滝川家の人びと

卯花月影

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6 色即是空

6-6. 雨中無常

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 十一月、信長が右大将に任官し、織田勘九郎が秋田城介に補任された。
「秋田城介?」
 義太夫が不思議そうに首をかしげる。秋田城介とは七百年あまり昔、秋田の国司に与えられていた幕府の官職にすぎない。
「帰するところ、勘九郎殿…いや、城介殿に東国を委ねるという上様のお心の現れではあるまいか」
 忠三郎はそう呟き、信長の眼差しがすでに関東・奥羽へと向けられ、やがて天下を射んとしていることを思った。
「そのようなことよりも、鶴、その方、いつまでも日野に戻らぬのは、どこぞへ使い番を命じられているのではないか?」
 義太夫の目は相変わらず鋭い。信長が奉行衆のごとく、忠三郎に細かき使いを仰せつけていることを知っての言である。
「いや…、それは…、なんとはなしに…」
 答えを濁すと、義太夫はわざと猫なで声を作り、
「おぬしが嘘や隠し事が下手なことは、わしがよう承知しておる。御曹司の元へ参ろうとしておるのではないか」
 図星だ。
 信長から、岩村城を攻略中の勘九郎信忠の元へ、秋田城介任官の知らせを届け、あわせて戦況を見てくるようにとの命を受けている。
「それは、まぁ…然様。されどそれは…あくまでもお役目にて…」
 のらりくらりとかわそうとする忠三郎に、義太夫は食い下がる。
「誤魔化しにもなっておらぬ。ならば、わしも岩村城へ行けるように、殿に話してくれ」
 一益が義太夫を近づけぬようにしていることは重々承知している。それを横から、余計な口をはさむことはばかられる。
「…無茶を申すな。おぬしは来ぬほうがよい」
「わしは殿のため、お家のため、織田家のために章姫様のことを案じておるのじゃ」
「見えすいた虚言を申すな」
「困ったときに助け合うのが友ではないのか。のう、鶴。わしとそなたの仲じゃ。常日頃よりうまい飯を食わせてやっておる恩もあろう?」
 いつになく義太夫のしつこさに辟易していると、ふいに声を潜め、
「では致し方ない。おぬしが都の我が家の屋敷に女子を連れ込んでおることを殿に申し上げるしかあるまい」
 その一言に、忠三郎の顔色が変わった。
「義太夫、友と言うておきながら、わしを脅すのか。女子を連れ込んでいるのはおぬしも同じではないか」
「ふん、あれは我が屋敷ゆえ差し支えなし。されど鶴は滝川の名を騙って悪事を働いておる。我が家の者でもないのに、我が家の面汚しよ。されどわしは友ゆえ、殿の御前では口を噤んでやっておる。ここはひとつ、友のためにひと肌脱いでもらおうではないか」
 困り果てた忠三郎は、結局、一益に一筆入れ、義太夫、滝川助太郎、町野長門守を連れて岐阜を後にした。
 
