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31.会津
31-5. 名残雪の城
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幾夜もの雪に閉ざされ、春の兆しすら遠い道のりを経て、忠三郎の一行はようやく二本松へとたどり着いた。
心の奥に、なお消えぬ痛みを携えながら――成田甲斐の母の最期を思い、甲斐が数十騎で血路を拓き、福井城を奪い返したその烈しさに、胸が焼けるようであった。
せめて自ら駆けつけていれば、と悔いは尽きない。
雪深き会津路を抜け、道中の空はどこまでも灰色であったが、その中にも微かに春の気配が漂い始めていた。
福井城奪還の報が届いたのは、出立の直前だった。
甲斐がわずか数十騎で敵中に斬り込み、母を奪われた怨念を胸に、浜田兄弟を討ち果たしたという。
だが、戻らぬ命はあまりに多い。城内に流れた血の温もりは、甲斐の胸にどれほどの灼熱を遺しただろうか。
忠三郎は、甲斐の怒りや悲しみを想像しながらも、結局それを共に背負う術を持たぬ己を歯噛みするしかなかった。
――この世に正義があるならば、せめて、甲斐の手が奪われたものに届くように。
そう祈るような心で、馬を降りた。
二本松城の広間は、白漆喰の壁に陽が淡く射し込み、凍てついた廊下の向こうに遠く春の気配を滲ませていた。広間には香の薫きしめられた静寂があり、畳にわずかに揺れる光が、雪国の訪問者を迎えるにふさわしい慎ましき風雅を湛えていた。
忠三郎は、重ねた旅装のまま、広間の一隅に据えられた腰掛に膝を揃え、先に座していた石田三成と向かい合った。眉目は整い、謹厳なその姿には、ひと目で只者ならぬ才気と、清冽な意志が読み取れた。年若ながらも冷静沈着という評判で、また、同じ奉行でキリシタンの小西行長とは昵懇の仲だという。
その小西行長から、忠三郎のことを幾度も聞かされていたらしく、三成は初対面の礼のなかにも、どこか懐かしむような温もりを帯びていた。
「このたびのご奮戦、まことにご苦労に存じます――少将殿」
低く澄んだ声が、広間に響いた。三成は背筋を真直ぐに保ったまま、忠三郎に深く頭を垂れた。
甲斐の悲しみ、浜田の裏切り、政宗の奸計――
幾重にも積もる思いを抱えながらも、忠三郎は三成の差し出した掌に、希望の芽を見出そうとしていた。
石田三成もまた近江の人という。忠三郎の心には、懐かしさにも似た親しみが、わずかに灯った。
「ご機嫌麗しゅう、石田殿。……殿下のご意向は如何に」
促されるまま、忠三郎は文を差し出した。
政宗が国衆たちに一揆を煽るよう指示した密書だった。
三成はそれを両手で受け取り、目を通すや、まなじりをわずかに吊り上げたが、すぐに感情を覆い隠すようにまぶたを伏せ、静かに息を吐いた。
「これは……動かぬ証左にございますな」
そう言って文を脇に置いた三成は、改めて忠三郎に顔を向けた。その瞳は深く、厳しさのなかに、どこか人の情を湛えていた。
「小西殿より、少将殿の噂は常に伺っておりました。凍える峠を越え、会津を救い、今また伊達左京大夫の謀をここに明かされた。殿下におかれても、さぞお喜びのことかと」
三成は口元にかすかな微笑を浮かべ、まなじりを柔らかく緩めた。 忠三郎は沈黙のまま、広間の天井を見やった。
格子を透かして差す陽は、どこか懐かしい幼き日々の光のようで、しかしそれが届かぬほど、胸の裡はまだ陰っていた。
「殿下の仰せにより、木村殿親子をともない、上洛いただきたく存じます。すべては、御前にて明らかにされることでありましょう。どうか、よろしくお導きくださいますよう……伏してお願い申し上げます」
