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27.伴天連禁制
27-4. 月の都にて、帰る家なし
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博多の港をあとにすれば、不穏な空気も徐々に遠のいていくはずだった。
しかし、忠三郎の胸中にはなお重い影が沈殿したままだった。
南蛮船の影、右近の憂い、戦の気配——すべてが絡み合い、国の行く末に暗い翳を落としている。
そんな中、都を目指す忠三郎のもとに届いたのは、島津中務大輔家久の訃報だった。
「中務殿が……」
思わず漏れた声は、己でも驚くほどかすれていた。
納得のいく死ではない。
(天が下において、かような不条理がまかり通りとは…)
家久は、あの豪快な笑みを浮かべ、盃を傾ける男だった。
死にゆくにせよ、戦場の只中で、あるいは己の意志のもとで果てるような男だったはずだ。
だが、事実は覆らない。
ふと、義太夫が肩をすくめながら軽い調子で言った。
「ロレンソが都の南蛮寺におるというで、顔を出そうかと思うておる。おぬしもキリシタンの端くれであろう?ともに参るか」
「キリシタンの端くれとは……」
忠三郎は苦笑しつつも、妙に気が晴れぬまま、義太夫とともに南蛮寺へ足を運んだ。
都の南蛮寺は、信長存命の頃に三階建てに改築されて以来、大きな変化はない。
しかし、その独特の空気は他のどの寺院とも異なっていた。
香の煙ではなく、異国の蝋燭が灯る。
読経の響きではなく、聖書の聖句が低く響く。
瓦屋根にそびえる十字架は、和の景色に異質でありながらも、不思議と空と調和していた。
堂内には、浪人、町人、南蛮人、そして名も知れぬ旅人たちが肩を並べ、皆が同じように静かにロレンソの言葉を待っていた。
忠三郎と義太夫もまた、その群れの中に身を沈める。
「皆、死ぬることを恐ろしいと思うておるじゃろうか」
ロレンソの声が、穏やかに堂内を満たす。
その響きは、冬の夜に灯る炉火のように、冷えた心の奥底に滲みていく。
「死ぬることよりも、その先にあるものを怖れておるのではないか。人は死したのち、どこにいくのか、分からぬからであろう」
死の先——。
忠三郎は、己が見送った幾多の魂を思う。
ともに長島一番乗りを果たし、銃弾に倒れた従弟の関四郎。
志半ばで病に斃れた武藤宗右衛門。
命を懸けて子を産み、何も告げずに散ったおさち。
幼い頃、ともに日野を守ろうと誓いながらも、祖父に利用されて命を落とした重丸。
そして、島津家久——あれほど豪胆な男が、声を上げることもなく消えた。
彼らは今、どこにいるのか。
戦場に散った者、病に蝕まれた者、理不尽に命を奪われた者。
その死に意味があったのか。
あるいは、何の意味もなく、ただ無情に奪われただけなのか。
人は死んだら、どこへ行くのか。
ただ土へと還るのか、それとも——。
義太夫が小声で囁いた。
「如何する?呼び出すか?」
「いや、わしはまだ忠三郎ではない。蒲生家家臣の三郎じゃ。目立たぬように、後ろのほうに座り、ロレンソ殿の話を聞こうではないか」
だが、目立たぬつもりが、忠三郎の放つ気配は、否応なしに人々の視線を集める。
質素な羽織をまとっていても、その姿には隠しきれぬ威厳があった。
ちらりと振り返る者はいたが、誰も声をかけようとはしなかった。
その沈黙が、かえってこの場の敬虔な雰囲気を際立たせているようにも思えた。
義太夫が、肩をすくめて笑う。
「まったく、おぬしの 『目立たぬ』ほど信用ならぬものはない」
忠三郎も、思わず苦笑した。
そのわずかな笑みに、いつの間にか張り詰めていた胸の内が、ふっと和らぐのを感じた。
やがて、ロレンソの声が、堂内にしんと響き渡る。
