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35.帰らざる風
35-4. 柿紅葉の頃に
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堺の町に入った夜、忠三郎は宗叔のもとを訪れた。
町医者は年のわりに目が鋭く、無駄な言葉を嫌う人物だった。
脈を取り、舌を見、肩に手を当てて軽く揺らす。
それだけで宗叔は顔を曇らせたが、何も言わずに紙包みを渡した。
「一日三度、湯にて服すこと。……薬の力は一時の助けにすぎぬが、それでも役には立ちます」
忠三郎は小さく頷いた。
「味は?」
「苦うございますな。……いかにも土の香りがしますゆえ」
その苦みが、妙に印象に残った。
宿の離れに戻った忠三郎は、静かに薬を白湯に溶かし、ひと口、喉へ流し込んだ。
かすかな鉄の味と、乾いた草のような香りが鼻を抜ける。
まだ、誰に何を告げるべきか、答えを出せてはいない。しかし、この身体の奥で静かに動いているものに、忠三郎はなんとなく気づいていた。
その夜、忠三郎は三雲定持を呼び寄せた。
几帳面な裃をつけた定持は、畳に座すとすぐに頭を下げた。
「お呼びにて、馳せ参じました」
忠三郎はしばし沈黙を保った。薬湯を啜ったあとの痺れが、舌の奥にわずかに残っていた。喉を通る息が妙に熱を帯びていることに、ひとつ気づく。
「…三郎左。おぬし、佐助と縁があったな」
返事は、わずかに遅れた。
「……は」
その一瞬の間を、忠三郎は見逃さなかった。
「……あれは、元は甲賀の者ではなかろう。わしはそう聞いておる」
定持は眉を動かし、軽く息を吐いた。
「……それは……。ご容赦くだされ、殿。お答えできませぬ」
「三郎左。あやつが買われてきた童であることを、わしが知らぬと思うたか」
定持の視線が床に落ちる。
「……三雲家には、そのような童が多うございました。他国からさらわれ、あるいは売られ……甲賀の技を覚えさせて素破とする。佐助もまた、そのひとりにすぎませぬ」
「その『技』とやらは、飯も与えず、童を痛めつけることか」
定持は顔を上げたが、口をつぐんだまま、膝の上で拳を握りしめた。
「わしのもとに現れたとき、佐助は十八、あるいは十九。年の割に目が澄みすぎておった……否、人の心の裏を読みすぎていた。あれは……そう簡単に身につくものではない」
湯呑を手にとって口をつける。すでに冷めきった薬の味はなかったが、どこかしら鉄のような、鈍い苦味が舌に残る。
忠三郎はわずかにうつむき、低く問う。
「佐助がなぜ我がもとへ現れたか、そして何故、わしの前から姿を消したのか、存じておるであろう?」
定持は答えず、代わりに沈黙が座敷を満たした。
障子の向こう、庭の松に風がさわり、かすかな葉擦れが耳に届く。
やがて定持は、深く頭を垂れたまま、呟くように言った。
「…全てではありませぬが、存じておることもござります。されど、それゆえにこそ、申し上げられませぬ」
「命を受けてか?」
「……は」
「義兄上の命か?」
定持は否とも肯とも言わなかった。だがその沈黙が、なにより雄弁だった。
忠三郎は細く息を吐く。灯明の火が揺れ、その明かりが定持の頬にほの暗い影を落とした。
この男は、何かを――否、多くを知っている。だが、語らぬ。語れぬ。ゆえに、その背中が語っている。
「……ならば、誰に聞けばよい」
沈黙のあと、定持は小さく呟いた。
「高山右近さまに、お訊ねくだされ」
「右近殿……?」
意外な名前に忠三郎が小首を傾げる。
「殿は…存じてはおられぬので?」
「何を?」
「高山家は甲賀の出。甲賀五十三家のひとつにござります」
「右近殿が甲賀の?」
「いえ。右近殿の父、飛騨殿が…」
定持はそれ以上言葉を継がず、頭を下げて立ち上がった。
「お許しを。これにて、御免仕ります」
一礼し、音もなく座敷をあとにする。
