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34.大明征伐
34-7. 風に消ゆる呻き
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そのころ、京の都にも、やわらかな春の気配が訪れていた。
白梅が洛外の山里にほころび、淡雪は日差しに溶けながら、大地をそっと潤してゆく。名残の寒さの中にも、都人は陽だまりに芽吹く春を感じていた。
洛外・北山のふところ、竹林に抱かれるように佇む一つの草庵——暘谷庵。かつて織田家の名将・滝川一益が、ふたりの子のために建てた庵である。今は、その子・六郎こと滝川知ト斎が、弟の苦労こと九天宗瑞、母・風花、そして父の忠臣であった滝川義太夫と共に、世のざわめきから離れて、静かに暮らしていた。
この日、庵ではささやかな祝言の支度が進められていた。
十九になった六郎の花嫁となるのは、おゆう——かつては大坂の傾城屋にいたが、蒲生家で義太夫に声をかけられ、この庵に身を寄せていた娘である。淡い桃色の小袖に白無垢を重ねたおゆうは、春霞のようにやさしく微笑んでいた。
おゆうが初めてこの庵を訪れた日、滝川一益の名を聞いて一瞬、身を強張らせたことを、六郎は今も覚えている。だが滝川家の人々は、質素ながらもどこまでも温かく、彼女を迎え入れてくれた。
やがてふたりは、少しずつ言葉を交わすようになった。
「あなた様は、如何にして目が見えずとも、そんなに静かに笑えるのじゃ」
ある日、おゆうがそう問いかけた。
「見えぬ分、音がよく届きまする。声や風の音が、わしには景色のように映ります」
その言葉が、おゆうの胸に春風のようにやさしく吹き込んだのだった。
暘谷庵には時おり、都の教会に通うキリシタンたちや宣教師の姿もあった。 おゆうが彼らと言葉を交わし、やがてキリシタンとして洗礼を受けたのは、自然な流れだったのかもしれない。だがまもなく、伴天連追放の令が出され、神父たちは都を離れていった。
それでも、おゆうの胸には、彼らから聞いた神の言葉が、心に残っていた。
今日、祝言の司式を執り行うのは、都にただひとり残った宣教師、オルガンティノ神父だった。
「主よ、このふたりに、恵みと祝福をお与えください——」
老いた神父の日本語はたどたどしくも、穏やかだった。
そっと差し出されたお夏の手を、六郎は確かめるように両手で包み込んだ。 視えぬ代わりに、掌に伝わる温もりを、何よりも深く感じていた。
庭の片隅、梅の香りただよう庭の隅で、風花は目を閉じ、胸の奥にしまってきた記憶が、やさしい光となって蘇ってくるのを感じていた。
——六郎が生まれたあの日。
小さく産声をあげたその子の、どこかうつろな瞳。
光を捉えぬと知れたとき、風花の胸の奥では、何かが音を立てて崩れ落ちた。
「この子は、何も見ずに生きていかねばならぬのか……」
何度悔いても、答えはなかった。
泣いて泣いて、ただ神も仏もないと、幾夜も枕を濡らした。
畿内中の名のある薬医を呼び集め、祈祷師にもすがった。
だが、どれも虚しく、白き灯はともらなかった。
人々は信長や一益の悪行ゆえの仏罰であると陰で囁いた その言葉ひとつひとつが、鋭く風花の胸を刺し貫いた。
悲しみのあまり、一益に声を荒げたこともある。
あのとき、風花の世界は、すべての色を失っていた。
寝所の片隅で、風花は耐えきれずに声を荒げた。
「何故…何故この子が、かような運命を背負わねばならぬのじゃ…!