「皆、蝉を存じておろう」
蝋燭の灯りが揺れる中、その言葉は厳かで、しかしどこか親しみを帯びていた。
忠三郎は、静かに耳を傾ける。
「蝉は何年も土の中で暮らしておる。じめじめとした暗い土の中の世界しか知らぬ。そしてついこの前までともにいた仲間は、一匹、また一匹と土の中から姿を消す。仲間たちがどこへいったのか、知ることもない。されど時がきたら、木に登り、姿を変え、広い大空へと羽ばたく」
蝉——。
忠三郎は、幼き日の夏を思い出す。
燃えるような空の下、森の木々にしがみつき、力の限り鳴く蝉たち。
だが、それもほんのひと時の命。
「土の中にいる間は、広い世界のことなどは知る由もない。誰かが教えたとしても、わからぬであろう。我らが住むこの世は、まさに蝉が潜む土の中と同じ。これがすべてと思っているかもしれぬ。されど、我らには分からぬ、まだ見ぬことが世には溢れかえっておる。我らには予想もつかぬことをデウスは備えておるのじゃ」
ロレンソの言葉に、忠三郎はふと息を呑んだ。
予想もつかぬこと——もしや、それは信長や家久の死も含むのか。
人の理を超えた何かが、そこに働いているのか。
ロレンソは、ゆっくりと手を広げた。
その仕草は、まるで見えぬ何かを示しているかのようだった。
「デウスは人のこころに永遠への思いを与えた」
永遠——。
それは、どこか夢のような響きを持つ言葉だった。
「永遠に生き続けるため、永遠の命を得るため、デウスはその一人子イエズスキリストを世に送られたのじゃ。あの十字架上での死は、まさに我らの罪を背負わんがため。我らの罪をあがなわんがためじゃ。そしてそれを信じるすべてのキリシタンは永遠のいのちを得て、デウスのもとへと帰るのじゃ」
忠三郎は静かに息をついた。
ロレンソの言葉は、心の内に沈殿していた影に、一筋の光を差し込むようだった。
この世の理不尽、不可解な死、戦乱の果ての喪失。
すべては土の中の出来事にすぎぬのか。
死とは終わりなのか、それとも新たな始まりなのか。
もし己が見送った者たちが、土の中の蝉だとしたら——。
彼らは、別の世界へと羽ばたいたのだろうか。
ならば、自分も——
忠三郎は、静かに瞼を閉じた。
遠く、風にまぎれて、かすかな蝉の羽音が聞こえたような気がした。
ロレンソの説教も終わりに差しかかり、会堂内が静寂に包まれた頃——。
ふと、人だかりの向こうに、どこか見覚えのある顔があった。
(あれは…)
じっと目を凝らす忠三郎の隣で、義太夫も同じものを見つけたらしい。小さく鼻を鳴らし、そっと立ち上がる。
「おお、何やらわしに用があるようじゃ。ちと行ってくる」
気軽にそう言い残し、義太夫はふらりと姿を消した。
会堂の外へ出ると、途端に袖を引っ張られる。
「義太夫殿! 何ゆえ都におられるので!」
低い声で詰め寄ってきたのは、滝川藤九郎。滝川家に仕えていた素破のひとりだ。
「お、おい、なにをするんじゃ。痛いわ!」
「何も存じておいでではないのですか!? よりにもよって、蒲生様と連れ立って都に戻られるとは!」
「……?」
義太夫は目をぱちくりさせ、一拍置いてから、ああん? と首を傾げた。
「おお、おお、なるほど! 葉月様のことであろう!」
思い当たる節があったらしい。胸をどんと叩き、得意げに続けた。
「わしらの目覚ましい活躍ぶりに、関白様も驚きたまげ、葉月様を返していただけることと相成ったわい!」
「おお、それは誠のことで!」
一瞬、感激の表情を浮かべた藤九郎だったが、すぐに眉をひそめ、いやいやいや、と首を振る。
「…されど、そうではなく……一大事でござりまする!」
「一大事ぃ?」
義太夫の顔が、途端に間の抜けたものになる。
「蒲生家におる虎様、懐妊の知らせをお聞きではないので!?」
「解任?」
義太夫の目が、鯉のように丸くなった。
