獅子の末裔

卯花月影

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35.帰らざる風

35-5. 茶の湯の灯

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 暘谷庵に、何度も使いを立てた。
 だが、義太夫はいつも「留守」と伝えられるばかりで、一向に姿を見せる気配がなかった。
 右近もまた、加賀に留まったまま、上洛の動きすら見せない。
 ――義太夫は、何かを隠している。
 忠三郎の胸には、その疑念が巣食っていた。

 三雲定持の口から洩れた言葉――
「高山家は甲賀の出。甲賀五十三家のひとつにござります」

 そしてもう一つ、定持がぽつりと語ったことが、いまも脳裏から離れぬ。

 ──「あの佐助という者は……右近殿と、そして亡き滝川一益殿とも、不思議と深く通じ合うものがあったようで……」──

 三雲佐助。
 忠三郎の傅役として仕え、今は姿を消した男。
 表向きは隠居同然として処されていたが、定持の言葉が真ならば――右近、そして滝川一益に通じていたとすれば。
 忠三郎は、己の歩いてきた道のうちに、いまだ知らぬ深い淵が口を開けていたことを感じざるを得なかった。
 いつもふらふらと、用もないのに姿をあらわす義太夫ではあるが、こんなときに限って、姿を現さないのも気になる。
 沈黙し続ける右近。
 待てど暮らせど姿を現さない義太夫。
 そして生死不明の佐助の行方――。
 忠三郎は、胸のうちに渦巻くその問いを、己の病とともに抱え、次第に痩せていくのを感じていた。

 そんな折。
 庭の金木犀が香りを放ち始めた朝、にわかに賑やかな声が門前を満たした。
「ほう。これは……。ようもようも、わしのような者のために、手間をかけてくだされたのう」
 でっぷりと肥えた小袖姿、扇を悠然とあおぎながら、蒲生家の屋敷へと現れたのは――徳川家康その人だった。
 忠三郎は即座に頭を垂れた。
 病の兆しを悟られぬよう、かすかな息苦しさを押し隠しながら、いつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべる。
「ようこそお越しくだされた、内府殿」
「なに、なに。おぬしの目利きには毎度感心しとる。……さて、会津殿がわざわざこのわしに使者までたてて話とは、なにごとであろうか」
 家康は腰を下ろし、小姓が持ってきた茶を啜った。
 忠三郎はわずかに間を置いて、声を落とす。
「内府殿。ひとつ、お願いがございます。千少庵殿のことにございます」
 家康の目が、鋭さを帯びた。
「……少庵殿か。では千少庵を密かに会津に匿っているという噂はまことであったと」
「太閤殿下のお怒りを解き、都に戻すすべはないものかと考える次第。あの方こそ、これからの世に必要と存じます」
 家康は扇を静かに閉じた。
「それは、わしも……考えたことがある。父親と違う、静かな水のような男じゃった。じゃが、何ゆえ会津殿が、そこまで……?」
忠三郎は、かすかに瞼を閉じて息を吐いた。
「それがしは、茶頭が都を去るとき、何の働きもできませなんだ。殿下の怒りも、いずれ冷めようと、安易に構えておりました。……いま思えば、それは、わたくしの慢心にございます」
 その声には、自責の色が滲んでいた。
 家康はしばし目を伏せ、口を開く。
「会津殿。あの折はわしとて、まさか殿下が切腹を申し付けるなど及びもせぬ。無理からぬことじゃ」
「だからこそ、茶頭が生涯かけた茶の湯を、のちの世まで残したいと考えた次第でござります」
 忠三郎の切実な訴えに、家康はしばし考え込み、そしてぽつりと言った。
「茶の湯もまた、人の心を濾し取る器のようなものよ」
「人の心を濾し取る器…」
「少庵殿を戻すこと、その意もようわかった」
「では、ご尽力くだされるか」
「よろしい。わしとおぬしで殿下に話をして、少庵殿をお許しいただけるよう、願い出てみようではないか」
 忠三郎は、深々と頭を下げた。

