滝川家の人びと

卯花月影

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7 涙の袖

7-3 騎馬鉄砲隊

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 安土城の普請が続き、馬廻衆の屋敷に続いて城下には家臣たちの屋敷の建築が始まっている。
 そんな中、摂津から急使が入る。一万の兵を率いて攻め込んできた一揆勢により寄せ手の原田直政(大和国を治める武将)が討死。天王寺砦に籠った明智光秀が一揆勢に取り囲まれ援軍を求めている。
 報を聞いた京の信長は即座に織田領全域に陣触れを発した。湯帷子のまま都を飛び出し、供は馬廻衆ら百騎ほどにすぎない。家中に響き渡る苛烈な采配は、誰の遅参も許さぬ気迫に満ちていた。

 長島城にいた滝川一益も急ぎ家臣団を召集する。
「兵が集まるのを待たず、早々に出陣せよとのご命令である」
「は、兵が集まるのを待たず?は、はぁ…」
 義太夫が間の抜けた声をあげる。
 信長は武将たちだけで戦さすると言うのだろうか。居並ぶ家臣たちは顔を見合わせるが、遅れをとれば叱責されてしまう。一益は早々に長島を立ち、四日市の興正寺で兵が集まるのを待った。
「殿。二日、三日で集まるものではありませぬ」
 各所で声をかけて回っている佐治新介は苦労しているようだ。
「されど、このまま後詰がなければ天王寺砦はその二日、三日で落ちる。上様は湯帷子のまま都を出立し、傍におるのは馬廻衆をはじめとした百騎あまりと聞く。我らも急がねばなるまい」
 援軍が間に合わず、明智光秀を死なせては織田家の威信も地に落ちる。滝川勢は、兵の到着を待たず昼夜馬を走らせ、亀山・関を越え、伊賀を抜けて大和へと入った。

 大和の国は数日前に戦死した原田直政が治めていた地だ。上は六十歳、下は十五歳の男すべて戦さに加わるようにと国中に触れがでている。
「しかし、まるで無人の国のようにて」
 義太夫が小首を傾げる。大和に入る少し前から、道すがら人影を全く見ていない。
(これが我らの評判というものか…)
 女子供しか残されていない筈だ。織田兵に恐れをなして、身を隠しているのだろう。
「ここからであれば明日には上様に追いつき、若江城に到達するじゃろう。ここで夜を明かし、兵を待つこととしよう」
 一益が馬の脚を止めると、津田秀重が近寄ってきた。
「殿、大和に留まるは難しいかと…」
「如何いたした、秀重」
「されば…」
 秀重は言い淀んだが、申し訳なさげに口を開いた。
「我らが陣を張ることを恐れた土地の者どもは家ごとに垣根を張り巡らし、馬の立ち入りを阻んでおりまする」
「津田殿、それはまことか!」
 義太夫が驚きの声をあげる。一益は、しかし嘲るように笑った。
「滝川左近も嫌われたものよ」
 他国での評判というものは、近江や伊勢にいては知るよしもない。だが、見知らぬ国に足を踏み入れたとたん、これほどまでに忌み嫌われるものか――。
 合戦に臨む前に兵を休め、軍勢の集まるのを待ちたかったが、それもかなわない。
「このまま若江城まで突き進むしかなかろう」
 一益の声を合図に、滝川勢は休むことなく若江城を目指した。
 