忠三郎は、礼に始まり誠に終わるその言葉に、胸の奥がわずかに温まるのを感じた。
荒れ狂う政宗の策に対し、ここには理と秩序があった。
「心得た。…石田殿、わざわざこの雪深き地までお越しいただき、まことにかたじけない」
「身に余るお言葉、恐悦至極にございます」
三成は、やわらかな雪解け水のような眼差しを向けた。
「少将殿には、もう一つ申し上げておかねばなりません。――これは、あくまで内内のものとしてお聞き届けいただければ幸いです」
忠三郎は黙って頷いた。三成の双眸には、怜悧な光が宿っていた。
「左京大夫は、申し開きに長けておる。殿下のお尋ねに対しても、巧みに辞を弄し、一揆など知らぬ存ぜぬと通されましょう」
「……あやつなら、さもありなん」
「そこで、殿下は、一揆鎮圧の名を以て、残る乱地の平定を左京大夫自身に命ずるおつもりです。自らの罪を、自らの手で贖わせる、という理にて」
忠三郎の眉がわずかに動いた。
「そして――その後に、葛西・大崎の旧領へ、左京大夫を移封なされることになるでしょう」
言葉は柔らかかったが、鋼のような鋭さが奥に潜んでいる。
「荒れ果てた地において、民心を取り戻すには年が要りましょう。しかも、旧領から遠ざけられ、伊達家の根は弱まりましょうな」
「……なるほど。左京大夫の牙を抜く、というわけか」
「殿下のお心の内は、まことに深うございます」
三成はわずかに口元を引き結び、改まって言った。
「そのためにも、殿下は少将殿に、左京大夫から取り上げた領地の一部をお預けになるおつもりでおいでです。正しき者が正しき褒賞を受け、逆心を抱く者が罰せられる。――その筋目を、この東奥に示さねばなりませぬ」
忠三郎はしばし沈黙した。
薪のはぜる音が、ひときわ大きく耳に響いた。
理は、ある。だが、その理の影に、失われるものもまた多い。
政宗が、いかなる思いでその地を離れるのか。
あるいは、自身が受け取る領地の土の下に、どれほどの怨嗟が眠るのか――。
それでも、忠三郎は最後には、静かに頷いた。
「……石田殿、相わかった。京へ参る。すべては、殿下の御前にて」
三成は深く頭を下げた。
柔らかな陽が、二本松の山端に差し始めている。
「我ら奉行は、理を以て国を治めたいと存じます。されど左京大夫のごとく、利と野心のみを胸に抱く者に、理は通じませぬ。であれば、左京大夫の才を用いながらも、力を削ぎ、殿下の御威光のもとに従わせるより他ありますまい」
忠三郎はしばし黙し、広間の障子の向こうに耳を澄ました。
かすかに庭を掃く音がし、雪解けの水が石の間を流れる気配がした。
「京へ向かうか。――この雪も、ようやく溶けるようじゃ」
広間の空気は、深山の雪のように澄んでいたが、忠三郎の胸の裡には、成田甲斐の姿がまだ、燻ぶる焔のように残っていた。
数十騎で突入し、母を喪いながらも城を奪還した、あの烈しい女。
その背を思えばこそ、忠三郎はこの道を退くわけにはいかなかった。
そして、また雪が舞い始めた。
上洛の途上、忠三郎はひとたび会津・福井の地へと馬首を返した。
それは政の道でも、軍の都合でもなかった。ただ、己が与えたその城に、今も成田甲斐が在ると聞いたからである。
春浅き空は、まだ鈍色を湛え、山の端に残る雪が、淡く霞んで見えた。
土は解け、風はやや緩みながらも、どこか寒々しい。まるでこの身の奥底に残る翳りを映すようだった。
福井城の門が開く。
その前に立っていたのは、甲冑を脱ぎ、浅葱の直垂を纏った成田甲斐。
女でありながら、あの戦で数十の兵を率い、城を取り戻した女――その瞳は、何も語らずともすべてを伝えていた。
忠三郎は、自然と視線を逸らした。
この女に、かつて男と女の情を抱いたことはない。
