48 / 146
7 涙の袖
7-1 涙の袖
しおりを挟む
明けて天つ正しき四の年。
南近江安土。
都の屋敷にいた義太夫と蒲生忠三郎の元に滝川家の家人、滝川藤九郎が現れ、二人に安土への同行を求めた。
「安土とな?殿がそこで来いと?それは近江の何処にある?」
「確か、琵琶の湖のそばに、そんな名のついた地があったような…」
忠三郎の居城である中野城からは四里かそこらの場所だ。
「そこに何が?」
「…港…小さな城と…港に面した村くらいだったような…」
と答えつつも、忠三郎はふと目を細めて言葉を継いだ。
「いや、あの安土山は、古くより瓢箪山とも呼ばれ、いにしえの豪族が墳を築いた跡も残っておる。周りには田と村が散らばり、湖に面して舟の往来もある。だが都の賑わいに比べれば、あれはひなびた片田舎に過ぎぬ。人が寄りつくのも、せいぜい漁師と農夫ぐらいであろう」
漁師と農夫の集う、ひなびた港村にすぎなかった――はずが。
なぜ、そんな場所に呼び出されたか分からなかったが、二人は言われるままに藤九郎についていくことにした。
「義兄上は我らが都におることをご存じであったか」
忠三郎が義太夫と顔を見合わせて言うと、助九郎が冷ややかに二人を見る。
「我が家の屋敷にいて、知らぬ筈もなく。お二人に呆れている由」
話を聞いていた町野長門守は、
「これは呆れるくらいで済むような話とも思えぬが…」
蒲生家の家老を務める父、町野左近にも偽りを言って日野を後にし、都での放蕩に付き合わされ、困り切った顔をしている。忠三郎は笑って、
「長門。そなたは小さき漢じゃな」
「そうじゃ、長門殿。案ずるな、案ずるな」
と義太夫が軽く笑い飛ばす。
やがて安土に近づくにつれ、道が整備され、道幅が広くなっていくのがわかった。あちらこちらに、道を整備している人足が目に付くようになる。
辺り一面、木が切り倒され、森がなくなっている。
「これは尋常ではない」
忠三郎は息を呑んだ。
「この地はもとより水の国。湖に面し、舟が寄れば米も塩も京へと送られる。されど、これほどの人足を集め、山を削ぎ、森を刈り払うとは……。ただの港村では済まぬ、大いなる企てが始まっておると見える」
動員されている人足の多さに驚いた。何百という人の群れが、あちらこちらで作業している姿が目に入った。これまでに類を見ないような大普請が行われている。
琵琶湖が見えるところまで進むと、見知った顔がそこここに見えるようになった。織田家の馬廻衆だ。
「鶴千代ではないか」
声をかけてきたのは近侍の万見仙千代だ。忠三郎はあぁと笑って、
「ここで何が起きておる?」
「呆れた奴。そなたの居城の目と鼻の先で城を築いているのに、何も気づかなかったのか」
万見仙千代は誰に対しても見下したものの言い方をするが、外様の武将には殊更手厳しい。
怜悧な奉行に冷たく言われ、忠三郎はおや、と首を傾げ
「城を築いておるのか。仙千代の城か?」
と間の抜けたことを聞いた。万見仙千代はニコリともせず、
「都でつまらぬことをしている暇があったら、家中のことに目を向けよ。それだから鈍三郎などと言われるのだ」
相手するのもばかばかしいと言いたげに去っていく。
そばで聞いていた義太夫は腹を抱えて笑っている。
「鶴、随分な言われようではないか」
忠三郎は笑って頭を掻いた。気にも留めていない様子で、湖畔を見渡しながらぽつりとつぶやく。
「しかし……ここはもとより、ただの港村にすぎなんだ。それが今や、山を削り、湖に橋を架ける勢いで普請が進んでおる。まこと、上様の胸に描かれる城とは、我らの想像をはるかに越えておるらしい」
そこへ一益が姿を見せた。
「やっと来たか」
日野中野城に使いを送ると町野左近が出てきて、信長の命で都に行ったと告げてきた。さては、と思い、都の屋敷を覗わせると案の定、義太夫と二人で豪遊している。
(何を言っても、何をしても駄目か)
これ以上、妙な悪評が広がる前になんとか手を打ちたいと思っているが妙案がない。
「これはどなたの城を築いておるので?」
義太夫が尋ねると、傍にいた佐治新介が驚いた顔をする。
「知らなんだか。『物見といえば義太夫』と言われた素破もおちたものじゃなぁ」
義太夫はぐぅの音もでない。一益はそちらをちらりと一瞥し、
「上様の城じゃ」
「やはり上様の?では、あの荘厳な岐阜のお城は…」
「それは城介どのに譲ると、そう仰せになり、安土に新しい城を築くこととなった。
信長は京の都に近く、海上、陸上ともに交通の要所となるこの安土に、天下人にふさわしい城を建てて居城とする計画をたてた。総奉行は丹羽長秀。近隣武将たちもそれぞれ人足を手配して送り込み、新たに町割りして城下町を造り、武将たちの屋敷を配備し、巨大な城郭を築くため、昼夜問わず大工事が行われている。
辺りをぐるりと見渡すと、万見仙千代や堀久太郎といった馬廻衆の他、総奉行の丹羽長秀、湖岸を領する明智光秀、羽柴秀吉などの姿も見えた。
「直に蒲生へも馬廻衆から人足手配の使者が来るじゃろう。城に戻って支度しておけ」
「はい。義兄上は?」
「わしは城介どのと話がある」
「では終わられたら、我が城へお越しくだされ」
忠三郎が笑顔で去っていく。琵琶湖を渡る風に衣をなびかせ、その背はどこかひょうひょうとして頼りなくも映る。それを黙って見送っていた三九郎が口を開く。
「忠三郎は大事ないのでしょうか」
「何を懸念しておる?」
「何をと言うても…懸念しているのは、ひとつふたつではござりませぬが…。森勝蔵に蹴られ、馬廻衆にも小馬鹿にされ、暇があれば義太夫と都で遊び惚けて…」
大事ないとは到底言えない。
安土の山肌は削られ、湖畔には新しい道が刻まれてゆく。古き墳墓と葦原の村が姿を消し、今まさに天下人の居城へと変貌する只中にあった。その傍らで日野の蒲生家は揺るがずに留め置かれている。
信長は安土を拠点とすると決めてからも、すぐそばにいる蒲生家に領地替えの指示を出さなかった。日野を直轄領にする気がないようだ。蒲生がこの地に強い影響力を及ぼしていることを重々知りながら、そのまま日野に留めておくのは、信長の蒲生家への信頼の表れであり、忠三郎に対する連枝衆同等の期待の表れであろう。
帰するところ、忠三郎を信長の子たちと同様に、まともな武将として育て上げる必要がある。
が、他にも問題だと思っていることは織田家中に山積している。領地が増え、家臣の列に加わる武将が増えるごとに、問題が増えていく。
やけに仲が悪いなと思っているのは若い武将たちばかりではない。今はまだ皆、信長を恐れているので表面化していないが、信忠の代になったら、どうなっていくのだろうか。湖上を渡る風は涼しくとも、帆の陰には燻る火がある。安土の普請は勢いを増すのに、家中の継ぎ目には目に見えぬ火種が残っている――一益の胸には重い懸念が渦を巻いていた。
その信忠は、幼い頃から嫡男として育てられ、他の兄弟たちとは別格の扱いを受けている。信忠に限っては常であれば一切の雑用をさせられることがないが、来月には早くも信長が居を移すというので、この時ばかりは築城を監督するため安土に赴いていた。
「左近の目から見て、この地への築城は如何なものか」
信忠は生真面目な顔をしてそう聞いてきた。
「上様のお決めになったこと。それがし如きが申し上げるまでもなく…」
「叔父御に安濃津に城を築くことを勧め、縄張り(城の設計・測量・区割り)までしてくれたのは左近であろう」
信忠の言う叔父とは、伊勢の長野家に養子に入っている信長の弟、信包のことだ。長野三十郎信包は、先年の長島願証寺との合戦で討死した織田彦七郎信興の兄にあたる。
信包は、かつて一益が彦七郎に小木江に城を築くことを勧め、縄張りしたことを聞いていたのだろう。その縁から「岐阜に劣らぬ城を」と望み、一益に相談を持ちかけた。