襖が閉まると、部屋はしんと静まり返った。
忠三郎はしばらくその場に佇み、やがて口元に手を当てた。喉の奥から小さな咳がこぼれ、ひとすじの熱が呼気に混じった。
(右近殿――)
名を、胸の内でそっと反芻する。遠い記憶の底で、微かな光が揺れ、何かを照らし出そうとしていた。
答えがあるのか。それとも、新たな問いが口を開けて待っているのか。
(否。ある。)
答えは、ある。
これまでのすべてが、いま、ひとつの糸として結ばれようとしている。
鈎の陣。かつて六角家の旗のもとに集い、幕府と戦った甲賀五十三家。
その中には、蒲生家と血を分けた家々もあった。
だがまさか――あの右近が、その出であるとは。
すべての答えは、甲賀にある。
忠三郎は目を閉じた。
胸の奥で波打つ鼓動に、そっと耳を傾ける。熱を帯びた呼気が、わずかに唇を湿らせた。
いまはただ、沈黙の中に身を沈めるしかない。
遠ざかる足音と、ゆらめく灯の影だけが、部屋の片隅で息づいていた。
伏見――。
宇治川の流れを背に、幾千の人足と材木がひしめき合うこの地に、いま、絢爛たる夢が築かれつつあった。
秀吉の隠居城。その名のもとに、京の大路をしのぐ賑わいと、大坂を凌ぐ華やぎが目につくようになっていた。
朝霧に煙る城下では、大工の掛け声と槌音が昼夜を問わず響き、たちまちのうちに天守がその姿を現した。
明国の使節を迎えるためという口実のもと、秀吉は再び、天下をひとつの「舞台」へと変えようとしていた。
黄金の飾り金具、瑠璃の瓦、朱漆の梁――それらは光を吸い、またはね返しながら、伏見の空にまばゆい輪郭を描き出していた。
やがてその麗しさは、聚楽第をもかすませた。
関白・秀次が構えたあの豪壮な館も、いつしか人々の関心の外へと押しやられ、大名たちは誰ともなく、伏見へと居を移した。
蒲生家もまた、その流れに従い、川の南、ひときわ広く整えられた敷地に、新たな屋敷を構えていた。
初秋の風が、色づきはじめた楓の枝をそっと揺らす。夕暮れの気配とともに、宇治川のせせらぎが遠くからかすかに響いていた。
だが、この伏見という地は、ただの華やぎに満ちた都ではない。
仄かに香る金木犀の匂いの奥に、目に見えぬほど微細な緊張が漂っていた。
それは夢のように美しく、同時に、夢のようにはかなく――
人々を恐れさせた多くの戦国武将たちが、己の居場所を守るために、声を潜め、目を見交わす。
そんな、息を潜めねばならぬ空気が、この麗しき伏見には静かに満ちていた。
庭をかすめた風が紅葉の梢をゆらし、蒲生家新屋敷の座敷へと、かすかな葉擦れの音を届けていた。
現れたのは、加賀大納言こと前田利家と、嫡男の利長。
利家は鷲のように鋭い眼差しをしていた。袴の裾を払う仕草もどこか荒々しく、口を開けば、くぐもった声にかすかな野太さが残っていた。
「……立派な屋敷じゃのう、忠三郎。庭の造りはいかにもおぬしらしい」
「殿下が伏見に城を築かれると聞き、急ぎ作らせたものでござります」
忠三郎は常のごとくにこやかにそう言った。利家の隣では、利長がやわらかな笑みをたたえて言った。
「父上は、この屋敷の佇まいを大層お気に召したようです。名護屋でご一緒した折のことを思い出しました。あのときも、忠三郎殿の調練ぶりには目を見張るものがありましたからな」
「いや、とんでもない。あれは皆、若い者たちがよく働いてくれたゆえ」
利長の物腰は終始穏やかで、言葉にもとげがない。名護屋での数度の語らいの中にも、互いの誠を感じることが多く、忠三郎にとっては心許せる同輩だった。
だが、心のどこかで、もう一人の男――高山右近の不在が気にかかっていた。
語らねばならぬことがある。確かめねばならぬことも――。
「……右近殿は、ご同道ではございませんか」
忠三郎が静かに問えば、利家は眉を動かし、ふっと短く笑った。加賀に引きこもったままの高山右近。忠三郎が呼び出せば来てくれるものと思っていたのだが…。
