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34.大明征伐
34-3. ただ一つの光に
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この年――天正二十年も押し迫った十二月。
豊臣秀次が関白の座についたことを祝し、元号が改められた。新たな元号は「文禄」。
人々の口の端にはまだ慣れぬその響きがのぼり、時代がまたひとつ移ったことを感じさせていた。
名護屋の町にも、年の瀬とは思えぬほど穏やかな朝が訪れていた。
浜風に乗って、あちこちの陣屋から朝餉の香ばしい匂いが漂ってくる。
その空気に反して、忠三郎の足取りは重い。
向かったのは――高山右近の陣屋。
久方ぶりの再会だった。
かつて都、そして大坂の南蛮寺でともに祈った右近の姿は、変わらず落ち着きと気品を湛えていた。
右近、その面持ちは、どこか翳りがあった。
「小西殿が…渡海なされたようにて…」
右近の口から告げられたのは、予想していた以上に重い内容だった。
大明征伐の第一陣を任されたのは小西行長――熱心なキリシタン大名であり、商才に長けた武将。
その行長の下には、有馬・大村・大友といった九州のキリシタン大名たちが従属させられる形で配置されたという。
「ただの先鋒ではございません。最も血を流す役目」
右近の声から、静かな怒りが伝わってくる。
信仰のために土地を追われ、ここまで辿り着いた多くの者たちが、今また血を流さねばならぬとは。
キリシタンであることが、戦場で最初に斃れることへの免罪符になったかのような現実に、右近は深く心を痛めていた。
「さりながら…」
右近が言いかけて、少し言葉を切った。
「小西殿は高麗の地において破竹の勢いで北上しております。王京─漢城(ソウル)を目指して、既にいくつもの城を落としたと……」
忠三郎は目を伏せた。
その報せは、名護屋城の中でも密かに伝えられていた。小西の軍が予想外の速さで進軍しているということは、すなわち、明の大軍が未だ到着していないということ。敵がまだ本腰を入れていないことの証でもある。
戦の恐ろしさは、戦の始まりには見えない。
嵐の前の静けさが、勝ち名乗りのように錯覚される。
右近が低い声で続けた。
「……さらに、こんな噂もございます。太閤殿下が、高麗の占領地に、我ら日ノ本のキリシタンを移し住まわせようとしていると」
「キリシタンを異国に?」
流浪の果てに異国へ追いやられる――。
信仰の名のもとに、武力の果てに、血で染まった地へ。
それは、布教ではない。流刑にほかならない。
「戦は、神の御心にかなうものではないと、我らは存じておりまする」
右近の静かな言葉が、潮騒のように、忠三郎の胸に深く沁み入った。そこにこめられている右近の胸の内を占めるものはなんだろう。怒りか、嘆きか、それとも…
(幸福なるかな、平和ならしむる者)
その一節が、ふたたび忠三郎の胸中に蘇る。
戦乱に生まれ、戦に身を投じてきた己が、いまなお心の奥でこの言葉に動かされている。
それは、右近の信仰の強さではなく、己がずっと目をそらし続けていた真実ではなかったか。
「忠三郎殿。ぜひ、ご同道を願いたいのであるが…」
「いずこへ?」
「長崎でござります」
「長崎…」
そこはただの港町ではない。日ノ本の西の果て、異国と信仰が交わる地。
いまから約二十年前、ガスパル・ヴィレラ神父によって長崎に最初の教会がたてられた。その後、領主・大村純忠が洗礼を受け、長崎の地をまるごとイエズス会に寄進したことから、この町は一気にキリスト教の拠点と化した。
以後、信仰の自由を保障された町には、司祭たちの住まう修道院、病を癒やすための病院、そして子らの学び舎が建てられた。
南蛮船がもたらす火薬、時計、書物、眼鏡――ありとあらゆる文物がこの地を経て日ノ本に伝わり、長崎は東西の文化が交錯する窓口となった。
やがて、各地から行き場のないキリシタンたちが集まり、町の大半が信徒となる。
日々教会に通ううちに、多くの町人が自然とポルトガル語を話すようになり、もはや通訳を介さずとも南蛮人たちと意思を交わせるまでになった。
だが――。
天正十五年、秀吉が突如として「伴天連追放令」を発し、宣教師たちを国外へ追放しようとした。
長崎は秀吉の直轄領となり、教会や修道院は破却の危機に晒された。