一益はその時、城郭の規模のみならず、街道・河川・港を結ぶ要衝を冷静に見極めた。敵を防ぐための堅固さと、商いを呼び込む利便とを兼ね備えることこそ城の命と説き、伊勢湾に面する安濃津を選んで縄張りして渡した。城下を流れる河川を活かして物資を集め、山と海を結ぶ街道を城下に通す――そんな将来像まで描き込まれた縄張り図は、ただの設計にあらず、領国経営そのものを見通すものであった。
安濃津城はまだ建築中のはずだが、完成すれば五重天主と小天主がそびえる壮大な城になる。本丸御殿はほぼ完成していて、本丸御殿はほぼ出来上がり、信包はすでに本丸に住んでいた。風花も折に触れてこの叔父に招かれ、子供たちを連れて安濃津を訪れているらしい。
そして今、安土でもまた、一益の眼は冴え渡っていた。
「この地は京に近く、東国へ伸びる中山道と、北陸へ通じる北国街道の分岐にあたり、さらに琵琶の湖を掌中に収める。舟を繋げば越前・若狭の物資も都へ届く。戦にも政にも、この上なき要衝にござる」
山を背にし、湖に面して広がる台地は城下町を割つけるに最適だ。湖水を引けば堀ともなり、舟の出入りはそのまま兵站の要となる。防御と経済、威光と交通――その全てを兼ね備えた地を、一益は誰よりも早く見抜いていた。
さらに、一益はこの山に古き墳墓が眠ることも知っていた。瓢箪山古墳群と呼ばれる遺跡は、この地に古来より豪族が拠り、力を示してきた証でもある。かつては六角氏の勢力もこの一帯を治め、観音寺山を背に覇を唱えたが、それも今は跡形もない。
「上様は西へ攻め入ることを考え、この地を選ばれたものかと。そして岐阜を城介様にお譲りするというは、今後、東へ攻め入るのは城介様というお考えかと存じ上げまする」
「されど、武田攻めの命は下ってはおらぬ」
武田へは裏で密かに調略を進めている。徳川家からも同じように手が伸びており、今後の戦はその結果次第で決まる。戦わずして国を裂き、敵を衰えさせるのが最も良い――一益の策は常に築城と同じく、相手の足場を崩すところから始まっていた。
ゆえに目下の敵は本願寺と毛利だ。安土を拠点とすれば、湖上を押さえ、大坂へは舟路をもってすぐに攻め寄せることができる。
「何かお心にかかることでも?」
「然様…」
この場では口にできない話のようだ。
「では、ここより四里あまり先にある城にて、お聞かせ願いたい」
「はて、それは…。あぁ、然様か」
信忠はすぐに察したらしく、供の者に伝えた。
安土から四里あまり先にある、日野中野城。
広間を信忠と一益に明け渡し、忠三郎は義太夫、三九郎と居間でくつろいでいる。
早くも酒が入り、機嫌は上々だ。
「先日、ロレンソ殿が参られた」
「ほう、生臭坊主は何をしに参った?」
「都の南蛮寺を建て替えるために寄進してほしいということじゃった」
宣教師たちは壊れた寺を修理して教会にしていたが、いよいよ家屋が古くなって手狭になったために、建て替えを計画しているらしい。
「寄進?なんじゃ、ここに金が仰山あるのをかぎつけたか。胡散臭い坊主め」
忠三郎から散々金を無心して、一切返していない義太夫が言えることでもなかったが、忠三郎は楽しそうに笑う。
「南蛮寺が完成した暁には、そなたらも共に参らぬか」
三九郎は驚き、
「なにやら恐ろしい。南蛮人は人の生き血を飲み、肉を食らうと聞いたこともある。わしはとても…」
「義太夫は?」
「わしゃ、見目麗しい女子がおるところにしか行かぬ」
忠三郎は、然様か、と笑って、
「南蛮寺は滝川の屋敷から近い上に、そのあたりには上様が居を構えようとされておる」
「何!…では、例のところから女子を連れてくるのもはばかれる。おぬし、その話、誰から聞いたのじゃ」
義太夫が真面目な顔で尋ねる。信長が居を構えようとしているのは何も屋敷を造るということではない。南蛮寺近くにある本能寺を改築し、そこを拠点にしようとしていた。
「右近どのじゃ」
「右近?高山?摂津衆と仲良うしておるのか?やめておけ、やめておけ。面倒事に巻き込まれるだけじゃ。また奉行衆に睨まれようぞ」
三九郎は二人のやりとりを横で聞きながら、ふと胸に思った。
(安土には天下の居城、本能寺には都の拠点……。上様の御心に描かれる構想は、城と町と宗教までも結びつけるものか)
三九郎は胸中でそう深読みし、しばし沈黙した。だが、その隣で忠三郎はまるで別のことを思い出したように、杯を置いてにこりと笑った。
「そういえば――わしは、茶の湯を習いはじめた。上様に倣うて、千宗易殿や右近どのに教えを受けておるのじゃ。…で、南蛮寺には茶室がある」
高山右近は茶の湯を口実に忠三郎を南蛮寺へ招き、ミサにも出席させていた。
「おぬしは上様と一緒で新しもの好きじゃのう」
義太夫が呆れ顔で言うと、三九郎が口を挟む。
「されど茶の湯は嗜んでおくがよい。父上もそう仰せであった」
「なんと。殿が?それはまた何故に?」
昨今の織田家では信長が茶の湯をはじめたことで、家臣たちが我も我もと茶道を習いはじめている。やがて茶会を開くようなことになれば、知らぬではすまない。
「殿が茶の湯とは…変われば変わるもの…ではわしも、茶の湯なるものを始めねばなるまいて」
義太夫がうーむとうなる。
「この城にも茶室を造ろうと思うておる。さすればわしが、義太夫に教えてやろう」
「おぉ。それはよい。では、わしも、いよいよ数寄者の仲間入りじゃ」
都で遊び歩くよりは大人しく二人で茶の湯を楽しんでいてくれたほうがいい。
「それは喜ばしい。是非ともそうしてくれ。父上もお喜びになろう」
三九郎が強く勧めると、忠三郎は「では早速、茶室を造る支度をせねばなるまい」と笑い、また盃を手にした。
その笑い声が居間から広間へと届くころ――。
同じ中野城大広間。
信忠は広間に入るなり、掛け物に目をやった。掛け軸には和歌が書かれてある。
「昔見し 雲ゐをめぐる秋の月
今いくとせか 袖にやどさん」
筆跡に見覚えがある。忠三郎が自ら筆をとって書いたようだ。
昔見た雲の上をめぐる秋の月……これから何年、袖の涙に光を映し、眺めるのだろうか。鎌倉時代に生きた二条院讃岐の歌だ。若い時に見た月を懐かしみ、あと何年、涙をもってこの月を眺められるのかと綴る筆のすさびは、忠三郎の心の影をそのまま映しているかのようにも見えた。
「あの者の胸の内にあるものはようわからぬ」
信忠が真面目な顔でそう言う。
「は…皆、そう申しておりまするな」
普段の忠三郎の飄々とした態度と破天荒な行いからは、その胸の内を知ることは難しい。
幼いころに母を亡くした悲しみから和歌、茶の湯、香道、能など、手当たり次第に遊芸にのめりこみ、先行きを案じた祖父快幹が筆を取り上げたという話を聞いたことがある。
(岐阜にいるときも一度あったな)
日野を離れてからは武芸に関心を示さず、和歌にばかり興じているのを見かねた織田家の武将が、注意したようだ。誰が何を言ったのか分からないが、ようやく武芸に励みだしたころに、滝川家に出入りするようになった。
父祖から受け継いだ武人としての才能は余人をはるかに凌駕している。年の割には出来過ぎなくらいだが、置き忘れられたその心は、行き場を見失ったまま宙をさまよっている。
一益はその影を見抜いていた。
(才は天より授かっておる。あとは、その才を武門の道へと正しく導くのみ。遊芸に惑わされず、上様の御心に応える器へと育てねばならぬが…)
掛け軸にしたためられた歌に、再び目をやる。
忠三郎は生まれついて温厚で、人を斬るよりも歌や茶に心を寄せる性を持っている。その優しさを削り、武芸を叩き込み、戦場に立たせることが果たして正しいのか――そう問う己が胸の奥にいる。
しかし、世は戦国。才ある者は武士として刀を取り、戦の渦に身を投じねばならない。信長の御傍らに仕える者である限り、それを避けては生きられない。
一益は静かに息を吐いた。
(この戦国の世が望むのは、和歌を詠む公達ではない。鶴には、武士として揺るがぬ道を歩ませねばならぬ)
そう胸の内で呟いたとき、広間の空気を変えるように、信忠が口を開いた。