「右近殿は、加賀で新たにキリシタンになった家臣たちを相手に、毎晩のように説話の座を設け、異国の神の話を語り聞かせておる。なに、いずれおぬしの屋敷にも顔を出すと言うておったわ」
「なんとも右近殿らしい」
右近に聞きたいことは山ほどあった。けれど今は、それも胸の奥に沈めるよりない。
忠三郎は小さく息をつき、話題を変えた。
「本日、あらためてお招きいたしましたのは、あるご縁について、ご相談申し上げたく……」
利家が目を細め、利長が静かにうなずいた。
「――わが娘、お籍と申します。未だ若年なれど、琴にも文にも心を向けております。まだまだ未熟ではございますが、もし貴家の御意にかなうようであれば……。孫四郎様とのご縁を、ひそかに願っております」
前田孫四郎は利長の弟だ。利家は腕を組み直し、口元にわずかな笑みを浮かべた。
「ほう。孫四郎とおぬしの娘か?」
――お籍は、三九郎の娘だ。
滝川三九郎。かつては供に過ごした滝川家の嫡男。
戦場に果て、名誉も家も奪われたその男の、血を受け継ぐものの一人。
世に知られてはならない。
いや、知られればお籍の行く末を乱すことになる。だからこそ、蒲生の娘として育ててきた。
「……孫四郎も年頃ゆえ、嫁取りの話は何度か出ております」
利長が言葉を受け継いだ。
「家中の者にも相談の上、あらためてお返事申し上げたく思いますが……お籍殿のこと、しかと承りました。父上も、いかがですか」
利家はうなずき、静かに言った。
利家はうなずき、静かに言った。
「断る筋合いもあるまい」
「かたじけなく……」
忠三郎は深々と頭を下げた。
その顔を上げたとき、庭先で、柿の葉が一枚、ふわりと落ちていった。
朱と黄の混じり合う葉が、陽の光に透けながら、音もなく地に降りた。
忠三郎はその葉を見送り、わずかに目を伏せる。
そして、意を決したように口を開いた。
「――まことに、勝手な願いとは存じますが……お籍の輿入れ、年内にて執り行いたく思うております」
一瞬、座の空気が揺れた。
利家が眉をひそめ、利長が軽く身じろぎする。
「……いささか急ではないか、忠三郎」
「はい。それゆえ、本日あらためてお越しいただいた次第にて……。孫四郎殿も、いつ渡海命令が下るともわからぬ身。だからこそ、この折を逃せば、またいつ婚儀を整えられるか――」
言葉を重ねながら、忠三郎の胸の内には、もうひとつの思いがあった。
そのことを、口にはできない。
だが、身体の奥に宿りはじめた異変を、誰よりも知っていた。
――ときおり刺すような鈍い痛み。
夜明け前に覚える、臓腑の重さと渇き。
昔ならすぐに癒えた疲れが、今は尾を引いて残る。
それでも、今はまだ口にできぬ。いや、口にしてはならぬのだ。
ただ、一つだけ確かな願いがあった。
――お籍を、あの子を、どうか確かな手の中に託したい。
この世は移ろう。
名も、力も、いずれは風にさらわれる。
だが、お籍の…三九郎の娘の行く末だけは、揺るぎなきものにしてやりたい。
利長が、父を見やり、口を開いた。
「……委細承知いたしました。家中の者とも相談のうえ、しかるべき日取りを定めましょう。お籍殿のこと、よくわかりました」
その声は穏やかで、どこか慈しみに満ちていた。
利家は腕を組み直し、じっと忠三郎を見つめてから、静かにうなずいた。
「――よかろう。孫四郎にはもったいないほどの嫁じゃ。蒲生の娘なら、どこへ出しても恥はなかろう」
「……かたじけのう存じます」
忠三郎は深く頭を下げた。
静かに風が吹いた。
また一枚、柿の葉が、くるくると舞いながら地に降りる。
紅葉が地を染める季節――それは、何かが終わり、何かが始まる兆しでもあった。
語らぬまま、背負うものがある。
明かさぬまま、託すべき想いがある。
そして、いずれこの身が朽ちようとも、信仰がある。
忠三郎は、秋の風の中、そっと目を閉じた。
それは、散る葉を見送りながら、次の季節を信じるものの姿だった。