 秋深まる午後、空は高く澄み、伏見の濠に映る雲が静かに流れていた。
 その日、忠三郎と家康は並んで、秀吉のいる伏見城へと向かっていた。
 城の回廊には、秋草をあしらった緋毛氈が敷かれ、どこか祭の名残を感じさせるが、そこに立つ秀吉の姿は、いつになく険しかった。
「…おぬしが少庵を匿っておったのか?」

 開口一番、秀吉の声には棘があった。
 その目に浮かぶ怒りは、決して過去のものではない。

「わしは忘れてなどおらぬ。あやつの父がどれほどこのわしの顔に泥を塗ってくれたかをのう」
 家康が一歩進み出る。
「されど、少庵殿は父と違い、御政道に異を唱えるような者ではありませぬ。ここは殿下の肝要な御心を天下に示し、まこと風雅を愛でる天下人の姿をお見せになっては……」
 秀吉は目を細め、黙したまま扇で膝をたたいた。
 その視線が、やがて忠三郎に向く。
「忠三郎殿。おぬしも悉くわしを困らせるではないか。なにゆえにわしにこんな話を持ってきた? 命を賭けて願うほどのことなのか」
 忠三郎は、胸の奥から深く息を吐く。
 そして、静かに頭を下げた。
「命を、とは申しませぬ。さりながら…これは、わたくしの悔いでございます」
「悔い、とは?」
「はい。茶頭が京を去るとき、それがしは、その思いに向き合えませなんだ。ことの重さを量れず、日々の政に追われ、ただ、背を向けてしまった」
 その言葉に、秀吉は目を細める。
 家康が、忠三郎の顔をちらりと見た。やはり、蒼白い。
「忠三郎殿…顔色が悪い。どこか、悪いのではないか?」
 忠三郎は微かに目を伏せ、笑みを浮かべようとしたが、うまく笑えなかった。
「この世はなお、戦乱の名残を引きずっております。されど、茶の湯は人と人の心を結び、争いなき場を生み出す術。少庵殿の静かな茶の道こそ、後の世の燈火になると、それがしは信じております」
 しん……と風が止まり、城の時がひととき凍った。
 秀吉は立ち上がり、しばし天井を見上げた。やがて扇を静かに閉じ、ぽつりと呟くように言った。
「よい。そちの願い、この秀吉、聞き届けよう。千少庵を、都に戻すがよい」
 家康が安堵の息をつき、忠三郎はその場に膝をつき、額を畳に伏せたまま、長く動かなかった。
 秀吉はその様子をじっと見つめ、無言のまま、立ち上がり、広間を後にした。
 その背に、秋の陽が斜めに差し、影がゆるやかに伸びていく。

 風もなく、鳥の声も遠く、ただ伏見の空が高く青く、どこまでも澄んでいた。
 忠三郎は、その場に膝をついたまま、掌で畳の感触をたしかめるように、長く静かに頭を垂れていた。

 やがて、ふと頬を撫でた風が、金木犀の香を運んできた。
 その甘くほろ苦い匂いが、胸の奥に積もっていた何かを、そっとほぐしてゆく。
 過ぎし悔いも、願いも、思いも――
 すべては、この一日、このひとときのためにあったのだと、忠三郎は思った。
 家康は隣でそっと扇を閉じ、何も言わず、ただ静かに目を閉じた。

 いっときして、忠三郎は立ち上がった。
 微かな痛みをこらえるようにしていたが、顔にはわずかながらも、やわらかな安堵の色があった。
 伏見の城をあとにすると、空には薄雲が広がり、陽は傾き始めていた。
 庭先に戻るころ、金木犀の香りは一層濃くなっていた。

 忠三郎は立ち止まり、しばしその香を胸いっぱいに吸い込み、目を閉じた。
 遠き日の風景――利休が語った茶のこころ、少庵の穏やかな笑顔、そして別れを言えなかった人々の面影が、そっと胸に浮かぶ。
 けれど、もう、心は騒がなかった。
 悔いは悔いとして受け容れ、その先にある灯を見つめるだけだ。
 ――戦乱の世を越えてゆく茶の湯の道、その道が誰かの光となるならば。
 ならばこの命もまた、無駄ではあるまい。
 忠三郎はゆっくりと歩き出した。
 静かに、ひとすじの風が吹いた。
 金木犀の花が、さらさらと地に舞い落ちる。

