獅子の末裔

卯花月影

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34.大明征伐

34-6. 命、凍れる川のほとり

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 クリスマスの夜から、そう遠くないある寒い朝だった。
 それは、もはや湊の噂話でも、酒席の戯れ言でもなかった。
 朝鮮の地より命からがら戻った兵の口から、息を切らせるようにしてもたらされた、確かな知らせだった。
 ――この夏、誰もが「来るはずもない」とたかを括っていた明の援軍が現れたという。
 そして、小西行長の部隊と、平壌で激突した。激戦の末、どうにか押し返したものの、行長の弟・如清は討死にし、小西隊は予想を超える大損害を被った。
 戦場に屍が折り重なり、鉄の匂いと血のにおいが、ひと月消えなかったと、帰還兵は語った。
 やがて明から和睦を求める使者が来た。
 行長は、疲弊しきった兵を見やりながら、迷い、そして――受け入れた。
 だが、それは罠だった。
 講和の言葉の陰で、明の軍勢は密かに兵を集め、牙を研いでいた。
 やがて、味方の気が緩んだ隙を突かれ、小西隊は平壌城で四方を囲まれた。
 行長は、城に火を放ち、命からがら脱出した。
 その足で、黒田官兵衛・長政父子が籠もる龍泉山城へと逃げ込んだ――。
 忠三郎は、報せをもたらした者の語る声にじっと耳を傾けながら、心のうちに深い波紋が広がっていくのを感じていた。
 ――これは、ただの戦ではない。
 国の驕りが、幾千の命を踏みにじっている。
 和の名のもとに、誰が誰を欺いたのか。誰が誰の命を奪ったのか。
 その先に何が残るのか。誰が、救われるのか――。
 忠三郎は、しずかに眼を伏せた。

 その後も報せは続いた。
 船が足りぬ。兵站はとうに限界を超え、物資は半島の内陸まで届かず、馬も人も飢えに苦しんでいる。
 朝鮮の冬は、日ノ本のものとは桁違いの厳しさだという。
 しかも、その土地は貧しく、越後一国ほどの収穫しか見込めない。
 草すら枯れ、鳥すら鳴かぬ山河に、命をつなぐものなど残されていないという。

 さらに悪いことには、川の水が病をもたらした。
「水を飲むだけで病となると申すか」
 忠三郎が首を傾げると、傍らに控えていた町野長門守が答えた。
「はい。かの地の水は、我らに合わぬようで。腹を下し、熱を発し、そのまま命を落とすことも少なくないと……」
 忠三郎は目を伏せ、唇をかみしめた。
 ――水すら、敵となる地……か。
 数えきれぬ兵たちが、凍てついた川を何度も渡った。
 渡った先に待っていたのは、勝利ではなく、凍傷と病と餓え。
 川を渡り切った兵の多くが、そのまま床に伏し、やがて名も知られぬまま冷たくなった。
 そして、その中に――忠三郎の心を打つ知らせが紛れていた。
 友、牧野長兵衛が病に倒れ、命を落としたというのだ。
(長兵衛殿……)
 静かに、胸の奥にしんと風が吹くような思いが満ちた。
 かつて、高山右近とともに、キリストの教えを語ってくれた人だった。
 あの穏やかな声。どこか夢見るような眼差し。
 戦を語らぬ人だった。神と人のあいだに希望を見ていた。
 だが、その死は討死にではなかった。
 剣に斃れるでもなく、敵の銃に倒れるでもなく、疫病で、静かに命を落とした。
(何故に、かようなことに……)
 忠三郎よりも十年上なので、四十八才。国元には今年生まれたばかりの嫡男、牛之助がいた。
 その幼き子は、父の顔を、思い出せぬだろう。
 忠三郎は、文机の上に置かれたロザリオに目をやった。
 雪をまとった銀のようなその形が、今は胸に痛いほど突き刺さる。
 ――かの人が夢に見た「和」は、どこへ行ってしまったのだろうか。
 神が見るなら、この戦を、どう思うだろうか――。
 部屋の外では、冬の風が、軒をかすめて唸っていた。