京の蒲生屋敷に暮らす忠三郎の正室・吹雪と、暘谷庵に身を寄せる妹の風花。
二人は、日ごとに衰えていく虎を案じ、その快癒を願って奔走していた。
三九郎を使いに出し、かつて夫婦だった二人を再び引き合わせたのも、その一環であった。
長く離れていたとはいえ、互いの心の奥底には拭いきれぬ情があったのかもしれない。
虎は目に見えて元気を取り戻し、吹雪たちは安堵した。
ところが、それは思いもよらぬ事態を招くこととなる。
虎自身がいつから気づいていたのか、それは定かでない。
しかし、三九郎が関東へと旅立った後、医師の口からもたらされたのは、あまりに衝撃的な知らせであった。
「ご懐妊でございます」
吹雪は凍りついた。
問いただせば、案の定、その子の父は三九郎——。
秀吉の側室となった今、決して許されるはずのない過ちであった。
顔色を失った吹雪は、ただちに妹へ使いを送り、さらに幼馴染の堀久太郎をも巻き込んだ。
秘密裏に医師を手配し、箝口令を敷き、何が何でもこの事実を外に漏らすまいと、必死に動いたのである。
虎がその身に宿した命——。
それが誰のものなのか、決して知られてはならぬ。
それは、あまりに大きな、あまりに危うい秘密であった。
「解任?ほう?それは初耳じゃ」
義太夫は片眉を上げ、いかにも興味深げに呟いた。
藤九郎は焦りつつも、声をひそめて続ける。
「それゆえ、兄である忠三郎様の耳には決していれてはならぬと、御台様(風花)はそう仰せで」
義太夫は腕を組み、しばし考え込んだ。
(ほう、解任とな…つまりは側室の身分を解かれたということか。ふむふむ、つまり離縁されたのか?)
頭の中で話を整理するうち、その顔には次第に満足げな笑みが浮かぶ。
(それならそれで、若殿(三九郎)と再び夫婦になれるというもの!やれめでたい!いやはや、これは良き話ではないか!)
しかし——義太夫は、大きな勘違いをしていることに、まだ気づいていなかった。
藤九郎は真剣な面持ちで、なおも話を続けているというのに、当の義太夫は「フムフム」とうなずきながら、どこか上機嫌に藤九郎の言葉を聞き流していた。
「忠三郎様は滅多なことでは都の屋敷には姿を見せぬ。それゆえ、知られることはないと思うていたというに、義太夫殿が忠三郎様を連れて都に姿を現すとは」
藤九郎の顔には、焦りと戸惑いが入り混じっていた。
だが、当の義太夫はいたって呑気なものだ。腕を組み、悠然と頷きながら言った。
「まぁ、いずれは知れることじゃ。そう慌てずともよい。それに、これは我が家にとっても、若殿にとっても目出度きことではないか」
「は?…それは…確かにその…」
藤九郎は言葉を詰まらせた。義太夫の様子が、なにやら妙である。
(なぜ、かくも晴れやかな顔をしておるのだ…?)
しかし、義太夫の言葉に一理あることも確かだった。
何といっても、虎の子は三九郎の子。つまりは、滝川家の跡取り・久助に弟か妹が生まれるということ。血筋の繁栄を思えば、それは確かに目出度い話である。
義太夫が勘違いしていることに気付かない藤九郎は、複雑な表情を浮かべる。
「確かに我らにとっても目出度きことに違いはありませぬが、御台様は、兎にも角にも、忠三郎様を屋敷に近づけてはならぬとの仰せで」
藤九郎の声には、どこか切迫した響きがあった。
だが、義太夫は依然として涼しい顔をしている。
「近づけるなというても、己の家に帰るなとは言えぬであろう?」
「では、一体、この窮地をどう乗り切ろうというので?」
藤九郎の声がやや裏返った。
出産まではまだ時間がある。幸い、いまだ九州で戦後処理に追われる秀吉が屋敷を訪れることはないだろう。だが問題は、都に来てしまった忠三郎だ。
(何が何でも、虎様が無事に子を産むまでは、忠三郎様を屋敷に入れるわけにはいかぬ……!)
