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27.伴天連禁制
27-1. 異国の風
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青く澄みわたる空の下、少年はそっと目を細めた。
年のころ十二、三。その瞳は、遥か彼方にそびえる故郷の山を映している。
「若は、ずいぶんと綿向山がお気に召しておいでのようでございますな」
柔らかにかけられた声。少年は、ふと微笑を浮かべ、どこか恥じらうように呟く。
「あの山は、幼き日よりわしを見守り続けてくれた、いわば父のようなものじゃ」
母を失った日も、寒さに一人震える夜も、あの山は変わらずそこにあった。 見上げれば、いつでも包み込むような静けさで、己を迎えてくれたものだ。
その言葉に、佐助は静かに頷く。
「古来より、人の生死は自然の理と深く結びついていると申します。若のお言葉、誠にもっともなことでございましょう」
風がそよぎ、森の葉擦れが静かに響く。綿向山の稜線は、どこまでも穏やかで、そして雄々しい。
「古来より?」
少年が問い返すと、佐助は深く頷き、静かに口を開いた。
「はい。宝命全形と申します。黄帝問うて曰く、天は覆い地は載せ、萬物は悉く備わる、人より貴きは莫し」
「人より貴きは莫し…」
少年はその言葉を口の中で転がしながら、遠き山影を見つめる。
「中華最古とも伝わる黄帝内経なる医書、その宝命全形に記されておりまする」
「中医書?」
「はい。医術とは、ただ病を癒すものにあらず。世を癒し、国をも癒すもの。
ゆえに、天命に背き、民を顧みぬ暗君は討たれるべき——と」
「それはおぬしの考えか?」
少年が静かに問うと、佐助はかぶりを振った。
「いえいえ。滅相もない。それがし、古代の文字を解するほどの才はござりませぬ。これは…」
「…誰かから学んだことだと?」
沈黙が、ふたりの間に一瞬、流れた。少年はじっと佐助を見つめる。
「佐助。それは、夜な夜な城を抜け出しておることと関りあることか」
「若はそれがしが城を抜け出しておることをすでにご存じで」
佐助は静かに微笑む。だが、その瞳の奥には、何かを秘めた色が宿っている。
「二心あってのことではありませぬ」
佐助はやや慌てた様子で言葉を紡いだ。
「若に多くのことをお伝えしたくとも、それがしでは些か力及ばず…。それゆえに時折、甲賀の里へ戻り、とある御仁に教えを乞うておるのでござります」
少年は佐助の顔をじっと見つめると、穏やかに頷いた。
「おぬしを疑うておるわけではない。案ずるな」
その声音は優しく、佐助の心を静かに和らげるものであった。
(にしても…)
少年は内心、考え込む。佐助が教えを受けている御仁とは、いったい何者なのか。
「甲賀には医術に通じた者がおるのか?」
「はい」
佐助は深く頷き、静かに語り出す。
「甲賀には、大陸より渡ってきた医書が数多く残されておりまする。読み解くのは至難の業なれど、それを解する御方がおいでにて、その知識をもとに多くの薬を作り、人々のために役立てておられます」
その言葉に、少年の脳裏にふと、ひとつの考えがよぎる。
——その薬のひとつが、火縄銃に使われる火薬なのだと。
あれは誰の事だったのだろう。
(まさか…佐助に医術を教えていたというのは……)
意識が混とんとする中、忠三郎はなおも昔の話をたぐるように記憶を探った。
(そう……確か、その話の直後に、佐助は笑って——)
「かような得難き御仁は早々おられませぬが、共に学んでおるそれがしの兄弟子のほうは、どうにもそれを解せぬらしく、一章読むごとに『やれ腹が減ったの、饅頭を仕入れたの』と、とんと学ぶ意欲も感じられぬ次第にて」