「父上は今年こそ本願寺の息の根を止めたいと、そうお考えじゃ。されど、摂津・河内衆と尾張・美濃衆を引き連れて戦をするのはいささか案じられる」
その両者は誰の目から見ても仲が悪い。特に尾張・美濃出身者で占める奉行衆と摂津の武将の仲は険悪だ。いつか何か大ごとになるのではないかという不安がある。
信忠はそれを心配して、そのどちらとも仲が良くも悪くもない一益に相談してきた。
「特にあの荒木というものは、常日頃から我が家の不満を口にしていると聞く」
そんな話が信忠の耳にまで届いているということは、信長も知っているのだろう。
(それゆえに葉月を荒木の息子に…これはまた、とんだ人身御供にされたな)
そしてその荒木のもう一人の息子の嫁は、家中でも一人浮いている明智光秀の娘ではないか。
ようやく章姫を取り戻したばかりだったのだが。
「荒木の与力となっている高山右近は生真面目な男。かの者がおれば、よもや織田家に弓矢ひくようなことにはなりますまい」
高山右近に関しては、ロレンソという情報源がいる。右近に万一不穏な空気があれば、事前に知ることもできる。
「左近はロレンソと昵懇であったな」
「昵懇というわけではありませぬが…」
信忠は少し考えて
「本願寺との戦は摂津・河内衆を先陣とするじゃろう。遅かれ早かれ、わしや左近にも出陣の命が下る。心得ておいてほしい」
「ハハッ、それは無論のこと」
このあとも、本願寺を支援する紀州のこと、北畠の家督を継いでいる弟の三介信雄のこと、武田攻めのことと話をしていると、日が暮れ落ちた。
「そろそろ忠三郎を呼んでやれ。待ちくたびれておろう」
一益は襖をあけると、滝川助太郎に手招きして忠三郎を呼ぶようにと伝える。
開け放たれた広間から、豪華絢爛な庭がよく見渡せる。
「大したものよ」
信忠が感心している。
庭園の向こうに広がる景色を見るに、最初から景観を重視して作られたのがわかる。その上、華麗な石組と、無数に配置されたソテツ。南国にしかない木をここまで植え並べる財力は、言葉にせずとも権威を誇示していた。おそらくは忠三郎の祖父・快幹の時代に手がけられたものだろう。
やがて姿を現したのは忠三郎ではなく、正室の吹雪だった。
「兄上。ようお越しくだされた」
吹雪が信忠に向かって微笑む。
一益が風花の姉・吹雪を目にするのは二度目である。一度目は岐阜の千畳敷館。降りしきる雪を飽くことなく見上げるその姿に、思わず目を奪われた。
だが、改めて対面してみると、妙な違和感を覚える。風花によく似てはいるが、見間違えるほどではない。表情の作り方も、声の調子も、一挙手一投足までもが異なっている。あの時は瓜二つに思えたものが、今はかえって違いばかりが目に付いた。
「若殿は、もう無理やもしれませぬな…」
吹雪は疲れたようにため息を洩らした。その様子で察した一益は、無言で立ち上がり、忠三郎の居間へ足を向ける。
すでに町野長門守が焦った顔で忠三郎を揺さぶっていた。
「あ、父上…」
部屋の中には、完全に酔いつぶれた義太夫と忠三郎。湯帷子一枚で横たわり、身じろぎひとつせず眠っている。
(主の嫡男が来ているのを承知でこの態度か)
普段の生活が垣間見えるようだ。吹雪の言う通り、今日はもう無理だろう。
「長門守、もうよい。それよりも城介殿は今宵お泊りじゃ。そなたの父を呼んで支度させよ」
「ハハッ、まことに面目次第もござりませぬ」
町野長門守が恐縮して立ち上がった。
信忠はそのまましばらく工事の監督のため安土に留まり、一益は長島に戻って人の手配をし、また安土へ戻る――その往復を繰り返していた。
二月下旬には本丸、二の丸が完成し、信長が岐阜から安土に引っ越してきた。それと共に馬廻衆の屋敷の普請がはじまる。
距離的に近い日野には馬廻衆から要請が届き、忠三郎が職人や商人を手配して安土の築城現場に出入りし、食料や物資を運び込んでいた。伊勢からも人足が大量に投入され、義太夫も忙しく立ち働いていた。
その日も作業を終えて我が家同然の忠三郎の居城・中野城に戻ると、町衆らしき人の群れが城門から出てくるところであった。
(はて…何かあったか…)
居間へ行くと、忠三郎が脇息に片肘ついて、いつになく暗い顔で物思いに沈んでいる。普段なら人の気配にすぐ反応するのに、今はまるで気づきもしない。
「鶴、如何いたした」
声をかけると、ハッと顔をあげ、常の笑顔を作って見せた。
「おぉ、もう戻ったか。義太夫は夜は働かぬか」
「たわけたことを申すな。少し休まねば、いざ合戦というときにお役に立てぬわ。それよりも、町から人が仰山きておったな。何事じゃ?」
忠三郎は、いや、と首を振り
「取り立てて話すことではない。それよりも、酒を運ばせようか」
「酒?そうじゃな。まずは酒じゃな」
何かあると酒と言い出す。分かりやすいと呆れつつも、義太夫は調子を合わせた。
やがて忠三郎がいつものように酔いつぶれて眠るのを見て、義太夫はそっと席を立ち、滝川助太郎を探した。常に忠三郎の傍らにいる助太郎なら、事情を知っているに違いない。
庭に出ると、夜風が石灯籠に影を落とし、広すぎる庭が闇に沈んでいた。
「この庭は広すぎる。童ならば迷うであろう。なんとかいう偉そうな名の庭師が造ったとか、あやつは言うておったが…」
見慣れぬ資材が贅沢に使われた庭をうろうろしていると――
「義太夫殿。他家の庭で騒いではなりませぬ」
助太郎が物陰から現れた。
「今宵の絡み酒はまた酷かったわい。時に…何があった?」
義太夫が軽く笑って問いかけると、助太郎は辺りを窺いながら、声を落としてひそひそと話しはじめた。
翌朝、忠三郎はまだ夜も明けぬうちから安土に向かう。その足取りが重いのは前日の酒が残っているからだけではない。
昨日、馬廻衆の横暴な振る舞いを、町衆が訴えてきたのだ。
『横暴?』
馬廻衆の無理を聞かされるのは今に始まったことではない。最初はいつものように、高圧的な態度に皆が腹を立てたのだろうと苦笑しながら耳を傾けた。
だが訴えは想像以上であった。
『とんでもない量の飯をすぐに持って来いと言うたかと思えば、不味いと口にしては何百人分も作り直せと命じる。飯だけではありませぬ。屋敷に敷き詰める畳の数も桁外れに多く、それを三日以内に揃えよと無理難題ばかり。これ以上は堪忍ならぬと、訴えにきたのでござります』
しかもかかった費用も一切支払われないという。
ならばと、取り急ぎ全額を肩代わりして払おうとすると、町衆は首を振って断った。そこへ騒ぎを聞きつけた町野左近が現れ、辛抱強く説得してようやく帰ってもらえたものの、このまま収まるとはとても思えない。
城下の町人ばかりではない。領内からは農民も大量に駆り出されている。このままでは田植えすらままならぬのではないか――忠三郎の胸は重く沈んでいた。
(どうしたものか…)
ぼんやり木陰に腰を下ろして考えていると
「おぉ、ここにおったか」
ひょっこりと義太夫が顔を出した。
「なんじゃ、早々に城を出たかと思えば、かようなところで油売りか」
「遅いぞ、義太夫。義兄上はなにやら羽柴筑前に呼ばれて城介殿の元へ向かわれた」
笑ってそう言う声が、どこか擦れてかすれている。
「ひどい声じゃ。飲みすぎではないか」
「いやいや、それよりも……馬廻衆の屋敷にかかる金は、相当なものではないか?」
他家ではどうしているのか、さりげなく探りを入れると、義太夫はとぼけた顔をして言った。
「伊勢の者には、万見仙千代も堀久太郎も、きっちりかかった分だけ金を払うておるぞ」
忠三郎は、おや、と首を傾げた。はじめて、日野の者ばかりが馬廻衆に嫌がらせをされていることに気づく。
「またか……」
「また?」
「いや……それもそうじゃな……」
乾いた笑いで誤魔化そうとしたとき、義太夫がふと目を上げた。
「あれは昨日、城に来ていた町の衆ではないか」
見ると確かに日野の町衆だ。万見仙千代と何やら言葉を交わしている。
「もめておるようじゃ」
「止めた方が……」