それでもなお、命を賭して町に留まり、祈り続ける者たちがいた。
右近が忠三郎を誘った理由――それは、そうした宣教師たちに、忠三郎を会わせるためだった。
国外退去命令が出されたいまも、彼らは命の危険を顧みず、静かに、ただ祈りと奉仕の日々を送っていた。
破却を免れた小さな教会で、右近は彼らとの語らいの場を設けてくれた。
教会の扉を押し開けた瞬間、忠三郎は、なつかしい香りに包まれた。
燭台にともる蜜蝋の匂い。ほの暗いなかで揺れる灯の中に、静かに響くラテン語の祈り。
それは、いつか聞いたことのある調べだった。
(ああ……)
大坂の南蛮寺に出入りしていたころの、フロイスやロレンソの声が甦る。
ときに厳しく、ときに優しく、己が生まれ持ったものとは異なる「愛」のあり方を語ってくれた人々――あのときの、白き十字架の光。
戦場で見たものとはまるでちがう光が、ここにはあった。
人を斬る刀ではなく、人を癒す手。
憎しみをあおる言葉ではなく、赦しを求める祈り。
それらが、今もこうして息づいていることに、胸の奥がじんわりと熱を帯びていく。
次に、右近にいざなわれて訪れたのは、アルメイダ神父が建てた病院だった。
忠三郎は目を見張った。
そこには、貧しき者も、病み衰えた者も、異国の者も分け隔てなく横たわり、神父や修道士、若き日本人信徒たちが黙々と手当てをしていた。
悪臭の中にも清潔さがあり、秩序があり、何より、人の命に値する「まなざし」があった。
「これは……これが……病院というものか」
右近はうなずいた。
「アルメイダ神父が、かつて平戸に病者のための宿を建てたのが始まりでござります。人は、命の重さを知るとき、神の想いに近づくものなのかもしれませぬ」
忠三郎は、老女の手を握る若い修道士の姿に目をとめた。
自らが築こうとしている城、守ろうとしている国――それが、いったい誰のためにあるのか。
その静かな手の動きに、それが問われている気がした。
(会津にも……このような場があれば)
争いのためでなく、人を生かすために――
その想いが、ふつふつと胸に湧き上がった。
そのときだった。
「ようやっと参られたか。待っておったわい」
聞き覚えのある声が、背後から柔らかく届いた。
振り返ると、やや離れたところに、一人の病者が身を起こしていた。
ゆるやかな微笑を湛え、今にも風に溶けてしまいそうな姿で、忠三郎を見つめていた。
「ロレンソ殿…」
思わず名を呼んだ忠三郎の目に、熱いものがにじんだ。
ロレンソは大坂の南蛮寺で別れたときと変わらぬ目をしていた――いや、変わらぬどころか、なお深く、穏やかだった。
迫害と飢えと孤独に晒されながらもなお、信じ続けたロレンソ。
「わしもすっかり老いたゆえ、都を引き払い、この地にやってきたのじゃ」 そう言って微笑んだロレンソの背は、以前よりもずっと小さくなっていた。
ひと目でわかるほど、身体は痩せ、骨張った手はわずかに震えていた。
「ロレンソ殿。葉月殿のことは…」
忠三郎が言いかけると、ロレンソはそっと首を振った。
「義太夫には知らせておらぬ」
やはりそうか――忠三郎はひとりごちる。
葉月の奪還は、滝川家の悲願。
義太夫が事実を知れば、激情のままに兵を引き連れ、聚楽第を襲いかねない。
ロレンソはそれを知っていた。
それでも沈黙を選んだのは、血を流すことではなく、神の時を待ち、赦しを選び続けてきたロレンソの信仰のゆえだった。
ロレンソがぽつりとつぶやいた。
「わしもそろそろ、天の国に還るときが近づいたようじゃ」
冗談めかして笑ったその言葉に、忠三郎は思わず胸をつかれた。
だが、笑顔の奥にある諦観を、見逃さなかった。
それは、死を恐れるでもなく、抗うでもない――ただ、穏やかに受け入れようとする人の顔だった。
「……まだ、お話したいことが…」
思わずもれた忠三郎の声に、ロレンソはふふ、と柔らかく笑った。
「話すことは、もうない。あとは、祈るだけじゃ。忠三郎殿……今もまことの神を見上げて祈っておるか?」
問いかけに、忠三郎はしばし口をつぐんだ。
だが、胸の奥から湧き上がる熱に突き動かされるように、静かに頷いた。
「――はい。今夜は、祈れそうな気がいたします」
その言葉に、ロレンソは、何かを託すように、満足げに頷いた。
忘れかけていたものが、忠三郎の中にゆっくりと、確かに戻ってきていた。
闇にひとつ、灯がともるように。
