獅子の末裔

卯花月影

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34.大明征伐

34-4. 耳塚と金屏風

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 戦の風が日ごとに強まってゆくのを肌で感じるようになった。
 高麗――すなわち朝鮮に渡った先鋒部隊は、釜山を占領してからというもの、負け知らずの快進撃を続けているという。加藤清正、小西行長らが競うようにして城を攻め落とし、進軍を止めぬ様子は、何かにせきたてられているようだった。

 秀吉は上機嫌だった。
「所詮、唐なんぞは長袖者の国。我が日ノ本は弓箭《きゅうせん》きびしき国じゃ。高麗を平らげたあかつきには、帝を洛陽へ遷す。いや、いや、それでは狭すぎるのう。大明を討ち従え、帝は北京にお渡りいただくとしようぞ」
 豪胆な笑いが大広間に響き渡るが、諸将の顔に浮かぶ笑みは、内心の困惑を押し隠す仮面にすぎなかった。

 忠三郎の胸には、晴れぬ霧のような不安が巣食っていた。
(そうそう事がうまく運ぶとは思えぬ)
 戦が始まって以来、その不安は日増しに強くなっていた。そして、それを裏づけるような報せが、ある夜、もたらされた
 加賀山隼人が、無言のまま居間に姿を現した。表情にただならぬものがあった。
「殿、御耳に入れておきたき儀がござります」
「何事じゃ」
「このたびの快進撃――その力は申すまでもなく、日ノ本の鉄砲の力。しかし……近頃、敵が鉄砲を使い始めておるとの報が入っております」
「何? それはまことか。朝鮮に鉄砲はなかったはず――それを何処から知った?」
「小西様の家臣で、手傷を負って戻ってきた者の証言にございます。その者が申すには――どうやら、加藤様の家臣の一人が、敵に寝返ったと」
「敵に寝返った?」
「はい。『この戦には大義がない』と叫び、三千人の兵を引き連れて敵に走ったと申します。その者、鉄砲の扱いに長けており、敵に製造の術を教えたとか」
 忠三郎は言葉を失った。これは、ただの反乱ではない。戦の力の均衡が崩れつつあるということだ。
「それゆえに、敵は鉄砲を手にし、野に潜み、夜陰にまぎれて鉄砲を放ち、お味方の兵を次々と撃ち倒しておるとか。地の利も、言葉も持たぬ我らは、もはや獲物にすぎぬと…」
 耳を疑いたくなる話だった。だが、その報せには真実の重みがある。現地の兵しか知りえぬ現実。秀吉が語る明るい未来とは、まるで別の世界だった。
(まことの知らせが太閤の耳には届いておらぬのではないか)
 肥前の宗氏が「高麗は属国」と笑っていたのも思い出される。海の向こうから届く報せは、武功に浮かれた将たちの耳に心地よいことばかり。だがその裏では、じわりじわりと、確実に戦の底が抜けつつある。
 腐敗は、音もなく進行する。
 忠三郎は、言いようのない焦燥に駆られた

 止められぬまま進む戦。
 大河が堤を越えてなお流れ続けるように、秀吉の軍勢は朝鮮の地をひた走っていた。
 忠三郎が日々耳にするのは、小西行長の北上、加藤清正の快進撃――勝ちに勝ちを重ねる報せばかり。そしてついに五月、首都である漢城を落としたとの知らせが届いた。
 金箔を貼った屏風に、日の光がぎらりと反射した。名護屋城の大広間。屏風を背にした太閤秀吉は、飴色の袴を叩いて笑っていた。笑い声は障子の奥まで震わせ、左右に控える小姓たちは一斉に顔を伏せた。
「ようやった、ようやったぞ、さすがはこの殿下の家臣どもじゃ!」
 秀吉の声が、朗々と、能舞台の謡のように響き渡る。
 名護屋城では、連日、合戦勝利の宴が開かれ、太閤秀吉は機嫌も上々であった。その血腥い記録を「太閤記」の書記官たちが筆を走らせ、今日もまたひとつ、城の屏風絵に新たな栄誉が加えられる。
 秀吉の頬は紅潮し、短くなった髷の下で汗が玉となって滴る。
「唐入りこそ我が生涯の花道よ。余は信長を継ぎ、帝をも超えん!」
 扇をひと振りし、秀吉は立ち上がる。舞い上がる裾にあしらわれた金糸の菊紋が、燦然と光を放つ。
 けれど、何をもって「勝ち」とするのか。忠三郎には、いまだ答えが見えぬままでだった。

 ある日の夕暮れ時。湊に朝鮮から大船が着くとの知らせを受け、忠三郎は家臣たちを連れて湊へ向かった。
 潮風は濃く重く、どこか生臭さがあった。
 大船の舳先がゆっくりと岸へ寄せられ、水面が低く、鈍い音を立てて揺れていた。