 海の向こうで思わぬ苦戦に陥っているという報せが、肥前名護屋にいる秀吉のもとに届いたとき、諸将の間には重く暗い空気が漂った。
「もはや、余が渡海するしかあるまい」
 秀吉は激怒してそう言い放った。
 そして、海の向こうで戦う諸将に一通の書状を送りつけた。
「余は織田家の家臣の時代より、常に寡兵をもって衆敵を破り、日ノ本を統一してきた戦の天才である。この困難、我が手にかかれば児戯に等しい。さればぬしらは、数十万の大軍をもって、筆より重い物を持ったこともない女子の如き明国を攻める。まさに山が卵を押し潰すが如し。明国ばかりか、その勢いで天竺も南蛮をも取れるであろう。この手柄、我が国中、誰しも羨ましく思うであろうぞ」
 広間に居並ぶ諸将は、これを聞いて声を失った。誰もが黙り込み、顔を見合わせた。
 ――殿下には、いまだ海戦での敗北も、制海権を失った現状も伝わっていないのか。
 それが、諸将の胸を冷やした。すでに水軍は敗北し、補給の道は絶たれつつある。兵糧は底を尽きかけ、明・朝鮮・日本、いずれの陣営にも疲弊が広がっていた。
 もはや、人も物も海の向こうへ運ぶ手段は尽きかけている。
 それなのに、秀吉ひとりが勝利を疑わず、誇り高く語っている――まるで、現実が見えていないかのように。

 この戦に、大義はなかった。
 そのことを、誰よりも痛感していたのは、今ここで言葉を呑んでいる大名たち自身だった。
 その夜の軍議。
 名護屋城の広間に、重苦しい沈黙が落ちていた。
 諸将は声を殺し、誰も秀吉の目を見ようとしない。
 ただ一人、忠三郎だけが静かに顔を上げた。
「もし、明の国を半分くださるのであれば、それがしが参り、必ずこれを討ち従えましょうぞ」
 常のように柔らかな笑みを浮かべながら、忠三郎はそう言った。
 その声音は静かでも、言葉の奥に潜む痛烈な皮肉は、誰の目にも明らかだった。
 場の空気が一瞬にして凍りついた。
 前田利家が、すぐさま鋭い声を上げる。
「忠三郎殿……!」
 利家は忠三郎の友、前田利長の父であり、忠三郎を息子のように思っていた。
 忠三郎もまた、繰り返し利家に叱られてきたことを、どこか懐かしく、ありがたく思っている。
 徳川家康も袖を引きながら、とりなすように口を開いた。
「殿下。忠三郎殿は殿下の御身を案じてかように申されたまで。決して殿下を侮ってのことではありませぬ」
 家康が言葉を探しながら必死にとりなす。
 しかし忠三郎は、家康の手をそっと払うと、正面から秀吉を見据えた。
「殿下が戦さの天才であれば、それがしは幼きころより鳳の雛と称された神童。故右大臣様にも才を認められた身――いささかの助勢くらい、務めましょうぞ」
 場が息を呑んだ。
 利家が青ざめ、思わず声を荒げる。
「こ、これ、忠三郎……! おぬし、口を慎め!」
 その声音に、忠三郎はわずかに笑みをこぼした。
 反面、秀吉の口元が歪んだ。
 にやりと笑ったその目には、怒りの色が明らかに宿っている。
 もとより、信長の寵臣でありながら、人の顔色をうかがわず正論を吐く忠三郎のような男を、秀吉が好むはずもない。
「忠三郎殿……そう申せば、病み上がりであると聞いておりますぞ。されば、そろそろ会津へ戻っては如何じゃ。薬医に見せ、養生いたせ。国づくりの途上とも聞き及んでおる」
 一見、いたわるような口ぶり。
 しかし、その言葉にこもった刺は、誰の目にも明らかだった。
 忠三郎を「追い返す」ための婉曲な言葉――それにすぎなかった。

