獅子の末裔

卯花月影

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35.帰らざる風

35-2. 明日を知らずとも

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 青葉の薫りが濃くなり、山の端を渡る風が夏の気配を運んでくるころ、忠三郎はようやく会津へ戻ってきた。
 馬の背に揺られながら、しばし目を細めて、眼前に広がる景色を見つめた。
 未だ天守の八割しか姿を見せぬ鶴ヶ城。その麓には、かつて見なかった数の塗り大屋敷が並び、新しい道が引かれ、町の骨格がかたちづくられていた。
 家々の壁は白く、軒は新しい檜の香りを漂わせ、路地には各地の言葉を話す者たちの声が満ちている。元は日野、松坂、丹波、果ては南蛮にまで通じる港から流れてきた浪人、工匠、鍛冶、学者、巫女、修道女……。

 会津の町づくりのために呼び寄せた者、どこかで居場所を失い、ここへと流れ着いた者も少なくはない。
 忠三郎はその姿に、どこか懐かしさを覚える。
 それは、日野の山里で、農と武のはざまで暮らしていた頃の面影に似ていた。
(皆が、己の居場所を探してここへ来た)
 かつて自らが根を断たれ、すべてを失ったとき、この地こそが己の「新天新地」だと信じた。
 その思いに共鳴する者たちが、時を経て一人、また一人と集まってきたのだ。

 かつての故郷は、もう戻る場所ではなかった。
 けれどこの会津には、始まりがある。
 何者でもなかった者たちが、名を持ち、職を得、家を成してゆく。
 それは忠三郎にとって、戦では得られぬ「勝ち」だった。
 ふと見上げると、天守の骨組みが青空に突き出ていた。
 まだ未完成のその姿に、自分自身を重ねるような気がした。
(……われらはまだ、途上にある)
 手綱を締め、忠三郎は馬を進めた。
 この地に、己ができることはまだある。
 新しき城と、新しき町と、新しき人々。
 すべてが形になろうとしている。いや、ようやくその途上に立ったにすぎない。
 馬を下り、館へと戻ると、迎えに出た家臣たちの顔が引き締まった。
 政の場に、主人が戻ってきたのだ。

 そしてその翌日、広間に忠三郎の姿があった。
 石高の計算、堤防工事の報告、職人の手配、作物の収穫見通し――
 諸役の者たちは、ただちに帳簿を持ち出し、忠三郎の前に並んだ。
 ひとつひとつに目を通し、必要な箇所には目印の石を置いていく。
「職工人たちは、集まってきておるか」
 そう問うた忠三郎に、奉行の一人が頷いて答えた。

「はい。日野の木地師、塗師、それと…殿。お喜びあれ」
 思わせぶりに言葉を切ると、奉行は一枚の名簿を差し出した。
「例の、御用酒屋――蔵元・藤兵衛も、先月、会津へ到着しております」
 その名を聞いた忠三郎の目元がふっと緩んだ。
「藤兵衛が……ようやく来てくれたか」
 しみじみとそう言う。
 藤兵衛は、かつて忠三郎が日野中野城にいた頃、幾度となく酒樽を届けに来た蔵元の主であり、数ある蔵元のなかでも飛びぬけて美酒を醸すと評判だった。
 祝いの席、戦の前、あるいは寒夜にひとり心を温めたいとき――城に運ばれてくる藤兵衛の酒は、いつも変わらぬ香と味で忠三郎を支えていた。
 藤兵衛の顔とともに、杉樽の匂いがいまも記憶に残っている。
 会津へ移ってからも、夜ごと杯を傾けるたび、あの柔らかな香りと、喉をすべる清冽な味を思い出していた。
「御用達の場所も、城下の水脈を見て定めました。すでに仕込み蔵の普請に取り掛かっております。まもなく会津の水で、殿の好まれる酒が…」
 奉行の言葉を聞くうちに、忠三郎は思わず笑いを漏らした。
「それはよう知らせてくれた」
 目尻に笑い皺を寄せながら、忠三郎は石を一つ、帳面の上にことりと置いた。
「皆の手が、いずれこの城下の色となる」
 戦国の世とは、他国を攻め、牛馬や人を奪い、富を奪うことで成立していた。
 力ある者が弱き者を支配し、領土とは血を流すことで手に入れるものだった。

