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31.会津
31-1. 雪密(せつみつ)の刻
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会津の地は、十月を迎えていた。近江や伊勢の空気に慣れた者たちにとって、それは初めて出会う、身を刺すような寒さであった。
まだ秋の名残があるはずの時節に、空は重く、山々はすでに薄墨の衣をまとい、野に吹く風には容赦のない冷たさがあった。朝には霜が一面に降りて、草の葉も小枝も白く縁取られ、音を立てずに凍りついていた。
その日、城下では朝餉の膳を囲む家臣たちが、ふと障子を開け、しんと静まる外を眺めて言葉を失った。雪――。音もなく、しんしんと、薄灰の空より白きものが舞い落ちてくる。初めての地に腰を据えたばかりの者たちは、椀を手にしたまま、雪に覆われゆく庭をただ見入っていた。
「早、雪とは……」と誰かがつぶやいた。
「松坂では考えられぬことよ……時が冬を急いでおるかのようじゃ」
白きものが屋根を覆い、やがて地を埋めるほどに積もる頃、彼らはようやく、この会津という国の厳しさを、肌で知ることとなった。
それでも、どこかしら風景は美しかった。雪にけぶる山裾、遠く聞こえる川の音、薪のはぜる音が、凍える空気のなかで不思議と心を落ち着かせる。
さながら、この地が、試すように、迎える者の覚悟を問うているかのようであった。
――そして、蒲生忠三郎もまた、朝早くから庭先に立ち、雪を見上げていた。京を遠く離れたこの地で、己の運命が大きくうねろうとしていることを、まだ知る由もなかった。
この雪の下に、いくつもの策謀と、誓いと、哀しみが静かに芽吹こうとしている。
雪は絶えることなく降りしきっていた。風の音も絶え、ただ白きものが、静かに空から舞い落ちる。
忠三郎は、広間の縁に座し、開け放たれた障子越しに、その銀の世界をしばし無言のまま見つめていた。肩には薄く雪が積もっていたが、それを払いもせず、じっと雪の舞を追っていた。
やがて、静かに背後を振り返り、控えていた従者に声をかける。
「松田金七を、呼んでくれぬか」
ほどなくして、黒羽織に雪を乗せた男が、そろそろと広間に現れた。面構えの鋭い武辺者だ。彼が膝をつくと、忠三郎は笑みを浮かべ、自ら膳を彼の前へと差し出した。
「寒かろう。こちらへ――遠慮は要らぬ」
主人自らがそう振る舞うのに、金七は一瞬戸惑ったものの、やがて静かに膝を寄せた。
金七――大和国の出であり、生来武勇にすぐれた男であった。忠三郎が松坂にあった頃、家臣の一人、河井金左衛門が「面白き者がいます」と言って連れてきたのが、この男だった。
「面白き者と申すか」
「は。己が具足の背に『天下一の比気(卑怯)者』と金箔で記しております」
「……ふむ。それは確かにただ者ではない。会うて話してみようか」
興をそそられた忠三郎は、その場で松田を呼び入れ、目通りを許した。
「おぬし、なにゆえに天下一の比気者と名乗るのか」
松田は静かに頭を垂れたのち、抑えた声で語り出した。
「南都に浪々しておりました折、町人どもと些細な口論となり、大勢に囲まれ、棒で打たれました」
「……棒で、か」
「はい。武士にとっては、刀より何より、それが最も口惜しき屈辱にござります。……即刻、腹を切って果てようとしたのですが、周囲に押し止められ、それも叶わず……」
