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31.会津
31-4. 風雪の理
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白き野を、重く湿った靴音が貫いていく。
吹雪の合間、雲間から覗いた陽の光が、兵たちの槍先をかすかに照らしていた。
忠三郎率いる蒲生勢は、着実に伊達領へと進軍していた。
先導役として伊達家から来た須田伯耆が前を歩き、伊達の兵もともに行軍している。だが、家臣たちは誰もが言い知れぬ不安を抱いていた。
「殿、あの伊達勢……」
町野長門守がそっと口を開く。
「どうも、空気が妙でござります。……まるで、戦に来ておらぬような」
その言葉通りだった。伊達兵の動きは緩慢で、隊列もどこか緩みがあった。
そのくせ、村落を通るたびに鉄砲を撃ち鳴らして威嚇している。だが――。
「弾が……出ておらぬような…」
蒲生源左衛門が、何気なく回収した玉薬袋を差し出してきた。
その中身は、空だった。
「なるほど、音だけで威を示すつもりか。……あるいは、味方に見せる芝居か」
忠三郎は扇子で口元をかすかに隠しながら笑った。
その目は笑っていなかった。
やがて、名生(みょう)城がその姿を現した。
小高い丘に築かれたその城は、雪のなかに埋もれた残火のように、不気味な熱を内に孕んでいた。
一揆勢が籠もってからというもの、伊達家の支援も受け、堅牢な守りを築いたという。
忠三郎は風を読むようにその佇まいを眺め、やがて陣を張らせた。
濃く低い雪雲が垂れ込め、時おり粉雪が降りしきるなか、兵は寡黙に準備を進めた。
伊達家の須田伯耆も加わり、いよいよ総攻めかという矢先――。
蹄の音が雪を裂いた。
馬上の使者が吹雪を背に駆け込み、凍てついた空気を引き裂くように声を放つ。
「伊達左京大夫殿よりの急使!」
現れたのは、伊達家中の老臣・中野宗時であった。馬を降り、深く頭を垂れた中野宗時は、やや芝居がかった口調で言った。
「我が主、急な病にて床に伏し申した。よって、名生城攻めは一時延期していただきたい……」
言葉が終わるや否や、空気が凍りつく。
兵たちは顔を見合わせ、疑念が雪のように降り積もる。
「……病、でございますか」
蒲生忠右衛門が唇を引き結んだ。
「この刻に、突如と? まことに御身の急とは……」
「それがしが嘘を申していると?」
中野が静かに言い返す。
「否、さようには申さぬが……」
言葉を濁す家臣たちの気配をよそに、忠三郎は火鉢にくべた薪をじっと見つめていた。
ぱち、と乾いた音を立てて焔がはぜた。
その一音が、妙に大きく、耳に残った。
やがて、忠三郎はゆるゆると立ち上がった。
「よかろう。伊達殿には、どうぞご静養くだされ」
町野長門守が目を見開く。
「……では、城攻めは――」
「われらだけでやる。よいか、長門」
沈黙のなか、蒲生勢の兵たちが一斉に立ち上がり、音もなく武具を整えていく。
雪を踏む音が一斉に鳴ると、大河が氷を割って流れ始めるような、不吉なうねりとなって野に響いた。
須田伯耆が慌てて忠三郎の袖を引く。
「蒲生殿、お待ちを! あの城はそうたやすくは落ちませぬ、ここで無理をすれば…」
忠三郎は、静かに微笑んで伯耆を振り返った。
「心配くださるな。無理をせぬためにも、今ここで取らねばならぬ」
そして扇子を閉じ、ひとこと。
「名生城――今宵のうちにいただく」
雪が止み、雲が裂け、月がその白き光を放ち始めた。
蒲生勢は風に溶けるように動き出す。
裏手の竹林を抜け、夜の闇に紛れて三の丸を襲い、火矢と鬨の声が一揆勢の眠気を断ち切った。
鉄砲が初めて真の火を吹いた。