 半年ほど籠城していた岩村城は、十一月に入り、兵糧が尽きかけていた。日に日に疲弊する城兵の様子が伝わり、城方からは織田本陣へ幾度も使者が訪れてきている。
「武田の援軍が近づいているとの噂が立っております。上様も御案じあそばされておりまする」
 忠三郎がそう言うと、信忠は静かに頷いた。
「敵将とはいえ仮にも秋山は縁者。助命の条件として岐阜まで参り、父上に直接詫びを入れるよう伝えたところ、降伏したいと申し入れてきた。一両日中には、事は収まろう」
 そう言うと、信忠はふと義太夫の方へ視線を向ける。
「そなたもよう働いてくれた。章もじきに城より出て参ろう」
 本来ならば陪臣ごときに声をかける必要はない。しかし信忠は、義太夫を見れば必ずひとこと声をかけてくれる。その細やかな気遣いに、義太夫はかえって居心地の悪さを覚え、俯きながら、ハハッと答えた。
 その後、信忠は父・信長から届いた書状に目を通し、顔を上げる。
「忠三郎。父上からの文には、詳しきことはそなたに聞けとある」
「はっ。さすれば――」
 忠三郎が目配せすると、信忠はすぐに人払いを命じた。  
 義太夫も助太郎に促され、渋々ながら帷幕の外へと退くしかなかった。
(人払いして、何の話か…。章姫様のことか、それとも殿に隠すべき大事か。わしの胸のうちを見透かされておるようで、じっとしておれぬ)
 義太夫は気が気ではない。岐阜を出たときから、忠三郎は何かを隠しているような素振りが見え隠れしている。そわそわと待っていると、助太郎が義太夫を睨む。
「義太夫殿、なんと身勝手なことを。殿になんと申し開きなさる所存か」
 助太郎に言われて、義太夫も返す言葉がない。
「わしは章姫様を案じてじゃな…」
 苦しい言い訳をしようとすると、助太郎が怒り、
「全く、滝川家ご一門の柱石たるべき御仁がこれでは、我らが面目は立ちませぬぞ。上様の耳に届けば、滝川家の将来までも危うござる」
 独り言なのか、義太夫に向かって言っているのか、いずれにしても声が大きい。信忠の家臣たちがチラチラとこちらを見るので、どうにも居心地が悪い。
 周りの視線を気にしつつ待っていると、しばらくして忠三郎が出てきた。
「鶴、御曹司は何と?」
 不安げな顔をする義太夫に、忠三郎は常の笑顔で、
「案ずるな。明後日には開城となろう。わしは城明け渡しを見届けねばならぬ。義太夫は先に戻れ。義兄上にも言い訳が…」
「待て。わしも城明け渡しに立ち会う」
 義太夫としてはおつやが無事に城から出てくる姿を見届けなければ安心して国に戻ることはできない。
「義太夫殿。大概になされよ」
 助太郎が怒って袖を引き、忠三郎もうーんと唸って笑いながら、
「いや。おぬしはおらぬほうが…」
「なんじゃ、鶴、何を隠しておる。その顔は何か隠している顔じゃ!白状せい」
 何度聞いても忠三郎は、常と変わらぬ柔らかな笑みを浮かべるだけだ。しかしその笑顔の奥に、義太夫の詮索を受けつけぬ固い壁があるのを、感じずにはいられない。
 信長から密命を受けてきているのであれば、何を言っても教えてはくれないだろう。
 結局、義太夫は忠三郎とともに信忠の陣営に残った。――胸の内に渦巻く不安は晴れぬまま、刻一刻と岩村城の城明け渡しの日が迫っていた。
 
 城明け渡しの朝――。
 半年近く閉ざされていた岩村城の大手門が、ついに軋みをあげて開かれた。黒々とした扉が押し広げられるたび、湿った木の香と、長き籠城の疲弊を帯びた空気が漏れ出してくる。
 先に姿を現したのは城主・秋山虎繁と、その妻、おつやの方。蒼白に痩せた面差しながらも、なお気丈さを失っていない。その後に従う重臣たちも、皆やつれ果て、目は光を失っていた。
 そして――最後に、若き姫が姿を見せた。
 侍女に守られ、白梅の花が冷たい土塀の影からひらりと咲き出すかのように、章姫が城門をくぐり抜けた。
「兄上!」
 十八に成長した姫は、はらはらと花びらがほころぶような笑みを浮かべ、ひとつ年長の兄、信忠に駆け寄った。その声が響いた途端、殺伐とした戦場の気配が、不思議なほど澄み切った。血と鉄の匂いさえ、たちまち和らいでいく。
「あれが章姫殿か」
 忠三郎は、初めて目にする姫の姿に息をのんだ。興味深げに凝視し、ふと呟く。
「上様にも、吹雪にも似ておらぬ。されど…どこかで見たことがあるような顔つき…」
 何気ないようでありながら、鋭く核心を突いている。
 義太夫の胸に、ひやりと冷たいものが走った。
「まぁ、殿の姪御ゆえ…」
 努めて平静を装い、義太夫は軽く答える。忠三郎も「フム」と頷き、それ以上は追及しなかった。
 二人が話をしていると、信忠がこちらを振り返った。
「義太夫、供をつける。章を連れて先に岐阜へ戻れ」
 忠三郎も無言で頷く。
 義太夫はおつやの方を気にかけながらも、逆らうわけにはいかず、章姫を守って岐阜への帰途に就くこととなった。
 
