獅子の末裔

卯花月影

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31.会津

31-4. 風雪の理

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 白き野を、重く湿った靴音が貫いていく。
 吹雪の合間、雲間から覗いた陽の光が、兵たちの槍先をかすかに照らしていた。
 忠三郎率いる蒲生勢は、着実に伊達領へと進軍していた。
 先導役として伊達家から来た須田伯耆が前を歩き、伊達の兵もともに行軍している。だが、家臣たちは誰もが言い知れぬ不安を抱いていた。
「殿、あの伊達勢……」
 町野長門守がそっと口を開く。
「どうも、空気が妙でござります。……まるで、戦に来ておらぬような」
 その言葉通りだった。伊達兵の動きは緩慢で、隊列もどこか緩みがあった。
 そのくせ、村落を通るたびに鉄砲を撃ち鳴らして威嚇している。だが――。

「弾が……出ておらぬような…」
 蒲生源左衛門が、何気なく回収した玉薬袋を差し出してきた。
 その中身は、空だった。
「なるほど、音だけで威を示すつもりか。……あるいは、味方に見せる芝居か」
 忠三郎は扇子で口元をかすかに隠しながら笑った。
 その目は笑っていなかった。

 やがて、名生(みょう)城がその姿を現した。
 小高い丘に築かれたその城は、雪のなかに埋もれた残火のように、不気味な熱を内に孕んでいた。
 一揆勢が籠もってからというもの、伊達家の支援も受け、堅牢な守りを築いたという。
 忠三郎は風を読むようにその佇まいを眺め、やがて陣を張らせた。
 濃く低い雪雲が垂れ込め、時おり粉雪が降りしきるなか、兵は寡黙に準備を進めた。
 伊達家の須田伯耆も加わり、いよいよ総攻めかという矢先――。

 蹄の音が雪を裂いた。
 馬上の使者が吹雪を背に駆け込み、凍てついた空気を引き裂くように声を放つ。
「伊達左京大夫殿よりの急使!」
 現れたのは、伊達家中の老臣・中野宗時であった。馬を降り、深く頭を垂れた中野宗時は、やや芝居がかった口調で言った。
「我が主、急な病にて床に伏し申した。よって、名生城攻めは一時延期していただきたい……」
 言葉が終わるや否や、空気が凍りつく。
 兵たちは顔を見合わせ、疑念が雪のように降り積もる。
「……病、でございますか」
 蒲生忠右衛門が唇を引き結んだ。
「この刻に、突如と? まことに御身の急とは……」
「それがしが嘘を申していると?」
 中野が静かに言い返す。
「否、さようには申さぬが……」
 言葉を濁す家臣たちの気配をよそに、忠三郎は火鉢にくべた薪をじっと見つめていた。
 ぱち、と乾いた音を立てて焔がはぜた。
 その一音が、妙に大きく、耳に残った。
 やがて、忠三郎はゆるゆると立ち上がった。
「よかろう。伊達殿には、どうぞご静養くだされ」
 町野長門守が目を見開く。
「……では、城攻めは――」
「われらだけでやる。よいか、長門」
 沈黙のなか、蒲生勢の兵たちが一斉に立ち上がり、音もなく武具を整えていく。
 雪を踏む音が一斉に鳴ると、大河が氷を割って流れ始めるような、不吉なうねりとなって野に響いた。
 須田伯耆が慌てて忠三郎の袖を引く。
「蒲生殿、お待ちを! あの城はそうたやすくは落ちませぬ、ここで無理をすれば…」
 忠三郎は、静かに微笑んで伯耆を振り返った。
「心配くださるな。無理をせぬためにも、今ここで取らねばならぬ」
 そして扇子を閉じ、ひとこと。
「名生城――今宵のうちにいただく」
 雪が止み、雲が裂け、月がその白き光を放ち始めた。
 蒲生勢は風に溶けるように動き出す。
 裏手の竹林を抜け、夜の闇に紛れて三の丸を襲い、火矢と鬨の声が一揆勢の眠気を断ち切った。

 鉄砲が初めて真の火を吹いた。
 閃光、怒号、悲鳴――それらを背に、忠三郎はただ無言で城内を進む。
 味方の盾となり、敵の隙を刺し、あたかも氷上を渡るように滑らかに。
 決してその身を濡らすことのない影のように。

 やがて、明け方の凍て空に、向かい鶴の旗が城壁の上に翻った。
 雪がまた舞い始める。
 忠三郎は、静かに城壁から遠くを見下ろした。
 伊達の陣があった。
 火も焚かれず、ただ、沈黙の中に黒々と人影が佇んでいる。