 しかし、忠三郎は願った。
 もはや、力ずくで奪うことなく、人が暮らしていける国をつくりたいと。
 それには、耕すことが要る。
 土を。山を。心を。
 開墾の地図が広げられ、荒地に見えた丘陵が、いずれ田畑として息づく未来が描かれていく。
 そこに生きる人々が、汗を流し、麦を植え、麻を刈り、木を削り、染めを重ねて暮らしてゆく。
 戦で名を上げることなくとも、人は誇りをもって生きられる。

「新田の灌漑は急がねばならぬ。今春の雪解け水では、水路が追いつかなんだ」
「はっ。猪苗代の堰の工事も進んでおりまする」
 忠三郎は頷くと、文書《もんじょ》の山から一枚の絵図を引き出した。
 それは、工芸の市を開く予定の場所に印を付けたものだった。
「武士が槍を磨くように、職人が鉋を持つ。民が手を動かして生きる世こそ、国の礎となろう。……この地がそのはじまりとなる」
 その声に、その場にいた者たちは一瞬、言葉を失い、そして深く頭を垂れた。
 戦を知らぬ者も、戦しか知らぬ者も、今は皆、この地に身を置いている。
 皆が、同じ堀を掘り、同じ町に暮らしている。
 忠三郎はそのすべてを受け入れていた。受け入れることで、新しい世を築こうとしていた。
(奪うて成す世は、もう終わらせねばならぬ)
 忠三郎の願いは、誰よりも深い悔いに根ざしていた。
 かつて、自らもまた、奪う側にいた者として――
 だからこそ、今度は与える側にならねばならぬと、心に誓っていた。
 初夏の陽が、射し込む。
 その光は、地図の上の「会津」という文字を、ひときわ明るく照らしていた。

 その夜、忠三郎は夢を見た。
 どこかで聞いたことのあるような風景が、湯けむりに包まれて広がっていた。ぬるりとした空気と、かすかな硫黄の匂い――
 突然、間の抜けた声が響いた。
「鶴! 草履が流れてしもうたわい!見よ、あれを!」
 振り返ると、湯船の中で片足を上げ、ばしゃばしゃと水を蹴る義太夫の姿があった。手ぬぐいを頭にのせたまま、妙に大仰な動きであたふたしている。
「湯口から流れてきたのじゃ、あの草履。三国なる峠を越えて、越後まで行くのではないか!」
 忠三郎は夢の中で苦笑しながら言った。
「義太夫、流れてくるのであれば兎も角、峠へ向かって水が流れることはあるまい」
「さすがは鶴、夢の中でも細かいのう!」
 義太夫は肩を揺らしながら湯につかり直した。
「存じておるか。越後の虎こと上杉の話を。あやつらは毎年、越山と称してこの峠を越え、関東に来て戦さしておったのじゃ」
 越後、上野、信濃。この三つの国が交わる峠である三国峠。上杉謙信は毎年、この峠を越えて関東へ攻め入っていた。
「その話は耳にしたことがある」
「そのわけを存じておるか?」
「わけ?」
「然様。乱取りじゃ。わざわざ峠を越えて戦さをしていたのは、乱取りして、国を潤すためじゃ」
「乱取り目的で戦さしていたと?」
「越後は貧しき国。そうでもしなければ、民を食わせることはできなかったのであろう」
 特に横行したのは人取り。大勢の人を掴まえては売りさばき、日銭を稼いでいた。
 上杉領である越後は三十九万石。その宿敵であった武田の治める甲斐は二十二万石。いずれも伊勢や近江とは比較にならない貧しさだ。
「稲が…寒さに弱いからか…」
 冷害の酷いときには、米の収穫量は一気に十分の一ほどになる。すると秋から冬にかけ、領内には餓死者が大量にでる。
「よう聞け鶴。米がとれねば、誰も生きてはいけぬ。…お主のように戦を避けようとすれば、それはそれで苦しむ者がおる。食えぬというのは、それほどのことよ」
 忠三郎は言葉を失った。