 章姫が義太夫らに伴われて岐阜へ向けて発ったのち、信忠は兵を差し向け、おつやの方ただ一人を本陣へ引き立てさせた。そして秋山虎繁とその郎党はたちまち縛り上げられ、残りの兵は川尻秀隆に命じて、その場で打ち首にした。
「勘九郎殿!これはいかなる沙汰か。まさか、身内であるこのわらわを謀ったのか。御坊丸の命がどうなってもよいと申すか!」
 帷幕の外から響く秋山家の家臣たちの声を聞き、おつやの顔は、怒りと絶望が入り交じっていた。傍らにいた忠三郎が一歩進み出て、温和な笑顔をつくりながらなだめるように言葉を掛けた。
「先年の合戦の折、戦わずして武田に下った痴れ者どもを皆、討ち果たすようにと、上様からの下知にござりまする」
 おつやを落ち着かせるつもりなのだろうが、こんなことを笑顔で伝えるのはどうだろう。却って逆撫でするだけではないか、と信忠は二人を見る。
「では御坊丸は?」
「上様は、御坊丸様が武田に捕らわれたときから、諦めておられる様子にて。つや様はそれがしが御供仕りますゆえ、清須に戻り、出家していただき…」
 忠三郎が言葉を選びつつ続けようとすると、おつやは最後まで聞かず、忠三郎の頬を烈しく打った。
「おのれ!だまし討ちとは卑怯な!」
 当代随一の美貌をもつおつやの白き手は、怒りにわななき、紅潮した面差しは烈火のごとし。忠三郎はその気丈さに言葉を失い、ただうろたえるばかりだ。
 それを見ていた信忠が静かに口を開いた。
「その者に罪はない。これは父上の命でござります」
「秋山殿のお命を奪うというか」
「岐阜まで連れてくるようにと、父上の仰せでござります」
「寺などへは行かぬ!わらわも秋山殿と運命を共にする。秋山殿を斬るというのであれば、まずこのわらわを斬れ。――そのように三郎殿へ伝えよ!」
 気丈なおつやが信忠を睨みつける。信忠は動じることなく、なんとかおつやを落ち着かせようとする。
「父上はおつや殿のことを案じて…」
「敵の情けは受けぬわ!」
 烈しい一喝に忠三郎も押され、深いため息をもらして信忠に向き直った。
「城介殿。もはや詮無き事。上様に御沙汰を仰ぐ以外はありますまい」
 信忠が暗い顔をして頷いた。その面持ちは暗雲のごとく翳っていた。
 
 一足先に岐阜に戻った義太夫は、忠三郎に言われていた通り、章姫を滝川屋敷に連れて行った。
 章姫は屋敷に着くなり、懐かしげにあたりを見回し、ぱっと広間へ駆け込んでいく。
「叔父上!爺!」
 そこには、報せを受けて待っていた一益と谷崎忠右衛門の姿があった。
 まだ幼さの残る章姫が飛び込んでくると、一益は相好を崩し、ようやく肩の力を抜いた。
「無事であったか、章」
 義太夫や忠三郎では頼りなく、勘九郎ならば必ず連れ戻してくれると信じてはいたが、知らせを得るまでは安堵できなかった。
 章姫は籠城戦に巻き込まれていたとは思えぬほどの笑顔を見せ、忠右衛門は涙を滲ませて喜んだ。
 そこへ、遅れて義太夫が広間に現れた。ばつの悪さを隠そうともしない顔だ。
(さて、いかように申し開きすべきか…)
 胸の内で言い訳を探す義太夫を、一益はただ一瞥しただけで、言葉をかけることもなく、すっと立ち上がり広間を後にした。
(これは相当にご立腹—)
 これまで、ここまで冷たい態度をとられたことは一度もない。
 翌日、信長に呼ばれて岐阜城千畳敷館へ参上する折、一益が伴ったのは義太夫ではなく佐治新介だった。
(な、なぜ新介を…? やはり、お怒りになっておるのか…)
 義太夫は心の臓が縮む思いで、一益の背を見送った。これまでどのような失態をしでかしても、自分が外されることはなかった。
 畳に腰を下ろすと、体から力が抜け落ちる。胸の奥に広がるのは、もはや取り返しがつかぬのではという不安と焦り。
 ――けれども、それは義太夫の思い過ごしにすぎなかった。
 一益の心は、すでに別のところへ向けられていた。