 伊勢、美濃、江北の武将たちはそれぞれ強行軍で若江へ向かっている。その一方、近隣を治める武将たちはすでに若江城に集結していた。しかし兵がいない。多く見積もって二千といったところだ。
 刻一刻と迫る危機の中、天王寺砦からは後詰を求める急使が矢のように届く。三日五日は抱えがたしと聞いた信長は明日にも攻めかかると決め、諸将に陣立てを伝えた。
「小童。そちも馬廻衆とともに出陣いたすか」
 先に若江城に到着していた忠三郎に声をかけてきたのは、荒木村重だった。
「いえ…それがしは馬廻のものとは別に、手勢を率いて参りました。馬廻衆は第三陣、それがしは第二陣に加わることとなっております」
 明日の布陣は三段構えと定まっていた。
 第一陣は荒木村重、佐久間信盛、松永久秀。そこへ信長自らが加わり、陣頭に立つ。
 明日到着する伊勢・美濃・江北の将は第二陣、そして人数の少ない馬廻衆は第三陣に配された。
「またとない好機ではないか」
 村重が不敵に笑った。
「好機…と申されるは?」
 忠三郎が訝しむと、村重は声をひそめて言う。
「……馬廻衆が上様から離れるなど、めったにないことよ。邪魔な足軽どもも三陣にはほとんどおらぬ。馬廻は数薄く、上様の周りは一時的に手薄というわけじゃ。そちは二陣であろう。最後尾に回り、乱戦となったその折に――万見仙千代を討て」
「なに…!」
 忠三郎は思わず村重を見返した。
「どうした。臆したか。仙千代と刃を交えて勝つ自信もなければ、刺し違える覚悟もないのか」
「刺し違える…」
 反芻するように口にしたきり、忠三郎は言葉を失った。村重の口元には、冷ややかな嘲笑が浮かんでいた。
「よい、そちの度胸を値踏みしたまでよ。――ところでだ」
 村重は扇を打ち鳴らし、ふいと声色を変えた。
「木津川口の水運を押さえよとの仰せがある。兵糧の道は戦の命脈――わしは舟手を動かす。若江の先陣は佐久間殿らに任せるとしよう。そう上様にも申し上げよ」
 そう言い置くや、踵を返した。
「荒木殿、お待ちを! 荒木殿は先陣を仰せつかっていたのでは…」
 忠三郎が慌てて声を張り上げる。しかし村重は振り向かずに言い捨てた。
「先陣も命ではあるが、兵糧道を保つはそれ以上の急務よ。木津川口は一日の遅れが十日の損。上意にて転進――覚えておけ」
 振り返ることなく、馬へと歩み寄っていく。
 陣幕の周りに居並ぶ荒木家の家臣たちは顔を見合わせたまま声を失っていた。
 主君に逆らうことはできない。だが戦を前にして退く決断が、いかに不名誉で、いかに織田軍全体を揺るがすかを、皆が痛いほど理解していた。
 やがて列を整えた荒木勢は、重々しい沈黙のまま若江を去っていった。
 その背を見送りながら、忠三郎の胸に冷たいものが広がった。――これでただでさえ劣勢の兵力が、さらに削がれたのだ。もはやこの戦は、勝敗以前に「持ちこたえられるか否か」という段にまで追い込まれている。
 荒木陣営の近くに陣を敷いていた諸将は、互いに顔を見合わせた。誰も言葉にはせぬが、村重の離脱が織田軍全体の均衡を大きく崩したことは明らかであった。

 忠三郎はそのまま信長の陣へ戻り、事の次第を報告した。
「先陣を蹴った上、無断で城を出ていったと申すか」
「は…木津川口へ兵を回すべしとの上意と称し、舟手を動かす由にて…」
 信長は声を荒げ、手にした軍配を投げつけた。重大な軍規違反だ。他国の武将ならともかく、軍律に厳しい織田家においては、かつて耳にしたこともない暴挙であった。
「誰がそのようなことを下知したのじゃ。口実にて先陣を外したか――不届き至極! 他には?」
「は…取り立てて何ということは、何も…」
 忠三郎は言葉を濁した。まさか、万見仙千代を討てとそそのかされたなどとは口が裂けても言えない。
 そこへ、その仙千代本人が姿を現した。忠三郎は思わず息をのむ。心の奥を見透かされたかのようで、背筋に冷たいものが走った。
「上様。滝川左近将監殿、御着到にござりまする」
「左近が参ったか」
 まもなく一益が陣へ姿を現した。