閃光、怒号、悲鳴――それらを背に、忠三郎はただ無言で城内を進む。
味方の盾となり、敵の隙を刺し、あたかも氷上を渡るように滑らかに。
決してその身を濡らすことのない影のように。
やがて、明け方の凍て空に、向かい鶴の旗が城壁の上に翻った。
雪がまた舞い始める。
忠三郎は、静かに城壁から遠くを見下ろした。
伊達の陣があった。
火も焚かれず、ただ、沈黙の中に黒々と人影が佇んでいる。
――見ておる。いや、測っておる。こちらの疲れ、損耗、気の緩みを。
町野長門守が声をひそめて言った。
「……あれ、攻める気では……?」
忠三郎は応えず、扇子を軽く揺らした。
「病と申して、よう見物に出てこられたのう」
その目は笑っておらず、じっと冬の闇を見つめていた。
風が、ふいに東へ流れた。
その冷たさに、忠三郎ははっきりと気づいた。
――帰れぬ。これは、会津まで兵を退かせぬつもりか。
伊達が急病を演じ、城攻めを譲ったのも、疲弊を見込んでのもの。
こちらが名生城を落とした今こそ、彼らにとっての好機。
忠三郎は、ゆっくりと目を閉じ、言った。
「……この城で越年する」
家臣たちが一斉に息を呑んだ。
「凍えることはあれど、凍えて死ぬほど寒くはあるまい」
そして、淡々と続ける。
「伊達の兵が見守ってくれておる。……ならば、今はここが一番、温かい」
白雪が舞い落ちる名生城に、静かなる宿命の灯がともった。
外の風は鋭く、伊達の陣はますます近づいていた。
冬は、名生城の石垣を白く包み、沈黙のなかに時を閉じ込めていた。
蒲生勢は、この地で越年することを余儀なくされた。
外には、じっと動かぬ伊達の軍勢。あの夜、政宗が病を理由に名生城攻めを見合わせたときから、彼らは一歩も動かぬまま、ただ見つめていた。その静けさが、むしろ不気味だった。狙っているのは、こちらの焦燥と飢え、そして……失策。
忠三郎は、夜毎、火鉢に手をかざしながら、その虚ろな静けさの意味を測っていた。
「動かぬ軍ほど、恐ろしいものはないのう」
ぽつりと呟いたその声に、町野長門守が焚火の向こうから頷いた。
「まさしく。にらみ合いの中で、こちらの消耗を待っておるかのような。兵糧が尽きることを…」
兵たちは寒さに凍えながらも、交替で城壁に立ち、伊達勢の動きを睨んでいた。炊き出しの湯気がかすかに立ちのぼる。けれど、その湯気は日に日に細く、頼りなくなっていた。米も、味噌も、干し魚すら底をつき始めていた。
そんなある日、雪煙を上げて城門を叩く報がもたらされた。
「伊達左京大夫殿、高清水・宮沢・佐沼の三城を討ち、木村親子を救い出し、これよりお届け申し上げるとのこと!」」
使者の声に、城内は一瞬どよめいた。
やがて、吹雪をかきわけて現れたのは、雪にまみれた木村親子、そして木村家の家臣たちであった。
兵らの鎧は裂け、顔には疲労の色が濃かったが、その目には生の火が宿っていた。
忠三郎は静かに出迎え、黙礼した。
――伊達がここまで動くとは。
これは、忠三郎に味方するという意図からではないだろう。
政宗は、名生城の一件が秀吉の耳に届き、詰問されることを恐れたのだ。
自らの保身のために、口封じのように三城を攻略し、木村親子を忠三郎の許へと押しやった。
命を救う振りをして、実のところ、政宗は己の命脈を守ったのだ。
「……木村殿!よくぞご無事で……」
忠三郎は城門に自ら赴き、傷と疲労にまみれたその姿を迎えた。木村親子は無言で頭を下げる。
しかし、救出された者たちを迎え入れたことで、城内の口はさらに増えた。
もともと心もとない兵糧は、いよいよ底を尽きかけていた。
「このままでは……越冬も危うい」
蒲生源左衛門が低く呟いた夜、忠三郎は灯火の下、静かに十字架を撫でた。