それでも、傍に置いた。戦の功に報いる名目のもとに、甲斐の父に城を与え、身を寄せさせた。
――いや、それは果たして「報い」であったのか。
己の弱さ、あるいは逃げの形であったのではないか。
「……無事で、何より…」
そう口にした自らの声が、どこかうわずって聞こえた。
甲斐は黙してうなずき、城内へと歩を進めた。
囲炉裏の火が静かにゆらめく座敷にて、ふたりは向かい合った。
甲斐は、いかなる気配も見せぬまま、ぽつりと口を開いた。
「母は、討たれました。…城内に残っていた者たちも、多くが」
声には、悔しさも、嘆きもない。ただ、深く、深く沈んだ湖面のような静けさがあった。
忠三郎は、ただ火を見つめた。
言葉を選びかねたわけではない。ただ、己が発するどんな言葉も、いまの甲斐には届かぬと知れていた。
「……許せ。そなたを、かような目に遭わせたこと、悔やんでも悔やみきれぬ」
それは男としての謝罪ではなかった。
主君としても、将としても、そして――
かつて愛妾として傍に置いたことへの、形なき罪への懺悔でもあった。
甲斐は首を横に振った。
「私が選んだ道にございます。城に戻ると決めたのも、刃を取ったのも、己が意志にございますゆえ」
忠三郎は、頷くことができなかった。
その言葉を否定すれば彼女を傷つけ、肯定すれば己がさらに堕ちていく気がした。
「……京へ向かう。殿下の御前にて、伊達左京大夫の不義を訴えねばならぬ」
「ならば、私は兵を解き、福井に残ります。民の心がまだ定まりませぬゆえ」
その声には、かつての柔らかさはなかった。
ただ、忠三郎が知っている成田甲斐の――強さだけが、そこにあった。
城を出る頃、空からわずかに白いものが舞った。
春の名残か、冬の忘れ物か。
忠三郎は、ふと立ち止まり、空を仰いだ。
――この白雪は、彼女の悲しみか。
それとも、己が心に降る罪の化身か。
名残り雪、未だ消えず。
福井城をあとにし、街道を南へと下るうち、忠三郎の心には、ひとつの影が残り続けていた。
――成田甲斐。
凛としたその姿、母を討たれながらも涙一つ見せぬその瞳。
そして、いかなる恨み言も述べなかったその口元。
彼女とのあいだに、男女の情はなかった。
されど、彼女を傍に置いたのは、自らの孤独を埋めるためだったのではないか――。
それは、忠三郎の身勝手であり、甲斐の尊厳を曇らせることではなかったか。
風が吹く。
遠く、残雪の山肌が陽に光り、音もなく崩れていた。
信仰は、もはや人前に示すものではなかった。
追われ、隠され、密かに祈るしかない信仰である。
だがその内奥に宿る「光」は、常に忠三郎の歩みに影を落としていた。
――愛は寛容にして慈悲あり。愛は妬まず、愛は誇らず、驕らず、礼儀に反することをせず、己の利益を求めず、怒らず、人の悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜ぶもの――
その教えを、あのロレンソがかつて語った。
それがどれほど難しく、深く、時に痛みを伴うものであるか、忠三郎は今になって身に沁みていた。
甲斐の瞳に映っていたのは、忠三郎ではなく、「主君」たる存在への諦めにも似た思いだったのではないか。
その沈黙が、雄弁だった。
誰かの人生を、意図せずとも歪めてしまった――
その責めを、自ら引き受けねばならぬときもある。
「すまぬ、甲斐……」
独り言のように呟いた声は、風にさらわれて、ただ空に消えた。
白梅が一枝、道の端に咲いていた。
春が近いと告げるように、清らかで、どこか痛ましいほどに淡く。
忠三郎の胸中にある罪は、たとえ赦されたとしても、忘れてはならぬ傷として、今後の歩みに刻まれることとなるだろう。
