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34.大明征伐
34-4. 耳塚と金屏風
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戦の風が日ごとに強まってゆくのを肌で感じるようになった。
高麗――すなわち朝鮮に渡った先鋒部隊は、釜山を占領してからというもの、負け知らずの快進撃を続けているという。加藤清正、小西行長らが競うようにして城を攻め落とし、進軍を止めぬ様子は、何かにせきたてられているようだった。
秀吉は上機嫌だった。
「所詮、唐なんぞは長袖者の国。我が日ノ本は弓箭《きゅうせん》きびしき国じゃ。高麗を平らげたあかつきには、帝を洛陽へ遷す。いや、いや、それでは狭すぎるのう。大明を討ち従え、帝は北京にお渡りいただくとしようぞ」
豪胆な笑いが大広間に響き渡るが、諸将の顔に浮かぶ笑みは、内心の困惑を押し隠す仮面にすぎなかった。
忠三郎の胸には、晴れぬ霧のような不安が巣食っていた。
(そうそう事がうまく運ぶとは思えぬ)
戦が始まって以来、その不安は日増しに強くなっていた。そして、それを裏づけるような報せが、ある夜、もたらされた
加賀山隼人が、無言のまま居間に姿を現した。表情にただならぬものがあった。
「殿、御耳に入れておきたき儀がござります」
「何事じゃ」
「このたびの快進撃――その力は申すまでもなく、日ノ本の鉄砲の力。しかし……近頃、敵が鉄砲を使い始めておるとの報が入っております」
「何? それはまことか。朝鮮に鉄砲はなかったはず――それを何処から知った?」
「小西様の家臣で、手傷を負って戻ってきた者の証言にございます。その者が申すには――どうやら、加藤様の家臣の一人が、敵に寝返ったと」
「敵に寝返った?」
「はい。『この戦には大義がない』と叫び、三千人の兵を引き連れて敵に走ったと申します。その者、鉄砲の扱いに長けており、敵に製造の術を教えたとか」
忠三郎は言葉を失った。これは、ただの反乱ではない。戦の力の均衡が崩れつつあるということだ。
「それゆえに、敵は鉄砲を手にし、野に潜み、夜陰にまぎれて鉄砲を放ち、お味方の兵を次々と撃ち倒しておるとか。地の利も、言葉も持たぬ我らは、もはや獲物にすぎぬと…」
耳を疑いたくなる話だった。だが、その報せには真実の重みがある。現地の兵しか知りえぬ現実。秀吉が語る明るい未来とは、まるで別の世界だった。
(まことの知らせが太閤の耳には届いておらぬのではないか)
肥前の宗氏が「高麗は属国」と笑っていたのも思い出される。海の向こうから届く報せは、武功に浮かれた将たちの耳に心地よいことばかり。だがその裏では、じわりじわりと、確実に戦の底が抜けつつある。
腐敗は、音もなく進行する。
忠三郎は、言いようのない焦燥に駆られた
止められぬまま進む戦。
大河が堤を越えてなお流れ続けるように、秀吉の軍勢は朝鮮の地をひた走っていた。
忠三郎が日々耳にするのは、小西行長の北上、加藤清正の快進撃――勝ちに勝ちを重ねる報せばかり。そしてついに五月、首都である漢城を落としたとの知らせが届いた。
金箔を貼った屏風に、日の光がぎらりと反射した。名護屋城の大広間。屏風を背にした太閤秀吉は、飴色の袴を叩いて笑っていた。笑い声は障子の奥まで震わせ、左右に控える小姓たちは一斉に顔を伏せた。
「ようやった、ようやったぞ、さすがはこの殿下の家臣どもじゃ!」
秀吉の声が、朗々と、能舞台の謡のように響き渡る。
名護屋城では、連日、合戦勝利の宴が開かれ、太閤秀吉は機嫌も上々であった。その血腥い記録を「太閤記」の書記官たちが筆を走らせ、今日もまたひとつ、城の屏風絵に新たな栄誉が加えられる。
秀吉の頬は紅潮し、短くなった髷の下で汗が玉となって滴る。
「唐入りこそ我が生涯の花道よ。余は信長を継ぎ、帝をも超えん!」
扇をひと振りし、秀吉は立ち上がる。舞い上がる裾にあしらわれた金糸の菊紋が、燦然と光を放つ。