藤九郎の脳裏には、すでに忠三郎が屋敷の門をくぐる光景が浮かんでいた。
——「蒲生忠三郎。大手柄を立てて戻ったぞ」
そう言って、忠三郎が意気揚々と屋敷へ足を踏み入れ、そこで虎の様子を聞き居室へと向かう。そして、虎の姿を見て、おそらく次の瞬間には、虎の腹を見てすべてを察し……。
——「待て……これは……如何なることか……?」
その言葉の向こうには、怒りか、嘆きか、それとも虚無か。
考えれば考えるほど、ぞっとする未来しか見えない。
「……義太夫殿」
「うむ?」
「何が何でも、忠三郎様を屋敷に入れてはなりませぬぞ」
藤九郎の目が真剣そのものである。
しかし、義太夫は相変わらず呑気に頷くばかりだった。
「まぁ、そうは言うてものう……。鶴を止めるのは、並大抵のことではないぞ?」
「そ、それは……」
(わかっておる。だが、何としても……何としても……!)
藤九郎は必死に考えた。
「いっそ……その……」
「うむ?」
「忠三郎様が屋敷に戻る前に、何かこう……別のことに気を取らせるとか……!」
「ほう、それは妙案じゃ」
義太夫は面白がるように顎を撫でた。
「ならば、まずは鶴を酒にでも誘うかのう?」
「そ、それがしの言いたかったのは、そういうことでは……!」
——こうして、忠三郎を屋敷に入れぬための、一世一代の策謀が幕を開けるのであった。
しかし、忠三郎の胸中にはなお重い影が沈殿したままだった。
南蛮船の影、右近の憂い、戦の気配——すべてが絡み合い、国の行く末に暗い翳を落としている。
そんな中、都を目指す忠三郎のもとに届いたのは、島津中務大輔家久の訃報だった。
「中務殿が……」
思わず漏れた声は、己でも驚くほどかすれていた。
納得のいく死ではない。
(天が下において、かような不条理がまかり通りとは…)
家久は、あの豪快な笑みを浮かべ、盃を傾ける男だった。
死にゆくにせよ、戦場の只中で、あるいは己の意志のもとで果てるような男だったはずだ。
だが、事実は覆らない。
ふと、義太夫が肩をすくめながら軽い調子で言った。
「ロレンソが都の南蛮寺におるというで、顔を出そうかと思うておる。おぬしもキリシタンの端くれであろう?ともに参るか」
「キリシタンの端くれとは……」
忠三郎は苦笑しつつも、妙に気が晴れぬまま、義太夫とともに南蛮寺へ足を運んだ。
都の南蛮寺は、信長存命の頃に三階建てに改築されて以来、大きな変化はない。
しかし、その独特の空気は他のどの寺院とも異なっていた。
香の煙ではなく、異国の蝋燭が灯る。
読経の響きではなく、聖書の聖句が低く響く。
瓦屋根にそびえる十字架は、和の景色に異質でありながらも、不思議と空と調和していた。
堂内には、浪人、町人、南蛮人、そして名も知れぬ旅人たちが肩を並べ、皆が同じように静かにロレンソの言葉を待っていた。
忠三郎と義太夫もまた、その群れの中に身を沈める。
「皆、死ぬることを恐ろしいと思うておるじゃろうか」
ロレンソの声が、穏やかに堂内を満たす。
その響きは、冬の夜に灯る炉火のように、冷えた心の奥底に滲みていく。
「死ぬることよりも、その先にあるものを怖れておるのではないか。人は死したのち、どこにいくのか、分からぬからであろう」
死の先——。
忠三郎は、己が見送った幾多の魂を思う。
ともに長島一番乗りを果たし、銃弾に倒れた従弟の関四郎。
志半ばで病に斃れた武藤宗右衛門。