 ――見ておる。いや、測っておる。こちらの疲れ、損耗、気の緩みを。
 町野長門守が声をひそめて言った。
「……あれ、攻める気では……?」
 忠三郎は応えず、扇子を軽く揺らした。
「病と申して、よう見物に出てこられたのう」
 その目は笑っておらず、じっと冬の闇を見つめていた。
 風が、ふいに東へ流れた。
 その冷たさに、忠三郎ははっきりと気づいた。
 ――帰れぬ。これは、会津まで兵を退かせぬつもりか。
 伊達が急病を演じ、城攻めを譲ったのも、疲弊を見込んでのもの。
 こちらが名生城を落とした今こそ、彼らにとっての好機。
 忠三郎は、ゆっくりと目を閉じ、言った。
「……この城で越年する」
 家臣たちが一斉に息を呑んだ。
「凍えることはあれど、凍えて死ぬほど寒くはあるまい」
 そして、淡々と続ける。
「伊達の兵が見守ってくれておる。……ならば、今はここが一番、温かい」

 白雪が舞い落ちる名生城に、静かなる宿命の灯がともった。
 外の風は鋭く、伊達の陣はますます近づいていた。


 冬は、名生みょう城の石垣を白く包み、沈黙のなかに時を閉じ込めていた。
 蒲生勢は、この地で越年することを余儀なくされた。
 外には、じっと動かぬ伊達の軍勢。あの夜、政宗が病を理由に名生城攻めを見合わせたときから、彼らは一歩も動かぬまま、ただ見つめていた。その静けさが、むしろ不気味だった。狙っているのは、こちらの焦燥と飢え、そして……失策。
 忠三郎は、夜毎、火鉢に手をかざしながら、その虚ろな静けさの意味を測っていた。
「動かぬ軍ほど、恐ろしいものはないのう」
 ぽつりと呟いたその声に、町野長門守が焚火の向こうから頷いた。
「まさしく。にらみ合いの中で、こちらの消耗を待っておるかのような。兵糧が尽きることを…」
 兵たちは寒さに凍えながらも、交替で城壁に立ち、伊達勢の動きを睨んでいた。炊き出しの湯気がかすかに立ちのぼる。けれど、その湯気は日に日に細く、頼りなくなっていた。米も、味噌も、干し魚すら底をつき始めていた。

 そんなある日、雪煙を上げて城門を叩く報がもたらされた。
「伊達左京大夫殿、高清水・宮沢・佐沼の三城を討ち、木村親子を救い出し、これよりお届け申し上げるとのこと!」」
 使者の声に、城内は一瞬どよめいた。
 やがて、吹雪をかきわけて現れたのは、雪にまみれた木村親子、そして木村家の家臣たちであった。
 兵らの鎧は裂け、顔には疲労の色が濃かったが、その目には生の火が宿っていた。
 忠三郎は静かに出迎え、黙礼した。
――伊達がここまで動くとは。
 これは、忠三郎に味方するという意図からではないだろう。
 政宗は、名生城の一件が秀吉の耳に届き、詰問されることを恐れたのだ。
 自らの保身のために、口封じのように三城を攻略し、木村親子を忠三郎の許へと押しやった。
 命を救う振りをして、実のところ、政宗は己の命脈を守ったのだ。

「……木村殿!よくぞご無事で……」
 忠三郎は城門に自ら赴き、傷と疲労にまみれたその姿を迎えた。木村親子は無言で頭を下げる。
 しかし、救出された者たちを迎え入れたことで、城内の口はさらに増えた。
 もともと心もとない兵糧は、いよいよ底を尽きかけていた。
「このままでは……越冬も危うい」
 蒲生源左衛門が低く呟いた夜、忠三郎は灯火の下、静かに十字架を撫でた。
「……生かされた命を、死に費やすわけにはいかぬ」
 敵は目前に在り、退路は白雪に閉ざされている。
 だが、忠三郎の心に浮かぶのは、ただ一つ。すべての命を、会津へと連れ帰ることだった。


 そのためには――。
「……人質を取ろう」
「はっ?」
「左京大夫殿が我らを裏切らぬというのなら、その誠を、形にして見せてもらおうではないか」
 その夜、伊達の陣に使者が発たされた。
 文面は簡潔だった。
「人質二名を望む。伊達一門の伊達成実、国分盛重。――左京大夫殿の忠信の証といたしたく候」
 この無遠慮な要求に、伊達の幕中は色めき立った。
「馬鹿な! それでは我が家の首を差し出すようなもの――!」
「蒲生め、我らを見くびったか!」
 怒号が飛び交い、政宗の近臣たちは顔を紅潮させて憤った。その中にあって政宗はただ黙して口を噤んでいた。
 やがて、杯を置き、静かに言った。
「……従え」
「殿……っ!」
「口を慎め。これ以上、あの男に弱みを握られてはならぬ。いずれ、返してもらえばよい。生きて戻るためにな」
 そして、まるで屍のように白き二騎が、名生の城門をくぐった。
 そのうちの一人、伊達成実の眼光はなお鋭く、忠三郎を一瞥して口を結んだ。
「……いずれ、必ずお返しいただきますぞ」
 忠三郎は静かに頭を下げた。
「その節は、湯でも馳走いたしましょう」
 その飄々とした口ぶりに、伊達家中はなおいっそう歯噛みしたが、それ以上の手立てはなかった。
 こうして、忠三郎はついに決断を下す。
「このままでは、春を待たずして飢える。人質も得た今、帰還あるのみ――」
 風は、春の気配をまだ孕んでいなかった。
 だが、忠三郎の胸には、確かにその兆しが宿っていた。