けれど、何をもって「勝ち」とするのか。忠三郎には、いまだ答えが見えぬままでだった。
ある日の夕暮れ時。湊に朝鮮から大船が着くとの知らせを受け、忠三郎は家臣たちを連れて湊へ向かった。
潮風は濃く重く、どこか生臭さがあった。
大船の舳先がゆっくりと岸へ寄せられ、水面が低く、鈍い音を立てて揺れていた。
舷側が開き、縄梯子が垂らされると、痩せ衰えた男たちが一人また一人と、重たい足取りで下りてくる。
顔はこけ、眼は虚ろで、衣服はぼろぼろだった。
おびただしい数のはずなのに、異様なほどの静けさがあった。
「……あれは……何者じゃ」
忠三郎がそばに控える町野長門守に問うと、長門守は口を開きかけ、答えあぐねてうつむいた。
代わりに加賀山隼人が、小声で耳打ちする。
「――高麗より連れてこられた者どもと……聞き及びました。下人として、使役すると……」
「詳しく調べて参れ。あの者たちは、どこで、どのように……」
隼人は深く頷き、波打ち際を走って人々の方へ向かった。
しばらくして戻ってきた隼人は、言いにくそうに言葉を選びながら語った。
「…道中にて、女子は皆、辱めを恐れ、海へ身を投げたと……。船には、女子も童もおりませぬ」
「童もおらぬと?」
「おりませぬ。…最初から、童は船にはおらなんだと」
浜辺には、骨と皮ばかりになった男たちだけが立ち尽くしていた。
「……これが戦の果てか……」
思わず洩らしたひとりごとは、誰の耳にも届いていた。
しばしの沈黙ののち、忠三郎は低く言った。
「……本来ならば、かの者らを、その故国に帰してやりたきところ……されど、わしは船を持たず、それも叶わぬ」
湊を見渡す。兵船は次々と朝鮮へと向かい、戦は拡がるばかり。
この者たちを今、海へ返せば――再び戦火に巻き込まれるか、あるいは道中で命を落とすかもしれない。
「ならば、せめて……会津にて、その暮らしを守りたきものよ」
忠三郎は、膝を抱えて座り込むひとりの男に目をとめた。
その手には、割れた瓦のかけらが握られていた。
何かを訴えるように身振りを繰り返していた。
「……瓦工か」
隼人がうなずく。
「高麗の焼き物職人ではありますまいか」
忠三郎の瞳に、微かな光が差した。。
「都で見た高麗の陶器。あの美しさと精緻、わが国の手工とはまた異なる深い趣があった」
そして、ひと息置いて、言った。
「――あの者どもに、瓦を焼かせたい。会津の城のために」
「御城の、瓦を……高麗の者に、でございますか?」
忠三郎は静かにうなずいた。
「この乱世、いずれ終わる。されど、その先に何を残すかが肝要。力にて奪いしものばかりでなく、異国より学び得たものを、この日ノ本に根づかせることができるのか――それこそが、千歳の世に問われることと心得ておる」
加賀山隼人が神妙な面持ちでうつむいた。
「隼人、なにやらもの言いたげじゃ」
「は…高麗より『武功の証』が届いておるとかで…」
「…首か?」
「いえ」
船が積んできたのは鼻や耳。
樽に積まれた塩漬けの肉塊が、赤黒く沈み、底にはどろりと血塩が溜まっていた。
船底にまで滲み出たその斑を見たとき、忠三郎の腹を何かが激しく叩いた。
「首は重く、船が沈むゆえ……太閤様の命にて、鼻や耳を削いで証といたしたと……」
隼人の声は震えていた。
幾千という鼻、幾万という耳――誰のものか、もはや分からぬ。
兵か、百姓か、女か、子か――見分けすらつかぬと。
「根切りしておると?」
「いえ。見分けがつかぬと申します。敵兵も百姓も一所に逃げ、弓も持てば兵に見えると……」
先年の奥州再仕置きの折の光景がよみがえる。焼け落ちた村、泣き叫ぶ母子、焦土と化した田畑――そして、血にまみれた兵の顔。そして、それがまだ見ぬ地、朝鮮の地と重なっていく。
凍てつく野に、ひとりの老母がしゃがみこみ、裂けた指先で、赤子の亡骸に土をかけている。
その横には、片方の耳を削がれた少年の躯。眼窩は空洞となり、頬は削げていた。傍らには、顔に火傷を負った娘が、声もなく膝を抱えている。