二人が慌てて立ち上がった瞬間、万見仙千代がすらりと刀を抜き、目前の町人を斬り捨てた。
「なっ……!」
忠三郎は息を呑み、一瞬足が止まる。仙千代は血を拭い、何事もなかったかのように踵を返して立ち去ろうとした。
「待て、仙千代!」
途方もない大声が響いた。義太夫は耳を疑い、忠三郎を見た。そこにいたのは、普段の飄々とした忠三郎ではなく、鬼のような形相で刀を抜き、今にも飛びかからんとする忠三郎だった。だが、呼びかけられた仙千代は、振り返ることさえしなかった。無言のまま裾を翻し、群衆を押し分けるようにして立ち去っていく。
義太夫が慌てて後ろから羽交い締めにする。
「血迷うたか! 相手が誰か分かっているのか!」
「離せ!目の前で我が領内の民を斬り捨てられて、黙って見過ごすなど、男もならぬ! 民だけではない、日野そのものの面目を斬られたのだ」
吐き出された怒声は領民を思う憤りに満ちていた。だが、胸の奥底に渦巻いていたのは、信長の娘婿にして家中の特別な立場にある自分が、目の前で辱めを受けたという悔しさだった。己の家、父、そして蒲生の名が土足で踏みにじられた思いが、怒りに火をつけていた。
「お、男も……?」
普段の柔和な忠三郎とは別人のような姿に、義太夫は目を瞬かせる。そこへ滝川助太郎と町野長門守も駆けつけ、三人がかりで必死に抑え込むが、忠三郎は恐ろしい力でなおも皆を引きずり、仙千代を追おうとした。
「仙千代! 逃げるか!」
怒号が轟き、周囲の鼓膜を破らんばかりの声が安土の空気を震わせる。
「黙れ、黙れ、みな、黙らせよ!」
義太夫が必死に忠三郎の口を塞ぎ、地に横倒しにして刀をもぎ取ったが、それでも忠三郎は喚き散らして暴れ続けた。
その騒ぎに蒲生家の家人らも駆けつけ、義太夫は息を荒げながら叫んだ。
「みな、この阿呆を抑えよ! 助太郎、殿をお連れせい!」
「心得た!」
助太郎は群衆をかき分けるように駆け出し、総奉行詰所にいる一益のもとへと走っていった。
知らせを受けた一益が姿を現した時には、その場にいた者たちは皆、押し合い揉み合いで傷だらけになり、精根尽き果てていた。
一益は馬から静かに降り、地に放り投げられていた忠三郎の刀を拾い上げると、丁寧に鞘へと収めた。
「刃傷沙汰の発端は?」
問いかけに、町野長門守が顔の泥を拭いながら答える。
「上様の馬廻衆ともあろうものが、まともに金も払えぬのかと町衆が食って掛かったらしく……怒った万見様が刀を抜いたと」
「それはまことか」
忠三郎が驚いて長門守を見る。何も知らぬまま、ただ怒りに任せて暴れていたのか――そう悟った周囲は呆れ顔を隠せない。
「…で、斬られたという者は?」
「それは、父が来て日野へ…」
蒲生家重臣である町野左近が駆けつけ、遺体を引き取って戻ったらしい。一益は深く頷き、人払いすると、忠三郎の隣に腰を下ろした。忠三郎はなお怒り収まらぬ様子で、小袖にこびりついた泥を乱暴に払い落としていた。
「前にもやられた」
「前、とは?」
「上様ご上洛の折に。行軍の邪魔になった町衆を、仙千代と久太郎が斬った」
――もう八年も前のこと。町衆の訴えを聞いた忠三郎の祖父・快幹は、その乱暴な行為に深く失望し、織田家を嫌うようになった。何百年も領民と共に生きてきた蒲生家にとって、突然現れて狼藉を働く織田家に屈したことは、耐えがたい屈辱であった。
だがそれは何も江州だけではない。馬廻衆はどこででも同じように乱暴を働いていた。
(では、あの時、毒を盛ってでも久太郎に勝ちたいといったのは…)
一益は思い出す。あの冬、忠三郎が岐阜で人質となっていた頃、相撲で堀久太郎に敗れたあと「毒を盛ってでも勝ちたい」と悔しがったのは、この因縁が根にあったのだ。
「我が日野においては、町での抜刀は禁じられておりまする」
忠三郎が絞り出すように言った。
「お爺様が町掟を定められた。乱暴狼藉を働く輩は、町人であろうとも捕らえることを認め、また領民を守ることで町を繁らせてきた……。あの二人だけは許せぬ」
悔しさに声を震わせ、忠三郎の目が潤む。
槌の音が大地の拍を刻む。
「鶴、心もかように打て」
一益は静かに言葉を継いだ。
「勝ちたいと思うならば、正心を得よ」
「正心?」
甲賀に生まれたものは、みな、素破の本幹は正心と教えられる。陰謀偽計は正心の結果であると。
この辺りは孔子を学んでいなければわからないが、歌本ばかり読んできた忠三郎は漢詩はわかっても儒教そのものは頭に入らなかったと見える。
「心ここにあらざれば視れども見えず。己の心を整えなければ正しき心を得ることはできぬ。人よく心を正しくすれば即ち事なすに足るものなし。国を治めることも、世を泰平へと導くことも、正しき心があればそれは叶う」
「心ここにあらざれば…」
忠三郎は反芻するように呟いた。
「町民どもが何故に、領主であるそなたではなく、仙千代に直に金を払えと迫ったのか、分かるか」
「それは…」
昨日、自ら支払おうとしたが断られた。町野左近が説得して帰らせたが、町衆の顔には失望の色が浮かんでいた。
「この身の不徳の致すところにて…」
領民たちは、忠三郎を頼れぬと思ったのだ。自分たちを守ってくれる領主ではないと見限ったから、直接仙千代へ訴えた。
「鶴。そなたにとって何が最も大切なのか、よく考えよ。己の命を賭して岐阜へ行ったのは何のためか。何のために戦場に立ち続けてきたのか」
「何のため…」
胸中に浮かぶのは、家の誇り、武士の名、父祖の業――いずれも捨て難い。だが最も大切なのは。
(日野と日野に住む民…)
どこにあっても、何をしていても、思い続けてきたもの。それは古里と領民だった。
「わしには国と民以外、大切なものはありませぬ。我が故国を戦火から守るために岐阜へ行き、上様にお仕えして参りました」
「では分かるな。それを守るために己の心と戦え。正しき心を得よ。さすれば誰もそなたを侮らず、国は守られ、民は安穏に暮らすことができよう。袖を濡らす日はあろう。されど、正しき心で拭え。そなたにとって最も大切なものを、自らの手で守り抜け」
忠三郎は黙って耳を傾けていたが、ふと顔を上げ、いたずらを見つかった子供のように笑った。
「涙の袖…義兄上、掛け軸をご覧になられたか」
「城介殿が首を傾げておった」
「城介殿…それは…」
忠三郎の笑い声が広がると、遠巻きに様子を窺っていた家臣たちもホッと胸を撫で下ろし、安堵の息を洩らした。
一益の姿が人足たちの波に消えていくのを見届けると、忠三郎は胸の奥に残る重さを振り払うように、深く息をついた。荒々しい石工たちの掛け声と槌音が、耳の奥でいつまでも鳴り響いている。
その喧噪の只中で、ふと空を仰げば、白雲は西へ。都のさらに向こう、摂津。――荒木の城も、右近の祈りも、その空に沈み、やがて嵐の兆しと変わる。
安土の槌音はなお響き続けていたが、その余韻は、遠く大坂の空へと溶けてゆく。風の匂いが変わるとき、戦の火は摂津に及ばんとしていた。
南近江安土。
都の屋敷にいた義太夫と蒲生忠三郎の元に滝川家の家人、滝川藤九郎が現れ、二人に安土への同行を求めた。
「安土とな?殿がそこで来いと?それは近江の何処にある?」
「確か、琵琶の湖のそばに、そんな名のついた地があったような…」
忠三郎の居城である中野城からは四里かそこらの場所だ。
「そこに何が?」
「…港…小さな城と…港に面した村くらいだったような…」
と答えつつも、忠三郎はふと目を細めて言葉を継いだ。
「いや、あの安土山は、古くより瓢箪山とも呼ばれ、いにしえの豪族が墳を築いた跡も残っておる。周りには田と村が散らばり、湖に面して舟の往来もある。だが都の賑わいに比べれば、あれはひなびた片田舎に過ぎぬ。人が寄りつくのも、せいぜい漁師と農夫ぐらいであろう」
漁師と農夫の集う、ひなびた港村にすぎなかった――はずが。
なぜ、そんな場所に呼び出されたか分からなかったが、二人は言われるままに藤九郎についていくことにした。
「義兄上は我らが都におることをご存じであったか」