長島で…殿や父上が、神仏をも恐れぬ悪行を積み重ねたがために……」
風花の声は震え、涙で顔がぐしゃぐしゃになった。
言葉は刃のようにとがり、そして一度口にすれば戻れぬものとなった。
一益は、黙って風花を見つめていた。
目を伏せることもせず、背を向けることもせず、怒りと悲しみのすべてを、己の罪のように、まるごと受け止めていた。
風花は、自分の胸をこぶしで打ち、泣き崩れた。
そんな風花を、一益はひとことも責めなかった。ただ、そっと肩に手を添えて、「済まぬ」と、ただ一度、低くつぶやいた。
その言葉が、風花の胸にどれほど深く染みたことか。
日々は過ぎ、それでも心の奥の闇は拭えなかった。
そのとき、屋敷を訪ねてきたのが、ロレンソ修道士だった。
ロレンソは六郎のそばに座り、ひとこと祈ってから、風花に向かって言った。
「六郎殿はこの家に幸いをもたらす者」
根拠はわからなかった。だが、その言葉が、風花の中で何かを変えた。
それからの日々、ロレンソは何度も屋敷を訪れ、六郎の傍らで神の言葉を語っていった。その言葉を信じることで、風花はようやく母としての一歩を踏み出すことができたのだった。
今、こうして——
人を思い、手を取り、春の庭に立つ六郎の姿を目の当たりにして、風花の胸はいっぱいになった。
「ロレンソ殿…この子は、かように立派に……」
風花が目頭をぬぐい終えるのを見届けたかのように、ふいにおゆうが白無垢の裾を整えながら、ぽつりと尋ねた。
「…母上、義太夫殿は?」
するとすぐに、傍にいた九郎が、少し困ったような笑みを浮かべて答えた。
「義太夫は、朝から少し熱があり……いまは奥の間で休んでおります。無理をするなと母上が……」
その声を遮るように、
「おお、それは、それは……」
と嘆息したのは、つい先ほど伊勢・日永から駆けつけてきた、一益の弟・休天だった。
法衣のすそをたくしあげながら、小さな籠を抱えた姿は、仏に仕える者というより、市井の饗客のようである。
「義太夫が好きでな、伊勢の焼き蛤。せっかく土産に持ってきたというに……残念じゃのう。仕方ない、あとで風花殿に煎ってもろうて、わしが食すとするか」
そのあたりで、近くにいた誰かが「またか……」と小さく笑い、庵の中にはふんわりとした笑い声が広がった。
と、そのとき——
「ほほう……伊勢の蛤とな!」
襖の向こうから、張りのある声が響く。場が一瞬しんとなり、皆の目がそちらへと向かう。
一瞬の静寂。人々の目がふすまに集まった。
がらり——と控えの間が開くと、そこに立っていたのは、羽織を肩からずり落とし、杖を片手に持った滝川義太夫。病人とは思えぬ面持ちで、にやりと笑っていた。
「蛤と聞いては、寝てなどおれぬわい!」
その顔には熱の名残があるものの、口元はにやりと笑みを浮かべている。
九郎が「こ、こら……!」と駆け寄るも、義太夫は平然と杖をつきながら進み出た。
「六郎様が祝言をあげているというのに、わしだけ寝ておるとは、あまりに勿体ない話。……で、蛤は何処に?」
「おぬし、病人の自覚はあるのか!」
と、休天が笑いながら籠を高く掲げる。
「ふふ……まあ、食う前に拝ませてくだされ。わしが神父殿より先に祝詞をあげましょうぞ」
そう言って、義太夫は庭に向かって大きく手を広げる。
「六郎様! おゆう殿! この日を迎えられたこと、実にめでたい。ああ、わしも、老骨に鞭うってここに参った甲斐があったぞ!」
笑いが再び弾け、おゆうは恥ずかしそうに頬を染めながらも、義太夫に向かって丁寧に頭を下げた。六郎もまた、微笑を浮かべてうなずいた。
春の庭に、白梅が香り、蛤が香り、人々の声が和らぎ広がる。
そのすべてが、盲いた六郎の心に、あたたかな光となって降り注いでいた。
都へ向かう街道は、春の名残をとどめている。若草の香に混じって、遠い焔の記憶のような土の匂いが漂っていた。忠三郎は鞍の上でその匂いを胸いっぱいに吸いながら、黙して遠くを見ていた。
