろしく、軍勢を容赦なく飲み込んでゆく災厄。
 左近の表情は青ざめ、陣中の空気はどこか湿ったように重く、沈痛なものに変わっていた。
 飢えに続き、疫病――
 進軍の足元を支えるはずのものが、今、静かに崩れ落ちようとしているのを感じた。
「如何なる疫病じゃ」
 忠三郎の声は落ち着きを装っていたが、その胸中では、得体の知れぬ不安が膨れ上がっていた。
 町野左近は困惑した表情を浮かべ、言葉を選びながら答えた。
「熱、咳だけではなく、腹を下し、身体に赤い痣のようなものができるとかできないとか……かような疫病は、目にしたこともありませぬ。」

 赤い痣――。
 忠三郎は息を詰めた。
 風邪や疲労からくる病とは違う。
 戦場を駆け抜け、数多の死を見てきたが、赤い痣が浮かび上がる病など、聞いたこともなかった。
(未知の病が、巣食っている……?)
 忽然と、遠い記憶が蘇る。
 かつて一益が語っていた「西から来た病」――
 まさか、あれと同じものなのか? それとも、新たな災厄か?

 忠三郎の背筋を、じわりと冷たい汗が伝う。
 このままでは、戦場で刀を交える前に、軍が崩壊しかねない。
 忠三郎は顔を上げ、周囲に居合わせた家臣たちの顔を見回した。

「誰か……医術に心得のある者はおらぬか?」
 だが、居並ぶ者たちは互いに顔を見合わせ、誰も即答できない。
 この軍の中で、疫病に立ち向かえる者がいないのか――?
 沈黙が陣中に重くのしかかる。
 その静寂を破ったのは、家臣のひとりだった。
「滝川家から来た谷崎殿であれば、あるいは……」
「谷崎忠右衛門か」
 忠三郎は、その名を聞いて思わず唇を噛む。
 ――医術の心得のあった滝川一益の側に長く仕えていた忠右衛門。
(何かわかるかもしれぬ――)

 このまま疫病が広がれば、戦どころではない。
 忠三郎は、一縷の望みを抱き、即座に忠右衛門を呼び寄せるよう命じた。

 やがて、話を聞いた忠右衛門は、早速何人かの病人を診た後、静かに姿を現した。
「恐らくは、四十年程前に蔓延した疫病と同じものかと……」
「四十年前?」
 忠三郎は思わず聞き返す。
 四十年前といえば、忠三郎が生まれる前のこと。
(そんな昔に、すでにこの病があったというのか)
 谷崎忠右衛門自身も、まだ幼児の頃。
「ただ、何分にも、それがしが直接目にしたわけではありませぬ。殿からのまた聞き程度の話でござりますゆえ……」
「義兄上からの?」
 忠三郎の胸に、一益の面影がよぎる。
(四十年前……義兄上は、その疫病を知っていたのか?)
「その話の時、義兄上は何と仰せになっていた?」
「西から、病が広まったと……」
「西から……」
 忠三郎は、しばし考え込む。

 西――
 それは、ただの地理的な話ではない。
「多くの流行り病は、海を越えた地からもたらされると、殿はそう仰せで」
「海を越えた地……」
 ふと、遠く海の向こうから吹き寄せる風が、じっとりと湿気を孕んでいることに気づく。
 海の向こうには、何がある?
「見知らぬ地へ足を踏み入れる以上、見知らぬ病があったとしても不思議はないものかと」
 忠右衛門が呟いた言葉は、重く、冷たく、避けがたい現実を思い知らせるものだった。
 それは誰の考えか――
 聞かずとも、分かっていた。
(義兄上が、そう仰せであったか)
 かつて、大軍を率いて信濃に攻め入ったとき、寒さから多くの兵が倒れていった。さらに進軍を続けて甲斐、上野の地へ向かった一益は、何に遭遇し、何を見て、そう言ったのだろうか。

(西から来た病……これは、ただの偶然か)
 忠三郎は、空を仰いだ。
 雲一つない初夏の空が、どこまでも高く、そして無情に広がっている。

 すでに兵の間では死者が出始めている。咳き込み、熱にうなされ、赤い痣を浮かべた者たちが、次々と倒れてゆく。
 もはや、この状況で行軍を進めることはできない。
 兵たちの足が止まれば、それは戦の終わりを意味する。
 だが、このまま留まれば、疫病の渦の中で軍そのものが崩れ去る。
(どうすれば…)
 その答えは、どこにもない。
 ふと、高山右近の言葉が脳裏をよぎる。
「武力をもって従わせることは人の国に土足で踏み入る盗人の類と大差ないのでは?」
 その言葉が、今になってずしりと胸を打つ。
 何のための戦だったのか。
 この疫病も、飢えも、あまりに皮肉ではないか。
 思いがけぬ兵糧不足。
 そして、広がる疫病。
 これは、何を意味するのか――。