兵の足跡が残る地には、稲が植えられることもない。焼けた屋敷、斬られた牛馬、盗まれた鍋。夥しい躯は一ヶ所に集められ、耳と鼻だけが切り取られる。
忠三郎の腹を、何かが再び激しく叩いた。
次の瞬間、景色がぐらりと歪む。
「殿!」
加賀山隼人の声が遠ざかる。
激しい痛みで呼吸ができない。足元が崩れ、目の前が真っ白になった。
地に手をつこうとするが、手は空を掴み、重力のない空間を滑った。
内臓が逆流するような感覚。こめかみが熱く脈打ち、喉が干からびていく。
(これは一体…)
そこにあったのは、腐敗の臭いでも、血の臭いでもない。
人が人であることを捨てたときの臭い――その本質が、塩と肉と血の混ざった塊の奥に潜んでいた。
忠三郎はそのまま、その場に倒れ込んだ。
意識の奥底で、何かがざわめいた。
熱にうなされ、現《うつつ》と夢の境目を彷徨う中で、忠三郎は、遠い日の光景に包まれていた。
――まだ元服したばかりのころ
長島城の広間には、障子越しの夕陽が静かに差し込み、畳の上にやわらかな朱を落としていた。外では、風が植え込みの笹を揺らし、つくばいの音がかすかに響いていた。城の奥深く、時は静かに流れ、空気は凪いだ水面のように、静かだった。
あのころの忠三郎は、世の理に疑いを抱くことを知らなかった。
武士とは、ただ忠を尽くし、誉れを得ればよい。戦に勝てば名を挙げ、家が栄える。そう信じていた。天は、誠を貫けば、必ず一筋の道を示してくれるものだと――。
その傍らにいたのが、滝川一益だった。
父よりも年長で、織田家中でも一目置かれる名将。
ひとたび眼光が鋭くなれば、人々はみな言葉を呑み、広間はぴたりと静まりかえった。
声には鋼のような硬さがあり、眉をわずかに上げるだけで、空気が凍りつくようだった。
だが、その人が時折、忠三郎に視線を落とすときがあった。
何かを量るように。あるいは、幼い忠三郎の心の奥を確かめるように。
そのまなざしには、威圧ではなく、どこか静かなやさしさが宿っていた。
それは忠三郎の心に、いまなお淡い温もりとなって残っている。
『鶴。名将とはいかなる者のことを指すか、わかるか』
低く穏やかな声だった。
障子の向こうが朱く染まり、そのひかりを映すような声音だった。
少年の忠三郎は、すこし首をかしげながらも、まっすぐに答えた。
『それはやはり、戦略、戦術に優れ、兵の士気を高め、進んで死地に向かわせることのできる将かと…』
一益はすぐには応えなかった。
ただ静かに茶をすすり、朱く染まる庭先へと視線を移した。
『……それも、一理はある』
しばし沈黙が流れたあと、一益はふと視線を戻し、低い声で言った。
『されど――』
一息おいてから、静かに続ける。
『真に名将と呼ばれるべきは、戦そのものではなく、戦に勝つ道を知る者。そして、戦の終わらせ方を知る者のことを言う』
忠三郎は、その意味をうまく捉えきれず、息を潜めて聞いていた。
『戦に勝ったあとが、まことの務め。国が焼かれ、民が飢えたままでは、勝利とは呼べぬ。荒れた地をどう立て直し、民の暮らしをいかに守るか……そこまでを見通して戦略を練ることができねば、名将とは言えぬ』
そして、一益は静かに言葉を重ねた。
『ゆえに、犠牲は最小限に抑えねばならぬ。理にかなわぬ戦、大義なき戦に手を染めれば、たとえ敵を打ち負かそうとも、その先はない。戦に勝ったときにこそ、おごらず、志を失わず、傷ついた国を立て直す…それがいちばん難しい』
そのときには、ただ頷くことしかできなかった。
だが今、この病いの中で――無数の命を送り出し、夥《おびただ》しい屍を踏み越えたその果てに、己ひとりが生き残ったこの瞬間に、その言葉が胸の奥を一筋ずつ切り裂いていく。
(あのとき、義兄上が言いたかったことは…)
兵は国の大事なのだと、何度も聞かされてきた。勝てる相手だからといって、軽はずみに兵をあげるのは人の命をもてあそぶことに他ならない。決して、してはならないのことなのだと。
忠三郎の脳裏に浮かんだのは、戦場に散った兵たちの顔。