 そのとき、背後でさらりと空気が動く気配があった。振り返ると、そこにいたのは町野左近だった。
「飢饉は海からくるとか」
「海から?」
「はい。北東より吹く山背風。これが田を冷やし、稲を枯らす。四年のうち三年が凶作とか」
「山背風…」
 奥州では飢饉は海から来ると呼ばれている。それは奥州ならではの悩みの種。夏に北から吹く、冷たく湿った風。昔から「冷害風」「飢餓風」とも呼ばれ、海の彼方から流れ込む風が、田畑の命を奪っていく。奥州の民にとって、それは毎年の恐怖だった。
 忠三郎は黙って湯面を見つめていた。すると、その隣に、もうひとりの男が腰を下ろした。
「稲は寒さに弱きもの…」
「いや、稲は本来、寒さに強きものじゃ」
 その声を聞いた瞬間、忠三郎は息を呑んだ。
「……義兄上…」
 そこにいたのは、かつて忠三郎が義兄とも慕った、滝川一益。昔のままの姿で、静かに佇んでいる。
「稲は本来、寒さに強きもの。幾代にもわたり、風土に従い、少しずつ姿を変えてきた。神の御業によって、稲は寒き地にも根を張るようになった」
 一益は周囲を取り囲む山々を見つめたまま、穏やかに言葉を続けた。
「それは、ただ草が勝手に強くなったのではない。神が、願いを受けて変化させてくださったがゆえ。変わるというのは、ただ耐えることではない。祈りとともにある変化。それゆえに、望みを捨ててはならぬ」
 忠三郎はしばし、返す言葉もなく、ただ黙って湯の中のゆらぎを見つめていた。
「そなたもまた、変わろうとしておる。いや、変えられようとしておる。己の力ではなく、大いなるものの導きによって」
 一益はゆっくりと視線を上げた。
「人は一人では国を変えられぬ。されど一人から始まる。そなたがやろうとしておる開墾も、職人を呼び寄せることも、無駄ではない」
 そして、柔らかく微笑む。
「たとえ、明日死ぬとわかっておっても、人にはやらねばならぬことがある。そなたが生きているうちに報われずとも、それでも進まねばならぬ」
 忠三郎はかすかに首を垂れた。
「……はい」
 一益はなおも言葉を添える。
「己一人で全てを変えようとせず、大いなるものの力を求めよ。志を分かち合う者を増やせ。それが道をつなぐ」
 一益はそう言い残し、そっと立ち上がった。
 湯けむりが音もなく揺れ、一瞬、景色がかすんだ。
 忠三郎が顔を上げたときには、もうその姿はなかった。
 ただ、湯の面に浮かぶ波紋だけが、名残惜しげに円を描いていた。

 ふと、風が湯殿の簾を揺らし、懐かしい香の残り香が微かに漂った。それは、かつて一益が戦支度の前に必ず焚いていた香木の匂いだった。
 忠三郎は、そっと目を閉じた。
 胸の奥に、一益の声がまだ残っていた。
 ――たとえ明日死ぬとわかっておっても、人にはやらねばならぬことがある。
 静寂のなかで、その言葉はなおも胸の内に脈打っていた。自らの背を押す、ひとすじの風のように。

 どこか遠くで、水の跳ねる音がした。
 湯けむりの奥で、義太夫がまた草履を追いかけていた。
「おーい! 鶴! わしの草履、今度は奥州まで流れていくぞ!」
 その声に、忠三郎は、夢の中で小さく笑った。
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