「……生かされた命を、死に費やすわけにはいかぬ」
敵は目前に在り、退路は白雪に閉ざされている。
だが、忠三郎の心に浮かぶのは、ただ一つ。すべての命を、会津へと連れ帰ることだった。
そのためには――。
「……人質を取ろう」
「はっ?」
「左京大夫殿が我らを裏切らぬというのなら、その誠を、形にして見せてもらおうではないか」
その夜、伊達の陣に使者が発たされた。
文面は簡潔だった。
「人質二名を望む。伊達一門の伊達成実、国分盛重。――左京大夫殿の忠信の証といたしたく候」
この無遠慮な要求に、伊達の幕中は色めき立った。
「馬鹿な! それでは我が家の首を差し出すようなもの――!」
「蒲生め、我らを見くびったか!」
怒号が飛び交い、政宗の近臣たちは顔を紅潮させて憤った。その中にあって政宗はただ黙して口を噤んでいた。
やがて、杯を置き、静かに言った。
「……従え」
「殿……っ!」
「口を慎め。これ以上、あの男に弱みを握られてはならぬ。いずれ、返してもらえばよい。生きて戻るためにな」
そして、まるで屍のように白き二騎が、名生の城門をくぐった。
そのうちの一人、伊達成実の眼光はなお鋭く、忠三郎を一瞥して口を結んだ。
「……いずれ、必ずお返しいただきますぞ」
忠三郎は静かに頭を下げた。
「その節は、湯でも馳走いたしましょう」
その飄々とした口ぶりに、伊達家中はなおいっそう歯噛みしたが、それ以上の手立てはなかった。
こうして、忠三郎はついに決断を下す。
「このままでは、春を待たずして飢える。人質も得た今、帰還あるのみ――」
風は、春の気配をまだ孕んでいなかった。
だが、忠三郎の胸には、確かにその兆しが宿っていた。
会津に向かって退却するため、支度を整える忠三郎の元へ、ひとつの急報がもたらされた。
――会津福井城、落つ。
血の気が引くとは、このことか。伝令の口から漏れたその言葉に、忠三郎の耳はしばらく何も届かず、ただ遠く、雪解けの川音だけが胸の奥で鳴っていた。
会津・福井城――それは、愛妾・成田甲斐の父、成田氏長に与えた小城であった。堅固な城ではない。だが、忠三郎が会津に腰を据えてからというもの、幾度かその地を訪れ、甲斐の母の淹れる淡い香りの茶をすすり、甲斐と語らい、ひとときの安らぎを覚えた場所でもあった。
その城が、忠三郎自身が登用した家臣――浜田将監とその弟・十左衛門により、謀反を以て奪われたというのだ。
「成田氏長は出陣中にて、城は手薄な状態にございました」
と、伝令は顔を伏せる。
何よりも、忠三郎の胸をえぐったのは、その背後に伊達政宗の影があるという事実だった。
名生で人質を取り、会津への帰途についた忠三郎に対し、政宗は牙をむいたのだ。しかも、忠三郎が自ら信を置き、都にて召し抱えた浜田兄弟を使って――さながら忠三郎の誠を嘲笑うかのように。
怒りと羞恥、そしてなにより悔しさが胸の裡に渦を巻いた。
今、会津を離れている忠三郎は動けない。兵を差し向けることすら、すぐには叶わなかった歯噛みしつつも、まずは近隣の砦から援軍を出すよう命じるしかなかった。
その夜、雪に沈む宿の一間で、忠三郎は燈の揺れを見つめながら、静かに甲斐の名を呼んだ。
甲斐――あのひとが、会津・福井へ向かったという。しかもたった数十名で。
報がもたらされたのは、夜更けの帳がしんしんと降り、庭の松の枝に雪が重くのしかかっていた時だった。使者の言葉は短く、その一語一語が、忠三郎の胸に杭のように打ち込まれてゆく。
わずか数十。
それは軍と呼ぶにはあまりに小さく、死地へ駆ける影のようであった。
甲斐が、自ら太刀を取り、攻め入り、血の中を駆けたというのか――。