道中、名護屋に留まる高山右近から文が届いた。細やかな筆跡で書かれたその報せには、明との講和のことが書かれている。布陣していた兵は、食料庫を焼かれ、飢えに追い詰められて釜山まで退いたものの、今は小西行長が明の使節を連れて帰国の途につくであろうと。
「戦は終焉」
と、右近の文は綴っていた。そして
「かの地に主の平和が訪れんことを祈ります」
とも。忠三郎は文を胸に収め、そっと目を閉じた。
たしかに戦は終わりつつある。命を落とす者も減り、兵たちは故郷へ戻り、幼子を抱く妻らの元に帰るだろう。安堵のため息が喉の奥から漏れそうになったその時、忠三郎の胸を鋭くよぎったものがあった。
右近は、こうも書いていた。
「太閤殿下には、明が詫びを入れ、降伏の使節を送ると伝えられております」 その一文に、忠三郎の眉がわずかに動いた。
「明が……降伏?」
忠三郎は呟くように繰り返した。これまで耳にしてきた戦況――兵糧は尽き、寒さと病に兵は苦しみ、退却を余儀なくされた――それが事実であるならば、明がわざわざ頭を垂れる道理などあるはずもない。むしろ、日ノ本の軍勢こそ押し切れずに、泥濘の中で足を取られて引き返したと見るべきだ。
しかも、右近の文には、現地の惨状が一節だけ、にじむように記されていた。
「戦の爪痕は深く、高麗の田畑は荒れ果て、民は種を撒くどころか、食うにも事欠く有様。そのわずかな食糧も、日ノ本の兵と明の兵が奪い合っていると聞き及ぶ次第」
略奪された田畑。刈り取られる前に焼かれ、穀倉は空となり、民の口に渡るべき米は、刀を下げた兵の腹に納まった。中には、飢えに倒れた高麗の子を一刀両断のもとに斬り、兵がその躯を足蹴にして飯を平らげたという噂もある。もはや敵味方の区別も曖昧な、欲と疲弊にまみれた戦だった。
加えて、日ノ本からは多くの商人が渡海し、人商いが横行していた。老若男女を問わず、力づくで捕らえては縄で首をくくり、獣の如く列をなしてつれ去り、はるかマカオやゴアへと売り飛ばし、利を得ているという。
まさしく地獄のごとき有様である。
そして、地獄からの撤兵は、決して静かなる終息ではなかった。釜山までの道には、無数の命が置き去りにされた。傷を負った兵は担がれることもなく、病に倒れた者は声をあげても誰一人振り返らず、道端に倒れたまま冷たい雨に晒された。死地に似た戦場をかろうじて生き延びた者も、ここにきて見捨てられた。
それは日ノ本の兵ばかりではなかった。奴隷として捕らえられた多くの高麗人たちもまた、疲れ果て、飢え、病に斃れ、縄を切られ、足手まといとして道に捨てられていった。生きたままその場に打ち捨てられた母と子が、手を取り合ったまま飢死した。その呻き声もやがて風に消え、躯は葬る人もいないままに放置された。その呻き声もやがて風に消え、躯は葬る者もないままに腐臭を放ち、ただ夏草の揺れる音ばかりが辺りに残った。
このような戦況の中、果たして明が秀吉に降ったとはにわかに信じがたい。
(虚言か……いや、願望か…)
声にはならぬ言葉が胸の中で渦を巻いた。もし秀吉だけが偽りの勝ち戦を信じているのだとすれば、それはやがて災いとなって跳ね返る。講和が偽りの上に築かれたものであれば、いずれ、再び戦の火が灯る日がくる。
忠三郎は、読み終えた巻物をしばらく手に持ったまま、じっと虚空を見つめていた。やがて、そばに控えていた長門守が、訝しげに問いかけた。
「殿。なにやら浮かぬ面持ちで。戦が終わったのならば、よろこばしきことにござりましょう」
忠三郎はふと目を伏せ、そして静かに口を開いた。
「……この戦が始まったとき、皆は何を望まれて異国に渡ったのであろうか。太閤は、明を屈服させ、大陸を取ると言うた。されど、そのためにどれほどの血が流れ、どれほどの民の命が擦り潰されたか――それが今、ようやく終わるというのに、心から喜ぶことができぬ」