(腹が減ったの、饅頭を仕入れたの……)
その言葉に、忠三郎の心の奥で、何かがぴたりとはまる。
妙に合致する人物が、すぐ身近にいるではないか。
(まさか……兄弟子とは……)
驚きと半ば呆れが入り混じる心地のまま、忠三郎はふと、ある人物の飄々とした笑顔を思い浮かべた。
(妙な話だ)
改めて思い返すと、この話には不可解な点がある。
甲賀の里、三雲家——そこは、佐助にとって辛い思い出ばかりが残る場所ではなかったか。
(にもかかわらず、わざわざ足を運んでいたのか)
佐助はある時を境に、兵法書の内容を少しずつ教えてくれるようになった。
(あの時から…)
忠三郎が兵法書を読んだことがないと、そう告げた頃からだ。
(佐助に教えていたのは…)
三雲家で教えを受けていたと考えるには不自然な点が多い。
むしろ——
(三雲家以外の……甲賀の……)
忠三郎の思考の奥底に、まだ霧に包まれたままの、ある名が浮かびかけていた。
ここちよい風が吹き抜ける。潮の香りを含んだ風は、どこか異国の気配をまといながら、静かに室内を巡っていた。
忠三郎はふと目を覚ました。
「ここは……」
布団に横たえられている。見上げる天井も、周囲のしつらえも見覚えがない。
(豊後の……キリシタンの病院なる場所か……)
天井に吊るされたランプが、いつも見慣れた燭台とは違う。異国の技で作られたのであろう、青みがかったガラスの影が壁にゆらめいていた。
外からは微かに人の話し声が聞こえる。耳を澄ますと、異国の言葉が混じっていた。ラテン語か、それともポルトガル語か。
そのとき——
襖が静かに開き、一人の男が姿を現した。
「おぉ!殿!お目覚めで!」
入ってきたのは町野長門守であった。その顔には安堵の色が濃く滲み、瞳には涙さえ浮かんでいる。
「長門……ここは……」
忠三郎がかすれた声で問うと、長門守は笑みを浮かべながら、しかし感極まったように語った。
「キリシタンの屋敷でござります。殿は豊後に着かれてから三日三晩、目を覚ますことなく、病と闘っておいででござりました」
「三日三晩……?」
忠三郎は愕然とした。
(そんなに時が経っていたとは……)
まるで夢の中にいたような、現実感のない時間の流れ。しかし、確かに今、自分はここにいる。
ふと、どこからか旋律が流れてきた。
(……これは?)
風が、異国の香りを運んでいる。甘く、しかしどこか清廉な香り。
聞いたことのある調べが、風に乗って聞こえてきた。
(これは確か、安土のセミナリオで…)
信長の供をして何度も足を運んだ安土城下のセミナリオ。あのとき修道士が奏でていた南蛮の楽器——クラヴォ(チェンバロ)の音色ではないか。
銀の鈴が転がるような音。日本の琴や三味線とは異なる、軽やかで、しかしどこか憂いを帯びた響き。
その旋律に耳を傾けながら、忠三郎はゆっくりと息を吐いた。
「殿、お喜びあれ。義太夫殿もすっかりお元気になられ、殿をお待ちで」
町野長門守の声が、静寂を破るように響いた。
「何、義太夫が?」
思わず布団から起き上がろうとしたが、途端に視界が揺らぎ、にわかに目が回る。ぐらりと傾ぐ体を支えようと、床に手をついた。
「ご無理なされますな。あれほどの病、未だ完治したともいえませぬ。それがしが義太夫殿をお連れいたしましょう」
町野長門守が満面笑顔で部屋を出ていく。
(義太夫…よかった…)
忠三郎はほっと息をつく。
高山右近に勧められたときには、義太夫を豊後まで送り出すことに不安を感じていた。だが、義太夫をここへ送ったのは正解だったようだ。