 会津に向かって退却するため、支度を整える忠三郎の元へ、ひとつの急報がもたらされた。

 ――会津福井城、落つ。

 血の気が引くとは、このことか。伝令の口から漏れたその言葉に、忠三郎の耳はしばらく何も届かず、ただ遠く、雪解けの川音だけが胸の奥で鳴っていた。

 会津・福井城――それは、愛妾・成田甲斐の父、成田氏長に与えた小城であった。堅固な城ではない。だが、忠三郎が会津に腰を据えてからというもの、幾度かその地を訪れ、甲斐の母の淹れる淡い香りの茶をすすり、甲斐と語らい、ひとときの安らぎを覚えた場所でもあった。
 その城が、忠三郎自身が登用した家臣――浜田将監とその弟・十左衛門により、謀反を以て奪われたというのだ。
「成田氏長は出陣中にて、城は手薄な状態にございました」
 と、伝令は顔を伏せる。

 何よりも、忠三郎の胸をえぐったのは、その背後に伊達政宗の影があるという事実だった。
 名生で人質を取り、会津への帰途についた忠三郎に対し、政宗は牙をむいたのだ。しかも、忠三郎が自ら信を置き、都にて召し抱えた浜田兄弟を使って――さながら忠三郎の誠を嘲笑うかのように。
 怒りと羞恥、そしてなにより悔しさが胸の裡に渦を巻いた。

 今、会津を離れている忠三郎は動けない。兵を差し向けることすら、すぐには叶わなかった歯噛みしつつも、まずは近隣の砦から援軍を出すよう命じるしかなかった。

 その夜、雪に沈む宿の一間で、忠三郎は燈の揺れを見つめながら、静かに甲斐の名を呼んだ。

 甲斐――あのひとが、会津・福井へ向かったという。しかもたった数十名で。
 報がもたらされたのは、夜更けの帳がしんしんと降り、庭の松の枝に雪が重くのしかかっていた時だった。使者の言葉は短く、その一語一語が、忠三郎の胸に杭のように打ち込まれてゆく。

 わずか数十。
 それは軍と呼ぶにはあまりに小さく、死地へ駆ける影のようであった。
 甲斐が、自ら太刀を取り、攻め入り、血の中を駆けたというのか――。
 その姿を思うだけで、忠三郎の胸は焼けるように痛んだ。

 彼女の柔らかな黒髪が、雪に濡れ、血に染まりながら、母の仇を前に刃を振るうさまが、ありありとまぶたの裏に浮かんだ。あの手で、あの細腕で、いかほどの想いを抱いて刃を振るったのか。思いを致せば致すほど、胸の奥にじくじくと広がるのは、憤怒ではなく、深い悔いであった。

 甲斐を、戦場へ向かわせたのは誰か。
 その問いの答えは、誰よりも忠三郎自身が知っていた。
 もし自分が会津にいたなら、もし政宗の奸計を読みきっていたなら、もし浜田兄弟を登用していなければ――。

 己の不明が、甲斐の母の命を奪い、彼女を刃の道へと追い込んだのだ。
「……甲斐……」
 その名を唇から洩らしたとき、声は風に紛れて消えた。硯の墨のように、夜の帳が濃く、雪の音すら聞こえぬほどに静まり返っていた。
 ただ、灯籠に映る細雪の光が、彼の面差しを淡く照らし、ひとすじの影を長く伸ばした。

 雪はやまない。
 それでも甲斐は進み、城を取り返したという。母を討たれ、家人を喪いながらも、誰よりも凛として立ったという。
 忠三郎は、両の掌を見つめた。

 この手は、何を守り得たのか――。
 風に乗って、遠く、城下の竹林がさやりと鳴いた。春はまだ遠い。それでも、胸には、悔恨の中に生まれた静かな誓いが、芽吹こうとしていた。
 ――二度と、このような涙を流させぬ。
 忠三郎は立ち上がり、雪を踏みしめて庭へと歩み出た。
 夜空は墨のように重く、けれどその下で、その瞳には新たな炎が宿っていた。
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