語る口ぶりには、芝居じみたところは微塵もなかった。すでに何度も胸中で繰り返し、擦り切れるほどに自問してきた末の、乾いた悔恨の声であった。
「さればこそ、恥を忘れぬよう、己の具足の背に、この名を刻み申しました。卑怯者――それが、それがしの名にて候」
忠三郎は、その語り口をじっと聞いていたが、やがてほほえみ、言った。
「なんとも心根のまっすぐな者ではないか」
その一言は、松田の胸に深く染みた。思わず顔を上げたその目に、忠三郎は柔らかな眼差しを向けたまま、こう続けた。
「人の世に、誇れる強さより、隠さぬ弱さを持つ者こそ信じられる。おぬしの正直と覚悟、わしは好ましく思う。――よかろう。召し抱える。おぬしに、我が鉄砲隊を預けるゆえ、存分に働け」
その場にいた家臣たちは、皆いぶかしみ、ある者は呆れすらした。
だが松田金七は、深く深く頭を下げ、畳の上に額をつけた。
過ぎし恥辱の記憶と共に歩んできた者が、その名のままに受け入れられるなど、夢にも思わぬことであった。
――その日から松田金七は、背に「比気者」の名を負ったまま、忠三郎のために命を懸ける覚悟を固めた。
そしていま、再び忠三郎の前に座すこの場にて、金七の心にはかすかな温もりが灯る。
広間には静かな時間が流れた。外では雪が静かに、広く白く、降り積もっていた。
やがて、忠三郎は手を膝に置き、再び静かに声を落とした。
「……火縄は如何じゃ。この寒さでは、火も付きにくかろう」
金七はすぐに背を正し、頷いた。
「まことに――この地は、火薬が湿るのも早く、火縄に火を回すにも手間取りがちにござります。足軽どもも、寒さに手がかじかみ、仕掛けを乱すことが増えております」
「うむ。会津の冬は、この先さらに厳しくなろう。戦は雪を待たぬ。いざという時、火が付かぬでは、ものの用を成さぬ」
忠三郎は、静かに立ち上がり、庭先に積もる雪の上へと一歩踏み出した。足元の雪がきしりと鳴り、金七もそれに続いて立ち上がる。
「今のうちに備えておけ。火縄の扱い、鉄砲の雪除け、すべて寒中での手順を改めて練り直し、足軽どもにも体に沁み込ませよ。雪の下で笑われるは、油断した者ではなく、備えを欠いた者ぞ」
その言葉に、金七は深々と頭を下げた。
「はっ。御意にて――すぐに鍛錬場を設け、火縄の扱いを雪中にて試させましょう。火種の湿気除けも、新たに工夫を」
「おぬしならば、そのあたり、心得ておろう。任せた」
忠三郎の声は静かだったが、金七を信頼していることが伝わってきた。
金七はその声を胸に刻みながら、再び一礼すると、踵を返して雪の中へと歩み去った。
雪は、なおも静かに降り続く。
会津の空は白く、音のない厳しさをたたえていた。
鉄砲隊の雪中訓練が始まり、城内もどこか張り詰めた気が流れ始めた。
忠三郎は、広間から立ち、ふと廊を抜けて詰所の方へ足を向けた。庭には相変わらず雪がしんしんと降り積もっており、踏みしめる音も吸い込まれて消えていく。白き静寂の中、ただ屋敷の木戸が風に揺れ、かすかな音を立てていた。
そのとき。詰所の障子の隙間から、ふと声が洩れ聞こえた。
「……それでも、おぬしの言うは正しい。あのとき、わしが口を挟んでおらねば、もっと不穏なことになっていたかもしれませぬ」
「いや、隼人殿の思慮あっての采配でした。あれが無ければ、我らは今ここにはおりませぬ」
声の主は、三雲定持と加賀山隼人――共に信任篤き家臣ではあるが、さほど深い交誼があったとは、知らなかった。
(この二人が……なぜかくも親しげに話しておる?)