 しばらくして、戻ってきたのは蒲生忠三郎であった。
「なんじゃ、鶴か」
 義太夫は肩を落とし、がっかりした声を出す。
「なんじゃとは、あまりな言い草よ。義兄上は、やはり上様に呼ばれたか」
「殿は相当、お怒りじゃ…。口も効いてはくれぬ。おぬしから、とりなしてくれぬか」
 情けなさのにじむ声に、忠三郎はふっと笑みを浮かべる。
「一笑、一笑。義兄上のことじゃ、気に病むことはあるまい。いつものことと、深くは思うておられぬはずじゃ」
「ならばよいが……。して、おぬし、秋山虎繁を連れ戻ったのであろう? おつや様は、いずこに連れて行かれた?」
 義太夫が声をひそめ、不安げに問う。忠三郎はいつもの穏やかな笑顔を崩さぬまま答えた。
「千畳敷館までお連れした。今後の沙汰は上様次第というところかのう」
 奥歯にものが挟まったような言い回しが、かえって胸に引っかかる。しかも一益の冷ややかな態度が、なおさら義太夫の心を重くしていた。
 あれやこれやと忠三郎に愚痴をこぼしつづけるうちに、いつしか日は傾き、夕闇が屋敷に迫ってきた。
 そのころになってようやく、一益が帰ったとの声が廊下に響く。
「殿が――」
 知らせを耳にした途端、義太夫ははじかれたように立ち上がり、飛ぶように一益の居間へ駆け込んだ。
「殿!此度の不始末、どうかお許しくだされ!」
 開口一番に床板に額をすりつける。
 だが、一益は思いのほか静かで、怒りの色も見せず、
「……ちょうどそなたを呼ぼうと思うていたところじゃ」
 と切り出した。
 そこへ忠三郎もやってきた。
「秋山虎繁とその家人どもは死罪となった」
「それでは…上様は約定を違えて…」
「元々、約定を違えたのは秋山ではないか」
 忠三郎がそう言う。
 ――そのとき、岐阜城千畳敷の御座にあって、信長はただ一言、「裏切りは許さぬ」とのみ言い放った。顔色は変わらず、酒盃を傾ける仕草もいつも通り。だがその瞳の奥には、人の情など一片も映さぬ烈火が潜んでいた。
「それは確かに…して、おつや様はいずこに?」
 義太夫が不安に駆られて訊ねると、一益と忠三郎が顔を見合わせる。
 やがて忠三郎が口を開いた。
「上様は出家を勧められたが…つや殿は秋山と運命を共にすると言い張り…」
  最後の最後まで助けようとする信長の手を、おつやは振り払ったのだ。おつやの怒りはなんだったのだろう。自分たちを騙して開城させたことへの反発か、それとも、これまで散々自分を政治利用してきたことへの抗議なのか。
「運命を共に?な、なんと健気な。そ、それで、斬られたのか?」
 義太夫が色を失い、悲鳴にも似た声でそう問うと、忠三郎は首を横に振った。
「上様は大変ご立腹じゃ。おつや殿は秋山虎繁とその家臣たちとともに、長良川の河原で逆さ磔にされておる」
「何!上様は御身内の…しかも女子のおつや様に対し、そのような無体なことを?」
 義太夫が刀を掴んで立ち上がると、忠三郎が慌てて制する。
「待て、義太夫!血迷うな!」
「鶴!おのれはかような非道な沙汰を全て知っていて、わしの前でそしらぬ顔をしておったのか」
 忠三郎を突き飛ばし、踵を返して駆けだそうとする義太夫。その前に一益が太刀を投げ、義太夫が足をとられて転倒した。すかさず忠三郎が飛びかかり押さえ込むが、義太夫は殴りつけて跳ねのけようとし、二人は取っ組み合いになる。
「上様は人の子とは思えぬ、げに恐ろしき第六天魔王!これを黙って見過ごせるものか!」
「黙れ、義太夫!愚かしいにもほどがある!身の程をわきまえよ!」
 一益は静かに立ち上がり、もみ合う二人のそばに片膝をついた。その冷然たる声が広間に響く。
「上様の御前で決まったことじゃ」
 その言葉に二人はハタと我に返り、同時に一益を見上げる。
「義太夫、どこへ行く?」
「殿…。すべてご存じの筈。行かせてくだされ」
「そなたは我が家の家人である。わかっておろう?」
「しかし…」
 義太夫は床を叩き、なおも言葉を返そうと顔をあげた、そのとき、一益の言葉が一拍だけ遅れ、瞼の縁がわずかに潤んだ。
「わしはそなたの主である。家人の痛みは主の痛み。そなたの苦しみは我が苦しみである」
 驚いて言葉を失った義太夫は、次の瞬間、
「殿!」
 と叫んで一益に取りすがり、男泣きに泣き出した。その姿に、忠三郎も息が浅くなり、視線を外した。
 