ふと、先ほど朦朧とした意識の中で蘇ってきた昔話が、再び頭をよぎる。
(中医書の解釈中にも饅頭か…)
思わず口元がほころびかけたが、すぐに険しい表情に戻る。
(佐助の兄弟子が義太夫なのだとしたら)
二人が教えを受けていたのは一益だということになる。信長に仕え、甲賀を知り尽くし、戦略にも通じていた義兄——滝川一益。
(義太夫…おぬしは何を知っているというのだ)
忠三郎はそっと目を閉じた。
異国の調べはなおも続き、胸の奥深くで、疑念と郷愁が入り混じるように響いていた。
九州の北東、豊後の国。
山海の幸に恵まれたこの地は、古より豊饒の国として知られ、鎌倉の世より大友家がその支配を続けてきた。
――そして、三十年以上前のこと。
フランシスコ・ザビエルがこの地を訪れ、大友宗麟に招かれたことを契機に、キリスト教が広まり始めた。
宗麟の次男、そして宗麟自身もまたキリシタンとなり、やがて領内の信者の数は膨大となる。
今やその数、三万を超えるとまで言われていた。
その庇護のもと、一人の南蛮人が異国の医術をもってこの地に病院を開いた。
アルメイダ神父――。
彼は外科医であり、南蛮医術に精通していた。
南蛮式の病院が建ち、併せて医術を学ぶ場や、捨て子を世話して育てる母屋も設けられる。
この噂は九州全土に広まり、行く宛のない病人たちが豊後へと集まり始めた。
彼らは異国の医術に望みを託し、治療を受けた。
――しかし、その病院を開いたアルメイダ神父は、今から三年前、天草で息を引き取った。
「豊後の病院には、南蛮渡来の薬が多くあり、これまで治せなかった病を治すことができるという評判でござります」
高山右近の勧めを受け、忠三郎は義太夫を豊後へ送り込むことに決めた。
――とはいえ、当の本人にとっては、まさに地獄の沙汰であった。
「わしゃ、嫌じゃ!!」
籠の中で暴れながら、義太夫が断末魔のごとく叫ぶ。
「南蛮人どもが人の腹を裂いたり、怪しげな呪術をかけるという噂ではないか! まっぴらごめんじゃ!!」
従者たちは、あまりの騒ぎに苦笑しながらも、どこ吹く風とばかりに籠を担ぎ上げた。
「義太夫殿、武士たるもの、ここは潔う覚悟を決められませ」
「それに、もう熱で口が回らぬほど衰弱しておりましょうに、最後の元気をそこで使われるとは……」
「ほら、じっとしておれませぬか。下手に暴れれば余計に具合が悪くなりましょうぞ」
「ぎゃああ! わしをどこへ連れて行くつもりじゃあああ!」
風に乗り、義太夫の悲鳴とも嘆きともつかぬ叫び声が、豊後の空へと吸い込まれていった――。
豊後の地――。
領主・大友宗麟よりイエズス会に与えられた土地には、病院のほか、多くのキリシタンたちが暮らしていた。
そこで、義太夫は――
すっかり力尽きていた。
「……やれやれ、とんだ厄災じゃ~」
あれほど抵抗したものの、長旅の疲れと高熱のせいで、病院へ着いたときには虫の息。
南蛮人の手にかかるか否かの前に、自らの足で立つことすらままならぬ有様だった。
病院には、かつてアルメイダ神父より医術を学んだキリシタン医師たちが多くいた。
彼らは、白い布をまとい、静かに義太夫の顔色を覗き込み、脈を取り、南蛮の薬を調合した。
あれほど恐れていた南蛮医術――。
されど、いざとなれば、もはや何も言うことすらできぬ状態である。
「南蛮の呪術が……っ」
そう呟くのがやっとだったが、その後、口に含まされた薬の苦さに、生まれて気が遠くなりそうだった。
そして――
二週間後。
すっかり回復した義太夫は、かつての勢いを取り戻していた。
「……むぅ。元気になったはよいが、あまりに元気すぎて、じっと寝ておるのも退屈じゃ」