その姿を思うだけで、忠三郎の胸は焼けるように痛んだ。
彼女の柔らかな黒髪が、雪に濡れ、血に染まりながら、母の仇を前に刃を振るうさまが、ありありとまぶたの裏に浮かんだ。あの手で、あの細腕で、いかほどの想いを抱いて刃を振るったのか。思いを致せば致すほど、胸の奥にじくじくと広がるのは、憤怒ではなく、深い悔いであった。
甲斐を、戦場へ向かわせたのは誰か。
その問いの答えは、誰よりも忠三郎自身が知っていた。
もし自分が会津にいたなら、もし政宗の奸計を読みきっていたなら、もし浜田兄弟を登用していなければ――。
己の不明が、甲斐の母の命を奪い、彼女を刃の道へと追い込んだのだ。
「……甲斐……」
その名を唇から洩らしたとき、声は風に紛れて消えた。硯の墨のように、夜の帳が濃く、雪の音すら聞こえぬほどに静まり返っていた。
ただ、灯籠に映る細雪の光が、彼の面差しを淡く照らし、ひとすじの影を長く伸ばした。
雪はやまない。
それでも甲斐は進み、城を取り返したという。母を討たれ、家人を喪いながらも、誰よりも凛として立ったという。
忠三郎は、両の掌を見つめた。
この手は、何を守り得たのか――。
風に乗って、遠く、城下の竹林がさやりと鳴いた。春はまだ遠い。それでも、胸には、悔恨の中に生まれた静かな誓いが、芽吹こうとしていた。
――二度と、このような涙を流させぬ。
忠三郎は立ち上がり、雪を踏みしめて庭へと歩み出た。
夜空は墨のように重く、けれどその下で、その瞳には新たな炎が宿っていた。
吹雪の合間、雲間から覗いた陽の光が、兵たちの槍先をかすかに照らしていた。
忠三郎率いる蒲生勢は、着実に伊達領へと進軍していた。
先導役として伊達家から来た須田伯耆が前を歩き、伊達の兵もともに行軍している。だが、家臣たちは誰もが言い知れぬ不安を抱いていた。
「殿、あの伊達勢……」
町野長門守がそっと口を開く。
「どうも、空気が妙でござります。……まるで、戦に来ておらぬような」
その言葉通りだった。伊達兵の動きは緩慢で、隊列もどこか緩みがあった。
そのくせ、村落を通るたびに鉄砲を撃ち鳴らして威嚇している。だが――。
「弾が……出ておらぬような…」
蒲生源左衛門が、何気なく回収した玉薬袋を差し出してきた。
その中身は、空だった。
「なるほど、音だけで威を示すつもりか。……あるいは、味方に見せる芝居か」
忠三郎は扇子で口元をかすかに隠しながら笑った。
その目は笑っていなかった。
やがて、名生(みょう)城がその姿を現した。
小高い丘に築かれたその城は、雪のなかに埋もれた残火のように、不気味な熱を内に孕んでいた。
一揆勢が籠もってからというもの、伊達家の支援も受け、堅牢な守りを築いたという。
忠三郎は風を読むようにその佇まいを眺め、やがて陣を張らせた。
濃く低い雪雲が垂れ込め、時おり粉雪が降りしきるなか、兵は寡黙に準備を進めた。
伊達家の須田伯耆も加わり、いよいよ総攻めかという矢先――。
蹄の音が雪を裂いた。
馬上の使者が吹雪を背に駆け込み、凍てついた空気を引き裂くように声を放つ。
「伊達左京大夫殿よりの急使!」
現れたのは、伊達家中の老臣・中野宗時であった。馬を降り、深く頭を垂れた中野宗時は、やや芝居がかった口調で言った。
「我が主、急な病にて床に伏し申した。よって、名生城攻めは一時延期していただきたい……」
言葉が終わるや否や、空気が凍りつく。
兵たちは顔を見合わせ、疑念が雪のように降り積もる。
「……病、でございますか」
蒲生忠右衛門が唇を引き結んだ。
「この刻に、突如と? まことに御身の急とは……」
「それがしが嘘を申していると?」
中野が静かに言い返す。
「否、さようには申さぬが……」