赦しとは、他者が与えるものではなく、己が悔い改めの先に見出すもの。
その道はなお遠く、果てなく続いていた。
心の奥に、なお消えぬ痛みを携えながら――成田甲斐の母の最期を思い、甲斐が数十騎で血路を拓き、福井城を奪い返したその烈しさに、胸が焼けるようであった。
せめて自ら駆けつけていれば、と悔いは尽きない。
雪深き会津路を抜け、道中の空はどこまでも灰色であったが、その中にも微かに春の気配が漂い始めていた。
福井城奪還の報が届いたのは、出立の直前だった。
甲斐がわずか数十騎で敵中に斬り込み、母を奪われた怨念を胸に、浜田兄弟を討ち果たしたという。
だが、戻らぬ命はあまりに多い。城内に流れた血の温もりは、甲斐の胸にどれほどの灼熱を遺しただろうか。
忠三郎は、甲斐の怒りや悲しみを想像しながらも、結局それを共に背負う術を持たぬ己を歯噛みするしかなかった。
――この世に正義があるならば、せめて、甲斐の手が奪われたものに届くように。
そう祈るような心で、馬を降りた。
二本松城の広間は、白漆喰の壁に陽が淡く射し込み、凍てついた廊下の向こうに遠く春の気配を滲ませていた。広間には香の薫きしめられた静寂があり、畳にわずかに揺れる光が、雪国の訪問者を迎えるにふさわしい慎ましき風雅を湛えていた。
忠三郎は、重ねた旅装のまま、広間の一隅に据えられた腰掛に膝を揃え、先に座していた石田三成と向かい合った。眉目は整い、謹厳なその姿には、ひと目で只者ならぬ才気と、清冽な意志が読み取れた。年若ながらも冷静沈着という評判で、また、同じ奉行でキリシタンの小西行長とは昵懇の仲だという。
その小西行長から、忠三郎のことを幾度も聞かされていたらしく、三成は初対面の礼のなかにも、どこか懐かしむような温もりを帯びていた。
「このたびのご奮戦、まことにご苦労に存じます――少将殿」
低く澄んだ声が、広間に響いた。三成は背筋を真直ぐに保ったまま、忠三郎に深く頭を垂れた。
甲斐の悲しみ、浜田の裏切り、政宗の奸計――
幾重にも積もる思いを抱えながらも、忠三郎は三成の差し出した掌に、希望の芽を見出そうとしていた。
石田三成もまた近江の人という。忠三郎の心には、懐かしさにも似た親しみが、わずかに灯った。
「ご機嫌麗しゅう、石田殿。……殿下のご意向は如何に」
促されるまま、忠三郎は文を差し出した。
政宗が国衆たちに一揆を煽るよう指示した密書だった。
三成はそれを両手で受け取り、目を通すや、まなじりをわずかに吊り上げたが、すぐに感情を覆い隠すようにまぶたを伏せ、静かに息を吐いた。
「これは……動かぬ証左にございますな」
そう言って文を脇に置いた三成は、改めて忠三郎に顔を向けた。その瞳は深く、厳しさのなかに、どこか人の情を湛えていた。
「小西殿より、少将殿の噂は常に伺っておりました。凍える峠を越え、会津を救い、今また伊達左京大夫の謀をここに明かされた。殿下におかれても、さぞお喜びのことかと」
三成は口元にかすかな微笑を浮かべ、まなじりを柔らかく緩めた。 忠三郎は沈黙のまま、広間の天井を見やった。
格子を透かして差す陽は、どこか懐かしい幼き日々の光のようで、しかしそれが届かぬほど、胸の裡はまだ陰っていた。
「殿下の仰せにより、木村殿親子をともない、上洛いただきたく存じます。すべては、御前にて明らかにされることでありましょう。どうか、よろしくお導きくださいますよう……伏してお願い申し上げます」
忠三郎は、礼に始まり誠に終わるその言葉に、胸の奥がわずかに温まるのを感じた。
荒れ狂う政宗の策に対し、ここには理と秩序があった。
「心得た。…石田殿、わざわざこの雪深き地までお越しいただき、まことにかたじけない」