すっかり健康を取り戻した義太夫は、居ても立ってもいられぬ性分ゆえ、病院内でせっせと雑用に励むこととなる。
「義太夫殿、洗濯の手伝いをお願いできますか?」
「む……まあ、それくらいはよいが…」
「では、この山ほどの衣を」
「……待て、山? いやいやいや、キリシタンは生真面目すぎる! わしが言うたのは、一枚、二枚程度の話であって……」
「義太夫殿、こちらも頼みます」
「おぉい!? それもか!? 」
かくして――
南蛮医術に泣かされ、勤勉なキリシタンたちの働きぶりに泣かされ、しかし、健康だけは取り戻した義太夫。
さて、ようやく飯も美味く感じられるようになった折も折、どこからともなく蒲生家の家臣たちがぞろぞろと詰めかけてきた。
「誰か病に倒れたか?」
首を傾げていると、思いがけず顔を出したのは忠三郎の乳人子である町野長門守であった。
「おぉ、町野ではないか。かようなところで油を売っておってよいのか」
「油など一滴たりとも売ってはおりませぬ。これは天下を揺るがす一大事にござる」
「おぬしの父御が病か?」
「いえ、父ではなく、殿が…」
町野長門守が辺りをはばかるように、ひそひそ声で告げたその瞬間——
「何!鶴が?!」
義太夫、目を剥き、驚愕のあまり大声を張り上げた。
「あっ、しーっ!」
長門守が慌てて義太夫の口を押さえる。
「義太夫殿、どうか内密に!壁に耳あり障子に目あり、でございますぞ!」
「むっ……」
義太夫、目をぱちくりさせつつも、ようやく口をつぐむ。
「陣中にて疫病が蔓延し、多くの兵が倒れる大惨事となり申した」
町野長門守が眉根を寄せ、声を潜めて告げる。
「それでキリシタンどもが大勢、肥後に向かったのか」
義太夫は腕を組み、思案顔になった。言われてみれば数日前、肥後の蒲生陣営から急報が入り、南蛮医術の心得のある者を筆頭に、多くの者が肥後へと向かったのだ。
「我が父が殿の身代わりとなって兵を連れて陣を引き払ったのでござる。して、ここに殿がいることは我らの他、わずかな者しか存ぜぬことで」
「そうはいうても、人並み以上に目立つあやつのことじゃ。誰が見ても、ああ、これは蒲生忠三郎じゃと分かるのではないか?」
「いやいや、そこは抜かりなく……」
長門守はそわそわと辺りを見回し、ひそひそ声をさらに潜める。
「殿は蒲生家の家人の一人ということにしておりまする。とにかく、どうか内密に」
義太夫はますます怪訝そうな顔をしたが、長門守はそれ以上は語らず、そそくさと去っていった。
さて、それから義太夫も様子を見に行ったが——
忠三郎は、熱にうなされ、まるで茹で上がったタコのように真っ赤な顔で、夢うつつの世界をさまよっていた。
(……これは、さすがに話どころではない)
義太夫はそっと襖を閉め、忠三郎の回復を待つことにした。
年のころ十二、三。その瞳は、遥か彼方にそびえる故郷の山を映している。
「若は、ずいぶんと綿向山がお気に召しておいでのようでございますな」
柔らかにかけられた声。少年は、ふと微笑を浮かべ、どこか恥じらうように呟く。
「あの山は、幼き日よりわしを見守り続けてくれた、いわば父のようなものじゃ」
母を失った日も、寒さに一人震える夜も、あの山は変わらずそこにあった。 見上げれば、いつでも包み込むような静けさで、己を迎えてくれたものだ。
その言葉に、佐助は静かに頷く。
「古来より、人の生死は自然の理と深く結びついていると申します。若のお言葉、誠にもっともなことでございましょう」
風がそよぎ、森の葉擦れが静かに響く。綿向山の稜線は、どこまでも穏やかで、そして雄々しい。
「古来より?」
少年が問い返すと、佐助は深く頷き、静かに口を開いた。