言い交わす声は低く、深く、互いに心を許していることは、その語り口からも伝わってくる。何か過去の出来事を分かち合っているようにも思われた。
忠三郎は立ち止まり、しばし障子の前で耳を傾けていたが、やがて静かに踵を返した。
日が傾き始め、広間に灯がともるころ、忠三郎は三雲定持を静かに呼び寄せた。雪の冷気がまだ広間に残っていたが、炭火の香がほんのりと漂っている。
「三郎左。少し、聞きたいことがある」
「はっ。何なりと……」
忠三郎は膝を折り、茶を一つ自らの手で差し出しながら、何気なさを装って言った。
「今日、詰所の前を通った折、おぬしと加賀山隼人が話しておるのを耳にした。……いや、詮索するつもりではない。されど、どうにも意外でな。あの隼人と、かくも親しき間柄であったとは、知らなんだ」
三雲定持は一瞬、目を伏せた。返答にはわずかな間があった。やがて口を開くと、その声音は落ち着いていたが、何か思いを抱えた色がわずかに混じっていた。
「……お恥ずかしながら、それがしも最初はただの同僚として接しておりました。ですが――松坂におりました折、ある町方の騒擾に際し、加賀山殿が独り人々の前に立ち、刃を抜かずに事を鎮めたことがございました」
「……ほう」
「それがしはその場に偶然居合わせ、隼人殿の胆力と、何よりも血を流すことを避けんとする思いに、深く打たれたのです。それよりというもの、言葉少なではありますが、どこか通じ合うものが……」
忠三郎はしばらく黙し、茶を一口啜った。
人は、見えぬところで繋がり、重ねた時の中で育まれていく――それを知らぬままに、主君はその実の一端のみを見て、あれこれと思い込んでいたのかもしれぬ。
だが三雲定持の語り口には、なにかを感じる。それは単なる感謝や尊敬以上の、何か――長く、密やかな因縁の気配。
やがて忠三郎は、微かに笑みを浮かべて言った。
「ならば、よい絆だ。これからも大切にせよ。隼人もまた、信を置くに足る武士。……わしの目に狂いがなければ」
三雲定持は深々と頭を下げた。
「恐れ入ります」
広間の外では、なお雪が降り続いていた。夜の白さが、あらゆる音を包み、時さえも凍てつかせているかのようだった。
「…で、おぬしらが案じていることは?」
ふいに忠三郎が問う。声は穏やかでありながら、何かを見抜いているかのような口調だ。
「は、それは…」
定持は口ごもった。だが忠三郎は笑みを絶やさず、やさしく促すように言った。
「隠さずともよい。皆が何やら案じて語らっているのは、とうに知れておる。それを、わしにも教えてくれぬか」
三雲定持は一度、視線を落としたのち、覚悟を定めたように静かに口を開いた。
「豊臣家が治める領内で、かくも次々に一揆が起きているのは偶然ではありませぬ」
「…というと?」
「検地が、あまりに厳しすぎます。年貢もまた、寸分の誤差なく取り立てられ……そのせいで、所領を奪われた国衆が、怨嗟とともに結束し始めております」
その言葉に、忠三郎の表情がふと翳った。
それは、彼自身がすでに感じていたことでもあった。秀吉が命じる検地は容赦なく、逆らえば討たれて当然という空気が、武家にも農民にも重くのしかかっていた。
(――天下が定まったとはいえ、これは……いささか無理がある)
心のうちで、忠三郎は静かに思った。
肥後の乱も、元をたどれば同じ理――奪われた土地、圧しきられた民の息――そこに火がつくのは、自然の理だ。
「では、いずれは我が領内でも同じことが起きると?」
忠三郎の声は低く、雪明かりに照らされた広間の奥に沈み込む。
三雲定持は、一瞬だけ視線を泳がせ、しかしすぐにまっすぐに答えた。
「それは、ありませぬ。確かに、領内にて伊達殿の手の者と思しき者らが密かに騒ぎを起こしてはおりますが、いずれも小事。すでに押さえてございます」
忠三郎は静かに頷いた。炉の炭が、ぱちりと音を立てた。