「身に余るお言葉、恐悦至極にございます」
三成は、やわらかな雪解け水のような眼差しを向けた。
「少将殿には、もう一つ申し上げておかねばなりません。――これは、あくまで内内のものとしてお聞き届けいただければ幸いです」
忠三郎は黙って頷いた。三成の双眸には、怜悧な光が宿っていた。
「左京大夫は、申し開きに長けておる。殿下のお尋ねに対しても、巧みに辞を弄し、一揆など知らぬ存ぜぬと通されましょう」
「……あやつなら、さもありなん」
「そこで、殿下は、一揆鎮圧の名を以て、残る乱地の平定を左京大夫自身に命ずるおつもりです。自らの罪を、自らの手で贖わせる、という理にて」
忠三郎の眉がわずかに動いた。
「そして――その後に、葛西・大崎の旧領へ、左京大夫を移封なされることになるでしょう」
言葉は柔らかかったが、鋼のような鋭さが奥に潜んでいる。
「荒れ果てた地において、民心を取り戻すには年が要りましょう。しかも、旧領から遠ざけられ、伊達家の根は弱まりましょうな」
「……なるほど。左京大夫の牙を抜く、というわけか」
「殿下のお心の内は、まことに深うございます」
三成はわずかに口元を引き結び、改まって言った。
「そのためにも、殿下は少将殿に、左京大夫から取り上げた領地の一部をお預けになるおつもりでおいでです。正しき者が正しき褒賞を受け、逆心を抱く者が罰せられる。――その筋目を、この東奥に示さねばなりませぬ」
忠三郎はしばし沈黙した。
薪のはぜる音が、ひときわ大きく耳に響いた。
理は、ある。だが、その理の影に、失われるものもまた多い。
政宗が、いかなる思いでその地を離れるのか。
あるいは、自身が受け取る領地の土の下に、どれほどの怨嗟が眠るのか――。
それでも、忠三郎は最後には、静かに頷いた。
「……石田殿、相わかった。京へ参る。すべては、殿下の御前にて」
三成は深く頭を下げた。
柔らかな陽が、二本松の山端に差し始めている。
「我ら奉行は、理を以て国を治めたいと存じます。されど左京大夫のごとく、利と野心のみを胸に抱く者に、理は通じませぬ。であれば、左京大夫の才を用いながらも、力を削ぎ、殿下の御威光のもとに従わせるより他ありますまい」
忠三郎はしばし黙し、広間の障子の向こうに耳を澄ました。
かすかに庭を掃く音がし、雪解けの水が石の間を流れる気配がした。
「京へ向かうか。――この雪も、ようやく溶けるようじゃ」
広間の空気は、深山の雪のように澄んでいたが、忠三郎の胸の裡には、成田甲斐の姿がまだ、燻ぶる焔のように残っていた。
数十騎で突入し、母を喪いながらも城を奪還した、あの烈しい女。
その背を思えばこそ、忠三郎はこの道を退くわけにはいかなかった。
そして、また雪が舞い始めた。
上洛の途上、忠三郎はひとたび会津・福井の地へと馬首を返した。
それは政の道でも、軍の都合でもなかった。ただ、己が与えたその城に、今も成田甲斐が在ると聞いたからである。
春浅き空は、まだ鈍色を湛え、山の端に残る雪が、淡く霞んで見えた。
土は解け、風はやや緩みながらも、どこか寒々しい。まるでこの身の奥底に残る翳りを映すようだった。
福井城の門が開く。
その前に立っていたのは、甲冑を脱ぎ、浅葱の直垂を纏った成田甲斐。
女でありながら、あの戦で数十の兵を率い、城を取り戻した女――その瞳は、何も語らずともすべてを伝えていた。
忠三郎は、自然と視線を逸らした。
この女に、かつて男と女の情を抱いたことはない。
それでも、傍に置いた。戦の功に報いる名目のもとに、甲斐の父に城を与え、身を寄せさせた。
――いや、それは果たして「報い」であったのか。
己の弱さ、あるいは逃げの形であったのではないか。
「……無事で、何より…」