 秋は深く、そして静かに、夜の帳を下ろそうとしていた。


『禁裏能』

 明国と和睦した秀吉が名護屋の陣を引き払い、今、熱心に取り組んでいるのは猿楽(能・狂言)だった。
 秀吉は大の猿楽好きであり、名護屋でも暇を持て余し、しばしば猿楽の稽古に興じていた。この十月には、ついに禁裏──すなわち御所──で、帝の御前に三日間にわたって能を披露すると言う。
「会津宰相様にもぜひ演じてもらいたいとの、太閤殿下の仰せにござります」
 使者がそう告げると、忠三郎はわずかに首を傾げた。
「会津…宰相?」
「先年、参議におなりで」
 忠三郎はああ、と頷いた。あてがう土地がなくなった今、秀吉が褒美として与えられるものの一つが、官職だ。参議は従三位、太閤は従一位──どれほど官職が上がろうとも、結局は秀吉の下にある。名ばかりの飾りにすぎず、興味を持たなかったため、すっかり忘れていた。
「されど殿。そのお体では…」
 町野左近が心配そうに声をかける。このころには、家中の誰もが、忠三郎の身体に忍び寄る異変を感じ取っていた。
「案ずるな、爺。演目はこちらで選んでよいとのことだ。稽古の要らぬものを選べばよい」
 しぶる町野左近をよそに、忠三郎はあっさりと了承し、使者を返した。
(猿楽とは、また久しい…)
 ふと、昔のことを思い出す。かつて織田信忠が猿楽に夢中になりすぎて、怒った信長が装束一式を取り上げたという話。
 また、義兄・一益も厩橋で関東の諸将の前に立ち、自ら舞台に上がったという。
(あの義兄上が…)
 見てみたかった、そんな思いが胸をよぎり、忠三郎はふっと微笑んだ。
「…で、殿。演目は…」
「されば、鵜羽《うのは》といたそう」
 忠三郎が嬉しそうに微笑むと、町野左近は一瞬、ぎょっとして言葉を詰まらせた。
「は?あ、あの…それは…」
 隣に控えていた町野長門守が、おやと父の顔を覗き込む。
「父上、何かご存知で?」
「いやはや…それは…なんとも憚れることじゃ」

 曰く付きの猿楽、鵜羽。物語自体は、神武天皇の父にまつわる由来を描いたもので、内容そのものは目出度い。問題となるのは、鵜羽そのものではない。
 鵜羽が公の場で演じられたのは今から百五十年も前のこと。
 石清水八幡宮の御神託によってえらばれた六代将軍、足利義教の時代。
「八幡様の御神託とは?」
 長門守がたずねると
「ようはくじ引きじゃ」
 忠三郎はそういって可笑しそうに笑う。
「は?くじ引きで将軍を決めたと?そのような戯けた話は…」
 長門守が目を丸くする。
「否。くじ引きにより御神託を得るのは誤りではない」
 神官の家の出である町野左近が口を挟んだが、表情は厳しいままだ。