「むしろ、領民の多くは日ごとに殿を慕う心を深めているかと。検地の折にも、殿の御名を口にする者が、意外に多うございました」
「……されど?」
忠三郎が、言葉の端にある影を見逃さず問い返す。
定持の声が、わずかに湿りを帯びた。
「……木村殿の領内が、些か不穏にございます」
「木村殿の領内か」
忠三郎の眉が、ごく僅かに動いた。
外の雪は音もなく降り続いている。広間の障子に映る白い気配が、何かの兆しのように脈打っている。
「風聞ではございますが、百姓らの中に、検地帳の書き換えを謀る者が現れているとか。あるいは、追われた国人どもが密かに戻り、山野に潜むとも……」
定持の語る声は低く、夜の気配と溶け合うように沈んでいく。
忠三郎は黙したまま、片膝に手を置き、じっと障子越しの雪景を見つめていた。その眼差しは、白の奥にある何かを見通そうとするかのようだった。
(木村殿……)
心の内で、その名を静かに繰り返す。
風もなく、音もない。ただ、白く積もる雪の下で、何かがひそかに動き出している――そんな予感が、忠三郎の胸中をゆっくりと満たしていった。
まだ秋の名残があるはずの時節に、空は重く、山々はすでに薄墨の衣をまとい、野に吹く風には容赦のない冷たさがあった。朝には霜が一面に降りて、草の葉も小枝も白く縁取られ、音を立てずに凍りついていた。
その日、城下では朝餉の膳を囲む家臣たちが、ふと障子を開け、しんと静まる外を眺めて言葉を失った。雪――。音もなく、しんしんと、薄灰の空より白きものが舞い落ちてくる。初めての地に腰を据えたばかりの者たちは、椀を手にしたまま、雪に覆われゆく庭をただ見入っていた。
「早、雪とは……」と誰かがつぶやいた。
「松坂では考えられぬことよ……時が冬を急いでおるかのようじゃ」
白きものが屋根を覆い、やがて地を埋めるほどに積もる頃、彼らはようやく、この会津という国の厳しさを、肌で知ることとなった。
それでも、どこかしら風景は美しかった。雪にけぶる山裾、遠く聞こえる川の音、薪のはぜる音が、凍える空気のなかで不思議と心を落ち着かせる。
さながら、この地が、試すように、迎える者の覚悟を問うているかのようであった。
――そして、蒲生忠三郎もまた、朝早くから庭先に立ち、雪を見上げていた。京を遠く離れたこの地で、己の運命が大きくうねろうとしていることを、まだ知る由もなかった。
この雪の下に、いくつもの策謀と、誓いと、哀しみが静かに芽吹こうとしている。
雪は絶えることなく降りしきっていた。風の音も絶え、ただ白きものが、静かに空から舞い落ちる。
忠三郎は、広間の縁に座し、開け放たれた障子越しに、その銀の世界をしばし無言のまま見つめていた。肩には薄く雪が積もっていたが、それを払いもせず、じっと雪の舞を追っていた。
やがて、静かに背後を振り返り、控えていた従者に声をかける。
「松田金七を、呼んでくれぬか」
ほどなくして、黒羽織に雪を乗せた男が、そろそろと広間に現れた。面構えの鋭い武辺者だ。彼が膝をつくと、忠三郎は笑みを浮かべ、自ら膳を彼の前へと差し出した。
「寒かろう。こちらへ――遠慮は要らぬ」
主人自らがそう振る舞うのに、金七は一瞬戸惑ったものの、やがて静かに膝を寄せた。
金七――大和国の出であり、生来武勇にすぐれた男であった。忠三郎が松坂にあった頃、家臣の一人、河井金左衛門が「面白き者がいます」と言って連れてきたのが、この男だった。
「面白き者と申すか」
「は。己が具足の背に『天下一の比気(卑怯)者』と金箔で記しております」
「……ふむ。それは確かにただ者ではない。会うて話してみようか」
興をそそられた忠三郎は、その場で松田を呼び入れ、目通りを許した。
「おぬし、なにゆえに天下一の比気者と名乗るのか」
松田は静かに頭を垂れたのち、抑えた声で語り出した。
