獅子の末裔

卯花月影

文字の大きさ
208 / 214
35.帰らざる風

35-6. 月の在りか

しおりを挟む
 風が、静かに草を撫でていた。
 さながら水面のように、淡くやわらかな波が一面にひろがってゆく。
 どこまでも続く緑の草原。風が草の穂をそよがせ、空はどこまでも高く、青く、透明だった。
 忠三郎は、ただ一人、その風のなかに立ち尽くしていた。
 この光景を、自分はかつてどこかで見た――そう思った。
 風の匂いも、遠くで鳴く雲雀の声も、胸の奥をかすかに疼かせる。だが、それがいつの記憶かは思い出せない。ただ懐かしさだけが、胸の内に広がっていた。
 ふと、気づけば傍らに、人の気配があった。
 風に紛れて、懐かしい声が聞こえてくる。
「……若」
 その声に振り向くと、そこにいたのは、佐助だった。
 いつかの夏の日と同じように、くたびれた装束のまま、気怠げに、どこか嬉しそうに立っていた。
「……佐助か」
 そう呟いた瞬間、胸の奥にこみあげるものがあった。
 ああ、これは夢なのだ――忠三郎は悟った。
 この世を去ったはずの男が、こうして風のなかに立っているのだから。
 だが夢であるはずなのに、風の感触はあまりに確かで、佐助の声も、微かに笑う目元も、昨日会ったばかりのように生き生きとしていた。
「若も、ご立派になられて」
 くすりと笑う佐助に、忠三郎も笑みをこぼす。
「おぬしは、あのときのまま。何一つ変わらぬ」
「夢のなかですからな。若が望めば、拙者など、いつまでも若いまま」
 草原を渡る風はどこまでも穏やかで、陽の光は金色にかがやきながら、草の海をゆっくりと照らしていく。
「しかし……夢にしては、ようございますな。この春の気配が、こんなにも」
 佐助のことばに、忠三郎は微かに頷く。
 足もとに広がる草の感触が、現実のように鮮やかだった。
 この草原のどこかに、自分の記憶のかけらが落ちている気がしてならなかった。
 やがて、佐助は昔語りのように、ぽつりぽつりと語りはじめた。
「若は存じておいでで? 甲賀も日野も、もとは同じところから生まれたと」
「もとは……同じ?」
 その話は、かすかに記憶の底にあった。たしかに昔、誰かに聞かされたことがある。
「千年ほど前のことと伝わっております。近江の地を切り開き、多くの知恵と技をもたらしたのは、百済から渡ってきた人々。薬、文字、道具……そして、何より人の暮らしを支える智恵の数々。それを受け入れ、育んだのが、この地だったと」
 佐助は、風の吹く方へ目を細めながら続けた。
「だからこそ、彼らは海を越えて唐や隋へと渡った。危険を冒してでも、新しき知を求めるために。文化を運ぶ風が、そこにあることを知っていたがゆえに」
「その風が、まず吹いたのが近江だった、と?」
「はい。この地が、どの土地よりも先に、大陸の香りを抱いた。だからこそ、この地には争いよりも、守るべきものがあった。そのことのゆえに…」
「戦さをするなと?」
「はい。若であればもう、お分かりのはず」
 佐助の言葉に、忠三郎はしばし黙したのち、低く呟いた。
「分かっておる。それゆえに太閤を…」
 忠三郎の声は、風にさらわれるようにして消えていった。
 空は静かに澄み渡り、雲雀の声が、遥かな空へと溶けてゆく。

 秀吉が生きている限り、やがてまた、明との争いが起こるだろう。
 再び兵を集め、海を渡らせ、大陸を従わせんと、あの男はきっと言い出す――今度こそ、全てを蹂躙せんとするだろう。
 だが、それはもう、終わらせねばならないことだ。
 誰かが、その愚を断ち切らねばならない。
「わしがこの手で終わらせる」
 その決意を吐き出したとたん、佐助がそっと首を横に振った。
 風にそよぐ草のように、静かに、そして優しく。
「それはいささか、短慮というものでござりましょう」
「佐助…」
 忠三郎は、遠くの空を見やった。
 かつて夢見た大義、歩んできた道、失ったもの、そして守りたかったもの――その全てが胸に去来し、ことばが続かなかった。
「わしは猿よりも、豊臣家の大身の大名たちよりもはるかに年が若い。待てばいずれは天下を覆すときもくると、あらゆる屈辱にも、孤独にも、耐えてきた」
 語るうちに、声が震えた。
 悔しさが、唇の奥で滲んだ。
「されど――」
 言葉の先に、風が吹いた。
 草原を渡る風は、あまりにも優しく、残酷なほど穏やかだった。
「……まもなく、散らねばならぬ」
 そのことを、誰よりも自分が知っていた。
 この命の灯が、そう長くはないことを。
 志半ばにして、道を閉ざされることを。
「何も成せずに…何者にもならぬまま、燃え尽きるわけにはいかぬ」
 幾度も裏切られ、奪われ、それでもなお理を信じてきた武将の、最後の叫びの声だった。
 その時、佐助がそっと忠三郎の肩に手を置いた。
 やさしく、懐かしく、どこか哀れみを含んだ温もり。
 夢であるはずのその手が、あたたかな感触とともに、忠三郎の胸に届いた。
(同じことが以前にも…)
 咄嗟に思い出せない。ただ、似たようなことが過去にもあった。
(義兄上…)
 一益だ。あの厳しくも慈愛に満ちた義兄が、ある日そっと、自分の肩に手を置いた。
 あれは、いつのことだったのか。
 戦の前か、敗走の夜か。
 朧げな記憶の中で、ただその手のぬくもりだけが、静かに残っていた。

