獅子の末裔

卯花月影

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28.揺らぐ天下

28-4. 散りて、種となる

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 春というにはまだ肌寒く、障子の向こうを吹き抜ける風には、どこか秋の気配すら漂っていた。
 忠三郎が通された一室は、わずかな光しか入らぬ静寂の中、静かに、香が焚き染められていた。
 薄くたなびく香煙が、部屋の空気を包み、春の陽ざしもどこか翳りを帯びて見えた。
 その奥に、白装束を纏った佐々成政が、ひとり端坐していた。

 切腹の支度は、すでに整えられていた。
 広間の静けさは、ただならぬ覚悟の気配を帯び、そこに足を踏み入れた忠三郎の呼吸さえ、どこか浅くなった。
「……これは」
 思わず口にしたその言葉に、成政はゆるやかに顔を上げ、わずかに笑んだ。

「よう来てくれたな、忠三郎」
 膝を正したままの佐々成政は、真っすぐに忠三郎を見つめた。
 その目には、かつての戦場で見たような猛々しさこそ影をひそめていたが、深い淵のような、どうにも測りがたいものが宿っていた。
「……内蔵助殿がそれがしに会いたいと仰せとは、いささか驚いておる次第で。これまでさして言葉を交わしたこともなく……」
 忠三郎の問いに、成政はしばし沈黙し、香煙を一つ、目で追ってから言った。
「おぬしは……あの猿の家来として、そのまま生きてゆくつもりか」
 凍てついたような問いだった。
 部屋の空気が、ぴたりと止まる。
「……」

 忠三郎は、言葉を探した。しかし、探しても、口にできるだけのものが見つからない。
 これまで幾度となく戦場に立ち、武を磨いてきた自分が、今、何を信じ、誰に仕えるのか――その答えを、未だ持ち合わせてはいなかった。
「……それは……」
「おぬしが決めぬのなら、いずれ誰かに決められる。それが世の理であろう」
 成政は、どこか静かに、しかし確かに忠三郎を見据えていた。
 怨嗟なのか怒りなのか。己の道を失った者の、ぎりぎりの真実が、そこにあった。
「とんだ茶番よ。わしの腹が裂かれるのは、肥後を治めきれなかった報いではない。いや、最初からそうなるよう、仕組まれておった」
 成政の声音は静かだった。だが、その奥にこもる怒りは、鈍く刺さるようだった。

 肥後の一揆。
 本領安堵の約束は空言に過ぎず、国衆たちは領地を削られ、命をも削られた。
 成政は、それを伝える矢面に立たされ、そしてすべての咎を背負わされたのだ。
「肥後は元より難治の国。国人どもは強く、島津さえ手を焼いた輩。――猿はそのことを知りながら、国人どもに本領安堵を約束し、裏ではその土地を奪って直轄領とするため、来るべき大明征伐のための糧とすべく割譲を命じたのだ」
「……」
「案の定、一揆が起きた。だが、あの男はこれ幸いと、我が責をことさらに喧伝し、国人どもを皆殺しにせよと命じた」

 忠三郎の眉がわずかに動いた。
 その言葉の奥に、成政の悔恨と、なお消えぬ誇りが滲んでいた。
 忠三郎は、拳を握ったまま、ただ黙していた。
 否定も肯定もできなかった。
「奴は、織田家を支えてきた多くの者を使い捨て、信長公の名も、血も、器も、その全てを踏みにじって、己一人のために天下を奪い取った。……まこと、日ノ本を蝕む黒き水よ」

 成政は、ふいに懐から一通の書状を取り出し、それを傍らの老僕に渡した。
「これは……?」
 老僕が恭しく差し出したその文を前に、成政は静かに言った。
「譲り状じゃ。わしの馬印――三階菅笠を、おぬしに託す。……この手で渡すことはできぬ。だが、心ある者がなお掲げてくれるならば、わしの志もまた、消えはせぬ」