言葉を濁す家臣たちの気配をよそに、忠三郎は火鉢にくべた薪をじっと見つめていた。
ぱち、と乾いた音を立てて焔がはぜた。
その一音が、妙に大きく、耳に残った。
やがて、忠三郎はゆるゆると立ち上がった。
「よかろう。伊達殿には、どうぞご静養くだされ」
町野長門守が目を見開く。
「……では、城攻めは――」
「われらだけでやる。よいか、長門」
沈黙のなか、蒲生勢の兵たちが一斉に立ち上がり、音もなく武具を整えていく。
雪を踏む音が一斉に鳴ると、大河が氷を割って流れ始めるような、不吉なうねりとなって野に響いた。
須田伯耆が慌てて忠三郎の袖を引く。
「蒲生殿、お待ちを! あの城はそうたやすくは落ちませぬ、ここで無理をすれば…」
忠三郎は、静かに微笑んで伯耆を振り返った。
「心配くださるな。無理をせぬためにも、今ここで取らねばならぬ」
そして扇子を閉じ、ひとこと。
「名生城――今宵のうちにいただく」
雪が止み、雲が裂け、月がその白き光を放ち始めた。
蒲生勢は風に溶けるように動き出す。
裏手の竹林を抜け、夜の闇に紛れて三の丸を襲い、火矢と鬨の声が一揆勢の眠気を断ち切った。
鉄砲が初めて真の火を吹いた。
閃光、怒号、悲鳴――それらを背に、忠三郎はただ無言で城内を進む。
味方の盾となり、敵の隙を刺し、あたかも氷上を渡るように滑らかに。
決してその身を濡らすことのない影のように。
やがて、明け方の凍て空に、向かい鶴の旗が城壁の上に翻った。
雪がまた舞い始める。
忠三郎は、静かに城壁から遠くを見下ろした。
伊達の陣があった。
火も焚かれず、ただ、沈黙の中に黒々と人影が佇んでいる。
――見ておる。いや、測っておる。こちらの疲れ、損耗、気の緩みを。
町野長門守が声をひそめて言った。
「……あれ、攻める気では……?」
忠三郎は応えず、扇子を軽く揺らした。
「病と申して、よう見物に出てこられたのう」
その目は笑っておらず、じっと冬の闇を見つめていた。
風が、ふいに東へ流れた。
その冷たさに、忠三郎ははっきりと気づいた。
――帰れぬ。これは、会津まで兵を退かせぬつもりか。
伊達が急病を演じ、城攻めを譲ったのも、疲弊を見込んでのもの。
こちらが名生城を落とした今こそ、彼らにとっての好機。
忠三郎は、ゆっくりと目を閉じ、言った。
「……この城で越年する」
家臣たちが一斉に息を呑んだ。
「凍えることはあれど、凍えて死ぬほど寒くはあるまい」
そして、淡々と続ける。
「伊達の兵が見守ってくれておる。……ならば、今はここが一番、温かい」
白雪が舞い落ちる名生城に、静かなる宿命の灯がともった。
外の風は鋭く、伊達の陣はますます近づいていた。
冬は、名生城の石垣を白く包み、沈黙のなかに時を閉じ込めていた。
蒲生勢は、この地で越年することを余儀なくされた。
外には、じっと動かぬ伊達の軍勢。あの夜、政宗が病を理由に名生城攻めを見合わせたときから、彼らは一歩も動かぬまま、ただ見つめていた。その静けさが、むしろ不気味だった。狙っているのは、こちらの焦燥と飢え、そして……失策。
忠三郎は、夜毎、火鉢に手をかざしながら、その虚ろな静けさの意味を測っていた。
「動かぬ軍ほど、恐ろしいものはないのう」
ぽつりと呟いたその声に、町野長門守が焚火の向こうから頷いた。
「まさしく。にらみ合いの中で、こちらの消耗を待っておるかのような。兵糧が尽きることを…」
兵たちは寒さに凍えながらも、交替で城壁に立ち、伊達勢の動きを睨んでいた。炊き出しの湯気がかすかに立ちのぼる。けれど、その湯気は日に日に細く、頼りなくなっていた。米も、味噌も、干し魚すら底をつき始めていた。
そんなある日、雪煙を上げて城門を叩く報がもたらされた。