焦げた土、血にまみれた具足。
その背に、誇りはあったか。
自分は、名将と呼ばれる器に、ほんのわずかでも近づけているのか――。
何故、秀吉を止められないのだろう。
(家を…民を守るため…)
軽々しく口を開けば、秀吉の機嫌を損ねる。国替えを拒んだ信長の次男・信雄は領地をすべて没収された。
小田原の戦ののち、北条氏を取りなした信長の弟・信包も、同じく領地を召し上げられた。
織田の血筋でさえ、そうなのだ。徳川家康も、前田利家も、ただ黙して従っている。
(されど…)
その従順さが、民を海の向こうの戦場へと駆り立てる。死地に送ることと、紙一重だ。
(これが民を守っていると言えるのか)
自問自答する中 熱に焼かれたまぶたの奥に、あのとき一益が向けてくれたまなざしが浮かび上がった。
それは、ただ厳しさに満ちた名将の目ではなかった。
ひとりの若者を見つめ、背を押すことをためらいながらも、それでも静かに信じようとしてくれていた――。
あたたかく、ひかりを宿した眼差しだった。
そのやわらかさに触れたとき、忠三郎の目元を、一すじのしずくが静かに伝った。
それが涙だったのか、あるいは汗だったのか――
忠三郎自身にも、わからなかった。
高麗――すなわち朝鮮に渡った先鋒部隊は、釜山を占領してからというもの、負け知らずの快進撃を続けているという。加藤清正、小西行長らが競うようにして城を攻め落とし、進軍を止めぬ様子は、何かにせきたてられているようだった。
秀吉は上機嫌だった。
「所詮、唐なんぞは長袖者の国。我が日ノ本は弓箭《きゅうせん》きびしき国じゃ。高麗を平らげたあかつきには、帝を洛陽へ遷す。いや、いや、それでは狭すぎるのう。大明を討ち従え、帝は北京にお渡りいただくとしようぞ」
豪胆な笑いが大広間に響き渡るが、諸将の顔に浮かぶ笑みは、内心の困惑を押し隠す仮面にすぎなかった。
忠三郎の胸には、晴れぬ霧のような不安が巣食っていた。
(そうそう事がうまく運ぶとは思えぬ)
戦が始まって以来、その不安は日増しに強くなっていた。そして、それを裏づけるような報せが、ある夜、もたらされた
加賀山隼人が、無言のまま居間に姿を現した。表情にただならぬものがあった。
「殿、御耳に入れておきたき儀がござります」
「何事じゃ」
「このたびの快進撃――その力は申すまでもなく、日ノ本の鉄砲の力。しかし……近頃、敵が鉄砲を使い始めておるとの報が入っております」
「何? それはまことか。朝鮮に鉄砲はなかったはず――それを何処から知った?」
「小西様の家臣で、手傷を負って戻ってきた者の証言にございます。その者が申すには――どうやら、加藤様の家臣の一人が、敵に寝返ったと」
「敵に寝返った?」
「はい。『この戦には大義がない』と叫び、三千人の兵を引き連れて敵に走ったと申します。その者、鉄砲の扱いに長けており、敵に製造の術を教えたとか」
忠三郎は言葉を失った。これは、ただの反乱ではない。戦の力の均衡が崩れつつあるということだ。
「それゆえに、敵は鉄砲を手にし、野に潜み、夜陰にまぎれて鉄砲を放ち、お味方の兵を次々と撃ち倒しておるとか。地の利も、言葉も持たぬ我らは、もはや獲物にすぎぬと…」
耳を疑いたくなる話だった。だが、その報せには真実の重みがある。現地の兵しか知りえぬ現実。秀吉が語る明るい未来とは、まるで別の世界だった。
(まことの知らせが太閤の耳には届いておらぬのではないか)
肥前の宗氏が「高麗は属国」と笑っていたのも思い出される。海の向こうから届く報せは、武功に浮かれた将たちの耳に心地よいことばかり。だがその裏では、じわりじわりと、確実に戦の底が抜けつつある。
腐敗は、音もなく進行する。
忠三郎は、言いようのない焦燥に駆られた
止められぬまま進む戦。
大河が堤を越えてなお流れ続けるように、秀吉の軍勢は朝鮮の地をひた走っていた。
忠三郎が日々耳にするのは、小西行長の北上、加藤清正の快進撃――勝ちに勝ちを重ねる報せばかり。そしてついに五月、首都である漢城を落としたとの知らせが届いた。