「はい。宝命全形と申します。黄帝問うて曰く、天は覆い地は載せ、萬物は悉く備わる、人より貴きは莫し」
「人より貴きは莫し…」
少年はその言葉を口の中で転がしながら、遠き山影を見つめる。
「中華最古とも伝わる黄帝内経なる医書、その宝命全形に記されておりまする」
「中医書?」
「はい。医術とは、ただ病を癒すものにあらず。世を癒し、国をも癒すもの。
ゆえに、天命に背き、民を顧みぬ暗君は討たれるべき——と」
「それはおぬしの考えか?」
少年が静かに問うと、佐助はかぶりを振った。
「いえいえ。滅相もない。それがし、古代の文字を解するほどの才はござりませぬ。これは…」
「…誰かから学んだことだと?」
沈黙が、ふたりの間に一瞬、流れた。少年はじっと佐助を見つめる。
「佐助。それは、夜な夜な城を抜け出しておることと関りあることか」
「若はそれがしが城を抜け出しておることをすでにご存じで」
佐助は静かに微笑む。だが、その瞳の奥には、何かを秘めた色が宿っている。
「二心あってのことではありませぬ」
佐助はやや慌てた様子で言葉を紡いだ。
「若に多くのことをお伝えしたくとも、それがしでは些か力及ばず…。それゆえに時折、甲賀の里へ戻り、とある御仁に教えを乞うておるのでござります」
少年は佐助の顔をじっと見つめると、穏やかに頷いた。
「おぬしを疑うておるわけではない。案ずるな」
その声音は優しく、佐助の心を静かに和らげるものであった。
(にしても…)
少年は内心、考え込む。佐助が教えを受けている御仁とは、いったい何者なのか。
「甲賀には医術に通じた者がおるのか?」
「はい」
佐助は深く頷き、静かに語り出す。
「甲賀には、大陸より渡ってきた医書が数多く残されておりまする。読み解くのは至難の業なれど、それを解する御方がおいでにて、その知識をもとに多くの薬を作り、人々のために役立てておられます」
その言葉に、少年の脳裏にふと、ひとつの考えがよぎる。
——その薬のひとつが、火縄銃に使われる火薬なのだと。
あれは誰の事だったのだろう。
(まさか…佐助に医術を教えていたというのは……)
意識が混とんとする中、忠三郎はなおも昔の話をたぐるように記憶を探った。
(そう……確か、その話の直後に、佐助は笑って——)
「かような得難き御仁は早々おられませぬが、共に学んでおるそれがしの兄弟子のほうは、どうにもそれを解せぬらしく、一章読むごとに『やれ腹が減ったの、饅頭を仕入れたの』と、とんと学ぶ意欲も感じられぬ次第にて」
(腹が減ったの、饅頭を仕入れたの……)
その言葉に、忠三郎の心の奥で、何かがぴたりとはまる。
妙に合致する人物が、すぐ身近にいるではないか。
(まさか……兄弟子とは……)
驚きと半ば呆れが入り混じる心地のまま、忠三郎はふと、ある人物の飄々とした笑顔を思い浮かべた。
(妙な話だ)
改めて思い返すと、この話には不可解な点がある。
甲賀の里、三雲家——そこは、佐助にとって辛い思い出ばかりが残る場所ではなかったか。
(にもかかわらず、わざわざ足を運んでいたのか)
佐助はある時を境に、兵法書の内容を少しずつ教えてくれるようになった。
(あの時から…)
忠三郎が兵法書を読んだことがないと、そう告げた頃からだ。
(佐助に教えていたのは…)
三雲家で教えを受けていたと考えるには不自然な点が多い。
むしろ——
(三雲家以外の……甲賀の……)
忠三郎の思考の奥底に、まだ霧に包まれたままの、ある名が浮かびかけていた。
ここちよい風が吹き抜ける。潮の香りを含んだ風は、どこか異国の気配をまといながら、静かに室内を巡っていた。
忠三郎はふと目を覚ました。
「ここは……」