忠三郎が義太夫と顔を見合わせて言うと、助九郎が冷ややかに二人を見る。
「我が家の屋敷にいて、知らぬ筈もなく。お二人に呆れている由」
話を聞いていた町野長門守は、
「これは呆れるくらいで済むような話とも思えぬが…」
蒲生家の家老を務める父、町野左近にも偽りを言って日野を後にし、都での放蕩に付き合わされ、困り切った顔をしている。忠三郎は笑って、
「長門。そなたは小さき漢じゃな」
「そうじゃ、長門殿。案ずるな、案ずるな」
と義太夫が軽く笑い飛ばす。
やがて安土に近づくにつれ、道が整備され、道幅が広くなっていくのがわかった。あちらこちらに、道を整備している人足が目に付くようになる。
辺り一面、木が切り倒され、森がなくなっている。
「これは尋常ではない」
忠三郎は息を呑んだ。
「この地はもとより水の国。湖に面し、舟が寄れば米も塩も京へと送られる。されど、これほどの人足を集め、山を削ぎ、森を刈り払うとは……。ただの港村では済まぬ、大いなる企てが始まっておると見える」
動員されている人足の多さに驚いた。何百という人の群れが、あちらこちらで作業している姿が目に入った。これまでに類を見ないような大普請が行われている。
琵琶湖が見えるところまで進むと、見知った顔がそこここに見えるようになった。織田家の馬廻衆だ。
「鶴千代ではないか」
声をかけてきたのは近侍の万見仙千代だ。忠三郎はあぁと笑って、
「ここで何が起きておる?」
「呆れた奴。そなたの居城の目と鼻の先で城を築いているのに、何も気づかなかったのか」
万見仙千代は誰に対しても見下したものの言い方をするが、外様の武将には殊更手厳しい。
怜悧な奉行に冷たく言われ、忠三郎はおや、と首を傾げ
「城を築いておるのか。仙千代の城か?」
と間の抜けたことを聞いた。万見仙千代はニコリともせず、
「都でつまらぬことをしている暇があったら、家中のことに目を向けよ。それだから鈍三郎などと言われるのだ」
相手するのもばかばかしいと言いたげに去っていく。
そばで聞いていた義太夫は腹を抱えて笑っている。
「鶴、随分な言われようではないか」
忠三郎は笑って頭を掻いた。気にも留めていない様子で、湖畔を見渡しながらぽつりとつぶやく。
「しかし……ここはもとより、ただの港村にすぎなんだ。それが今や、山を削り、湖に橋を架ける勢いで普請が進んでおる。まこと、上様の胸に描かれる城とは、我らの想像をはるかに越えておるらしい」
そこへ一益が姿を見せた。
「やっと来たか」
日野中野城に使いを送ると町野左近が出てきて、信長の命で都に行ったと告げてきた。さては、と思い、都の屋敷を覗わせると案の定、義太夫と二人で豪遊している。
(何を言っても、何をしても駄目か)
これ以上、妙な悪評が広がる前になんとか手を打ちたいと思っているが妙案がない。
「これはどなたの城を築いておるので?」
義太夫が尋ねると、傍にいた佐治新介が驚いた顔をする。
「知らなんだか。『物見といえば義太夫』と言われた素破もおちたものじゃなぁ」
義太夫はぐぅの音もでない。一益はそちらをちらりと一瞥し、
「上様の城じゃ」
「やはり上様の?では、あの荘厳な岐阜のお城は…」
「それは城介どのに譲ると、そう仰せになり、安土に新しい城を築くこととなった。
信長は京の都に近く、海上、陸上ともに交通の要所となるこの安土に、天下人にふさわしい城を建てて居城とする計画をたてた。総奉行は丹羽長秀。近隣武将たちもそれぞれ人足を手配して送り込み、新たに町割りして城下町を造り、武将たちの屋敷を配備し、巨大な城郭を築くため、昼夜問わず大工事が行われている。
辺りをぐるりと見渡すと、万見仙千代や堀久太郎といった馬廻衆の他、総奉行の丹羽長秀、湖岸を領する明智光秀、羽柴秀吉などの姿も見えた。
「直に蒲生へも馬廻衆から人足手配の使者が来るじゃろう。城に戻って支度しておけ」
「はい。義兄上は?」
「わしは城介どのと話がある」
「では終わられたら、我が城へお越しくだされ」
忠三郎が笑顔で去っていく。琵琶湖を渡る風に衣をなびかせ、その背はどこかひょうひょうとして頼りなくも映る。それを黙って見送っていた三九郎が口を開く。
「忠三郎は大事ないのでしょうか」
「何を懸念しておる?」
「何をと言うても…懸念しているのは、ひとつふたつではござりませぬが…。森勝蔵に蹴られ、馬廻衆にも小馬鹿にされ、暇があれば義太夫と都で遊び惚けて…」
大事ないとは到底言えない。
安土の山肌は削られ、湖畔には新しい道が刻まれてゆく。古き墳墓と葦原の村が姿を消し、今まさに天下人の居城へと変貌する只中にあった。その傍らで日野の蒲生家は揺るがずに留め置かれている。
信長は安土を拠点とすると決めてからも、すぐそばにいる蒲生家に領地替えの指示を出さなかった。日野を直轄領にする気がないようだ。蒲生がこの地に強い影響力を及ぼしていることを重々知りながら、そのまま日野に留めておくのは、信長の蒲生家への信頼の表れであり、忠三郎に対する連枝衆同等の期待の表れであろう。
帰するところ、忠三郎を信長の子たちと同様に、まともな武将として育て上げる必要がある。
が、他にも問題だと思っていることは織田家中に山積している。領地が増え、家臣の列に加わる武将が増えるごとに、問題が増えていく。
やけに仲が悪いなと思っているのは若い武将たちばかりではない。今はまだ皆、信長を恐れているので表面化していないが、信忠の代になったら、どうなっていくのだろうか。湖上を渡る風は涼しくとも、帆の陰には燻る火がある。安土の普請は勢いを増すのに、家中の継ぎ目には目に見えぬ火種が残っている――一益の胸には重い懸念が渦を巻いていた。
その信忠は、幼い頃から嫡男として育てられ、他の兄弟たちとは別格の扱いを受けている。信忠に限っては常であれば一切の雑用をさせられることがないが、来月には早くも信長が居を移すというので、この時ばかりは築城を監督するため安土に赴いていた。
「左近の目から見て、この地への築城は如何なものか」
信忠は生真面目な顔をしてそう聞いてきた。
「上様のお決めになったこと。それがし如きが申し上げるまでもなく…」
「叔父御に安濃津に城を築くことを勧め、縄張り(城の設計・測量・区割り)までしてくれたのは左近であろう」
信忠の言う叔父とは、伊勢の長野家に養子に入っている信長の弟、信包のことだ。長野三十郎信包は、先年の長島願証寺との合戦で討死した織田彦七郎信興の兄にあたる。
信包は、かつて一益が彦七郎に小木江に城を築くことを勧め、縄張りしたことを聞いていたのだろう。その縁から「岐阜に劣らぬ城を」と望み、一益に相談を持ちかけた。
一益はその時、城郭の規模のみならず、街道・河川・港を結ぶ要衝を冷静に見極めた。敵を防ぐための堅固さと、商いを呼び込む利便とを兼ね備えることこそ城の命と説き、伊勢湾に面する安濃津を選んで縄張りして渡した。城下を流れる河川を活かして物資を集め、山と海を結ぶ街道を城下に通す――そんな将来像まで描き込まれた縄張り図は、ただの設計にあらず、領国経営そのものを見通すものであった。
安濃津城はまだ建築中のはずだが、完成すれば五重天主と小天主がそびえる壮大な城になる。本丸御殿はほぼ完成していて、本丸御殿はほぼ出来上がり、信包はすでに本丸に住んでいた。風花も折に触れてこの叔父に招かれ、子供たちを連れて安濃津を訪れているらしい。
そして今、安土でもまた、一益の眼は冴え渡っていた。
「この地は京に近く、東国へ伸びる中山道と、北陸へ通じる北国街道の分岐にあたり、さらに琵琶の湖を掌中に収める。舟を繋げば越前・若狭の物資も都へ届く。戦にも政にも、この上なき要衝にござる」
山を背にし、湖に面して広がる台地は城下町を割つけるに最適だ。湖水を引けば堀ともなり、舟の出入りはそのまま兵站の要となる。防御と経済、威光と交通――その全てを兼ね備えた地を、一益は誰よりも早く見抜いていた。