 舷側が開き、縄梯子が垂らされると、痩せ衰えた男たちが一人また一人と、重たい足取りで下りてくる。
 顔はこけ、眼は虚ろで、衣服はぼろぼろだった。
 おびただしい数のはずなのに、異様なほどの静けさがあった。
「……あれは……何者じゃ」
 忠三郎がそばに控える町野長門守に問うと、長門守は口を開きかけ、答えあぐねてうつむいた。
 代わりに加賀山隼人が、小声で耳打ちする。
「――高麗より連れてこられた者どもと……聞き及びました。下人として、使役すると……」
「詳しく調べて参れ。あの者たちは、どこで、どのように……」
 隼人は深く頷き、波打ち際を走って人々の方へ向かった。
 しばらくして戻ってきた隼人は、言いにくそうに言葉を選びながら語った。
「…道中にて、女子は皆、辱めを恐れ、海へ身を投げたと……。船には、女子も童もおりませぬ」
「童もおらぬと?」
「おりませぬ。…最初から、童は船にはおらなんだと」
 浜辺には、骨と皮ばかりになった男たちだけが立ち尽くしていた。
「……これが戦の果てか……」
 思わず洩らしたひとりごとは、誰の耳にも届いていた。
 しばしの沈黙ののち、忠三郎は低く言った。
「……本来ならば、かの者らを、その故国に帰してやりたきところ……されど、わしは船を持たず、それも叶わぬ」
 湊を見渡す。兵船は次々と朝鮮へと向かい、戦は拡がるばかり。
 この者たちを今、海へ返せば――再び戦火に巻き込まれるか、あるいは道中で命を落とすかもしれない。
「ならば、せめて……会津にて、その暮らしを守りたきものよ」
 忠三郎は、膝を抱えて座り込むひとりの男に目をとめた。
 その手には、割れた瓦のかけらが握られていた。
 何かを訴えるように身振りを繰り返していた。
「……瓦工か」
 隼人がうなずく。
「高麗の焼き物職人ではありますまいか」
 忠三郎の瞳に、微かな光が差した。。
「都で見た高麗の陶器。あの美しさと精緻、わが国の手工とはまた異なる深い趣があった」
 そして、ひと息置いて、言った。
「――あの者どもに、瓦を焼かせたい。会津の城のために」
「御城の、瓦を……高麗の者に、でございますか?」
 忠三郎は静かにうなずいた。
「この乱世、いずれ終わる。されど、その先に何を残すかが肝要。力にて奪いしものばかりでなく、異国より学び得たものを、この日ノ本に根づかせることができるのか――それこそが、千歳の世に問われることと心得ておる」

 加賀山隼人が神妙な面持ちでうつむいた。
「隼人、なにやらもの言いたげじゃ」
「は…高麗より『武功の証』が届いておるとかで…」
「…首か?」
「いえ」
 船が積んできたのは鼻や耳。
 樽に積まれた塩漬けの肉塊が、赤黒く沈み、底にはどろりと血塩が溜まっていた。
 船底にまで滲み出たその斑を見たとき、忠三郎の腹を何かが激しく叩いた。
「首は重く、船が沈むゆえ……太閤様の命にて、鼻や耳を削いで証といたしたと……」
 隼人の声は震えていた。
 幾千という鼻、幾万という耳――誰のものか、もはや分からぬ。
 兵か、百姓か、女か、子か――見分けすらつかぬと。
「根切りしておると?」
「いえ。見分けがつかぬと申します。敵兵も百姓も一所に逃げ、弓も持てば兵に見えると……」
 先年の奥州再仕置きの折の光景がよみがえる。焼け落ちた村、泣き叫ぶ母子、焦土と化した田畑――そして、血にまみれた兵の顔。そして、それがまだ見ぬ地、朝鮮の地と重なっていく。
 凍てつく野に、ひとりの老母がしゃがみこみ、裂けた指先で、赤子の亡骸に土をかけている。
 その横には、片方の耳を削がれた少年の躯。眼窩は空洞となり、頬は削げていた。傍らには、顔に火傷を負った娘が、声もなく膝を抱えている。
兵の足跡が残る地には、稲が植えられることもない。焼けた屋敷、斬られた牛馬、盗まれた鍋。夥しい躯は一ヶ所に集められ、耳と鼻だけが切り取られる。

 忠三郎の腹を、何かが再び激しく叩いた。
 次の瞬間、景色がぐらりと歪む。
「殿!」
 加賀山隼人の声が遠ざかる。
 激しい痛みで呼吸ができない。足元が崩れ、目の前が真っ白になった。
 地に手をつこうとするが、手は空を掴み、重力のない空間を滑った。
 内臓が逆流するような感覚。こめかみが熱く脈打ち、喉が干からびていく。
(これは一体…)
 そこにあったのは、腐敗の臭いでも、血の臭いでもない。
 人が人であることを捨てたときの臭い――その本質が、塩と肉と血の混ざった塊の奥に潜んでいた。
 忠三郎はそのまま、その場に倒れ込んだ。