布団に横たえられている。見上げる天井も、周囲のしつらえも見覚えがない。
(豊後の……キリシタンの病院なる場所か……)
天井に吊るされたランプが、いつも見慣れた燭台とは違う。異国の技で作られたのであろう、青みがかったガラスの影が壁にゆらめいていた。
外からは微かに人の話し声が聞こえる。耳を澄ますと、異国の言葉が混じっていた。ラテン語か、それともポルトガル語か。
そのとき——
襖が静かに開き、一人の男が姿を現した。
「おぉ!殿!お目覚めで!」
入ってきたのは町野長門守であった。その顔には安堵の色が濃く滲み、瞳には涙さえ浮かんでいる。
「長門……ここは……」
忠三郎がかすれた声で問うと、長門守は笑みを浮かべながら、しかし感極まったように語った。
「キリシタンの屋敷でござります。殿は豊後に着かれてから三日三晩、目を覚ますことなく、病と闘っておいででござりました」
「三日三晩……?」
忠三郎は愕然とした。
(そんなに時が経っていたとは……)
まるで夢の中にいたような、現実感のない時間の流れ。しかし、確かに今、自分はここにいる。
ふと、どこからか旋律が流れてきた。
(……これは?)
風が、異国の香りを運んでいる。甘く、しかしどこか清廉な香り。
聞いたことのある調べが、風に乗って聞こえてきた。
(これは確か、安土のセミナリオで…)
信長の供をして何度も足を運んだ安土城下のセミナリオ。あのとき修道士が奏でていた南蛮の楽器——クラヴォ(チェンバロ)の音色ではないか。
銀の鈴が転がるような音。日本の琴や三味線とは異なる、軽やかで、しかしどこか憂いを帯びた響き。
その旋律に耳を傾けながら、忠三郎はゆっくりと息を吐いた。
「殿、お喜びあれ。義太夫殿もすっかりお元気になられ、殿をお待ちで」
町野長門守の声が、静寂を破るように響いた。
「何、義太夫が?」
思わず布団から起き上がろうとしたが、途端に視界が揺らぎ、にわかに目が回る。ぐらりと傾ぐ体を支えようと、床に手をついた。
「ご無理なされますな。あれほどの病、未だ完治したともいえませぬ。それがしが義太夫殿をお連れいたしましょう」
町野長門守が満面笑顔で部屋を出ていく。
(義太夫…よかった…)
忠三郎はほっと息をつく。
高山右近に勧められたときには、義太夫を豊後まで送り出すことに不安を感じていた。だが、義太夫をここへ送ったのは正解だったようだ。
ふと、先ほど朦朧とした意識の中で蘇ってきた昔話が、再び頭をよぎる。
(中医書の解釈中にも饅頭か…)
思わず口元がほころびかけたが、すぐに険しい表情に戻る。
(佐助の兄弟子が義太夫なのだとしたら)
二人が教えを受けていたのは一益だということになる。信長に仕え、甲賀を知り尽くし、戦略にも通じていた義兄——滝川一益。
(義太夫…おぬしは何を知っているというのだ)
忠三郎はそっと目を閉じた。
異国の調べはなおも続き、胸の奥深くで、疑念と郷愁が入り混じるように響いていた。
九州の北東、豊後の国。
山海の幸に恵まれたこの地は、古より豊饒の国として知られ、鎌倉の世より大友家がその支配を続けてきた。
――そして、三十年以上前のこと。
フランシスコ・ザビエルがこの地を訪れ、大友宗麟に招かれたことを契機に、キリスト教が広まり始めた。
宗麟の次男、そして宗麟自身もまたキリシタンとなり、やがて領内の信者の数は膨大となる。
今やその数、三万を超えるとまで言われていた。
その庇護のもと、一人の南蛮人が異国の医術をもってこの地に病院を開いた。
アルメイダ神父――。
彼は外科医であり、南蛮医術に精通していた。
南蛮式の病院が建ち、併せて医術を学ぶ場や、捨て子を世話して育てる母屋も設けられる。