 忠三郎は深く頭を下げた。
 ――戦に殉ずるのではなく、戦を憂い、止める者として帰る。それもまた、己に課された務め。
 詰所に戻ると、すぐに前田利家が後を追ってきた。
「忠三郎……顔色がよくない。まったく、おぬしは、どこへ行っても……」
 そう言いかけて、利家はふっとため息をついた。
「おぬしの心は、皆、ようわかっておる。されど殿下はおぬしを目の上のこぶと思うておる。今は国元へ戻るとき。死に場所をここで選ぶな」
 忠三郎はしばらく言葉を探していたが、やがて、目を伏せて小さくうなずいた。
 その胸の奥で、炎のように燃えていたのは――嘲りでも、怒りでもない。
 戦という名の狂気を終わらせねばならぬという使命感だった。

 その翌朝、忠三郎は帰国の途についた。
 まずは京へ戻り、堺の薬医に診てもらうよう、前田利家が手配してくれていた。
 旅立ちは初春の曇り空のもとだった。名護屋の港にはまだ冷たい潮風が吹き、空気は冴え返っていたが、山を越え、川を渡るごとに季節の気配はわずかずつ変わっていった。

 筑後路の里では、野の端に小さな蕗のとうが顔をのぞかせていた。
 干し藁を積んだ牛車が道をのろのろと行き、農夫たちは冬の間に手入れした田に鍬を入れていた。
 宿場町では、軒先に雛道具を飾る者もおり、ほのかに甘い白酒の香りが鼻をかすめた。
「ここも、春を迎えておるのだな……」
 忠三郎はそうつぶやきながら、馬の背に揺られていた。
 その顔色は相変わらず優れず、土気色とも見える青白さが浮かんでいた。頬はこけ、目の下にはくっきりとした影がある。ときおり、腹部を押さえるようにしてうずくまり、町野長門守が慌てて薬湯を用意した。
「殿、薬を……」
「……よい。あとにせよ」
「されど、ここより先は山道でございますゆえ……」
「かように多くの兵がいる前で、何度も薬を飲むわけにはいかぬ」
 それきり、忠三郎は口をつぐんだ。町野長門守は薬湯を膝に抱えたまま、そっと背を向けた。

 筑前を抜け、豊前、周防へと足を進めるにつれて、旅路は山深くなり、道はぬかるんでいった。
 だが、山の斜面には雪の名残とともに、紫がかった菫や、細く背を伸ばす土筆の群れが見え隠れしていた。
 谷川のほとりでは、もう鶯が試し鳴きをしており、まだ掠れたその声に、供の者たちは思わず笑みを漏らした。
「殿、春でございますな」
 と、加賀山隼人が声をかけてきた。
 忠三郎は小さくうなずいた。
「……うむ。冬が長かった」
「この春は、会津に咲く花も見られましょうか」

「会津……」
 忠三郎は、ぼんやりと遠くの山並みに目を向けた。
 目に映るのは梅の花。冷えた空気の中に、ほのかな香りを放っている。
――喧噪の只中にいては、決して気づかぬ光景じゃ。
 かつて、戦支度のついでに馬を走らせた山里のことを、ふと想った。
 あのときも、雪解けの水が小川を勢いよく流れ、白梅が見事だった。
 それを眺める心の余裕など、自分にはなかったのだと、今はわかる。
「わしが、死に場所を探しておると、そなたは思うておるか、隼人」
 加賀山は面を上げた。
「いいえ。殿は、ようやく生きる場所を探しておいでです」
「……そうかもしれぬ」
 忠三郎は静かに目を閉じた。

 食事の量は日に日に減り、夜半には腹の奥に鈍い痛みが続いた。
 だが、そうした苦しみのすき間に、これまで見過ごしてきた些細なもの――蕗のとう、雛人形、沈丁花の香――そうした命の証が、ひとつずつ心に刻まれてゆく。
 再び戦に戻るのではなく、何かを育むために生きる道があるのではないか――と。
 その思いは、痛みとともに、忠三郎の胸にゆっくりと根を張り始めていた。
 京までは、まだ幾日かかかる。
 けれど、その道すがらにこそ、生きる意味はあるのかもしれなかった。
 春のはじまりの風が、旅人の肩を優しく押すように吹いていた。
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