「南都に浪々しておりました折、町人どもと些細な口論となり、大勢に囲まれ、棒で打たれました」
「……棒で、か」
「はい。武士にとっては、刀より何より、それが最も口惜しき屈辱にござります。……即刻、腹を切って果てようとしたのですが、周囲に押し止められ、それも叶わず……」
語る口ぶりには、芝居じみたところは微塵もなかった。すでに何度も胸中で繰り返し、擦り切れるほどに自問してきた末の、乾いた悔恨の声であった。
「さればこそ、恥を忘れぬよう、己の具足の背に、この名を刻み申しました。卑怯者――それが、それがしの名にて候」
忠三郎は、その語り口をじっと聞いていたが、やがてほほえみ、言った。
「なんとも心根のまっすぐな者ではないか」
その一言は、松田の胸に深く染みた。思わず顔を上げたその目に、忠三郎は柔らかな眼差しを向けたまま、こう続けた。
「人の世に、誇れる強さより、隠さぬ弱さを持つ者こそ信じられる。おぬしの正直と覚悟、わしは好ましく思う。――よかろう。召し抱える。おぬしに、我が鉄砲隊を預けるゆえ、存分に働け」
その場にいた家臣たちは、皆いぶかしみ、ある者は呆れすらした。
だが松田金七は、深く深く頭を下げ、畳の上に額をつけた。
過ぎし恥辱の記憶と共に歩んできた者が、その名のままに受け入れられるなど、夢にも思わぬことであった。
――その日から松田金七は、背に「比気者」の名を負ったまま、忠三郎のために命を懸ける覚悟を固めた。
そしていま、再び忠三郎の前に座すこの場にて、金七の心にはかすかな温もりが灯る。
広間には静かな時間が流れた。外では雪が静かに、広く白く、降り積もっていた。
やがて、忠三郎は手を膝に置き、再び静かに声を落とした。
「……火縄は如何じゃ。この寒さでは、火も付きにくかろう」
金七はすぐに背を正し、頷いた。
「まことに――この地は、火薬が湿るのも早く、火縄に火を回すにも手間取りがちにござります。足軽どもも、寒さに手がかじかみ、仕掛けを乱すことが増えております」
「うむ。会津の冬は、この先さらに厳しくなろう。戦は雪を待たぬ。いざという時、火が付かぬでは、ものの用を成さぬ」
忠三郎は、静かに立ち上がり、庭先に積もる雪の上へと一歩踏み出した。足元の雪がきしりと鳴り、金七もそれに続いて立ち上がる。
「今のうちに備えておけ。火縄の扱い、鉄砲の雪除け、すべて寒中での手順を改めて練り直し、足軽どもにも体に沁み込ませよ。雪の下で笑われるは、油断した者ではなく、備えを欠いた者ぞ」
その言葉に、金七は深々と頭を下げた。
「はっ。御意にて――すぐに鍛錬場を設け、火縄の扱いを雪中にて試させましょう。火種の湿気除けも、新たに工夫を」
「おぬしならば、そのあたり、心得ておろう。任せた」
忠三郎の声は静かだったが、金七を信頼していることが伝わってきた。
金七はその声を胸に刻みながら、再び一礼すると、踵を返して雪の中へと歩み去った。
雪は、なおも静かに降り続く。
会津の空は白く、音のない厳しさをたたえていた。
鉄砲隊の雪中訓練が始まり、城内もどこか張り詰めた気が流れ始めた。
忠三郎は、広間から立ち、ふと廊を抜けて詰所の方へ足を向けた。庭には相変わらず雪がしんしんと降り積もっており、踏みしめる音も吸い込まれて消えていく。白き静寂の中、ただ屋敷の木戸が風に揺れ、かすかな音を立てていた。
そのとき。詰所の障子の隙間から、ふと声が洩れ聞こえた。
「……それでも、おぬしの言うは正しい。あのとき、わしが口を挟んでおらねば、もっと不穏なことになっていたかもしれませぬ」
「いや、隼人殿の思慮あっての采配でした。あれが無ければ、我らは今ここにはおりませぬ」
声の主は、三雲定持と加賀山隼人――共に信任篤き家臣ではあるが、さほど深い交誼があったとは、知らなかった。
(この二人が……なぜかくも親しげに話しておる?)