この噂は九州全土に広まり、行く宛のない病人たちが豊後へと集まり始めた。
彼らは異国の医術に望みを託し、治療を受けた。
――しかし、その病院を開いたアルメイダ神父は、今から三年前、天草で息を引き取った。
「豊後の病院には、南蛮渡来の薬が多くあり、これまで治せなかった病を治すことができるという評判でござります」
高山右近の勧めを受け、忠三郎は義太夫を豊後へ送り込むことに決めた。
――とはいえ、当の本人にとっては、まさに地獄の沙汰であった。
「わしゃ、嫌じゃ!!」
籠の中で暴れながら、義太夫が断末魔のごとく叫ぶ。
「南蛮人どもが人の腹を裂いたり、怪しげな呪術をかけるという噂ではないか! まっぴらごめんじゃ!!」
従者たちは、あまりの騒ぎに苦笑しながらも、どこ吹く風とばかりに籠を担ぎ上げた。
「義太夫殿、武士たるもの、ここは潔う覚悟を決められませ」
「それに、もう熱で口が回らぬほど衰弱しておりましょうに、最後の元気をそこで使われるとは……」
「ほら、じっとしておれませぬか。下手に暴れれば余計に具合が悪くなりましょうぞ」
「ぎゃああ! わしをどこへ連れて行くつもりじゃあああ!」
風に乗り、義太夫の悲鳴とも嘆きともつかぬ叫び声が、豊後の空へと吸い込まれていった――。
豊後の地――。
領主・大友宗麟よりイエズス会に与えられた土地には、病院のほか、多くのキリシタンたちが暮らしていた。
そこで、義太夫は――
すっかり力尽きていた。
「……やれやれ、とんだ厄災じゃ~」
あれほど抵抗したものの、長旅の疲れと高熱のせいで、病院へ着いたときには虫の息。
南蛮人の手にかかるか否かの前に、自らの足で立つことすらままならぬ有様だった。
病院には、かつてアルメイダ神父より医術を学んだキリシタン医師たちが多くいた。
彼らは、白い布をまとい、静かに義太夫の顔色を覗き込み、脈を取り、南蛮の薬を調合した。
あれほど恐れていた南蛮医術――。
されど、いざとなれば、もはや何も言うことすらできぬ状態である。
「南蛮の呪術が……っ」
そう呟くのがやっとだったが、その後、口に含まされた薬の苦さに、生まれて気が遠くなりそうだった。
そして――
二週間後。
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「……むぅ。元気になったはよいが、あまりに元気すぎて、じっと寝ておるのも退屈じゃ」
すっかり健康を取り戻した義太夫は、居ても立ってもいられぬ性分ゆえ、病院内でせっせと雑用に励むこととなる。
「義太夫殿、洗濯の手伝いをお願いできますか?」
「む……まあ、それくらいはよいが…」
「では、この山ほどの衣を」
「……待て、山? いやいやいや、キリシタンは生真面目すぎる! わしが言うたのは、一枚、二枚程度の話であって……」
「義太夫殿、こちらも頼みます」
「おぉい!? それもか!? 」
かくして――
南蛮医術に泣かされ、勤勉なキリシタンたちの働きぶりに泣かされ、しかし、健康だけは取り戻した義太夫。
さて、ようやく飯も美味く感じられるようになった折も折、どこからともなく蒲生家の家臣たちがぞろぞろと詰めかけてきた。
「誰か病に倒れたか?」
首を傾げていると、思いがけず顔を出したのは忠三郎の乳人子である町野長門守であった。
「おぉ、町野ではないか。かようなところで油を売っておってよいのか」
「油など一滴たりとも売ってはおりませぬ。これは天下を揺るがす一大事にござる」
「おぬしの父御が病か?」
「いえ、父ではなく、殿が…」
町野長門守が辺りをはばかるように、ひそひそ声で告げたその瞬間——
「何!鶴が?!」
義太夫、目を剥き、驚愕のあまり大声を張り上げた。