その灯は、やがて失われる命から、次の命へと受け継がれてゆくものだった。
ロレンソと別れて陣屋に戻った夜、忠三郎は、ろうそくの火をともして膝を折った。
薄暗い一室に、蝋のかすかな匂いと、風に揺れる火影。
掌を組み、目を閉じると、静かな祈りが胸の奥からしみ出してくるようだった。
どれほどの時が流れただろうか。
戦を越え、幾人もの死に顔を見てきたこの身が、ただ、静かに神を見上げている。
かつて失ったと思っていたものが、心の片隅に、まだ残っていたのだ。
あの老修道士のまなざしに照らされ、己の中にも小さな灯が点っていたことに気づかされた。
――命を奪うばかりが、わしの役目ではあるまい。
ふと、長崎のことを思い出した。
あの地にあった病院。子らが学ぶ学舎。傷を癒し、孤独を抱きしめるような、あの場所のぬくもり。
なぜ、それがこの会津にあってはならぬのか。
寒さ厳しい雪国に生きる民のため、学びの場と癒しの場を築きたい。
争いの果てにではなく、祈りの中から生まれる未来を、ここにこそ。
そして夜が明けた。
鶏が鳴き、山の端が白むころ、忠三郎は静かに立ち上がった。
心は不思議なほど澄み、昨日までの自分が遠いもののように思えた。
その日の朝の評定、忠三郎は家臣たちの前に姿を現すと、静かに言った。
「……おぬしらに話しておかねばならぬことがある」
皆の視線が集まる。忠三郎はしばし言葉を選び、それから、真っ直ぐに告げた。
「わしは…キリシタンである」
一瞬、空気が揺れた。
だが忠三郎は動じなかった。
これは隠すことではない。これからの道を共にする者たちには、まず、自らをさらすところから始めねばならぬ。
「昨夜、わしは祈った。……久方ぶりに、心の底から」
言葉をつなぎながら、一人一人の顔を見た。
「会津にも……あの長崎のような、病の者が癒され、女子どもが学べる場を作りたいと思う。刀ではなく、祈りと学びの場を――我が領国に」
誰も言葉を返さなかったが、ある者は目を伏せ、ある者は小さく頷いた。
長い沈黙ののち、町野左近がゆっくりと口を開いた。
「……殿。殿が何を信じていようとも、この命、変わらずお預けいたします」
それを皮切りに、次々と家臣たちが声をあげた。
忠三郎はその光景に、何とも言えぬ静けさと、深い感謝を覚えた。
風が、開け放たれた障子の隙間から吹き込んできた。
その風は、西方から吹く、祈りの地の記憶をたたえているようでもあった。
豊臣秀次が関白の座についたことを祝し、元号が改められた。新たな元号は「文禄」。
人々の口の端にはまだ慣れぬその響きがのぼり、時代がまたひとつ移ったことを感じさせていた。
名護屋の町にも、年の瀬とは思えぬほど穏やかな朝が訪れていた。
浜風に乗って、あちこちの陣屋から朝餉の香ばしい匂いが漂ってくる。
その空気に反して、忠三郎の足取りは重い。
向かったのは――高山右近の陣屋。
久方ぶりの再会だった。
かつて都、そして大坂の南蛮寺でともに祈った右近の姿は、変わらず落ち着きと気品を湛えていた。
右近、その面持ちは、どこか翳りがあった。
「小西殿が…渡海なされたようにて…」
右近の口から告げられたのは、予想していた以上に重い内容だった。
大明征伐の第一陣を任されたのは小西行長――熱心なキリシタン大名であり、商才に長けた武将。
その行長の下には、有馬・大村・大友といった九州のキリシタン大名たちが従属させられる形で配置されたという。
「ただの先鋒ではございません。最も血を流す役目」
右近の声から、静かな怒りが伝わってくる。
信仰のために土地を追われ、ここまで辿り着いた多くの者たちが、今また血を流さねばならぬとは。
キリシタンであることが、戦場で最初に斃れることへの免罪符になったかのような現実に、右近は深く心を痛めていた。
「さりながら…」
右近が言いかけて、少し言葉を切った。
「小西殿は高麗の地において破竹の勢いで北上しております。王京─漢城(ソウル)を目指して、既にいくつもの城を落としたと……」
忠三郎は目を伏せた。
その報せは、名護屋城の中でも密かに伝えられていた。小西の軍が予想外の速さで進軍しているということは、すなわち、明の大軍が未だ到着していないということ。敵がまだ本腰を入れていないことの証でもある。
戦の恐ろしさは、戦の始まりには見えない。
嵐の前の静けさが、勝ち名乗りのように錯覚される。
右近が低い声で続けた。