 忠三郎は、言葉もなく譲り状を受け取った。
 薄い紙のはずが、不思議な重みをたたえていた。

「己の馬印を、他人に託すなど本意ではない。されど……いつか、おぬしが戦場に立つとき、これを携えてゆけ。そこにある『武士の誇り』だけは、無駄にせぬように」
 忠三郎は深く頭を垂れた。
 言葉が出なかった。ただ、深く、頭を垂れた。
(佐々内蔵助……)
 思い起こすのは、かつて信長の下で馬を馳せ、戦場にあっては先陣を駆け、凛然と旗を掲げた姿だった。
 勝家と語らい、一益と杯を交わし、信長の威をともに背負って戦場に立っていた――
 あの頃の佐々成政は、まさしく武の華だった。軍勢を率いて駆ける背中には、何者にも屈せぬ自負があった。忠義を知り、道理を貫き、信長の命のもと、己のすべてを注ぎこんでいたその男が、今や香の煙に包まれ、静かに散っていこうとしている。

 忠三郎の胸の奥で、なにかが音を立てて崩れてゆく。
 かき消せぬ悔いが、奥深くに燻り、熱を持って心を焦がす。
「されどおぬしも用心したほうがいい」
 不意にかけられた成政の声に、忠三郎は、はっとして顔を上げた。
 その眼差しは、すでに死を見据えた者の静けさを宿していたが、底の底ではまだ、この世への未練を断ち切れてはいない――そんな微かな揺らぎがあった。
「猿は織田家に繋がる者を快く思うてはおらぬ。わしの二の轍を踏まぬようにいたせ」
「織田家に繋がる者…」
 その言葉が、胸に刺さる。
 織田家に繋がる者――その言葉のなかに、自らが確かに含まれていることを、忠三郎は否応なく悟っている。信長に召され、その娘を妻に迎えた。かつての忠節を今も捨てきれずにいる自分。秀吉に仕えてはいるものの、その懐に入り切ることはついぞできない。

 ともすれば、成政の憂き目は、遠からず自分にも降りかかるのではないか――
心のどこかに、ずっと芽吹いていた疑念が、成政の一言で静かに輪郭を得た。
 忠三郎は拳を握った。
 ただ仕えるのではない。何を信じ、何を守るのか――それを問い続けねば、自分もまた、あの「猿」に飲み込まれてしまう。
「忠三郎……これが、最後じゃな」
 そう言った成政の声は、思いのほか穏やかだった。だがその瞳には、何も映っていなかった。
 すでに、見るべきものをすべて見届けてしまった者の、乾いた眼差しだった。

 忠三郎は、深く頭を下げた。言葉を探し、喉の奥まで何かがこみ上げてきたが、どうしても口にできなかった。
 何を言っても、この別れが変わることはない。言葉にした途端、すべてが壊れてしまうような気がして――結局、ただ静かに頭を垂れたまま、成政の前から身を引いた。
 襖を閉めたその瞬間、春の風が香のかおりを運んできた。ほのかに甘く、どこか寂しげで、忠三郎の袖をわずかに揺らす。

 その余韻は、別れを告げる亡き人の吐息のようだった。香の煙が細く揺れ、夕陽の影が廊下を長く引きずっていた。

 忠三郎が屋敷を辞したのは、それからほどなくしてだった。振り返らず歩き出したその背に、門を閉じる音が重く響いた。


 成政はその後、尼崎の法園寺に移され、切腹を命じられた。
 秀吉の沙汰は無言のまま、刀よりも冷たく、抗う隙を与えぬほど確かだった。
 白装束をまとい、香を焚き、静かに臨んだ成政は、最後の言葉として一首の辞世を残した。

 ――「このごろの 厄妄想を 入れ置きし 鉄鉢袋 今やぶるなり」

 そう詠み残すと、横一文字に腹を切り裂き、臓を掴んで天へと投げつけた。血の飛沫が柱に飛び散り、天井に黒い跡が残ったという。

「無念腹……か」
 自らの死を以て抗議する、武士としての最後の矜持だった。

 怒りとも、悲しみともつかぬものが、胸の底で渦を巻く。
 それは成政の死に対してだけではない。
 その死に至らせた、この世の理不尽、策謀、そして、それに黙して従っている自分自身への苛立ちでもあった。

 聚楽第での違和感。官兵衛の沈黙。成政の問いかけ。
 すべてが今になって、胸の内に澱のように溜まっていた。
「おぬしは……あの猿の家来として、そのまま生きてゆくつもりか」
 あの言葉が耳に残って離れなかった。
 成政は、自らの罪を疑っていなかった。むしろ、己の務めを果たしたと信じていた。
 肥後の地がいかに難治であったか、国衆がどれほど強い結束を持ち、どれほど己の土地に固執していたか――それを秀吉が知らぬはずはない。
(それでも、内蔵助殿は……詰腹を切らされた)