さらに、一益はこの山に古き墳墓が眠ることも知っていた。瓢箪山古墳群と呼ばれる遺跡は、この地に古来より豪族が拠り、力を示してきた証でもある。かつては六角氏の勢力もこの一帯を治め、観音寺山を背に覇を唱えたが、それも今は跡形もない。
「上様は西へ攻め入ることを考え、この地を選ばれたものかと。そして岐阜を城介様にお譲りするというは、今後、東へ攻め入るのは城介様というお考えかと存じ上げまする」
「されど、武田攻めの命は下ってはおらぬ」
武田へは裏で密かに調略を進めている。徳川家からも同じように手が伸びており、今後の戦はその結果次第で決まる。戦わずして国を裂き、敵を衰えさせるのが最も良い――一益の策は常に築城と同じく、相手の足場を崩すところから始まっていた。
ゆえに目下の敵は本願寺と毛利だ。安土を拠点とすれば、湖上を押さえ、大坂へは舟路をもってすぐに攻め寄せることができる。
「何かお心にかかることでも?」
「然様…」
この場では口にできない話のようだ。
「では、ここより四里あまり先にある城にて、お聞かせ願いたい」
「はて、それは…。あぁ、然様か」
信忠はすぐに察したらしく、供の者に伝えた。
安土から四里あまり先にある、日野中野城。
広間を信忠と一益に明け渡し、忠三郎は義太夫、三九郎と居間でくつろいでいる。
早くも酒が入り、機嫌は上々だ。
「先日、ロレンソ殿が参られた」
「ほう、生臭坊主は何をしに参った?」
「都の南蛮寺を建て替えるために寄進してほしいということじゃった」
宣教師たちは壊れた寺を修理して教会にしていたが、いよいよ家屋が古くなって手狭になったために、建て替えを計画しているらしい。
「寄進?なんじゃ、ここに金が仰山あるのをかぎつけたか。胡散臭い坊主め」
忠三郎から散々金を無心して、一切返していない義太夫が言えることでもなかったが、忠三郎は楽しそうに笑う。
「南蛮寺が完成した暁には、そなたらも共に参らぬか」
三九郎は驚き、
「なにやら恐ろしい。南蛮人は人の生き血を飲み、肉を食らうと聞いたこともある。わしはとても…」
「義太夫は?」
「わしゃ、見目麗しい女子がおるところにしか行かぬ」
忠三郎は、然様か、と笑って、
「南蛮寺は滝川の屋敷から近い上に、そのあたりには上様が居を構えようとされておる」
「何!…では、例のところから女子を連れてくるのもはばかれる。おぬし、その話、誰から聞いたのじゃ」
義太夫が真面目な顔で尋ねる。信長が居を構えようとしているのは何も屋敷を造るということではない。南蛮寺近くにある本能寺を改築し、そこを拠点にしようとしていた。
「右近どのじゃ」
「右近?高山?摂津衆と仲良うしておるのか?やめておけ、やめておけ。面倒事に巻き込まれるだけじゃ。また奉行衆に睨まれようぞ」
三九郎は二人のやりとりを横で聞きながら、ふと胸に思った。
(安土には天下の居城、本能寺には都の拠点……。上様の御心に描かれる構想は、城と町と宗教までも結びつけるものか)
三九郎は胸中でそう深読みし、しばし沈黙した。だが、その隣で忠三郎はまるで別のことを思い出したように、杯を置いてにこりと笑った。
「そういえば――わしは、茶の湯を習いはじめた。上様に倣うて、千宗易殿や右近どのに教えを受けておるのじゃ。…で、南蛮寺には茶室がある」
高山右近は茶の湯を口実に忠三郎を南蛮寺へ招き、ミサにも出席させていた。
「おぬしは上様と一緒で新しもの好きじゃのう」
義太夫が呆れ顔で言うと、三九郎が口を挟む。
「されど茶の湯は嗜んでおくがよい。父上もそう仰せであった」
「なんと。殿が?それはまた何故に?」
昨今の織田家では信長が茶の湯をはじめたことで、家臣たちが我も我もと茶道を習いはじめている。やがて茶会を開くようなことになれば、知らぬではすまない。
「殿が茶の湯とは…変われば変わるもの…ではわしも、茶の湯なるものを始めねばなるまいて」
義太夫がうーむとうなる。
「この城にも茶室を造ろうと思うておる。さすればわしが、義太夫に教えてやろう」
「おぉ。それはよい。では、わしも、いよいよ数寄者の仲間入りじゃ」
都で遊び歩くよりは大人しく二人で茶の湯を楽しんでいてくれたほうがいい。
「それは喜ばしい。是非ともそうしてくれ。父上もお喜びになろう」
三九郎が強く勧めると、忠三郎は「では早速、茶室を造る支度をせねばなるまい」と笑い、また盃を手にした。
その笑い声が居間から広間へと届くころ――。
同じ中野城大広間。
信忠は広間に入るなり、掛け物に目をやった。掛け軸には和歌が書かれてある。
「昔見し 雲ゐをめぐる秋の月
今いくとせか 袖にやどさん」
筆跡に見覚えがある。忠三郎が自ら筆をとって書いたようだ。
昔見た雲の上をめぐる秋の月……これから何年、袖の涙に光を映し、眺めるのだろうか。鎌倉時代に生きた二条院讃岐の歌だ。若い時に見た月を懐かしみ、あと何年、涙をもってこの月を眺められるのかと綴る筆のすさびは、忠三郎の心の影をそのまま映しているかのようにも見えた。
「あの者の胸の内にあるものはようわからぬ」
信忠が真面目な顔でそう言う。
「は…皆、そう申しておりまするな」
普段の忠三郎の飄々とした態度と破天荒な行いからは、その胸の内を知ることは難しい。
幼いころに母を亡くした悲しみから和歌、茶の湯、香道、能など、手当たり次第に遊芸にのめりこみ、先行きを案じた祖父快幹が筆を取り上げたという話を聞いたことがある。
(岐阜にいるときも一度あったな)
日野を離れてからは武芸に関心を示さず、和歌にばかり興じているのを見かねた織田家の武将が、注意したようだ。誰が何を言ったのか分からないが、ようやく武芸に励みだしたころに、滝川家に出入りするようになった。
父祖から受け継いだ武人としての才能は余人をはるかに凌駕している。年の割には出来過ぎなくらいだが、置き忘れられたその心は、行き場を見失ったまま宙をさまよっている。
一益はその影を見抜いていた。
(才は天より授かっておる。あとは、その才を武門の道へと正しく導くのみ。遊芸に惑わされず、上様の御心に応える器へと育てねばならぬが…)
掛け軸にしたためられた歌に、再び目をやる。
忠三郎は生まれついて温厚で、人を斬るよりも歌や茶に心を寄せる性を持っている。その優しさを削り、武芸を叩き込み、戦場に立たせることが果たして正しいのか――そう問う己が胸の奥にいる。
しかし、世は戦国。才ある者は武士として刀を取り、戦の渦に身を投じねばならない。信長の御傍らに仕える者である限り、それを避けては生きられない。
一益は静かに息を吐いた。
(この戦国の世が望むのは、和歌を詠む公達ではない。鶴には、武士として揺るがぬ道を歩ませねばならぬ)
そう胸の内で呟いたとき、広間の空気を変えるように、信忠が口を開いた。
「父上は今年こそ本願寺の息の根を止めたいと、そうお考えじゃ。されど、摂津・河内衆と尾張・美濃衆を引き連れて戦をするのはいささか案じられる」
その両者は誰の目から見ても仲が悪い。特に尾張・美濃出身者で占める奉行衆と摂津の武将の仲は険悪だ。いつか何か大ごとになるのではないかという不安がある。
信忠はそれを心配して、そのどちらとも仲が良くも悪くもない一益に相談してきた。
「特にあの荒木というものは、常日頃から我が家の不満を口にしていると聞く」
そんな話が信忠の耳にまで届いているということは、信長も知っているのだろう。
(それゆえに葉月を荒木の息子に…これはまた、とんだ人身御供にされたな)
そしてその荒木のもう一人の息子の嫁は、家中でも一人浮いている明智光秀の娘ではないか。
ようやく章姫を取り戻したばかりだったのだが。
「荒木の与力となっている高山右近は生真面目な男。かの者がおれば、よもや織田家に弓矢ひくようなことにはなりますまい」
高山右近に関しては、ロレンソという情報源がいる。右近に万一不穏な空気があれば、事前に知ることもできる。
「左近はロレンソと昵懇であったな」