「伊達左京大夫殿、高清水・宮沢・佐沼の三城を討ち、木村親子を救い出し、これよりお届け申し上げるとのこと!」」
使者の声に、城内は一瞬どよめいた。
やがて、吹雪をかきわけて現れたのは、雪にまみれた木村親子、そして木村家の家臣たちであった。
兵らの鎧は裂け、顔には疲労の色が濃かったが、その目には生の火が宿っていた。
忠三郎は静かに出迎え、黙礼した。
――伊達がここまで動くとは。
これは、忠三郎に味方するという意図からではないだろう。
政宗は、名生城の一件が秀吉の耳に届き、詰問されることを恐れたのだ。
自らの保身のために、口封じのように三城を攻略し、木村親子を忠三郎の許へと押しやった。
命を救う振りをして、実のところ、政宗は己の命脈を守ったのだ。
「……木村殿!よくぞご無事で……」
忠三郎は城門に自ら赴き、傷と疲労にまみれたその姿を迎えた。木村親子は無言で頭を下げる。
しかし、救出された者たちを迎え入れたことで、城内の口はさらに増えた。
もともと心もとない兵糧は、いよいよ底を尽きかけていた。
「このままでは……越冬も危うい」
蒲生源左衛門が低く呟いた夜、忠三郎は灯火の下、静かに十字架を撫でた。
「……生かされた命を、死に費やすわけにはいかぬ」
敵は目前に在り、退路は白雪に閉ざされている。
だが、忠三郎の心に浮かぶのは、ただ一つ。すべての命を、会津へと連れ帰ることだった。
そのためには――。
「……人質を取ろう」
「はっ?」
「左京大夫殿が我らを裏切らぬというのなら、その誠を、形にして見せてもらおうではないか」
その夜、伊達の陣に使者が発たされた。
文面は簡潔だった。
「人質二名を望む。伊達一門の伊達成実、国分盛重。――左京大夫殿の忠信の証といたしたく候」
この無遠慮な要求に、伊達の幕中は色めき立った。
「馬鹿な! それでは我が家の首を差し出すようなもの――!」
「蒲生め、我らを見くびったか!」
怒号が飛び交い、政宗の近臣たちは顔を紅潮させて憤った。その中にあって政宗はただ黙して口を噤んでいた。
やがて、杯を置き、静かに言った。
「……従え」
「殿……っ!」
「口を慎め。これ以上、あの男に弱みを握られてはならぬ。いずれ、返してもらえばよい。生きて戻るためにな」
そして、まるで屍のように白き二騎が、名生の城門をくぐった。
そのうちの一人、伊達成実の眼光はなお鋭く、忠三郎を一瞥して口を結んだ。
「……いずれ、必ずお返しいただきますぞ」
忠三郎は静かに頭を下げた。
「その節は、湯でも馳走いたしましょう」
その飄々とした口ぶりに、伊達家中はなおいっそう歯噛みしたが、それ以上の手立てはなかった。
こうして、忠三郎はついに決断を下す。
「このままでは、春を待たずして飢える。人質も得た今、帰還あるのみ――」
風は、春の気配をまだ孕んでいなかった。
だが、忠三郎の胸には、確かにその兆しが宿っていた。
会津に向かって退却するため、支度を整える忠三郎の元へ、ひとつの急報がもたらされた。
――会津福井城、落つ。
血の気が引くとは、このことか。伝令の口から漏れたその言葉に、忠三郎の耳はしばらく何も届かず、ただ遠く、雪解けの川音だけが胸の奥で鳴っていた。
会津・福井城――それは、愛妾・成田甲斐の父、成田氏長に与えた小城であった。堅固な城ではない。だが、忠三郎が会津に腰を据えてからというもの、幾度かその地を訪れ、甲斐の母の淹れる淡い香りの茶をすすり、甲斐と語らい、ひとときの安らぎを覚えた場所でもあった。
その城が、忠三郎自身が登用した家臣――浜田将監とその弟・十左衛門により、謀反を以て奪われたというのだ。
「成田氏長は出陣中にて、城は手薄な状態にございました」