町医者は年のわりに目が鋭く、無駄な言葉を嫌う人物だった。
脈を取り、舌を見、肩に手を当てて軽く揺らす。
それだけで宗叔は顔を曇らせたが、何も言わずに紙包みを渡した。
「一日三度、湯にて服すこと。……薬の力は一時の助けにすぎぬが、それでも役には立ちます」
忠三郎は小さく頷いた。
「味は?」
「苦うございますな。……いかにも土の香りがしますゆえ」
その苦みが、妙に印象に残った。
宿の離れに戻った忠三郎は、静かに薬を白湯に溶かし、ひと口、喉へ流し込んだ。
かすかな鉄の味と、乾いた草のような香りが鼻を抜ける。
まだ、誰に何を告げるべきか、答えを出せてはいない。しかし、この身体の奥で静かに動いているものに、忠三郎はなんとなく気づいていた。
その夜、忠三郎は三雲定持を呼び寄せた。
几帳面な裃をつけた定持は、畳に座すとすぐに頭を下げた。
「お呼びにて、馳せ参じました」
忠三郎はしばし沈黙を保った。薬湯を啜ったあとの痺れが、舌の奥にわずかに残っていた。喉を通る息が妙に熱を帯びていることに、ひとつ気づく。
「…三郎左。おぬし、佐助と縁があったな」
返事は、わずかに遅れた。
「……は」
その一瞬の間を、忠三郎は見逃さなかった。
「……あれは、元は甲賀の者ではなかろう。わしはそう聞いておる」
定持は眉を動かし、軽く息を吐いた。
「……それは……。ご容赦くだされ、殿。お答えできませぬ」
「三郎左。あやつが買われてきた童であることを、わしが知らぬと思うたか」
定持の視線が床に落ちる。
「……三雲家には、そのような童が多うございました。他国からさらわれ、あるいは売られ……甲賀の技を覚えさせて素破とする。佐助もまた、そのひとりにすぎませぬ」
「その『技』とやらは、飯も与えず、童を痛めつけることか」
定持は顔を上げたが、口をつぐんだまま、膝の上で拳を握りしめた。
「わしのもとに現れたとき、佐助は十八、あるいは十九。年の割に目が澄みすぎておった……否、人の心の裏を読みすぎていた。あれは……そう簡単に身につくものではない」
湯呑を手にとって口をつける。すでに冷めきった薬の味はなかったが、どこかしら鉄のような、鈍い苦味が舌に残る。
忠三郎はわずかにうつむき、低く問う。
「佐助がなぜ我がもとへ現れたか、そして何故、わしの前から姿を消したのか、存じておるであろう?」
定持は答えず、代わりに沈黙が座敷を満たした。
障子の向こう、庭の松に風がさわり、かすかな葉擦れが耳に届く。
やがて定持は、深く頭を垂れたまま、呟くように言った。
「…全てではありませぬが、存じておることもござります。されど、それゆえにこそ、申し上げられませぬ」
「命を受けてか?」
「……は」
「義兄上の命か?」
定持は否とも肯とも言わなかった。だがその沈黙が、なにより雄弁だった。
忠三郎は細く息を吐く。灯明の火が揺れ、その明かりが定持の頬にほの暗い影を落とした。
この男は、何かを――否、多くを知っている。だが、語らぬ。語れぬ。ゆえに、その背中が語っている。
「……ならば、誰に聞けばよい」
沈黙のあと、定持は小さく呟いた。
「高山右近さまに、お訊ねくだされ」
「右近殿……?」
意外な名前に忠三郎が小首を傾げる。
「殿は…存じてはおられぬので?」
「何を?」
「高山家は甲賀の出。甲賀五十三家のひとつにござります」
「右近殿が甲賀の?」
「いえ。右近殿の父、飛騨殿が…」
定持はそれ以上言葉を継がず、頭を下げて立ち上がった。
「お許しを。これにて、御免仕ります」
一礼し、音もなく座敷をあとにする。
襖が閉まると、部屋はしんと静まり返った。
忠三郎はしばらくその場に佇み、やがて口元に手を当てた。喉の奥から小さな咳がこぼれ、ひとすじの熱が呼気に混じった。
(右近殿――)
名を、胸の内でそっと反芻する。遠い記憶の底で、微かな光が揺れ、何かを照らし出そうとしていた。