 河原に引き立てられるその歩みのうちに、おつやはふと目を閉じた。御坊丸の幼き笑顔が胸裏に浮かぶ。ひとたびこの身を駒として弄んだ男への憎しみも、政の具にされた日々の悔しさも、もはや遠い。残されたわが子だけが、最後まで心を占めていた。
 逆さ磔に処せられたおつやの方が、長き地獄の責め苦を経て絶命したのは、三日目の夜のことであった。
 かつて天下一と讃えられたその美貌は見る影もなく腫れ崩れ、血にまみれ、もはや誰ひとり、おつやと気づけぬほどであった。あまりに惨たらしい亡骸に、人々は目を覆い、涙を落とし、その日のうちに荼毘に付された。
 ようやく外出を許された義太夫は、居ても立ってもいられず屋敷を飛び出すと、長良川のほとりに立つ煙を見た。
 弔いの声を上げる群衆をかき分け、刑場の柵まで進み出る。空へとまっすぐ昇ってゆく白煙を、ただ呆然と見つめ続ける。
 やがて雨粒が落ちはじめた。ひとり、またひとりと見物人は去り、やがて義太夫の傍には誰もいなくなった。
――そのとき。
 
「亡き人の形見の雲やしぐる覧
            夕べの雨に色は見えねど 」
             
 耳慣れた声に振り向くと、後ろに忠三郎が立っていた。
「それは?」
 雨に濡れたまま義太夫が問いかける。
「雨中無常の歌よ。亡き人を焼いた煙が、あたかも形見の雲となりて空に残る。されど時雨に打たれ、その色すら見えぬ、と嘆いたものじゃ」
「――ほんに無常なり」
 義太夫が力なくつぶやくと、忠三郎はその肩を掴み、幾度も頷いた。
「どれほど目を凝らしても、この雨に煙はかき消されよう。ならば、この冷雨を形見といたせ」
 二人を濡らす晩秋の雨は身を刺すほど冷たく、心までも凍りつかせる。やがて夜半には雪へと変わるだろう。
 忠三郎は静かに傘を差しかけたが、義太夫は気づくふうもなく、ただひたすらに空から落ちる雨を見つめていた。もし、この涙のような雨を堤に集められれば、いつか田を潤し、命を養う水ともなろう。戦が奪い去ったものを取り戻す道は、もはや刃ではなく土と水の営みにしかない――義太夫も忠三郎も、胸の奥でそう悟らざるを得なかった。
 