 初夏を迎えた筑紫の国の森林。
 その緑の香りが、懐かしき故郷の森を思い起こさせる。
 今はもう手の届かぬ、遠い日の記憶。
 静かに揺れる梢が、遠き記憶を呼び覚ます。
 ――『無骨な武士には作ることのできない泰平の世を築く者とならんことを願う』

 辺りが夕闇に包まれる中、ふいに忘れかけていた友の声が甦った。
(佐助……)
 風がそっと、頬を撫でる。
 それは、まるで失われたものの名残を伝えるかのように、切なく、儚く吹き抜けていく。
 懐かしき声に導かれるように、忠三郎は決断した。
「島津と和議を結び、早々にこの地を発たねば、死者が増えるばかりじゃ」
「は?ここまで来て、引き返すと?」
 驚愕する町野左近。
 無理もない。ここまで積み上げてきた戦の歩みを、ここで止めるというのか。
 だが、忠三郎は静かに頷いた。
「手遅れになる前に兵を引かねばなるまい」
 これ以上、戦を続ければどうなるか。
 敵と斬り結ぶよりも先に、疫病が軍を喰らい尽くす。
 戦の勝敗ではなく、誰が生き残れるのかすら定かではない。
 島津を討つよりも、今は疫病という見えざる敵の方が恐ろしい。
 忠三郎は、事の次第を秀吉の元へ伝える使者を送った。
 その手が、かすかに震えていることに、誰も気づくことはなかった。

 しかし――事態は思っていた以上に深刻であった。
 兵糧不足から来る飢えと疲労。
 そこへ広まった疫病は、わずか数日のうちに豊臣軍全体を蝕み始めた。
 各地の陣営で、発熱し、咳をし、腹を下し、赤い痣を浮かべた兵たちが次々と倒れていく。
 まるで見えざる手が軍を覆い尽くし、命という命を静かに刈り取っていくかのようだった。
 奉行衆は頭を抱え、もはや進軍どころではなくなった。
 もはや刃を交える前に、兵たちは戦えぬ身体となっていた。
 「島津を滅ぼすべし」という抗戦派の声は、ここにきて退けられることとなる。

 ――そして、戦の行方は、思わぬ形で決まり始めていた。
 島津義久が人質を出し、降伏した。
 戦は終わった。
 だが、それは勝利と呼べるものだったのか――。
 全軍に陣払いが命じられ、ついに帰国の時が訪れた。

「これでようやく国に帰れるというもの」
 疲れ果てた家臣たちは、ようやく安堵の息を吐いた。
 戦場の泥を落とし、故郷へ戻る――誰もがそれを待ち望んでいた。
 だが――
「殿。病人どもは如何いたしまする?」
 不意に町野左近の声が、忠三郎の心に鋭い楔を打ち込んだ。
「如何する……とは……?」
 問い返す声が、かすかに揺れる。
 戦は終わったはずだった。
 しかし、それは勝利ではなかった。
 町野左近は言葉を選びながらも、冷厳な現実を突きつけた。
「このまま連れ帰るおつもりで?」

 この病が一体何なのか。
 四十年前と同じものなのか、それとも全く未知の疫病なのか。
 今は、何一つ分かっていない。
 そんな中、もし罹患した兵をそのまま領国へ連れ帰れば――
 疫病は、故郷の民すべてを襲うことになる。
「とはいえ、兵糧すら尽きかけた見知らぬ地に置き去りにすれば、皆は衰弱し、死を待つのみとなろう」
 彼らは、伊勢から遠い筑紫の国まで連れてきた、忠三郎の領内に住む民だ。
 本来であれば、守らねばならぬ者たち。
 昨日までは槍を手に並び立ち、共に戦場を駆け抜けた兵たち。
 今、その彼らが病に倒れゆくのを、ただ見捨てるしかないのか――?

「さりながら、それは連れ帰っても同じことかと。病を抱えていては、長旅に堪え得るものではありますまい。むしろ少し兵を減らさねば……」
「兵を減らす……」
 その言葉の響きが、酷く冷たく感じられた。
 兵糧が乏しい中、険しい山道を撤退すれば、飢えと病に倒れるものは急増する。
 ここで病人と怪我人を置いていくことで兵を減らさねば、全軍に兵糧を行き渡らせることはできない。
「見捨てよと……申すのか……?」
 忠三郎は、気づけば拳を強く握り締めていた。
 戦は終わったはずだ。
 だというのに、何故これほどの苦渋の決断を迫られねばならぬのか。
「故郷へ帰りたくば、皆を見捨てよと――」
 それが、天下をかけた戦の果てにある現実。

(……遠く、見知らぬ国まで来て、掴んだものがこれか……)
 勝利の余韻はない。
 ただ、静寂だけが満ちている。
 筑紫の国の空は、ただ静かに広がっていた。
 戦の喧騒が消え去った後に残されたものは――
 病に倒れた兵たちと、決断を迫られる忠三郎の孤独だけだった。
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