 意識の奥底で、何かがざわめいた。
 熱にうなされ、現《うつつ》と夢の境目を彷徨う中で、忠三郎は、遠い日の光景に包まれていた。
――まだ元服したばかりのころ
 長島城の広間には、障子越しの夕陽が静かに差し込み、畳の上にやわらかな朱を落としていた。外では、風が植え込みの笹を揺らし、つくばいの音がかすかに響いていた。城の奥深く、時は静かに流れ、空気は凪いだ水面のように、静かだった。
 あのころの忠三郎は、世の理に疑いを抱くことを知らなかった。
 武士とは、ただ忠を尽くし、誉れを得ればよい。戦に勝てば名を挙げ、家が栄える。そう信じていた。天は、誠を貫けば、必ず一筋の道を示してくれるものだと――。
 その傍らにいたのが、滝川一益だった。
 父よりも年長で、織田家中でも一目置かれる名将。
 ひとたび眼光が鋭くなれば、人々はみな言葉を呑み、広間はぴたりと静まりかえった。
 声には鋼のような硬さがあり、眉をわずかに上げるだけで、空気が凍りつくようだった。
 だが、その人が時折、忠三郎に視線を落とすときがあった。
 何かを量るように。あるいは、幼い忠三郎の心の奥を確かめるように。
 そのまなざしには、威圧ではなく、どこか静かなやさしさが宿っていた。
 それは忠三郎の心に、いまなお淡い温もりとなって残っている。
『鶴。名将とはいかなる者のことを指すか、わかるか』
 低く穏やかな声だった。
 障子の向こうが朱く染まり、そのひかりを映すような声音だった。
 少年の忠三郎は、すこし首をかしげながらも、まっすぐに答えた。
『それはやはり、戦略、戦術に優れ、兵の士気を高め、進んで死地に向かわせることのできる将かと…』
 一益はすぐには応えなかった。
 ただ静かに茶をすすり、朱く染まる庭先へと視線を移した。
『……それも、一理はある』
 しばし沈黙が流れたあと、一益はふと視線を戻し、低い声で言った。
『されど――』
 一息おいてから、静かに続ける。
『真に名将と呼ばれるべきは、戦そのものではなく、戦に勝つ道を知る者。そして、戦の終わらせ方を知る者のことを言う』
 忠三郎は、その意味をうまく捉えきれず、息を潜めて聞いていた。
『戦に勝ったあとが、まことの務め。国が焼かれ、民が飢えたままでは、勝利とは呼べぬ。荒れた地をどう立て直し、民の暮らしをいかに守るか……そこまでを見通して戦略を練ることができねば、名将とは言えぬ』
 そして、一益は静かに言葉を重ねた。
『ゆえに、犠牲は最小限に抑えねばならぬ。理にかなわぬ戦、大義なき戦に手を染めれば、たとえ敵を打ち負かそうとも、その先はない。戦に勝ったときにこそ、おごらず、志を失わず、傷ついた国を立て直す…それがいちばん難しい』
 そのときには、ただ頷くことしかできなかった。
 だが今、この病いの中で――無数の命を送り出し、夥《おびただ》しい屍を踏み越えたその果てに、己ひとりが生き残ったこの瞬間に、その言葉が胸の奥を一筋ずつ切り裂いていく。
(あのとき、義兄上が言いたかったことは…)
 兵は国の大事なのだと、何度も聞かされてきた。勝てる相手だからといって、軽はずみに兵をあげるのは人の命をもてあそぶことに他ならない。決して、してはならないのことなのだと。
 忠三郎の脳裏に浮かんだのは、戦場に散った兵たちの顔。
 焦げた土、血にまみれた具足。
 その背に、誇りはあったか。
 自分は、名将と呼ばれる器に、ほんのわずかでも近づけているのか――。
 何故、秀吉を止められないのだろう。
(家を…民を守るため…)
 軽々しく口を開けば、秀吉の機嫌を損ねる。国替えを拒んだ信長の次男・信雄は領地をすべて没収された。
 小田原の戦ののち、北条氏を取りなした信長の弟・信包も、同じく領地を召し上げられた。
 織田の血筋でさえ、そうなのだ。徳川家康も、前田利家も、ただ黙して従っている。
(されど…)
 その従順さが、民を海の向こうの戦場へと駆り立てる。死地に送ることと、紙一重だ。
(これが民を守っていると言えるのか)
 自問自答する中 熱に焼かれたまぶたの奥に、あのとき一益が向けてくれたまなざしが浮かび上がった。
 それは、ただ厳しさに満ちた名将の目ではなかった。
 ひとりの若者を見つめ、背を押すことをためらいながらも、それでも静かに信じようとしてくれていた――。
 あたたかく、ひかりを宿した眼差しだった。

 そのやわらかさに触れたとき、忠三郎の目元を、一すじのしずくが静かに伝った。
 それが涙だったのか、あるいは汗だったのか――
 忠三郎自身にも、わからなかった。
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