忠三郎は夕日に染まる遠い雲を見つめながら、ひとりごとのようにつぶやく。
「戦が終わるのは喜ばしい。されど…」
(この和睦、どうにも釈然とせぬ。右近殿の文には、太閤が悦んでおると。明が降ったとあるが…)
忠三郎は言葉を切った。風が、一陣、若草をざわめかせた。
「それは何よりのことでは?」
「そうあればよいが」
兵が退いた末の講和だ。その戦果をもって、相手が詫びを入れるなどとは考えられない。
長門守は何も言わなかった。ただ忠三郎の横顔を見つめ、その静かな眼差しに、重いものが沈んでいるのを感じ取っていた。
白梅が洛外の山里にほころび、淡雪は日差しに溶けながら、大地をそっと潤してゆく。名残の寒さの中にも、都人は陽だまりに芽吹く春を感じていた。
洛外・北山のふところ、竹林に抱かれるように佇む一つの草庵——暘谷庵。かつて織田家の名将・滝川一益が、ふたりの子のために建てた庵である。今は、その子・六郎こと滝川知ト斎が、弟の苦労こと九天宗瑞、母・風花、そして父の忠臣であった滝川義太夫と共に、世のざわめきから離れて、静かに暮らしていた。
この日、庵ではささやかな祝言の支度が進められていた。
十九になった六郎の花嫁となるのは、おゆう——かつては大坂の傾城屋にいたが、蒲生家で義太夫に声をかけられ、この庵に身を寄せていた娘である。淡い桃色の小袖に白無垢を重ねたおゆうは、春霞のようにやさしく微笑んでいた。
おゆうが初めてこの庵を訪れた日、滝川一益の名を聞いて一瞬、身を強張らせたことを、六郎は今も覚えている。だが滝川家の人々は、質素ながらもどこまでも温かく、彼女を迎え入れてくれた。
やがてふたりは、少しずつ言葉を交わすようになった。
「あなた様は、如何にして目が見えずとも、そんなに静かに笑えるのじゃ」
ある日、おゆうがそう問いかけた。
「見えぬ分、音がよく届きまする。声や風の音が、わしには景色のように映ります」
その言葉が、おゆうの胸に春風のようにやさしく吹き込んだのだった。
暘谷庵には時おり、都の教会に通うキリシタンたちや宣教師の姿もあった。 おゆうが彼らと言葉を交わし、やがてキリシタンとして洗礼を受けたのは、自然な流れだったのかもしれない。だがまもなく、伴天連追放の令が出され、神父たちは都を離れていった。
それでも、おゆうの胸には、彼らから聞いた神の言葉が、心に残っていた。
今日、祝言の司式を執り行うのは、都にただひとり残った宣教師、オルガンティノ神父だった。
「主よ、このふたりに、恵みと祝福をお与えください——」
老いた神父の日本語はたどたどしくも、穏やかだった。
そっと差し出されたお夏の手を、六郎は確かめるように両手で包み込んだ。 視えぬ代わりに、掌に伝わる温もりを、何よりも深く感じていた。
庭の片隅、梅の香りただよう庭の隅で、風花は目を閉じ、胸の奥にしまってきた記憶が、やさしい光となって蘇ってくるのを感じていた。
——六郎が生まれたあの日。
小さく産声をあげたその子の、どこかうつろな瞳。
光を捉えぬと知れたとき、風花の胸の奥では、何かが音を立てて崩れ落ちた。
「この子は、何も見ずに生きていかねばならぬのか……」
何度悔いても、答えはなかった。
泣いて泣いて、ただ神も仏もないと、幾夜も枕を濡らした。
畿内中の名のある薬医を呼び集め、祈祷師にもすがった。
だが、どれも虚しく、白き灯はともらなかった。
人々は信長や一益の悪行ゆえの仏罰であると陰で囁いた その言葉ひとつひとつが、鋭く風花の胸を刺し貫いた。
悲しみのあまり、一益に声を荒げたこともある。
あのとき、風花の世界は、すべての色を失っていた。
寝所の片隅で、風花は耐えきれずに声を荒げた。
「何故…何故この子が、かような運命を背負わねばならぬのじゃ…!