答えがあるのか。それとも、新たな問いが口を開けて待っているのか。
(否。ある。)
答えは、ある。
これまでのすべてが、いま、ひとつの糸として結ばれようとしている。
鈎の陣。かつて六角家の旗のもとに集い、幕府と戦った甲賀五十三家。
その中には、蒲生家と血を分けた家々もあった。
だがまさか――あの右近が、その出であるとは。
すべての答えは、甲賀にある。
忠三郎は目を閉じた。
胸の奥で波打つ鼓動に、そっと耳を傾ける。熱を帯びた呼気が、わずかに唇を湿らせた。
いまはただ、沈黙の中に身を沈めるしかない。
遠ざかる足音と、ゆらめく灯の影だけが、部屋の片隅で息づいていた。
伏見――。
宇治川の流れを背に、幾千の人足と材木がひしめき合うこの地に、いま、絢爛たる夢が築かれつつあった。
秀吉の隠居城。その名のもとに、京の大路をしのぐ賑わいと、大坂を凌ぐ華やぎが目につくようになっていた。
朝霧に煙る城下では、大工の掛け声と槌音が昼夜を問わず響き、たちまちのうちに天守がその姿を現した。
明国の使節を迎えるためという口実のもと、秀吉は再び、天下をひとつの「舞台」へと変えようとしていた。
黄金の飾り金具、瑠璃の瓦、朱漆の梁――それらは光を吸い、またはね返しながら、伏見の空にまばゆい輪郭を描き出していた。
やがてその麗しさは、聚楽第をもかすませた。
関白・秀次が構えたあの豪壮な館も、いつしか人々の関心の外へと押しやられ、大名たちは誰ともなく、伏見へと居を移した。
蒲生家もまた、その流れに従い、川の南、ひときわ広く整えられた敷地に、新たな屋敷を構えていた。
初秋の風が、色づきはじめた楓の枝をそっと揺らす。夕暮れの気配とともに、宇治川のせせらぎが遠くからかすかに響いていた。
だが、この伏見という地は、ただの華やぎに満ちた都ではない。
仄かに香る金木犀の匂いの奥に、目に見えぬほど微細な緊張が漂っていた。
それは夢のように美しく、同時に、夢のようにはかなく――
人々を恐れさせた多くの戦国武将たちが、己の居場所を守るために、声を潜め、目を見交わす。
そんな、息を潜めねばならぬ空気が、この麗しき伏見には静かに満ちていた。
庭をかすめた風が紅葉の梢をゆらし、蒲生家新屋敷の座敷へと、かすかな葉擦れの音を届けていた。
現れたのは、加賀大納言こと前田利家と、嫡男の利長。
利家は鷲のように鋭い眼差しをしていた。袴の裾を払う仕草もどこか荒々しく、口を開けば、くぐもった声にかすかな野太さが残っていた。
「……立派な屋敷じゃのう、忠三郎。庭の造りはいかにもおぬしらしい」
「殿下が伏見に城を築かれると聞き、急ぎ作らせたものでござります」
忠三郎は常のごとくにこやかにそう言った。利家の隣では、利長がやわらかな笑みをたたえて言った。
「父上は、この屋敷の佇まいを大層お気に召したようです。名護屋でご一緒した折のことを思い出しました。あのときも、忠三郎殿の調練ぶりには目を見張るものがありましたからな」
「いや、とんでもない。あれは皆、若い者たちがよく働いてくれたゆえ」
利長の物腰は終始穏やかで、言葉にもとげがない。名護屋での数度の語らいの中にも、互いの誠を感じることが多く、忠三郎にとっては心許せる同輩だった。
だが、心のどこかで、もう一人の男――高山右近の不在が気にかかっていた。
語らねばならぬことがある。確かめねばならぬことも――。
「……右近殿は、ご同道ではございませんか」
忠三郎が静かに問えば、利家は眉を動かし、ふっと短く笑った。加賀に引きこもったままの高山右近。忠三郎が呼び出せば来てくれるものと思っていたのだが…。
「右近殿は、加賀で新たにキリシタンになった家臣たちを相手に、毎晩のように説話の座を設け、異国の神の話を語り聞かせておる。なに、いずれおぬしの屋敷にも顔を出すと言うておったわ」
「なんとも右近殿らしい」
右近に聞きたいことは山ほどあった。けれど今は、それも胸の奥に沈めるよりない。