そう口にした自らの声が、どこかうわずって聞こえた。
甲斐は黙してうなずき、城内へと歩を進めた。
囲炉裏の火が静かにゆらめく座敷にて、ふたりは向かい合った。
甲斐は、いかなる気配も見せぬまま、ぽつりと口を開いた。
「母は、討たれました。…城内に残っていた者たちも、多くが」
声には、悔しさも、嘆きもない。ただ、深く、深く沈んだ湖面のような静けさがあった。
忠三郎は、ただ火を見つめた。
言葉を選びかねたわけではない。ただ、己が発するどんな言葉も、いまの甲斐には届かぬと知れていた。
「……許せ。そなたを、かような目に遭わせたこと、悔やんでも悔やみきれぬ」
それは男としての謝罪ではなかった。
主君としても、将としても、そして――
かつて愛妾として傍に置いたことへの、形なき罪への懺悔でもあった。
甲斐は首を横に振った。
「私が選んだ道にございます。城に戻ると決めたのも、刃を取ったのも、己が意志にございますゆえ」
忠三郎は、頷くことができなかった。
その言葉を否定すれば彼女を傷つけ、肯定すれば己がさらに堕ちていく気がした。
「……京へ向かう。殿下の御前にて、伊達左京大夫の不義を訴えねばならぬ」
「ならば、私は兵を解き、福井に残ります。民の心がまだ定まりませぬゆえ」
その声には、かつての柔らかさはなかった。
ただ、忠三郎が知っている成田甲斐の――強さだけが、そこにあった。
城を出る頃、空からわずかに白いものが舞った。
春の名残か、冬の忘れ物か。
忠三郎は、ふと立ち止まり、空を仰いだ。
――この白雪は、彼女の悲しみか。
それとも、己が心に降る罪の化身か。
名残り雪、未だ消えず。
福井城をあとにし、街道を南へと下るうち、忠三郎の心には、ひとつの影が残り続けていた。
――成田甲斐。
凛としたその姿、母を討たれながらも涙一つ見せぬその瞳。
そして、いかなる恨み言も述べなかったその口元。
彼女とのあいだに、男女の情はなかった。
されど、彼女を傍に置いたのは、自らの孤独を埋めるためだったのではないか――。
それは、忠三郎の身勝手であり、甲斐の尊厳を曇らせることではなかったか。
風が吹く。
遠く、残雪の山肌が陽に光り、音もなく崩れていた。
信仰は、もはや人前に示すものではなかった。
追われ、隠され、密かに祈るしかない信仰である。
だがその内奥に宿る「光」は、常に忠三郎の歩みに影を落としていた。
――愛は寛容にして慈悲あり。愛は妬まず、愛は誇らず、驕らず、礼儀に反することをせず、己の利益を求めず、怒らず、人の悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜ぶもの――
その教えを、あのロレンソがかつて語った。
それがどれほど難しく、深く、時に痛みを伴うものであるか、忠三郎は今になって身に沁みていた。
甲斐の瞳に映っていたのは、忠三郎ではなく、「主君」たる存在への諦めにも似た思いだったのではないか。
その沈黙が、雄弁だった。
誰かの人生を、意図せずとも歪めてしまった――
その責めを、自ら引き受けねばならぬときもある。
「すまぬ、甲斐……」
独り言のように呟いた声は、風にさらわれて、ただ空に消えた。
白梅が一枝、道の端に咲いていた。
春が近いと告げるように、清らかで、どこか痛ましいほどに淡く。
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裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
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