言い交わす声は低く、深く、互いに心を許していることは、その語り口からも伝わってくる。何か過去の出来事を分かち合っているようにも思われた。
忠三郎は立ち止まり、しばし障子の前で耳を傾けていたが、やがて静かに踵を返した。
日が傾き始め、広間に灯がともるころ、忠三郎は三雲定持を静かに呼び寄せた。雪の冷気がまだ広間に残っていたが、炭火の香がほんのりと漂っている。
「三郎左。少し、聞きたいことがある」
「はっ。何なりと……」
忠三郎は膝を折り、茶を一つ自らの手で差し出しながら、何気なさを装って言った。
「今日、詰所の前を通った折、おぬしと加賀山隼人が話しておるのを耳にした。……いや、詮索するつもりではない。されど、どうにも意外でな。あの隼人と、かくも親しき間柄であったとは、知らなんだ」
三雲定持は一瞬、目を伏せた。返答にはわずかな間があった。やがて口を開くと、その声音は落ち着いていたが、何か思いを抱えた色がわずかに混じっていた。
「……お恥ずかしながら、それがしも最初はただの同僚として接しておりました。ですが――松坂におりました折、ある町方の騒擾に際し、加賀山殿が独り人々の前に立ち、刃を抜かずに事を鎮めたことがございました」
「……ほう」
「それがしはその場に偶然居合わせ、隼人殿の胆力と、何よりも血を流すことを避けんとする思いに、深く打たれたのです。それよりというもの、言葉少なではありますが、どこか通じ合うものが……」
忠三郎はしばらく黙し、茶を一口啜った。
人は、見えぬところで繋がり、重ねた時の中で育まれていく――それを知らぬままに、主君はその実の一端のみを見て、あれこれと思い込んでいたのかもしれぬ。
だが三雲定持の語り口には、なにかを感じる。それは単なる感謝や尊敬以上の、何か――長く、密やかな因縁の気配。
やがて忠三郎は、微かに笑みを浮かべて言った。
「ならば、よい絆だ。これからも大切にせよ。隼人もまた、信を置くに足る武士。……わしの目に狂いがなければ」
三雲定持は深々と頭を下げた。
「恐れ入ります」
広間の外では、なお雪が降り続いていた。夜の白さが、あらゆる音を包み、時さえも凍てつかせているかのようだった。
「…で、おぬしらが案じていることは?」
ふいに忠三郎が問う。声は穏やかでありながら、何かを見抜いているかのような口調だ。
「は、それは…」
定持は口ごもった。だが忠三郎は笑みを絶やさず、やさしく促すように言った。
「隠さずともよい。皆が何やら案じて語らっているのは、とうに知れておる。それを、わしにも教えてくれぬか」
三雲定持は一度、視線を落としたのち、覚悟を定めたように静かに口を開いた。
「豊臣家が治める領内で、かくも次々に一揆が起きているのは偶然ではありませぬ」
「…というと?」
「検地が、あまりに厳しすぎます。年貢もまた、寸分の誤差なく取り立てられ……そのせいで、所領を奪われた国衆が、怨嗟とともに結束し始めております」
その言葉に、忠三郎の表情がふと翳った。
それは、彼自身がすでに感じていたことでもあった。秀吉が命じる検地は容赦なく、逆らえば討たれて当然という空気が、武家にも農民にも重くのしかかっていた。
(――天下が定まったとはいえ、これは……いささか無理がある)
心のうちで、忠三郎は静かに思った。
肥後の乱も、元をたどれば同じ理――奪われた土地、圧しきられた民の息――そこに火がつくのは、自然の理だ。
「では、いずれは我が領内でも同じことが起きると?」
忠三郎の声は低く、雪明かりに照らされた広間の奥に沈み込む。
三雲定持は、一瞬だけ視線を泳がせ、しかしすぐにまっすぐに答えた。
「それは、ありませぬ。確かに、領内にて伊達殿の手の者と思しき者らが密かに騒ぎを起こしてはおりますが、いずれも小事。すでに押さえてございます」
忠三郎は静かに頷いた。炉の炭が、ぱちりと音を立てた。
「むしろ、領民の多くは日ごとに殿を慕う心を深めているかと。検地の折にも、殿の御名を口にする者が、意外に多うございました」
「……されど?」
忠三郎が、言葉の端にある影を見逃さず問い返す。
定持の声が、わずかに湿りを帯びた。
「……木村殿の領内が、些か不穏にございます」
「木村殿の領内か」
忠三郎の眉が、ごく僅かに動いた。
外の雪は音もなく降り続いている。広間の障子に映る白い気配が、何かの兆しのように脈打っている。
「風聞ではございますが、百姓らの中に、検地帳の書き換えを謀る者が現れているとか。あるいは、追われた国人どもが密かに戻り、山野に潜むとも……」
定持の語る声は低く、夜の気配と溶け合うように沈んでいく。
忠三郎は黙したまま、片膝に手を置き、じっと障子越しの雪景を見つめていた。その眼差しは、白の奥にある何かを見通そうとするかのようだった。
(木村殿……)
心の内で、その名を静かに繰り返す。
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守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
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