 
*****
 
 傷心の義太夫は、岐阜を後にして桑名へ戻った。
 城下に足を踏み入れると、潮の香が漂い、魚を捌く包丁の音が響いてくる。だがその賑わいも、義太夫の胸には虚ろに響き、遠い波のうねりのようにしか聞こえなかった。
 幾日かをぼんやりと過ごしたのち、ふたたび休天から使者が訪れた。
「日永へお越しくだされ」
 前回の行き違いが脳裏をよぎり、苦い笑みが口元に浮かぶ。呼ばれれば行かないわけにもいかない。
 冬の名残を運ぶ風に吹かれながら日永への道を進むと、ふと金吉の落胆した顔が思い出され、胸の奥が痛む。やがて天白川が陽光にきらめき、そのほとりに群れる人影が見えた。
 近づくにつれ、木槌の響き、鍬を打つ音、掛け声が風に混じって耳に届く。
(これは……何事じゃ)
 川の流れを変え、堤を築き、田へ水を引き入れようとする人々の姿。裸足で泥に踏み入り杭を打つ者、石を積む者、縄で丸太を曳く者――男も女も、老いも若きも、一心に汗を流している。
 その喧騒の中に、不思議な拍子が混じっていた。
「つんつく、つんつく……」
 軽やかな掛け声と土を踏み締める音が調和し、大地そのものが息づいているかのように響き渡る。義太夫には、その律動が胸の痛みを押し流し、人びとに新しい明日を刻もうとする息遣いに思えた。
 風に乗った拍子が川辺を包み、泥と汗の匂いが陽光と溶け合って輝く。
「驚いたか、義太夫」
 背後から声がして振り向けば、休天が穏やかな笑みを浮かべていた。
「これは……一体、何が起こっておるのじゃ」
「この前、おぬしが語った夢のことを、兄上に話したのじゃ」
 休天は川面を見やり、静かに続ける。
「兄上はすぐに川筋を調べ、図を引き、村の長に示した。工事は可能と見て、長が人々を集めたのよ」
 義太夫は思わず息を呑む。
「兄上が申された。――『土は歌で締まる。人の心も同じ』と」
「へ…殿が……」
(殿が、わしの夢を……)
 胸の奥が熱くなる。拍子は次第に高まり、村人らは足並みを揃えて大地を打つ。子供らは桶を運び、女たちは握り飯を配り、鍬の音が絶え間なく響く。――それは義太夫が丘の上で幻のように思い描いた光景、その始まりにほかならなかった。
 休天は満ち足りた笑みを浮かべる。
「義太夫よ。これはおぬしの夢じゃ。兄上は、それを形にしただけよ」
 義太夫は言葉を失い、ただ川のきらめきを見つめた。
 あの日、誰にも届かぬと思った夢が、今こうして土と水と人の手で立ち上がろうとしている――。
(この地は生き返る。殿と、この地の民の手によって)
 ――やがてこの拍子は「日永つんつく踊り」と呼ばれ、地を固める歌として後の世に残ることとなる。だが、その未来を知る者は、この場にはまだ一人としてなかった。

 その時、川岸で桶を抱えて駆ける小柄な影が目に入った。
(あれは……)
 義太夫が思わず一歩踏み出すと、少年もこちらに気づき、目を丸くして破顔した。
「義太夫殿!」
 金吉だった。
 かつてのやつれた面影は薄れ、瞳には炎のような力が宿っている。日焼けした褐色の頬、額を伝う玉の汗、泥にまみれた小さな手――そのすべてが逞しく見えた。
 桶を置くや否や駆け寄り、泥だらけの両手で義太夫の袖をぎゅっと握る。
「見てくだされ! 堤ができれば、この村は飢えずに済むのじゃ!」
 声は弾み、頬は赤く染まっている。
 その姿は、かつて「諦めるのか」と食い下がった少年のままであり、だが今は、自らの足で夢を動かす働き手であった。
「……そなた、ここで働いておったのか」
「はい! 長に頼んで加えてもらいました。弟の分まで、わしはやりまする!」
 亡き弟の名を口にする金吉の声は、もはや悲しみに沈むものではなく、悲しみを越えた力を帯びていた。義太夫の胸に鋭いものが突き刺さる。
 義太夫は川面を見やり、ふと語った。
「この丘の南斜面にはのう、昔は千本もの梅が咲いておった。日永梅林と呼ばれ、春ともなれば、白き霞がごとく花が丘を覆ったそうじゃ」
 金吉は目を見開いた。
「そんなに……咲いておったのですか」
「されど、その花も応仁の乱の戦火で焼かれ、跡形もなくなった。長らく荒れ果てたままだったが……この堤が完成し、田に水が行き渡れば、再び梅を植える日も来よう」
 義太夫は金吉の肩に手を置き、わずかに微笑んだ。
「その折には――おぬしと共に、その花を見ようではないか」
 金吉の瞳が一層輝き、力強く頷く。
「必ず、春の日に――義太夫殿と並んで見とうございます!」
 川のせせらぎと「つんつく」の拍子が、二人の未来への約束を包み込んだ。
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藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

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