金箔を貼った屏風に、日の光がぎらりと反射した。名護屋城の大広間。屏風を背にした太閤秀吉は、飴色の袴を叩いて笑っていた。笑い声は障子の奥まで震わせ、左右に控える小姓たちは一斉に顔を伏せた。
「ようやった、ようやったぞ、さすがはこの殿下の家臣どもじゃ!」
秀吉の声が、朗々と、能舞台の謡のように響き渡る。
名護屋城では、連日、合戦勝利の宴が開かれ、太閤秀吉は機嫌も上々であった。その血腥い記録を「太閤記」の書記官たちが筆を走らせ、今日もまたひとつ、城の屏風絵に新たな栄誉が加えられる。
秀吉の頬は紅潮し、短くなった髷の下で汗が玉となって滴る。
「唐入りこそ我が生涯の花道よ。余は信長を継ぎ、帝をも超えん!」
扇をひと振りし、秀吉は立ち上がる。舞い上がる裾にあしらわれた金糸の菊紋が、燦然と光を放つ。
けれど、何をもって「勝ち」とするのか。忠三郎には、いまだ答えが見えぬままでだった。
ある日の夕暮れ時。湊に朝鮮から大船が着くとの知らせを受け、忠三郎は家臣たちを連れて湊へ向かった。
潮風は濃く重く、どこか生臭さがあった。
大船の舳先がゆっくりと岸へ寄せられ、水面が低く、鈍い音を立てて揺れていた。
舷側が開き、縄梯子が垂らされると、痩せ衰えた男たちが一人また一人と、重たい足取りで下りてくる。
顔はこけ、眼は虚ろで、衣服はぼろぼろだった。
おびただしい数のはずなのに、異様なほどの静けさがあった。
「……あれは……何者じゃ」
忠三郎がそばに控える町野長門守に問うと、長門守は口を開きかけ、答えあぐねてうつむいた。
代わりに加賀山隼人が、小声で耳打ちする。
「――高麗より連れてこられた者どもと……聞き及びました。下人として、使役すると……」
「詳しく調べて参れ。あの者たちは、どこで、どのように……」
隼人は深く頷き、波打ち際を走って人々の方へ向かった。
しばらくして戻ってきた隼人は、言いにくそうに言葉を選びながら語った。
「…道中にて、女子は皆、辱めを恐れ、海へ身を投げたと……。船には、女子も童もおりませぬ」
「童もおらぬと?」
「おりませぬ。…最初から、童は船にはおらなんだと」
浜辺には、骨と皮ばかりになった男たちだけが立ち尽くしていた。
「……これが戦の果てか……」
思わず洩らしたひとりごとは、誰の耳にも届いていた。
しばしの沈黙ののち、忠三郎は低く言った。
「……本来ならば、かの者らを、その故国に帰してやりたきところ……されど、わしは船を持たず、それも叶わぬ」
湊を見渡す。兵船は次々と朝鮮へと向かい、戦は拡がるばかり。
この者たちを今、海へ返せば――再び戦火に巻き込まれるか、あるいは道中で命を落とすかもしれない。
「ならば、せめて……会津にて、その暮らしを守りたきものよ」
忠三郎は、膝を抱えて座り込むひとりの男に目をとめた。
その手には、割れた瓦のかけらが握られていた。
何かを訴えるように身振りを繰り返していた。
「……瓦工か」
隼人がうなずく。
「高麗の焼き物職人ではありますまいか」
忠三郎の瞳に、微かな光が差した。。
「都で見た高麗の陶器。あの美しさと精緻、わが国の手工とはまた異なる深い趣があった」
そして、ひと息置いて、言った。
「――あの者どもに、瓦を焼かせたい。会津の城のために」
「御城の、瓦を……高麗の者に、でございますか?」
忠三郎は静かにうなずいた。
「この乱世、いずれ終わる。されど、その先に何を残すかが肝要。力にて奪いしものばかりでなく、異国より学び得たものを、この日ノ本に根づかせることができるのか――それこそが、千歳の世に問われることと心得ておる」
加賀山隼人が神妙な面持ちでうつむいた。
「隼人、なにやらもの言いたげじゃ」
「は…高麗より『武功の証』が届いておるとかで…」
「…首か?」
「いえ」
船が積んできたのは鼻や耳。
樽に積まれた塩漬けの肉塊が、赤黒く沈み、底にはどろりと血塩が溜まっていた。
船底にまで滲み出たその斑を見たとき、忠三郎の腹を何かが激しく叩いた。