長島で…殿や父上が、神仏をも恐れぬ悪行を積み重ねたがために……」
風花の声は震え、涙で顔がぐしゃぐしゃになった。
言葉は刃のようにとがり、そして一度口にすれば戻れぬものとなった。
一益は、黙って風花を見つめていた。
目を伏せることもせず、背を向けることもせず、怒りと悲しみのすべてを、己の罪のように、まるごと受け止めていた。
風花は、自分の胸をこぶしで打ち、泣き崩れた。
そんな風花を、一益はひとことも責めなかった。ただ、そっと肩に手を添えて、「済まぬ」と、ただ一度、低くつぶやいた。
その言葉が、風花の胸にどれほど深く染みたことか。
日々は過ぎ、それでも心の奥の闇は拭えなかった。
そのとき、屋敷を訪ねてきたのが、ロレンソ修道士だった。
ロレンソは六郎のそばに座り、ひとこと祈ってから、風花に向かって言った。
「六郎殿はこの家に幸いをもたらす者」
根拠はわからなかった。だが、その言葉が、風花の中で何かを変えた。
それからの日々、ロレンソは何度も屋敷を訪れ、六郎の傍らで神の言葉を語っていった。その言葉を信じることで、風花はようやく母としての一歩を踏み出すことができたのだった。
今、こうして——
人を思い、手を取り、春の庭に立つ六郎の姿を目の当たりにして、風花の胸はいっぱいになった。
「ロレンソ殿…この子は、かように立派に……」
風花が目頭をぬぐい終えるのを見届けたかのように、ふいにおゆうが白無垢の裾を整えながら、ぽつりと尋ねた。
「…母上、義太夫殿は?」
するとすぐに、傍にいた九郎が、少し困ったような笑みを浮かべて答えた。
「義太夫は、朝から少し熱があり……いまは奥の間で休んでおります。無理をするなと母上が……」
その声を遮るように、
「おお、それは、それは……」
と嘆息したのは、つい先ほど伊勢・日永から駆けつけてきた、一益の弟・休天だった。
法衣のすそをたくしあげながら、小さな籠を抱えた姿は、仏に仕える者というより、市井の饗客のようである。
「義太夫が好きでな、伊勢の焼き蛤。せっかく土産に持ってきたというに……残念じゃのう。仕方ない、あとで風花殿に煎ってもろうて、わしが食すとするか」
そのあたりで、近くにいた誰かが「またか……」と小さく笑い、庵の中にはふんわりとした笑い声が広がった。
と、そのとき——
「ほほう……伊勢の蛤とな!」
襖の向こうから、張りのある声が響く。場が一瞬しんとなり、皆の目がそちらへと向かう。
一瞬の静寂。人々の目がふすまに集まった。
がらり——と控えの間が開くと、そこに立っていたのは、羽織を肩からずり落とし、杖を片手に持った滝川義太夫。病人とは思えぬ面持ちで、にやりと笑っていた。
「蛤と聞いては、寝てなどおれぬわい!」
その顔には熱の名残があるものの、口元はにやりと笑みを浮かべている。
九郎が「こ、こら……!」と駆け寄るも、義太夫は平然と杖をつきながら進み出た。
「六郎様が祝言をあげているというのに、わしだけ寝ておるとは、あまりに勿体ない話。……で、蛤は何処に?」
「おぬし、病人の自覚はあるのか!」
と、休天が笑いながら籠を高く掲げる。
「ふふ……まあ、食う前に拝ませてくだされ。わしが神父殿より先に祝詞をあげましょうぞ」
そう言って、義太夫は庭に向かって大きく手を広げる。
「六郎様! おゆう殿! この日を迎えられたこと、実にめでたい。ああ、わしも、老骨に鞭うってここに参った甲斐があったぞ!」
笑いが再び弾け、おゆうは恥ずかしそうに頬を染めながらも、義太夫に向かって丁寧に頭を下げた。六郎もまた、微笑を浮かべてうなずいた。
春の庭に、白梅が香り、蛤が香り、人々の声が和らぎ広がる。
そのすべてが、盲いた六郎の心に、あたたかな光となって降り注いでいた。
都へ向かう街道は、春の名残をとどめている。若草の香に混じって、遠い焔の記憶のような土の匂いが漂っていた。忠三郎は鞍の上でその匂いを胸いっぱいに吸いながら、黙して遠くを見ていた。
道中、名護屋に留まる高山右近から文が届いた。細やかな筆跡で書かれたその報せには、明との講和のことが書かれている。布陣していた兵は、食料庫を焼かれ、飢えに追い詰められて釜山まで退いたものの、今は小西行長が明の使節を連れて帰国の途につくであろうと。
「戦は終焉」
と、右近の文は綴っていた。そして
「かの地に主の平和が訪れんことを祈ります」
とも。忠三郎は文を胸に収め、そっと目を閉じた。