と、伝令は顔を伏せる。
何よりも、忠三郎の胸をえぐったのは、その背後に伊達政宗の影があるという事実だった。
名生で人質を取り、会津への帰途についた忠三郎に対し、政宗は牙をむいたのだ。しかも、忠三郎が自ら信を置き、都にて召し抱えた浜田兄弟を使って――さながら忠三郎の誠を嘲笑うかのように。
怒りと羞恥、そしてなにより悔しさが胸の裡に渦を巻いた。
今、会津を離れている忠三郎は動けない。兵を差し向けることすら、すぐには叶わなかった歯噛みしつつも、まずは近隣の砦から援軍を出すよう命じるしかなかった。
その夜、雪に沈む宿の一間で、忠三郎は燈の揺れを見つめながら、静かに甲斐の名を呼んだ。
甲斐――あのひとが、会津・福井へ向かったという。しかもたった数十名で。
報がもたらされたのは、夜更けの帳がしんしんと降り、庭の松の枝に雪が重くのしかかっていた時だった。使者の言葉は短く、その一語一語が、忠三郎の胸に杭のように打ち込まれてゆく。
わずか数十。
それは軍と呼ぶにはあまりに小さく、死地へ駆ける影のようであった。
甲斐が、自ら太刀を取り、攻め入り、血の中を駆けたというのか――。
その姿を思うだけで、忠三郎の胸は焼けるように痛んだ。
彼女の柔らかな黒髪が、雪に濡れ、血に染まりながら、母の仇を前に刃を振るうさまが、ありありとまぶたの裏に浮かんだ。あの手で、あの細腕で、いかほどの想いを抱いて刃を振るったのか。思いを致せば致すほど、胸の奥にじくじくと広がるのは、憤怒ではなく、深い悔いであった。
甲斐を、戦場へ向かわせたのは誰か。
その問いの答えは、誰よりも忠三郎自身が知っていた。
もし自分が会津にいたなら、もし政宗の奸計を読みきっていたなら、もし浜田兄弟を登用していなければ――。
己の不明が、甲斐の母の命を奪い、彼女を刃の道へと追い込んだのだ。
「……甲斐……」
その名を唇から洩らしたとき、声は風に紛れて消えた。硯の墨のように、夜の帳が濃く、雪の音すら聞こえぬほどに静まり返っていた。
ただ、灯籠に映る細雪の光が、彼の面差しを淡く照らし、ひとすじの影を長く伸ばした。
雪はやまない。
それでも甲斐は進み、城を取り返したという。母を討たれ、家人を喪いながらも、誰よりも凛として立ったという。
忠三郎は、両の掌を見つめた。
この手は、何を守り得たのか――。
風に乗って、遠く、城下の竹林がさやりと鳴いた。春はまだ遠い。それでも、胸には、悔恨の中に生まれた静かな誓いが、芽吹こうとしていた。
――二度と、このような涙を流させぬ。
忠三郎は立ち上がり、雪を踏みしめて庭へと歩み出た。
夜空は墨のように重く、けれどその下で、その瞳には新たな炎が宿っていた。
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その島津軍5万に挑んだのが、高橋紹運率いる岩屋城736名である。岩屋城に籠る高橋軍は14日間も島津軍を翻弄し、最期は全員が壮絶な討ち死にを遂げた。命を賭けた時間稼ぎにより、秀吉軍は筑前に到着し、立花宗茂と立花城を救った。
島津軍は撤退したが、立花宗茂は5万の島津軍を追撃し、筑前国領主としての意地を果たした。豊臣秀吉は立花宗茂の武勇を讃え、“九州之一物”と呼び、多くの大名の前で激賞した。その後、豊臣秀吉は九州征伐・天下統一へと突き進んでいく。
その後の朝鮮征伐、関ヶ原の合戦で“立花宗茂”は己の仁義と意地の為に戦うこととなる。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
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