「……さらに、こんな噂もございます。太閤殿下が、高麗の占領地に、我ら日ノ本のキリシタンを移し住まわせようとしていると」
「キリシタンを異国に?」
流浪の果てに異国へ追いやられる――。
信仰の名のもとに、武力の果てに、血で染まった地へ。
それは、布教ではない。流刑にほかならない。
「戦は、神の御心にかなうものではないと、我らは存じておりまする」
右近の静かな言葉が、潮騒のように、忠三郎の胸に深く沁み入った。そこにこめられている右近の胸の内を占めるものはなんだろう。怒りか、嘆きか、それとも…
(幸福なるかな、平和ならしむる者)
その一節が、ふたたび忠三郎の胸中に蘇る。
戦乱に生まれ、戦に身を投じてきた己が、いまなお心の奥でこの言葉に動かされている。
それは、右近の信仰の強さではなく、己がずっと目をそらし続けていた真実ではなかったか。
「忠三郎殿。ぜひ、ご同道を願いたいのであるが…」
「いずこへ?」
「長崎でござります」
「長崎…」
そこはただの港町ではない。日ノ本の西の果て、異国と信仰が交わる地。
いまから約二十年前、ガスパル・ヴィレラ神父によって長崎に最初の教会がたてられた。その後、領主・大村純忠が洗礼を受け、長崎の地をまるごとイエズス会に寄進したことから、この町は一気にキリスト教の拠点と化した。
以後、信仰の自由を保障された町には、司祭たちの住まう修道院、病を癒やすための病院、そして子らの学び舎が建てられた。
南蛮船がもたらす火薬、時計、書物、眼鏡――ありとあらゆる文物がこの地を経て日ノ本に伝わり、長崎は東西の文化が交錯する窓口となった。
やがて、各地から行き場のないキリシタンたちが集まり、町の大半が信徒となる。
日々教会に通ううちに、多くの町人が自然とポルトガル語を話すようになり、もはや通訳を介さずとも南蛮人たちと意思を交わせるまでになった。
だが――。
天正十五年、秀吉が突如として「伴天連追放令」を発し、宣教師たちを国外へ追放しようとした。
長崎は秀吉の直轄領となり、教会や修道院は破却の危機に晒された。
それでもなお、命を賭して町に留まり、祈り続ける者たちがいた。
右近が忠三郎を誘った理由――それは、そうした宣教師たちに、忠三郎を会わせるためだった。
国外退去命令が出されたいまも、彼らは命の危険を顧みず、静かに、ただ祈りと奉仕の日々を送っていた。
破却を免れた小さな教会で、右近は彼らとの語らいの場を設けてくれた。
教会の扉を押し開けた瞬間、忠三郎は、なつかしい香りに包まれた。
燭台にともる蜜蝋の匂い。ほの暗いなかで揺れる灯の中に、静かに響くラテン語の祈り。
それは、いつか聞いたことのある調べだった。
(ああ……)
大坂の南蛮寺に出入りしていたころの、フロイスやロレンソの声が甦る。
ときに厳しく、ときに優しく、己が生まれ持ったものとは異なる「愛」のあり方を語ってくれた人々――あのときの、白き十字架の光。
戦場で見たものとはまるでちがう光が、ここにはあった。
人を斬る刀ではなく、人を癒す手。
憎しみをあおる言葉ではなく、赦しを求める祈り。
それらが、今もこうして息づいていることに、胸の奥がじんわりと熱を帯びていく。
次に、右近にいざなわれて訪れたのは、アルメイダ神父が建てた病院だった。
忠三郎は目を見張った。
そこには、貧しき者も、病み衰えた者も、異国の者も分け隔てなく横たわり、神父や修道士、若き日本人信徒たちが黙々と手当てをしていた。
悪臭の中にも清潔さがあり、秩序があり、何より、人の命に値する「まなざし」があった。
「これは……これが……病院というものか」
右近はうなずいた。
「アルメイダ神父が、かつて平戸に病者のための宿を建てたのが始まりでござります。人は、命の重さを知るとき、神の想いに近づくものなのかもしれませぬ」
忠三郎は、老女の手を握る若い修道士の姿に目をとめた。
自らが築こうとしている城、守ろうとしている国――それが、いったい誰のためにあるのか。
その静かな手の動きに、それが問われている気がした。
(会津にも……このような場があれば)
争いのためでなく、人を生かすために――
その想いが、ふつふつと胸に湧き上がった。
そのときだった。
「ようやっと参られたか。待っておったわい」
聞き覚えのある声が、背後から柔らかく届いた。
振り返ると、やや離れたところに、一人の病者が身を起こしていた。