「首は重く、船が沈むゆえ……太閤様の命にて、鼻や耳を削いで証といたしたと……」
隼人の声は震えていた。
幾千という鼻、幾万という耳――誰のものか、もはや分からぬ。
兵か、百姓か、女か、子か――見分けすらつかぬと。
「根切りしておると?」
「いえ。見分けがつかぬと申します。敵兵も百姓も一所に逃げ、弓も持てば兵に見えると……」
先年の奥州再仕置きの折の光景がよみがえる。焼け落ちた村、泣き叫ぶ母子、焦土と化した田畑――そして、血にまみれた兵の顔。そして、それがまだ見ぬ地、朝鮮の地と重なっていく。
凍てつく野に、ひとりの老母がしゃがみこみ、裂けた指先で、赤子の亡骸に土をかけている。
その横には、片方の耳を削がれた少年の躯。眼窩は空洞となり、頬は削げていた。傍らには、顔に火傷を負った娘が、声もなく膝を抱えている。
兵の足跡が残る地には、稲が植えられることもない。焼けた屋敷、斬られた牛馬、盗まれた鍋。夥しい躯は一ヶ所に集められ、耳と鼻だけが切り取られる。
忠三郎の腹を、何かが再び激しく叩いた。
次の瞬間、景色がぐらりと歪む。
「殿!」
加賀山隼人の声が遠ざかる。
激しい痛みで呼吸ができない。足元が崩れ、目の前が真っ白になった。
地に手をつこうとするが、手は空を掴み、重力のない空間を滑った。
内臓が逆流するような感覚。こめかみが熱く脈打ち、喉が干からびていく。
(これは一体…)
そこにあったのは、腐敗の臭いでも、血の臭いでもない。
人が人であることを捨てたときの臭い――その本質が、塩と肉と血の混ざった塊の奥に潜んでいた。
忠三郎はそのまま、その場に倒れ込んだ。
意識の奥底で、何かがざわめいた。
熱にうなされ、現《うつつ》と夢の境目を彷徨う中で、忠三郎は、遠い日の光景に包まれていた。
――まだ元服したばかりのころ
長島城の広間には、障子越しの夕陽が静かに差し込み、畳の上にやわらかな朱を落としていた。外では、風が植え込みの笹を揺らし、つくばいの音がかすかに響いていた。城の奥深く、時は静かに流れ、空気は凪いだ水面のように、静かだった。
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武士とは、ただ忠を尽くし、誉れを得ればよい。戦に勝てば名を挙げ、家が栄える。そう信じていた。天は、誠を貫けば、必ず一筋の道を示してくれるものだと――。
その傍らにいたのが、滝川一益だった。
父よりも年長で、織田家中でも一目置かれる名将。
ひとたび眼光が鋭くなれば、人々はみな言葉を呑み、広間はぴたりと静まりかえった。
声には鋼のような硬さがあり、眉をわずかに上げるだけで、空気が凍りつくようだった。
だが、その人が時折、忠三郎に視線を落とすときがあった。
何かを量るように。あるいは、幼い忠三郎の心の奥を確かめるように。
そのまなざしには、威圧ではなく、どこか静かなやさしさが宿っていた。
それは忠三郎の心に、いまなお淡い温もりとなって残っている。
『鶴。名将とはいかなる者のことを指すか、わかるか』
低く穏やかな声だった。
障子の向こうが朱く染まり、そのひかりを映すような声音だった。
少年の忠三郎は、すこし首をかしげながらも、まっすぐに答えた。
『それはやはり、戦略、戦術に優れ、兵の士気を高め、進んで死地に向かわせることのできる将かと…』
一益はすぐには応えなかった。
ただ静かに茶をすすり、朱く染まる庭先へと視線を移した。
『……それも、一理はある』
しばし沈黙が流れたあと、一益はふと視線を戻し、低い声で言った。
『されど――』
一息おいてから、静かに続ける。
『真に名将と呼ばれるべきは、戦そのものではなく、戦に勝つ道を知る者。そして、戦の終わらせ方を知る者のことを言う』
忠三郎は、その意味をうまく捉えきれず、息を潜めて聞いていた。
『戦に勝ったあとが、まことの務め。国が焼かれ、民が飢えたままでは、勝利とは呼べぬ。荒れた地をどう立て直し、民の暮らしをいかに守るか……そこまでを見通して戦略を練ることができねば、名将とは言えぬ』