 くじ引きで選ばれた将軍、義教は最初から苦労の連続だった。将軍任官直後に、近江の国・大津で幕府を揺るがす土一揆が発生したのだ。
 徳政令を求める百姓たちの輪は広がり、やがて都をも脅かすほどに膨れ上がった。集まった者たちは幕府の強気な姿勢を尻目に、幕府ではなく金貸しや寺社、酒屋を襲い、私徳政を求めた。
「これが悪しき前例となり、各地で徳政を求める一揆が起きたのじゃ」
 このころ、疫病が流行り、飢饉が続いたことで多くの者が飢餓に苦しんでいたことが原因だった。
 しかし、すべては人々が将軍や幕府を侮っていることに原因があると考えた将軍義教は、些細なことも許さない恐怖政治を行うようになる。鎌倉公方の粛清をはじめ、多くの者が処罰された。
「その戦の祝いの席で演じられた猿楽が鵜羽」
「では目出度き折の演目ではありませぬか?」
「いや…。その猿楽の最中、曲者が乱入し、将軍が斬られたのじゃ」
 忠三郎の声が、夜風のごとく冷ややかに響いた。
「は?公方様を、暗殺?」
 驚愕する町野長門守に、父・左近は眉間に皺を寄せ、押し黙ったまま顔を伏せた。
「永享六年――応仁の乱よりも遥か昔。宴の席には、畠山・斯波・細川といった管領家の面々や、赤松・山名ら名だたる守護たちが並び、都一の猿楽師たちが舞台に立っていた」
 忠三郎は目を細め、当時を幻視するように語りだす。
「御簾の向こう、将軍義教は黒漆の高御座に鎮座し、鷹揚に舞を眺めておられた。されど、猿楽が佳境に差しかかったそのとき――一陣の風のように、ひとりの影が舞台に躍り出た」
 太鼓の音が、耳に残っているような気がした。
「誰もが演出の一部と思うたそうな。鮮やかな装束、異様な面。その刹那、男の袖の奥から抜かれたのは短刀ではない。打刀だった」
 その瞬間、場が凍りついた。
「白刃が閃き、あたりは血しぶきに染まった。御簾が裂け、将軍の喉元が一閃――」
 町野長門守が思わず息を呑んだ。
「御簾の奥から、将軍の怒号も、悲鳴も聞こえなかった。ただ、重たく肉を裂く音がし、次の瞬間、義教の首がごろりと地に転がった」
 忠三郎は口をつぐんだ。
 それはあまりにも静かな死だったという。観客たちは恐怖に打ち震え、逃げることもできず、座って硬直したまま、血の臭いに包まれていた。
「将軍は、己の権威と暴政で人心を威圧した。恐れられはしたが、敬われはしなかった。そして、その最期もまた、恐れの象徴である舞台の上――皆の眼前で、あっけなく命を落としたのだ」
 誰もが言葉を失っていた。

 町野左近が重く呟く。
「それゆえ…鵜羽は禁じられた。祝いの舞いの裏に、血の惨劇が潜んでおるゆえに…」
「うむ。鵜羽を演じることは、世に不吉をもたらす――そう信じられ、百五十年のあいだ誰一人、演じようとせなんだ」
 忠三郎は微かに笑んだ。
「なればこそ、今、わしはこれを演じようと思う」
「な、なにゆえ、そのような!それではまるで、殿が太閤殿下を殺めようとしておると噂されても可笑しくはありませぬ」
 長門守が思わず声を上げた。
「そのような噂が人の口に上ったとき、太閤が如何いたすのか、見ものではないか?」
 忠三郎が他人事のように笑う。
「殿はまさか、まことに太閤殿下を…」
「人の世に封じられた話…誰もが忘れたふりをしておる。されど、舞は語る。声なき言葉を、面の下にひそませて」
 忠三郎の横顔を、町野左近はじっと見つめた。
 舞台を下りた猿楽面のように、静かで、空虚で、それでいて何かが満ちていた。
「鵜羽に宿るもの…それを、殿はあえて呼び覚まそうと…」
 忠三郎は、遠い空を仰ぎ、ふっと微笑む。
「わしの命も、もはや幾ばくもなかろう。ならば最後に、一度くらい――この身をもって、語らせてもらおうではないか」
 その夜、庭に敷きつめられた紅葉が、月の光に照らされて、まるで朱に染まった血の海のように見えたという。
 そして誰ともなく、こう囁く者があった。
 ――鵜羽の舞は、再び世に現れた。
 ――それは祝祭か、あるいは呪詛か。

 翌日、京には初霜が降りた。
 朝まだきの石畳に、一片の羽が落ちていた。
 白く、長く、冷たいその羽根は、どこから来たのか誰も知らなかった――。
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