ゆるやかな微笑を湛え、今にも風に溶けてしまいそうな姿で、忠三郎を見つめていた。
「ロレンソ殿…」
思わず名を呼んだ忠三郎の目に、熱いものがにじんだ。
ロレンソは大坂の南蛮寺で別れたときと変わらぬ目をしていた――いや、変わらぬどころか、なお深く、穏やかだった。
迫害と飢えと孤独に晒されながらもなお、信じ続けたロレンソ。
「わしもすっかり老いたゆえ、都を引き払い、この地にやってきたのじゃ」 そう言って微笑んだロレンソの背は、以前よりもずっと小さくなっていた。
ひと目でわかるほど、身体は痩せ、骨張った手はわずかに震えていた。
「ロレンソ殿。葉月殿のことは…」
忠三郎が言いかけると、ロレンソはそっと首を振った。
「義太夫には知らせておらぬ」
やはりそうか――忠三郎はひとりごちる。
葉月の奪還は、滝川家の悲願。
義太夫が事実を知れば、激情のままに兵を引き連れ、聚楽第を襲いかねない。
ロレンソはそれを知っていた。
それでも沈黙を選んだのは、血を流すことではなく、神の時を待ち、赦しを選び続けてきたロレンソの信仰のゆえだった。
ロレンソがぽつりとつぶやいた。
「わしもそろそろ、天の国に還るときが近づいたようじゃ」
冗談めかして笑ったその言葉に、忠三郎は思わず胸をつかれた。
だが、笑顔の奥にある諦観を、見逃さなかった。
それは、死を恐れるでもなく、抗うでもない――ただ、穏やかに受け入れようとする人の顔だった。
「……まだ、お話したいことが…」
思わずもれた忠三郎の声に、ロレンソはふふ、と柔らかく笑った。
「話すことは、もうない。あとは、祈るだけじゃ。忠三郎殿……今もまことの神を見上げて祈っておるか?」
問いかけに、忠三郎はしばし口をつぐんだ。
だが、胸の奥から湧き上がる熱に突き動かされるように、静かに頷いた。
「――はい。今夜は、祈れそうな気がいたします」
その言葉に、ロレンソは、何かを託すように、満足げに頷いた。
忘れかけていたものが、忠三郎の中にゆっくりと、確かに戻ってきていた。
闇にひとつ、灯がともるように。
その灯は、やがて失われる命から、次の命へと受け継がれてゆくものだった。
ロレンソと別れて陣屋に戻った夜、忠三郎は、ろうそくの火をともして膝を折った。
薄暗い一室に、蝋のかすかな匂いと、風に揺れる火影。
掌を組み、目を閉じると、静かな祈りが胸の奥からしみ出してくるようだった。
どれほどの時が流れただろうか。
戦を越え、幾人もの死に顔を見てきたこの身が、ただ、静かに神を見上げている。
かつて失ったと思っていたものが、心の片隅に、まだ残っていたのだ。
あの老修道士のまなざしに照らされ、己の中にも小さな灯が点っていたことに気づかされた。
――命を奪うばかりが、わしの役目ではあるまい。
ふと、長崎のことを思い出した。
あの地にあった病院。子らが学ぶ学舎。傷を癒し、孤独を抱きしめるような、あの場所のぬくもり。
なぜ、それがこの会津にあってはならぬのか。
寒さ厳しい雪国に生きる民のため、学びの場と癒しの場を築きたい。
争いの果てにではなく、祈りの中から生まれる未来を、ここにこそ。
そして夜が明けた。
鶏が鳴き、山の端が白むころ、忠三郎は静かに立ち上がった。
心は不思議なほど澄み、昨日までの自分が遠いもののように思えた。
その日の朝の評定、忠三郎は家臣たちの前に姿を現すと、静かに言った。
「……おぬしらに話しておかねばならぬことがある」
皆の視線が集まる。忠三郎はしばし言葉を選び、それから、真っ直ぐに告げた。
「わしは…キリシタンである」
一瞬、空気が揺れた。
だが忠三郎は動じなかった。
これは隠すことではない。これからの道を共にする者たちには、まず、自らをさらすところから始めねばならぬ。
「昨夜、わしは祈った。……久方ぶりに、心の底から」
言葉をつなぎながら、一人一人の顔を見た。
「会津にも……あの長崎のような、病の者が癒され、女子どもが学べる場を作りたいと思う。刀ではなく、祈りと学びの場を――我が領国に」
誰も言葉を返さなかったが、ある者は目を伏せ、ある者は小さく頷いた。
長い沈黙ののち、町野左近がゆっくりと口を開いた。
「……殿。殿が何を信じていようとも、この命、変わらずお預けいたします」
それを皮切りに、次々と家臣たちが声をあげた。
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