そして、一益は静かに言葉を重ねた。
『ゆえに、犠牲は最小限に抑えねばならぬ。理にかなわぬ戦、大義なき戦に手を染めれば、たとえ敵を打ち負かそうとも、その先はない。戦に勝ったときにこそ、おごらず、志を失わず、傷ついた国を立て直す…それがいちばん難しい』
そのときには、ただ頷くことしかできなかった。
だが今、この病いの中で――無数の命を送り出し、夥《おびただ》しい屍を踏み越えたその果てに、己ひとりが生き残ったこの瞬間に、その言葉が胸の奥を一筋ずつ切り裂いていく。
(あのとき、義兄上が言いたかったことは…)
兵は国の大事なのだと、何度も聞かされてきた。勝てる相手だからといって、軽はずみに兵をあげるのは人の命をもてあそぶことに他ならない。決して、してはならないのことなのだと。
忠三郎の脳裏に浮かんだのは、戦場に散った兵たちの顔。
焦げた土、血にまみれた具足。
その背に、誇りはあったか。
自分は、名将と呼ばれる器に、ほんのわずかでも近づけているのか――。
何故、秀吉を止められないのだろう。
(家を…民を守るため…)
軽々しく口を開けば、秀吉の機嫌を損ねる。国替えを拒んだ信長の次男・信雄は領地をすべて没収された。
小田原の戦ののち、北条氏を取りなした信長の弟・信包も、同じく領地を召し上げられた。
織田の血筋でさえ、そうなのだ。徳川家康も、前田利家も、ただ黙して従っている。
(されど…)
その従順さが、民を海の向こうの戦場へと駆り立てる。死地に送ることと、紙一重だ。
(これが民を守っていると言えるのか)
自問自答する中 熱に焼かれたまぶたの奥に、あのとき一益が向けてくれたまなざしが浮かび上がった。
それは、ただ厳しさに満ちた名将の目ではなかった。
ひとりの若者を見つめ、背を押すことをためらいながらも、それでも静かに信じようとしてくれていた――。
あたたかく、ひかりを宿した眼差しだった。
そのやわらかさに触れたとき、忠三郎の目元を、一すじのしずくが静かに伝った。
それが涙だったのか、あるいは汗だったのか――
忠三郎自身にも、わからなかった。
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義父“立花道雪”、父“高橋紹運”の凄まじい合戦と最期を目の当たりにし、男としての仁義を貫いた”立花宗茂“と“誾千代姫”との哀しい別れの物語です。
下剋上の戦国時代、九州では“大友・龍造寺・島津”三つ巴の戦いが続いている。
大友家を支えるのが、足が不自由にもかかわらず、輿に乗って戦い、37戦常勝無敗を誇った“九州一の勇将”立花道雪と高橋紹運である。立花道雪は1人娘の誾千代姫に家督を譲るが、勢力争いで凋落する大友宗麟を支える為に高橋紹運の跡継ぎ統虎(立花宗茂)を婿に迎えた。
女城主として育てられた誾千代姫と統虎は激しく反目しあうが、父立花道雪の死で2人は強く結ばれた。
だが、立花道雪の死を好機と捉えた島津家は、九州制覇を目指して出陣する。大友宗麟は豊臣秀吉に出陣を願ったが、島津軍は5万の大軍で筑前へ向かった。
その島津軍5万に挑んだのが、高橋紹運率いる岩屋城736名である。岩屋城に籠る高橋軍は14日間も島津軍を翻弄し、最期は全員が壮絶な討ち死にを遂げた。命を賭けた時間稼ぎにより、秀吉軍は筑前に到着し、立花宗茂と立花城を救った。
島津軍は撤退したが、立花宗茂は5万の島津軍を追撃し、筑前国領主としての意地を果たした。豊臣秀吉は立花宗茂の武勇を讃え、“九州之一物”と呼び、多くの大名の前で激賞した。その後、豊臣秀吉は九州征伐・天下統一へと突き進んでいく。
その後の朝鮮征伐、関ヶ原の合戦で“立花宗茂”は己の仁義と意地の為に戦うこととなる。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
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