(甲賀も日野も、元は同じ――)
 ふと、その言葉が心に返ってくる。
 それを語ったのは、常に一益の傍に付き従っていた義太夫だ。
 あの男の気まぐれな口調で、どこか芝居めいた語り口で。
 ふと忠三郎は、隣にいる佐助を見た。
「佐助。教えてくれ。おぬしの兄弟子とはもしや…」
 言いかけたその時、佐助は小さく微笑み、首を横に振った。
「若。太閤の志が天命に背くものであれば、それは必ずや潰えましょう。若が手を下さずとも。剣を取る者は剣で滅びる」
「それは義兄上の…」
 忠三郎の声に、佐助は頷く。
「若が信心するあの教えは、自ら手を下すことではなく、天にゆだねることでは?罰するのは、御身ではなく、もっと大いなるもの……」
「何故、それを…」
 忠三郎は思わず問いかけていた。
 佐助が、キリシタンの教えを口にすること自体が、異様だった。
(右近殿か…)
 三雲定持の話を思い出した。高山家は甲賀の出。甲賀五十三家のひとつ。たしかにそう言っていた。ならば佐助と、どこかでつながりがあっても不思議ではない。
 その時、不意に、腹の奥から突き上げるような痛みが走った。
 夢が、泡のように遠ざかる。
 意識がぐらりと揺れ、現実の闇が戻ってくる。
 布団の端に指をかけ、忠三郎はうめき声をかみ殺しながら、身をよじった。
 肝を刃で裂かれるような鈍痛が、内からじわじわと広がっていく。
「……またか」
 声に出すと、かえって苦しさが和らいだ。
 脇に置いてあった丸薬を手に取り、水差しのぬるい水で流し込む。それから、長く深いひと息をついた。
 先ほどの夢の残滓が、静かに胸に戻ってくる。佐助がいた。一益の手のぬくもりがあった。
 あれはただの夢だったのか、それとも――
 遠い日に見た景色の、断片が交ざった幻だったのか。

 ふいに、立ち上がりたくなった。
 身体は重い。だが、心は妙に澄んでいた。

 襖を音を立てぬように開ける。夜気がひやりと肌を撫でた。
 月明かりが、庭にうす青くこぼれている。
 見上げた先――
 空には、磨き抜かれた銀の鏡のように、満月がひとつ、冴え冴えと浮かんでいた。
 雲ひとつない夜空。
 その静謐の中に、忠三郎はただ立ち尽くした。
 誰もが消え、すべてが変わっていく。
 それでも、こうして月は、かつて一益が見上げたであろう空に、変わらず輝いている。

「……せめて、ひとかけらでも、残せるだろうか」
 ひとりごとのように漏らした声は、夜の中へ溶けていった。
 月の光が、忠三郎のやつれた頬に、やわらかく差していた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

九州のイチモツ 立花宗茂

三井 寿
歴史・時代
 豊臣秀吉が愛し、徳川家康が怖れた猛将“立花宗茂”。  義父“立花道雪”、父“高橋紹運”の凄まじい合戦と最期を目の当たりにし、男としての仁義を貫いた”立花宗茂“と“誾千代姫”との哀しい別れの物語です。  下剋上の戦国時代、九州では“大友・龍造寺・島津”三つ巴の戦いが続いている。  大友家を支えるのが、足が不自由にもかかわらず、輿に乗って戦い、37戦常勝無敗を誇った“九州一の勇将”立花道雪と高橋紹運である。立花道雪は1人娘の誾千代姫に家督を譲るが、勢力争いで凋落する大友宗麟を支える為に高橋紹運の跡継ぎ統虎(立花宗茂)を婿に迎えた。  女城主として育てられた誾千代姫と統虎は激しく反目しあうが、父立花道雪の死で2人は強く結ばれた。  だが、立花道雪の死を好機と捉えた島津家は、九州制覇を目指して出陣する。大友宗麟は豊臣秀吉に出陣を願ったが、島津軍は5万の大軍で筑前へ向かった。  その島津軍5万に挑んだのが、高橋紹運率いる岩屋城736名である。岩屋城に籠る高橋軍は14日間も島津軍を翻弄し、最期は全員が壮絶な討ち死にを遂げた。命を賭けた時間稼ぎにより、秀吉軍は筑前に到着し、立花宗茂と立花城を救った。  島津軍は撤退したが、立花宗茂は5万の島津軍を追撃し、筑前国領主としての意地を果たした。豊臣秀吉は立花宗茂の武勇を讃え、“九州之一物”と呼び、多くの大名の前で激賞した。その後、豊臣秀吉は九州征伐・天下統一へと突き進んでいく。  その後の朝鮮征伐、関ヶ原の合戦で“立花宗茂”は己の仁義と意地の為に戦うこととなる。    

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

対米戦、準備せよ!

湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。 そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。 3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。 小説家になろうで、先行配信中!

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

処理中です...