忠三郎は小さく息をつき、話題を変えた。
「本日、あらためてお招きいたしましたのは、あるご縁について、ご相談申し上げたく……」
利家が目を細め、利長が静かにうなずいた。
「――わが娘、お籍と申します。未だ若年なれど、琴にも文にも心を向けております。まだまだ未熟ではございますが、もし貴家の御意にかなうようであれば……。孫四郎様とのご縁を、ひそかに願っております」
前田孫四郎は利長の弟だ。利家は腕を組み直し、口元にわずかな笑みを浮かべた。
「ほう。孫四郎とおぬしの娘か?」
――お籍は、三九郎の娘だ。
滝川三九郎。かつては供に過ごした滝川家の嫡男。
戦場に果て、名誉も家も奪われたその男の、血を受け継ぐものの一人。
世に知られてはならない。
いや、知られればお籍の行く末を乱すことになる。だからこそ、蒲生の娘として育ててきた。
「……孫四郎も年頃ゆえ、嫁取りの話は何度か出ております」
利長が言葉を受け継いだ。
「家中の者にも相談の上、あらためてお返事申し上げたく思いますが……お籍殿のこと、しかと承りました。父上も、いかがですか」
利家はうなずき、静かに言った。
利家はうなずき、静かに言った。
「断る筋合いもあるまい」
「かたじけなく……」
忠三郎は深々と頭を下げた。
その顔を上げたとき、庭先で、柿の葉が一枚、ふわりと落ちていった。
朱と黄の混じり合う葉が、陽の光に透けながら、音もなく地に降りた。
忠三郎はその葉を見送り、わずかに目を伏せる。
そして、意を決したように口を開いた。
「――まことに、勝手な願いとは存じますが……お籍の輿入れ、年内にて執り行いたく思うております」
一瞬、座の空気が揺れた。
利家が眉をひそめ、利長が軽く身じろぎする。
「……いささか急ではないか、忠三郎」
「はい。それゆえ、本日あらためてお越しいただいた次第にて……。孫四郎殿も、いつ渡海命令が下るともわからぬ身。だからこそ、この折を逃せば、またいつ婚儀を整えられるか――」
言葉を重ねながら、忠三郎の胸の内には、もうひとつの思いがあった。
そのことを、口にはできない。
だが、身体の奥に宿りはじめた異変を、誰よりも知っていた。
――ときおり刺すような鈍い痛み。
夜明け前に覚える、臓腑の重さと渇き。
昔ならすぐに癒えた疲れが、今は尾を引いて残る。
それでも、今はまだ口にできぬ。いや、口にしてはならぬのだ。
ただ、一つだけ確かな願いがあった。
――お籍を、あの子を、どうか確かな手の中に託したい。
この世は移ろう。
名も、力も、いずれは風にさらわれる。
だが、お籍の…三九郎の娘の行く末だけは、揺るぎなきものにしてやりたい。
利長が、父を見やり、口を開いた。
「……委細承知いたしました。家中の者とも相談のうえ、しかるべき日取りを定めましょう。お籍殿のこと、よくわかりました」
その声は穏やかで、どこか慈しみに満ちていた。
利家は腕を組み直し、じっと忠三郎を見つめてから、静かにうなずいた。
「――よかろう。孫四郎にはもったいないほどの嫁じゃ。蒲生の娘なら、どこへ出しても恥はなかろう」
「……かたじけのう存じます」
忠三郎は深く頭を下げた。
静かに風が吹いた。
また一枚、柿の葉が、くるくると舞いながら地に降りる。
紅葉が地を染める季節――それは、何かが終わり、何かが始まる兆しでもあった。
語らぬまま、背負うものがある。
明かさぬまま、託すべき想いがある。
そして、いずれこの身が朽ちようとも、信仰がある。
忠三郎は、秋の風の中、そっと目を閉じた。
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歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
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