「あっ、しーっ!」
長門守が慌てて義太夫の口を押さえる。
「義太夫殿、どうか内密に!壁に耳あり障子に目あり、でございますぞ!」
「むっ……」
義太夫、目をぱちくりさせつつも、ようやく口をつぐむ。
「陣中にて疫病が蔓延し、多くの兵が倒れる大惨事となり申した」
町野長門守が眉根を寄せ、声を潜めて告げる。
「それでキリシタンどもが大勢、肥後に向かったのか」
義太夫は腕を組み、思案顔になった。言われてみれば数日前、肥後の蒲生陣営から急報が入り、南蛮医術の心得のある者を筆頭に、多くの者が肥後へと向かったのだ。
「我が父が殿の身代わりとなって兵を連れて陣を引き払ったのでござる。して、ここに殿がいることは我らの他、わずかな者しか存ぜぬことで」
「そうはいうても、人並み以上に目立つあやつのことじゃ。誰が見ても、ああ、これは蒲生忠三郎じゃと分かるのではないか?」
「いやいや、そこは抜かりなく……」
長門守はそわそわと辺りを見回し、ひそひそ声をさらに潜める。
「殿は蒲生家の家人の一人ということにしておりまする。とにかく、どうか内密に」
義太夫はますます怪訝そうな顔をしたが、長門守はそれ以上は語らず、そそくさと去っていった。
さて、それから義太夫も様子を見に行ったが——
忠三郎は、熱にうなされ、まるで茹で上がったタコのように真っ赤な顔で、夢うつつの世界をさまよっていた。
(……これは、さすがに話どころではない)
義太夫はそっと襖を閉め、忠三郎の回復を待つことにした。
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「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
九州のイチモツ 立花宗茂
三井 寿
歴史・時代
豊臣秀吉が愛し、徳川家康が怖れた猛将“立花宗茂”。
義父“立花道雪”、父“高橋紹運”の凄まじい合戦と最期を目の当たりにし、男としての仁義を貫いた”立花宗茂“と“誾千代姫”との哀しい別れの物語です。
下剋上の戦国時代、九州では“大友・龍造寺・島津”三つ巴の戦いが続いている。
大友家を支えるのが、足が不自由にもかかわらず、輿に乗って戦い、37戦常勝無敗を誇った“九州一の勇将”立花道雪と高橋紹運である。立花道雪は1人娘の誾千代姫に家督を譲るが、勢力争いで凋落する大友宗麟を支える為に高橋紹運の跡継ぎ統虎(立花宗茂)を婿に迎えた。
女城主として育てられた誾千代姫と統虎は激しく反目しあうが、父立花道雪の死で2人は強く結ばれた。
だが、立花道雪の死を好機と捉えた島津家は、九州制覇を目指して出陣する。大友宗麟は豊臣秀吉に出陣を願ったが、島津軍は5万の大軍で筑前へ向かった。
その島津軍5万に挑んだのが、高橋紹運率いる岩屋城736名である。岩屋城に籠る高橋軍は14日間も島津軍を翻弄し、最期は全員が壮絶な討ち死にを遂げた。命を賭けた時間稼ぎにより、秀吉軍は筑前に到着し、立花宗茂と立花城を救った。
島津軍は撤退したが、立花宗茂は5万の島津軍を追撃し、筑前国領主としての意地を果たした。豊臣秀吉は立花宗茂の武勇を讃え、“九州之一物”と呼び、多くの大名の前で激賞した。その後、豊臣秀吉は九州征伐・天下統一へと突き進んでいく。
その後の朝鮮征伐、関ヶ原の合戦で“立花宗茂”は己の仁義と意地の為に戦うこととなる。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
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