たしかに戦は終わりつつある。命を落とす者も減り、兵たちは故郷へ戻り、幼子を抱く妻らの元に帰るだろう。安堵のため息が喉の奥から漏れそうになったその時、忠三郎の胸を鋭くよぎったものがあった。
右近は、こうも書いていた。
「太閤殿下には、明が詫びを入れ、降伏の使節を送ると伝えられております」 その一文に、忠三郎の眉がわずかに動いた。
「明が……降伏?」
忠三郎は呟くように繰り返した。これまで耳にしてきた戦況――兵糧は尽き、寒さと病に兵は苦しみ、退却を余儀なくされた――それが事実であるならば、明がわざわざ頭を垂れる道理などあるはずもない。むしろ、日ノ本の軍勢こそ押し切れずに、泥濘の中で足を取られて引き返したと見るべきだ。
しかも、右近の文には、現地の惨状が一節だけ、にじむように記されていた。
「戦の爪痕は深く、高麗の田畑は荒れ果て、民は種を撒くどころか、食うにも事欠く有様。そのわずかな食糧も、日ノ本の兵と明の兵が奪い合っていると聞き及ぶ次第」
略奪された田畑。刈り取られる前に焼かれ、穀倉は空となり、民の口に渡るべき米は、刀を下げた兵の腹に納まった。中には、飢えに倒れた高麗の子を一刀両断のもとに斬り、兵がその躯を足蹴にして飯を平らげたという噂もある。もはや敵味方の区別も曖昧な、欲と疲弊にまみれた戦だった。
加えて、日ノ本からは多くの商人が渡海し、人商いが横行していた。老若男女を問わず、力づくで捕らえては縄で首をくくり、獣の如く列をなしてつれ去り、はるかマカオやゴアへと売り飛ばし、利を得ているという。
まさしく地獄のごとき有様である。
そして、地獄からの撤兵は、決して静かなる終息ではなかった。釜山までの道には、無数の命が置き去りにされた。傷を負った兵は担がれることもなく、病に倒れた者は声をあげても誰一人振り返らず、道端に倒れたまま冷たい雨に晒された。死地に似た戦場をかろうじて生き延びた者も、ここにきて見捨てられた。
それは日ノ本の兵ばかりではなかった。奴隷として捕らえられた多くの高麗人たちもまた、疲れ果て、飢え、病に斃れ、縄を切られ、足手まといとして道に捨てられていった。生きたままその場に打ち捨てられた母と子が、手を取り合ったまま飢死した。その呻き声もやがて風に消え、躯は葬る人もいないままに放置された。その呻き声もやがて風に消え、躯は葬る者もないままに腐臭を放ち、ただ夏草の揺れる音ばかりが辺りに残った。
このような戦況の中、果たして明が秀吉に降ったとはにわかに信じがたい。
(虚言か……いや、願望か…)
声にはならぬ言葉が胸の中で渦を巻いた。もし秀吉だけが偽りの勝ち戦を信じているのだとすれば、それはやがて災いとなって跳ね返る。講和が偽りの上に築かれたものであれば、いずれ、再び戦の火が灯る日がくる。
忠三郎は、読み終えた巻物をしばらく手に持ったまま、じっと虚空を見つめていた。やがて、そばに控えていた長門守が、訝しげに問いかけた。
「殿。なにやら浮かぬ面持ちで。戦が終わったのならば、よろこばしきことにござりましょう」
忠三郎はふと目を伏せ、そして静かに口を開いた。
「……この戦が始まったとき、皆は何を望まれて異国に渡ったのであろうか。太閤は、明を屈服させ、大陸を取ると言うた。されど、そのためにどれほどの血が流れ、どれほどの民の命が擦り潰されたか――それが今、ようやく終わるというのに、心から喜ぶことができぬ」
忠三郎は夕日に染まる遠い雲を見つめながら、ひとりごとのようにつぶやく。
「戦が終わるのは喜ばしい。されど…」
(この和睦、どうにも釈然とせぬ。右近殿の文には、太閤が悦んでおると。明が降ったとあるが…)
忠三郎は言葉を切った。風が、一陣、若草をざわめかせた。
「それは何よりのことでは?」
「そうあればよいが」
兵が退いた末の講和だ。その戦果をもって、相手が詫びを入れるなどとは考えられない。
長門守は何も言わなかった。ただ忠三郎の横顔を見つめ、その静かな眼差しに、重いものが沈んでいるのを感じ取っていた。
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そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
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