「昵懇というわけではありませぬが…」
信忠は少し考えて
「本願寺との戦は摂津・河内衆を先陣とするじゃろう。遅かれ早かれ、わしや左近にも出陣の命が下る。心得ておいてほしい」
「ハハッ、それは無論のこと」
このあとも、本願寺を支援する紀州のこと、北畠の家督を継いでいる弟の三介信雄のこと、武田攻めのことと話をしていると、日が暮れ落ちた。
「そろそろ忠三郎を呼んでやれ。待ちくたびれておろう」
一益は襖をあけると、滝川助太郎に手招きして忠三郎を呼ぶようにと伝える。
開け放たれた広間から、豪華絢爛な庭がよく見渡せる。
「大したものよ」
信忠が感心している。
庭園の向こうに広がる景色を見るに、最初から景観を重視して作られたのがわかる。その上、華麗な石組と、無数に配置されたソテツ。南国にしかない木をここまで植え並べる財力は、言葉にせずとも権威を誇示していた。おそらくは忠三郎の祖父・快幹の時代に手がけられたものだろう。
やがて姿を現したのは忠三郎ではなく、正室の吹雪だった。
「兄上。ようお越しくだされた」
吹雪が信忠に向かって微笑む。
一益が風花の姉・吹雪を目にするのは二度目である。一度目は岐阜の千畳敷館。降りしきる雪を飽くことなく見上げるその姿に、思わず目を奪われた。
だが、改めて対面してみると、妙な違和感を覚える。風花によく似てはいるが、見間違えるほどではない。表情の作り方も、声の調子も、一挙手一投足までもが異なっている。あの時は瓜二つに思えたものが、今はかえって違いばかりが目に付いた。
「若殿は、もう無理やもしれませぬな…」
吹雪は疲れたようにため息を洩らした。その様子で察した一益は、無言で立ち上がり、忠三郎の居間へ足を向ける。
すでに町野長門守が焦った顔で忠三郎を揺さぶっていた。
「あ、父上…」
部屋の中には、完全に酔いつぶれた義太夫と忠三郎。湯帷子一枚で横たわり、身じろぎひとつせず眠っている。
(主の嫡男が来ているのを承知でこの態度か)
普段の生活が垣間見えるようだ。吹雪の言う通り、今日はもう無理だろう。
「長門守、もうよい。それよりも城介殿は今宵お泊りじゃ。そなたの父を呼んで支度させよ」
「ハハッ、まことに面目次第もござりませぬ」
町野長門守が恐縮して立ち上がった。
信忠はそのまましばらく工事の監督のため安土に留まり、一益は長島に戻って人の手配をし、また安土へ戻る――その往復を繰り返していた。
二月下旬には本丸、二の丸が完成し、信長が岐阜から安土に引っ越してきた。それと共に馬廻衆の屋敷の普請がはじまる。
距離的に近い日野には馬廻衆から要請が届き、忠三郎が職人や商人を手配して安土の築城現場に出入りし、食料や物資を運び込んでいた。伊勢からも人足が大量に投入され、義太夫も忙しく立ち働いていた。
その日も作業を終えて我が家同然の忠三郎の居城・中野城に戻ると、町衆らしき人の群れが城門から出てくるところであった。
(はて…何かあったか…)
居間へ行くと、忠三郎が脇息に片肘ついて、いつになく暗い顔で物思いに沈んでいる。普段なら人の気配にすぐ反応するのに、今はまるで気づきもしない。
「鶴、如何いたした」
声をかけると、ハッと顔をあげ、常の笑顔を作って見せた。
「おぉ、もう戻ったか。義太夫は夜は働かぬか」
「たわけたことを申すな。少し休まねば、いざ合戦というときにお役に立てぬわ。それよりも、町から人が仰山きておったな。何事じゃ?」
忠三郎は、いや、と首を振り
「取り立てて話すことではない。それよりも、酒を運ばせようか」
「酒?そうじゃな。まずは酒じゃな」
何かあると酒と言い出す。分かりやすいと呆れつつも、義太夫は調子を合わせた。
やがて忠三郎がいつものように酔いつぶれて眠るのを見て、義太夫はそっと席を立ち、滝川助太郎を探した。常に忠三郎の傍らにいる助太郎なら、事情を知っているに違いない。
庭に出ると、夜風が石灯籠に影を落とし、広すぎる庭が闇に沈んでいた。
「この庭は広すぎる。童ならば迷うであろう。なんとかいう偉そうな名の庭師が造ったとか、あやつは言うておったが…」
見慣れぬ資材が贅沢に使われた庭をうろうろしていると――
「義太夫殿。他家の庭で騒いではなりませぬ」
助太郎が物陰から現れた。
「今宵の絡み酒はまた酷かったわい。時に…何があった?」
義太夫が軽く笑って問いかけると、助太郎は辺りを窺いながら、声を落としてひそひそと話しはじめた。
翌朝、忠三郎はまだ夜も明けぬうちから安土に向かう。その足取りが重いのは前日の酒が残っているからだけではない。
昨日、馬廻衆の横暴な振る舞いを、町衆が訴えてきたのだ。
『横暴?』
馬廻衆の無理を聞かされるのは今に始まったことではない。最初はいつものように、高圧的な態度に皆が腹を立てたのだろうと苦笑しながら耳を傾けた。
だが訴えは想像以上であった。
『とんでもない量の飯をすぐに持って来いと言うたかと思えば、不味いと口にしては何百人分も作り直せと命じる。飯だけではありませぬ。屋敷に敷き詰める畳の数も桁外れに多く、それを三日以内に揃えよと無理難題ばかり。これ以上は堪忍ならぬと、訴えにきたのでござります』
しかもかかった費用も一切支払われないという。
ならばと、取り急ぎ全額を肩代わりして払おうとすると、町衆は首を振って断った。そこへ騒ぎを聞きつけた町野左近が現れ、辛抱強く説得してようやく帰ってもらえたものの、このまま収まるとはとても思えない。
城下の町人ばかりではない。領内からは農民も大量に駆り出されている。このままでは田植えすらままならぬのではないか――忠三郎の胸は重く沈んでいた。
(どうしたものか…)
ぼんやり木陰に腰を下ろして考えていると
「おぉ、ここにおったか」
ひょっこりと義太夫が顔を出した。
「なんじゃ、早々に城を出たかと思えば、かようなところで油売りか」
「遅いぞ、義太夫。義兄上はなにやら羽柴筑前に呼ばれて城介殿の元へ向かわれた」
笑ってそう言う声が、どこか擦れてかすれている。
「ひどい声じゃ。飲みすぎではないか」
「いやいや、それよりも……馬廻衆の屋敷にかかる金は、相当なものではないか?」
他家ではどうしているのか、さりげなく探りを入れると、義太夫はとぼけた顔をして言った。
「伊勢の者には、万見仙千代も堀久太郎も、きっちりかかった分だけ金を払うておるぞ」
忠三郎は、おや、と首を傾げた。はじめて、日野の者ばかりが馬廻衆に嫌がらせをされていることに気づく。
「またか……」
「また?」
「いや……それもそうじゃな……」
乾いた笑いで誤魔化そうとしたとき、義太夫がふと目を上げた。
「あれは昨日、城に来ていた町の衆ではないか」
見ると確かに日野の町衆だ。万見仙千代と何やら言葉を交わしている。
「もめておるようじゃ」
「止めた方が……」
二人が慌てて立ち上がった瞬間、万見仙千代がすらりと刀を抜き、目前の町人を斬り捨てた。
「なっ……!」
忠三郎は息を呑み、一瞬足が止まる。仙千代は血を拭い、何事もなかったかのように踵を返して立ち去ろうとした。
「待て、仙千代!」
途方もない大声が響いた。義太夫は耳を疑い、忠三郎を見た。そこにいたのは、普段の飄々とした忠三郎ではなく、鬼のような形相で刀を抜き、今にも飛びかからんとする忠三郎だった。だが、呼びかけられた仙千代は、振り返ることさえしなかった。無言のまま裾を翻し、群衆を押し分けるようにして立ち去っていく。
義太夫が慌てて後ろから羽交い締めにする。
「血迷うたか! 相手が誰か分かっているのか!」
「離せ!目の前で我が領内の民を斬り捨てられて、黙って見過ごすなど、男もならぬ! 民だけではない、日野そのものの面目を斬られたのだ」
吐き出された怒声は領民を思う憤りに満ちていた。だが、胸の奥底に渦巻いていたのは、信長の娘婿にして家中の特別な立場にある自分が、目の前で辱めを受けたという悔しさだった。己の家、父、そして蒲生の名が土足で踏みにじられた思いが、怒りに火をつけていた。