命を懸けて子を産み、何も告げずに散ったおさち。
幼い頃、ともに日野を守ろうと誓いながらも、祖父に利用されて命を落とした重丸。
そして、島津家久——あれほど豪胆な男が、声を上げることもなく消えた。
彼らは今、どこにいるのか。
戦場に散った者、病に蝕まれた者、理不尽に命を奪われた者。
その死に意味があったのか。
あるいは、何の意味もなく、ただ無情に奪われただけなのか。
人は死んだら、どこへ行くのか。
ただ土へと還るのか、それとも——。
義太夫が小声で囁いた。
「如何する?呼び出すか?」
「いや、わしはまだ忠三郎ではない。蒲生家家臣の三郎じゃ。目立たぬように、後ろのほうに座り、ロレンソ殿の話を聞こうではないか」
だが、目立たぬつもりが、忠三郎の放つ気配は、否応なしに人々の視線を集める。
質素な羽織をまとっていても、その姿には隠しきれぬ威厳があった。
ちらりと振り返る者はいたが、誰も声をかけようとはしなかった。
その沈黙が、かえってこの場の敬虔な雰囲気を際立たせているようにも思えた。
義太夫が、肩をすくめて笑う。
「まったく、おぬしの 『目立たぬ』ほど信用ならぬものはない」
忠三郎も、思わず苦笑した。
そのわずかな笑みに、いつの間にか張り詰めていた胸の内が、ふっと和らぐのを感じた。
やがて、ロレンソの声が、堂内にしんと響き渡る。
「皆、蝉を存じておろう」
蝋燭の灯りが揺れる中、その言葉は厳かで、しかしどこか親しみを帯びていた。
忠三郎は、静かに耳を傾ける。
「蝉は何年も土の中で暮らしておる。じめじめとした暗い土の中の世界しか知らぬ。そしてついこの前までともにいた仲間は、一匹、また一匹と土の中から姿を消す。仲間たちがどこへいったのか、知ることもない。されど時がきたら、木に登り、姿を変え、広い大空へと羽ばたく」
蝉——。
忠三郎は、幼き日の夏を思い出す。
燃えるような空の下、森の木々にしがみつき、力の限り鳴く蝉たち。
だが、それもほんのひと時の命。
「土の中にいる間は、広い世界のことなどは知る由もない。誰かが教えたとしても、わからぬであろう。我らが住むこの世は、まさに蝉が潜む土の中と同じ。これがすべてと思っているかもしれぬ。されど、我らには分からぬ、まだ見ぬことが世には溢れかえっておる。我らには予想もつかぬことをデウスは備えておるのじゃ」
ロレンソの言葉に、忠三郎はふと息を呑んだ。
予想もつかぬこと——もしや、それは信長や家久の死も含むのか。
人の理を超えた何かが、そこに働いているのか。
ロレンソは、ゆっくりと手を広げた。
その仕草は、まるで見えぬ何かを示しているかのようだった。
「デウスは人のこころに永遠への思いを与えた」
永遠——。
それは、どこか夢のような響きを持つ言葉だった。
「永遠に生き続けるため、永遠の命を得るため、デウスはその一人子イエズスキリストを世に送られたのじゃ。あの十字架上での死は、まさに我らの罪を背負わんがため。我らの罪をあがなわんがためじゃ。そしてそれを信じるすべてのキリシタンは永遠のいのちを得て、デウスのもとへと帰るのじゃ」
忠三郎は静かに息をついた。
ロレンソの言葉は、心の内に沈殿していた影に、一筋の光を差し込むようだった。
この世の理不尽、不可解な死、戦乱の果ての喪失。
すべては土の中の出来事にすぎぬのか。
死とは終わりなのか、それとも新たな始まりなのか。
もし己が見送った者たちが、土の中の蝉だとしたら——。
彼らは、別の世界へと羽ばたいたのだろうか。
ならば、自分も——
忠三郎は、静かに瞼を閉じた。
遠く、風にまぎれて、かすかな蝉の羽音が聞こえたような気がした。
ロレンソの説教も終わりに差しかかり、会堂内が静寂に包まれた頃——。
ふと、人だかりの向こうに、どこか見覚えのある顔があった。
(あれは…)
じっと目を凝らす忠三郎の隣で、義太夫も同じものを見つけたらしい。小さく鼻を鳴らし、そっと立ち上がる。
「おお、何やらわしに用があるようじゃ。ちと行ってくる」
気軽にそう言い残し、義太夫はふらりと姿を消した。
会堂の外へ出ると、途端に袖を引っ張られる。
「義太夫殿! 何ゆえ都におられるので!」
低い声で詰め寄ってきたのは、滝川藤九郎。滝川家に仕えていた素破のひとりだ。
「お、おい、なにをするんじゃ。痛いわ!」
「何も存じておいでではないのですか!? よりにもよって、蒲生様と連れ立って都に戻られるとは!」
「……?」
義太夫は目をぱちくりさせ、一拍置いてから、ああん? と首を傾げた。
「おお、おお、なるほど! 葉月様のことであろう!」
思い当たる節があったらしい。胸をどんと叩き、得意げに続けた。
「わしらの目覚ましい活躍ぶりに、関白様も驚きたまげ、葉月様を返していただけることと相成ったわい!」
「おお、それは誠のことで!」
一瞬、感激の表情を浮かべた藤九郎だったが、すぐに眉をひそめ、いやいやいや、と首を振る。
「…されど、そうではなく……一大事でござりまする!」
「一大事ぃ?」
義太夫の顔が、途端に間の抜けたものになる。
「蒲生家におる虎様、懐妊の知らせをお聞きではないので!?」
「解任?」
義太夫の目が、鯉のように丸くなった。
京の蒲生屋敷に暮らす忠三郎の正室・吹雪と、暘谷庵に身を寄せる妹の風花。
二人は、日ごとに衰えていく虎を案じ、その快癒を願って奔走していた。
三九郎を使いに出し、かつて夫婦だった二人を再び引き合わせたのも、その一環であった。
長く離れていたとはいえ、互いの心の奥底には拭いきれぬ情があったのかもしれない。
虎は目に見えて元気を取り戻し、吹雪たちは安堵した。
ところが、それは思いもよらぬ事態を招くこととなる。
虎自身がいつから気づいていたのか、それは定かでない。
しかし、三九郎が関東へと旅立った後、医師の口からもたらされたのは、あまりに衝撃的な知らせであった。
「ご懐妊でございます」
吹雪は凍りついた。
問いただせば、案の定、その子の父は三九郎——。
秀吉の側室となった今、決して許されるはずのない過ちであった。
顔色を失った吹雪は、ただちに妹へ使いを送り、さらに幼馴染の堀久太郎をも巻き込んだ。
秘密裏に医師を手配し、箝口令を敷き、何が何でもこの事実を外に漏らすまいと、必死に動いたのである。
虎がその身に宿した命——。
それが誰のものなのか、決して知られてはならぬ。
それは、あまりに大きな、あまりに危うい秘密であった。
「解任?ほう?それは初耳じゃ」
義太夫は片眉を上げ、いかにも興味深げに呟いた。
藤九郎は焦りつつも、声をひそめて続ける。
「それゆえ、兄である忠三郎様の耳には決していれてはならぬと、御台様(風花)はそう仰せで」
義太夫は腕を組み、しばし考え込んだ。
(ほう、解任とな…つまりは側室の身分を解かれたということか。ふむふむ、つまり離縁されたのか?)
頭の中で話を整理するうち、その顔には次第に満足げな笑みが浮かぶ。
(それならそれで、若殿(三九郎)と再び夫婦になれるというもの!やれめでたい!いやはや、これは良き話ではないか!)
しかし——義太夫は、大きな勘違いをしていることに、まだ気づいていなかった。
藤九郎は真剣な面持ちで、なおも話を続けているというのに、当の義太夫は「フムフム」とうなずきながら、どこか上機嫌に藤九郎の言葉を聞き流していた。
「忠三郎様は滅多なことでは都の屋敷には姿を見せぬ。それゆえ、知られることはないと思うていたというに、義太夫殿が忠三郎様を連れて都に姿を現すとは」
藤九郎の顔には、焦りと戸惑いが入り混じっていた。
だが、当の義太夫はいたって呑気なものだ。腕を組み、悠然と頷きながら言った。
「まぁ、いずれは知れることじゃ。そう慌てずともよい。それに、これは我が家にとっても、若殿にとっても目出度きことではないか」
「は?…それは…確かにその…」
藤九郎は言葉を詰まらせた。義太夫の様子が、なにやら妙である。
(なぜ、かくも晴れやかな顔をしておるのだ…?)
しかし、義太夫の言葉に一理あることも確かだった。
何といっても、虎の子は三九郎の子。つまりは、滝川家の跡取り・久助に弟か妹が生まれるということ。血筋の繁栄を思えば、それは確かに目出度い話である。
義太夫が勘違いしていることに気付かない藤九郎は、複雑な表情を浮かべる。
「確かに我らにとっても目出度きことに違いはありませぬが、御台様は、兎にも角にも、忠三郎様を屋敷に近づけてはならぬとの仰せで」
藤九郎の声には、どこか切迫した響きがあった。
だが、義太夫は依然として涼しい顔をしている。
「近づけるなというても、己の家に帰るなとは言えぬであろう?」
「では、一体、この窮地をどう乗り切ろうというので?」
藤九郎の声がやや裏返った。
出産まではまだ時間がある。幸い、いまだ九州で戦後処理に追われる秀吉が屋敷を訪れることはないだろう。だが問題は、都に来てしまった忠三郎だ。
(何が何でも、虎様が無事に子を産むまでは、忠三郎様を屋敷に入れるわけにはいかぬ……!)
藤九郎の脳裏には、すでに忠三郎が屋敷の門をくぐる光景が浮かんでいた。
——「蒲生忠三郎。大手柄を立てて戻ったぞ」
そう言って、忠三郎が意気揚々と屋敷へ足を踏み入れ、そこで虎の様子を聞き居室へと向かう。そして、虎の姿を見て、おそらく次の瞬間には、虎の腹を見てすべてを察し……。
——「待て……これは……如何なることか……?」
その言葉の向こうには、怒りか、嘆きか、それとも虚無か。
考えれば考えるほど、ぞっとする未来しか見えない。
「……義太夫殿」
「うむ?」
「何が何でも、忠三郎様を屋敷に入れてはなりませぬぞ」
藤九郎の目が真剣そのものである。
しかし、義太夫は相変わらず呑気に頷くばかりだった。
「まぁ、そうは言うてものう……。鶴を止めるのは、並大抵のことではないぞ?」
「そ、それは……」
(わかっておる。だが、何としても……何としても……!)
藤九郎は必死に考えた。
「いっそ……その……」
「うむ?」
「忠三郎様が屋敷に戻る前に、何かこう……別のことに気を取らせるとか……!」
「ほう、それは妙案じゃ」
義太夫は面白がるように顎を撫でた。
「ならば、まずは鶴を酒にでも誘うかのう?」
「そ、それがしの言いたかったのは、そういうことでは……!」
——こうして、忠三郎を屋敷に入れぬための、一世一代の策謀が幕を開けるのであった。
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【毎日07:20投稿】 1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。
マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、
スペイン勢力内部での覇権争い、
そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。
※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、
フィクションも混在しています。
また動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。
HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
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tiktok:herohero_agency
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
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