 策の犠牲となったのか、それとも、ただ邪魔だったのか。
 真相は分からない。だが確かなのは――その死は、あまりにも静かで、あまりにも重たく、そして、あまりにも虚ろだった。

 成政が残した譲り状は、今も忠三郎の懐にある。
 三階菅笠――成政の武士の誇りそのものの馬印を、次に掲げる者として名を記された自身。
 忠三郎は、譲り状を取り出し、そっと目を落とす。手にした譲り状は、すでに幾度も読み返したため、折り目が柔らかくなっていた。
(わしが、受け継ぐというのか……)
 血を流し、腹を割き、己の全てを見せて逝った男の名を、その死の先に残さねばならない。
 だが、どのように残すべきか。今のまま、秀吉のもとで、ただ忠実に命を受けるだけの自分に、それが果たしてできるのか――。

 香の匂いが、ふと記憶に甦った。あの日、白装束の成政がただ静かに微笑み、己のすべてを託すように譲り状を差し出した、その時の気配が。
 忠三郎は静かに目を閉じた。
 かつては、戦場の彼方からでもその姿を見つければ味方が奮い立ち、敵は怯んだ佐々成政。
 その成政の分身ともいうべき馬印を、今や自分が掲げる日が来るとは――。

 外では、風がそっと吹きすぎ、庭の白木蓮が、静かに一枚、また一枚と花弁を落とす。

(若年の折より、故右府様のそばにあった男が……)
(あれほどの戦ぶりを見せた猛将が……)

 忠三郎の心には、未だあの若き日の光景が焼きついていた。
 荒々しくも凛々しく、堂々たる立ち姿で、信長の眼前に控えていた成政の姿。
 それが、香の焚かれた静謐な一室で、まるで物語のように終わりを迎えた。

 その死に、涙を流すことはなかった。だが、胸の奥に灯る火は、まだ消えぬまま、静かに燻っていた。
 やがて、夜のとばりが降りはじめ、都の空が紫紺に染まる。
 その時、忠三郎はふと、耳を澄ませた。
(……聞こえぬ)
 いつもなら、遠くから届くはずの南蛮寺の鐘の音――それが、今日はどこからも響いてこない。
 いや、今日だけではない。
 思えば、ここ数日、いや、もう十日近くも、南蛮寺の鐘は沈黙していた。

 それもそのはず。
 大坂、京都の南蛮寺は、ついに秀吉の命により、取り壊されたのだ。
 理由は何ひとつ語られず、ただ「伴天連禁制ゆえ」とだけ触れ回られた。
 鐘の音が消える――それはただ南蛮寺が壊されたというだけではない。
 この国に根づき始めた祈りの文化ごと、静かに、けれど確実に、摘み取られていったことの証だった。
 忠三郎はその静けさの中に、ひときわ深い孤独と、時代の転機の気配を感じた。

 ――ひとつの火が消え、もうひとつの火が、いつのまにか手の内に宿っている。
 その火を、誰のために、どこへ向けて掲げるのか。
 答えはまだ見つからない。だが、それでも歩を進めねばならない。

 忠三郎は、懐に譲り状を収め、音もなく立ち上がった。
 名残惜しさを胸に忍ばせたまま、白木蓮の散る庭を背に、夕闇の中へと身を沈めた。

 京、堺、大坂――かつて鐘の音が空を渡り、神を賛美する声が昼も夜も絶えることのなかった南蛮寺は、いまや瓦礫と化していた。
 南蛮寺の跡にはまだ、香の残り香が漂っていた。誰かが最後まで、祈っていたのかもしれない。忠三郎は、踏みしめるたびに軋む廃材の音を聞きながら、もはや戻らぬものを知った。鐘はなく、伴天連は追われ、信仰は地に伏した。
 その静寂の底にあってなお、胸の奥には、かすかな痛みとともに、ひとすじの問いが残っていた。
 ――なぜ、こうなったのか。
 なぜ、神はこのような仕打ちをお許しになるのか。

 失意と虚無を抱えたまま、忠三郎は南伊勢・松坂へと戻った。春の風が峠を越え、海の香を運ぶ。山の端に雲が薄く棚引き、どこか見知った匂いが胸を刺した。
 故郷に似た、懐かしい匂い。
 それは遠き日、近江・日野の里山に遊んだ頃の記憶を呼び覚ました。だが、そこに帰る道は、もうない。
 やがて松坂の地に入ると、丘の上に見えた南蛮寺が忠三郎の足を止めた。
 ――まだ、ある。

 鐘の音が、確かに響いていた。
 祈りが、風に乗って耳を打った。
 忠三郎は、町野左近とともに、静かに南蛮寺の門をくぐった。
 中では、かつて武張った顔をしていた家臣たちが、膝を折り、目を閉じて祈っていた。見知った農民、女、子どももいた。皆、十字を胸に切り、唇に微かな微笑みを浮かべていた。
 その光景に、忠三郎は息を呑んだ。
 かつての自分は、力こそが道を拓くと信じていた。忠義と戦功の果てにこそ、世を変える力があると。だが今、自らの手ではなく、追われ、流された者たちの口から紡がれる賛美の声が、確かにこの地を変えている。
「殿――」

 後ろから、ひとりの家臣が声をかけた。岩石城攻めで戦功をあげ、褒美として蒲生の姓を与えた蒲生源左衛門だ。
「思えば……この松坂に南蛮寺ができ、信仰が根づいたのも、あの国替えあってこそでございましたな」
 忠三郎は、黙って聞いていた。
「不本意な道に見えても、主は時に、我らの理解を超えた業をなされる。畿内を追われたキリシタンたちもまた、各地に散らばり、新たなる種をまきはじめましょう」
 言葉の一つひとつが、忠三郎の胸の奥深くに沈んでいった。

 ――種。
 滅びではなく、始まり。
 痛みの果てに、なお何かが始まろうとしているのか。
「キリシタンの教えは常に迫害と隣り合わせ。そうして散らされた者たちにより、多くの者に、神の教えが広められたとか」

 遠くで子どもたちの笑い声がした。南蛮寺の裏で、十字を模した枝を手に遊んでいる。彼らの瞳には、追放も破壊も映っていない。ただ、いまここにある光だけを、見つめていた。

 忠三郎は、その様を見つめながら、ふと目を伏せた。
 何かが胸の奥でほどけるようだった。
 この地で、自分に何ができるのか、まだわからない。だが、ここに生きる者たちと共にあること。それが、今の自分に課された一つの道であるように思えた。
 目を閉じると、遠くで鐘の音が鳴った。
 かつて大坂で待ち続けても聞こえなかった、その音が。
 今、ここに確かに響いていた。

 やがて、松坂に根づき始めたキリシタンの集いに、忠三郎も顔を見せるようになった。南蛮寺では、日ごとに異なる顔ぶれが並び、農民も武士も、女も子どもも、ひとつの賛美歌に声を揃える。
 忠三郎は、その輪の後ろに立って、静かに目を閉じていた。祈ることに慣れているわけではない。神に何を求めるべきか、まだ答えは出ていなかった。だが、何も言わずとも、南蛮寺に立つだけで、心のざわめきが、少しだけ静かになる。

 時折、あの成政の言葉がよみがえった。
 ――猿は、織田に繋がるものを好まぬぞ。

 その警告の重さは、日を追うごとに現実味を増しているように思える。

 忠三郎は、聚楽第で帝の前に和歌を詠んだ日のことを思い出した。
 あのとき感じた、言い知れぬ違和感――
 それは成政の末路をもって、確かな形となった。
 武の道を生き、信長の覇道を信じて戦った者が、いまや皆、道の端に追いやられている。
「わたくしの父も、先頃、国を出ました」
 そう告げたのは、ミサのあとに声をかけてきた若い侍だった。
「追放ではござらぬ。けれど、家も、名も、捨てるようなかたちで……」
 忠三郎は、その若者の顔を見つめながら、ふと己の立場を思った。

 松坂は、今はまだ、静かである。
 南蛮寺も無事だ。
 だが、どれほどの時がこの平穏を許してくれるのか、誰にもわからない。

 ただ、ひとつ言えることがあった。
 この小さな町の南蛮寺に、かつての都にはなかった温かさがあること。
 神の名を口にすることが罪とされる世にあって、それでもなお、この地に種がまかれ、芽吹こうとしているということ。

 ――ならば、わが身は、如何にしてこの戦国の世を渡るべきであろうか

 夜、礼拝堂の鐘が静かに鳴った。
 その音は、昔、都で耳にしたものよりも、ずっと低く、深く、土に染み込むような響きだった。
 忠三郎はその音を聞きながら、そっと空を仰いだ。
 星が瞬いていた。
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