「お、男も……?」
普段の柔和な忠三郎とは別人のような姿に、義太夫は目を瞬かせる。そこへ滝川助太郎と町野長門守も駆けつけ、三人がかりで必死に抑え込むが、忠三郎は恐ろしい力でなおも皆を引きずり、仙千代を追おうとした。
「仙千代! 逃げるか!」
怒号が轟き、周囲の鼓膜を破らんばかりの声が安土の空気を震わせる。
「黙れ、黙れ、みな、黙らせよ!」
義太夫が必死に忠三郎の口を塞ぎ、地に横倒しにして刀をもぎ取ったが、それでも忠三郎は喚き散らして暴れ続けた。
その騒ぎに蒲生家の家人らも駆けつけ、義太夫は息を荒げながら叫んだ。
「みな、この阿呆を抑えよ! 助太郎、殿をお連れせい!」
「心得た!」
助太郎は群衆をかき分けるように駆け出し、総奉行詰所にいる一益のもとへと走っていった。
知らせを受けた一益が姿を現した時には、その場にいた者たちは皆、押し合い揉み合いで傷だらけになり、精根尽き果てていた。
一益は馬から静かに降り、地に放り投げられていた忠三郎の刀を拾い上げると、丁寧に鞘へと収めた。
「刃傷沙汰の発端は?」
問いかけに、町野長門守が顔の泥を拭いながら答える。
「上様の馬廻衆ともあろうものが、まともに金も払えぬのかと町衆が食って掛かったらしく……怒った万見様が刀を抜いたと」
「それはまことか」
忠三郎が驚いて長門守を見る。何も知らぬまま、ただ怒りに任せて暴れていたのか――そう悟った周囲は呆れ顔を隠せない。
「…で、斬られたという者は?」
「それは、父が来て日野へ…」
蒲生家重臣である町野左近が駆けつけ、遺体を引き取って戻ったらしい。一益は深く頷き、人払いすると、忠三郎の隣に腰を下ろした。忠三郎はなお怒り収まらぬ様子で、小袖にこびりついた泥を乱暴に払い落としていた。
「前にもやられた」
「前、とは?」
「上様ご上洛の折に。行軍の邪魔になった町衆を、仙千代と久太郎が斬った」
――もう八年も前のこと。町衆の訴えを聞いた忠三郎の祖父・快幹は、その乱暴な行為に深く失望し、織田家を嫌うようになった。何百年も領民と共に生きてきた蒲生家にとって、突然現れて狼藉を働く織田家に屈したことは、耐えがたい屈辱であった。
だがそれは何も江州だけではない。馬廻衆はどこででも同じように乱暴を働いていた。
(では、あの時、毒を盛ってでも久太郎に勝ちたいといったのは…)
一益は思い出す。あの冬、忠三郎が岐阜で人質となっていた頃、相撲で堀久太郎に敗れたあと「毒を盛ってでも勝ちたい」と悔しがったのは、この因縁が根にあったのだ。
「我が日野においては、町での抜刀は禁じられておりまする」
忠三郎が絞り出すように言った。
「お爺様が町掟を定められた。乱暴狼藉を働く輩は、町人であろうとも捕らえることを認め、また領民を守ることで町を繁らせてきた……。あの二人だけは許せぬ」
悔しさに声を震わせ、忠三郎の目が潤む。
槌の音が大地の拍を刻む。
「鶴、心もかように打て」
一益は静かに言葉を継いだ。
「勝ちたいと思うならば、正心を得よ」
「正心?」
甲賀に生まれたものは、みな、素破の本幹は正心と教えられる。陰謀偽計は正心の結果であると。
この辺りは孔子を学んでいなければわからないが、歌本ばかり読んできた忠三郎は漢詩はわかっても儒教そのものは頭に入らなかったと見える。
「心ここにあらざれば視れども見えず。己の心を整えなければ正しき心を得ることはできぬ。人よく心を正しくすれば即ち事なすに足るものなし。国を治めることも、世を泰平へと導くことも、正しき心があればそれは叶う」
「心ここにあらざれば…」
忠三郎は反芻するように呟いた。
「町民どもが何故に、領主であるそなたではなく、仙千代に直に金を払えと迫ったのか、分かるか」
「それは…」
昨日、自ら支払おうとしたが断られた。町野左近が説得して帰らせたが、町衆の顔には失望の色が浮かんでいた。
「この身の不徳の致すところにて…」
領民たちは、忠三郎を頼れぬと思ったのだ。自分たちを守ってくれる領主ではないと見限ったから、直接仙千代へ訴えた。
「鶴。そなたにとって何が最も大切なのか、よく考えよ。己の命を賭して岐阜へ行ったのは何のためか。何のために戦場に立ち続けてきたのか」
「何のため…」
胸中に浮かぶのは、家の誇り、武士の名、父祖の業――いずれも捨て難い。だが最も大切なのは。
(日野と日野に住む民…)
どこにあっても、何をしていても、思い続けてきたもの。それは古里と領民だった。
「わしには国と民以外、大切なものはありませぬ。我が故国を戦火から守るために岐阜へ行き、上様にお仕えして参りました」
「では分かるな。それを守るために己の心と戦え。正しき心を得よ。さすれば誰もそなたを侮らず、国は守られ、民は安穏に暮らすことができよう。袖を濡らす日はあろう。されど、正しき心で拭え。そなたにとって最も大切なものを、自らの手で守り抜け」
忠三郎は黙って耳を傾けていたが、ふと顔を上げ、いたずらを見つかった子供のように笑った。
「涙の袖…義兄上、掛け軸をご覧になられたか」
「城介殿が首を傾げておった」
「城介殿…それは…」
忠三郎の笑い声が広がると、遠巻きに様子を窺っていた家臣たちもホッと胸を撫で下ろし、安堵の息を洩らした。
一益の姿が人足たちの波に消えていくのを見届けると、忠三郎は胸の奥に残る重さを振り払うように、深く息をついた。荒々しい石工たちの掛け声と槌音が、耳の奥でいつまでも鳴り響いている。
その喧噪の只中で、ふと空を仰げば、白雲は西へ。都のさらに向こう、摂津。――荒木の城も、右近の祈りも、その空に沈み、やがて嵐の兆しと変わる。
安土の槌音はなお響き続けていたが、その余韻は、遠く大坂の空へと溶けてゆく。風の匂いが変わるとき、戦の火は摂津に及ばんとしていた。
1
あなたにおすすめの小説
獅子の末裔
卯花月影
歴史・時代
未だ戦乱続く近江の国に生まれた蒲生氏郷。主家・六角氏を揺るがした六角家騒動がようやく落ち着いてきたころ、目の前に現れたのは天下を狙う織田信長だった。
和歌をこよなく愛する温厚で無力な少年は、信長にその非凡な才を見いだされ、戦国武将として成長し、開花していく。
前作「滝川家の人びと」の続編です。途中、エピソードの被りがありますが、蒲生氏郷視点で描かれます。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
国を、民を守るために、武田信玄は独裁者を目指す。
独裁国家が民主国家を数で上回っている現代だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 純粋に国を、民を憂う思いが、粛清の嵐を巻き起こす
【第弐章 川中島合戦】 甲斐の虎と越後の龍、激突す
【第参章 戦争の黒幕】 京の都が、二人の英雄を不倶戴天の敵と成す
【第四章 織田信長の愛娘】 清廉潔白な人々が、武器商人への憎悪を燃やす
【最終章 西上作戦】 武田家を滅ぼす策略に抗うべく、信長と家康打倒を決断す
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です))
ソラノカケラ ⦅Shattered Skies⦆
みにみ
歴史・時代
2026年 中華人民共和国が台湾へ軍事侵攻を開始
台湾側は地の利を生かし善戦するも
人海戦術で推してくる中国側に敗走を重ね
たった3ヶ月ほどで第2作戦区以外を掌握される
背に腹を変えられなくなった台湾政府は
傭兵を雇うことを決定
世界各地から金を求めて傭兵たちが集まった
これは、その中の1人
台湾空軍特務中尉Mr.MAITOKIこと
舞時景都と
台湾空軍特務中士Mr.SASENOこと
佐世野榛名のコンビによる
台湾開放戦を描いた物語である
※エースコンバットみたいな世界観で描いてます()
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる