獅子の末裔

卯花月影

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29.関東騒乱

29-2. 白綾の肖像

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 天正十八年 春
 障子越しに差し込む陽の光は、まだ春浅い京の空にしては柔らかかった。庭の白梅はほころび、香り立つような気配が広がっている。水の音を湛えた中庭の池には金色の鯉が泳ぎ、玉砂利の上をすべるようにして諸将の草履音が絶え間なく響いていた。

 聚楽第――まるで都そのものが金箔で覆われたかのような、豊臣の栄華を象徴する場所。その奥にある上段の間。

 蒲生忠三郎は、緋毛氈の上に両手をつき、常の如くゆったりと顔を上げて笑みを湛えていた。
「して、忠三郎殿。馬印を変えるとか」
 鶴の声にも似た甲高い声が、まだ障子の向こうから響く。
「はっ。かつて佐々内蔵助殿が用いられておった『三階菅笠』を譲り受けておりまする。此度の小田原攻めでこの馬印をと考えておりまする」
「佐々内蔵助の……馬印のう」
 障子の向こうの声に、微かな棘が混じったことを、忠三郎は聞き逃さなかった。
「恐れながら……内蔵助殿の武勇に預かりたく、また民や兵どもの信を得るためにも、あの馬印こそがふさわしきものと存じましてございます」
「ふむ……」
 静寂。外の庭では鶯が一声鳴いた。まるでその声さえ、聚楽第の空気に溶けてしまいそうなほどに、贅と権威が支配している。
「内蔵助は、ことごとく儂に逆らった上、つまらぬ一揆を呼び込んで、我が顔に泥を塗ってくれた。自ら地に落ちた男の名を継ぐと申すか。よう申すのう、忠三郎殿」
 障子が静かに開き、豊臣秀吉が奥より姿を現した。金糸と紅の直垂。烏帽子の下から覗く目には、威と猜疑とが混じる強い光があった。
 忠三郎は、その前に伏しながら、にこりと笑ったまま頭を下げる。
「されど、内蔵助殿の戦ぶりは、今なお日の本の語り草にございます。用兵の妙、兵たちの憧れ。関東の地へ赴くにあたり、その象徴を掲げることは、豊臣の威光を知らしめることにもつながりましょう」
 秀吉の眉がぴくりと動いた。忠三郎の言葉に乗せられたかのように、心なしか機嫌を直したようにも見える。
「ふはは、よう言うわ。まこと、おぬしは故右府様や滝川左近が目をかけただけのことはある」
「恐れ入ってござりまする」
 忠三郎の笑顔は、まるで何事もなかったかのように柔らかい。だがその胸中では、喉元に薄刃を当てられているような緊張が走っていた。
「まぁ、よかろう。使うがよい、三階菅笠の馬印を。関東へ赴くならば、目立たねばならぬ。そのための馬印ならば、誰の名だろうと構わぬわ」
「はっ、ありがたき幸せ」
「ただし……その馬印に恥じぬ働きをせよ。さもなくば、内蔵助と同じく、首を晒すこととなろうぞ?」
「御意にござります」
 忠三郎は微笑んだまま深く頭を下げる。その声音に乱れはない。
(命を預けぬ者に、家を残すことなどできぬ)
 忠三郎は笑っていた。春の陽が障子の隙間から差し込み、庭先の松の枝に、菅笠の影が揺れているように見えた。


 聚楽第のきらびやかさを離れ、伊勢に戻れば、松坂の空にも、ようやく春の陽が満ちていた。伊勢の海から吹く風はまだ肌寒いが、町の片隅では菜の花が咲きはじめ、瓦の上をすべる陽光に、鶯の声が冴えわたる。

 まだ地面の赤土が剝き出しのところも多いが、それでも町は確かに、少しずつ形をなしつつあった。かつては鬱蒼たる山の裾でしかなかったこの地に、今では商人や職人、百姓たちが移り住み、家々を建て、軒先には干し魚や野菜が吊るされている。

 鍛冶屋の槌音が朝靄に響き、町の通りには材木を積んだ牛車が行き交う。子どもたちの笑い声があちらこちらに飛び、門前の土間には早咲きの梅が咲いている。
 丘の上、築かれつつある松坂城の天主も、ようやくその姿を現し始めていた。真新しい白木が春の日に照らされ、高く聳える石垣には、職人たちが継ぎ目を確かめる姿が見える。海に近いこの丘の上からは、遠く熊野の山々が霞の向こうに浮かび、松坂の港を行き交う舟影がちらちらと光っていた。

 忠三郎は、城下を見下ろす高台に立ち、しばし眼を細めた。
 ここが、わしの築く町か――。
 戦に疲れた者たちが暮らし、子を産み、老い、再び何かを託してゆく場所。
 たとえ栄華の頂には立てずとも、この地にひとつの灯を遺すことができるなら。
 海鳴りが微かに聞こえる。
 この町はまだ、ひとつの夢の途中にある。だが確かに、夢は歩き始めている。

 忠三郎は、松坂城へと戻り、一室に静かに座していた。
 部屋の中央には、描かれたばかりの絵――白綾の小袖に身を包んだ、己の肖像が屏風のように立てかけられていた。
 その顔には、どこまでも穏やかな微笑が浮かんでいる。絹の地に滲む墨の色は、柔らかくも確かに、彼の面影を閉じ込めていた。

 やがて、戸が静かに開き、町野左近の妻・おつうが現れた。
「お呼びにございますか、殿」
「うむ。おつう、ちと見てくれぬか」
 指さした先には、自らの肖像。
「京より絵師を呼んで、わしの姿を描かせた。なかなか、よく描けておろう?」
 おつうが目を見開いた。
 そして次の瞬間、両の手で口を覆い、呟くように言った。
「――これは……」
 その声は、驚きとも、咎めともつかぬ微かな震えを帯びていた。
「なんと……なんと、縁起でもない……!」
 おつうは袖で目を覆った。
「殿……それではまるで…」
「まるで、遺影のようだと?」
 忠三郎は笑った。いつものように、柔らかな、飄々とした笑みだった。だがその眼には、ほんのわずかに、滲むような翳りがあった。
「殿!」
「なぁに、おつう。これは覚悟のしるしよ。小田原にて、討ち死にするやも知れぬ。されば、いっそ先に絵として残しておくのも一興」
 おつうはこらえきれず、ぽろぽろと涙をこぼした。
「殿がこの先――この国に殿の名を残すと、そう信じておりましたのに」
「うむ。信じてよい。名は、残る。たとえこの身が残らずとも」
 忠三郎は、描かれた自らの眼差しに視線を重ねる。
「わしはな、死ぬ気などさらさらない。されど――死してなお、名を残す覚悟はできておる」
 おつうは、しばらく何も言えなかった。
 やがて、肖像画から目を離さぬまま、忠三郎は声を落として言った。

「おつう……鶴千代が、大人になったときのことじゃ」
「……はい」
「いつかきっと、問う日が来よう。『父は、どのような武将であったのか』とな」
「……」
「そのときは、この絵を見せてやってほしい。この中には、すべてが詰まっておる。鶴千代が迷ったとき、怒ったとき、泣きたいとき、……ここに戻ってこられるように」
 おつうは、何も言えなかった。小袖の白さが、どうしても死装束に重なって見えてならない。
 忠三郎は画を見つめたまま、ふっと視線を落とす。
(義兄とも慕った滝川左近を裏切り、日野の地を離れ、わしはいったい、何を得たのであろうか)
 思えば、信長の娘婿として名を連ねたあの若き日、誰が、今のような日々を予想しただろうか。滝川家を見捨て、信長の遺志を継ぐことも叶わず、日野を追われ、先祖の墓すら遠くに置いた。己はただ、天下の潮に流されるひとつの石に過ぎないのだろうか。
(それでも……鶴千代だけは、まっすぐに育ってほしい)
 忠三郎は、肩を落とすおつうに、やわらかく声をかけた。
「泣くでない、おつう。わしはまだ、生きている」
 そう言いながらも、忠三郎の心の奥底には、誰にも話せぬ孤独が、凍ったまま静かに沈んでいた。
 けれどその声は、春の陽に溶けるように静かで、どこか遥かな場所から聞こえるようでもあった。

 障子の外では、かすかに風が吹いていた。庭の若草が揺れ、梅の花びらがひとひら、ひらりと舞い落ちる。白綾の小袖に映るその影は、まるで雪のようにも、あるいは、過ぎし日の面影のようにも見えた。

 忠三郎はふと顔を上げ、陽に霞む空を見た。そこにはもう、何も映らぬ――いや、映すことをやめた、ひとりの男の瞳があった。

 心の底に沈んだままの孤独――
 それは、義兄と慕った男を裏切ったことゆえか、信長の元で天下を統べ治める夢がついえたためか。あるいは、遠く故郷・日野を追われ、先祖の墓に手を合わせることすら叶わぬ、断ち切られた過去の残響なのかもしれない。

 それでも、笑みをたたえていなければならない。
 それが、「蒲生忠三郎」という男の、選び取った道だった。

 やがて梅の香が風に乗って流れ、ひとひらの花びらが、忠三郎の肩に舞い落ちた。

 その瞬間、忠三郎はふと、笑った。
 誰にも見せぬ、ほんのわずかな、本当の笑みを――
 まるで、それがこの世に残る、最後の笑顔であるかのように。
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