「遅れました。面目次第もござりませぬ」
「陣立ては聞いておろうな?」
「はい。明日、上様が先陣に加わり、総指揮をとられると」
 信長は床几から立ち上がり、声をあげた。
「そうじゃ。かの者らを攻め殺させては、世上の非難は必定たるべし。わし自ら下知し、雑魚どもを蹴散らしてくれるわ」
 一益は静かに進み出て、やんわりと諫めた。
「敵方の鉄砲隊は数千とも聞き及びました。矢玉が雨のごとく降り注ぐかと」
 だが信長は首を横に振る。
「一揆の鉄砲など恐るるに足りず。なんとしても血路を開き、天王寺砦に入るのじゃ」
 信長が自ら先陣を駆ければ、味方の士気はいやが上にも高まる。この兵力差を打開するには、それしかない――まさしく桶狭間の折と同じく、己が身を賭して全軍を鼓舞するというのであった。
 こうなると誰が何を言っても止まらない。一益は苦笑を浮かべ、
「致し方ありませぬな。では我が家の騎馬鉄砲隊をもって、馬上筒と焙烙玉にて敵を攪乱いたしましょう。その間に上様は一兵でも多く率いて南へ迂回し、北上して砦へ突撃してくだされ」
「何、騎馬鉄砲隊とな」
 信長の目が光った。
 馬上から撃つための馬上筒は、片手で操作できる利点こそあれ、重く短く的も定まりにくい。だが一益は工夫を重ねて欠点を補った。まず足軽が焙烙玉で敵を足止めし、敵勢がまとまったところを狙って一斉射撃。その後、騎馬武者が一気に突撃をかける。鉄砲を放つは五十間(約九十メートル)を目安とし、間髪を容れず馬腹を蹴って駆け込む。射撃と突撃のあいだに間隙を置かぬことこそ、敵に息をつかせぬ極意であった。
「我が家の騎馬鉄砲隊は他とは異なり、数は多くはありませぬが、いずれも砲術に長けたものばかりを揃えておりまする。更には馬上筒はそれがしが自ら改良に改良を加え騎馬武者のために拵えたもの。必ずや上様の突撃の一助となりましょう」
「よかろう。明日未明、討って出る。騎馬鉄砲隊は先陣とともに出撃して行く手を阻む一揆どもを蹴散らし、三陣の馬廻が砦に入ったのを見届けたのちに天王寺砦へ引き上げよ」
「ハハッ」
 天王寺砦は一万の一揆勢に幾重にも取り囲まれている。その包囲を引き裂くほどの働きを、この騎馬鉄砲隊が果たせるのか――誰もが胸を詰まらせ、夜明けを待つ空気はひたすら重く張りつめていた。

 陣屋に戻ってきた一益から話を聞いた家臣たちは、思わず息をのんだ。
「そっ、それでは騎馬鉄砲隊だけで敵を引き付けるようなものでは…」
 滅多に顔色を変えることのない佐治新介が、言葉を詰まらせる。唖然として聞いていた義太夫も、
「いやいやいやいや、と、殿…し、しばし、しばしお待ちを!」
 慌てふためいて声を張り上げた。
 そこへ蒲生忠三郎が姿を現した。
「流石は義兄上じゃ!して、その騎馬鉄砲隊のものどもはいずこに?何百人おるので?」
 最初から最後まで話を聞いていた忠三郎が、興奮気味に帷幕の中に入ってくると、義太夫が後ろを振り返り、
「いずこもなにもない、目の前におるではないか」
「目の前?とは?」
 忠三郎がなんのことか、という顔をする。それを見た佐治新介がため息交じりに
「騎馬鉄砲隊は三十名。そのうち十五名は長島の留守居をしておる。ここにおる騎馬鉄砲隊の内、一人は殿で、もう一人は三九郎様。あとはわしと義太夫、他十名ほどしかたどり着いてはおらぬ」
「な、なんと!」
 忠三郎の胸に冷たいものが広がった。さきほどまで胸を熱くした戦術の妙は、一瞬で霧散していく。
(たった十余名で、一万を引き付けるというのか…)
 思わず一益を見る。一益は常のごとく平然と構えている。その姿はかえって底知れず、忠三郎の不安をいっそう募らせた。
「で、では明日は如何なる秘策をもって…」
 忠三郎は唖然とした声で問いただした。
「奇策にあらず、地の利と刻の利を継ぐのみ。――義太夫、あと一人は如何いたした? その方が砲術を教えたのではないのか」
 一益の言葉に、家臣らは顔を見合わせた。以前より義太夫が「砲術を叩き込んでおる」と自慢げに語っていた若者のことだ。
 義太夫はうーんと唸って口ごもった。
「これがどうも…なんとも…」
「如何いたした。小平次、呼んで参れ」
 一益の命に従い、津田小平次が呼びに向かう。
 忠三郎は訝しげに義太夫を見た。
「誰じゃ。砲術師か? わしの知らぬものか?」
「うーん…これがまた、なんとものう…」
 常ならば余計なことまで喋り散らす義太夫にしては、不自然に口が重い。ますます不審を募らせていると、小平次が若武者を連れて帷幕に戻ってきた。
「お呼びで?」
 一益の前に片膝をついた若武者。さしもの忠三郎も驚いて目を見張る。両肩の肩上は大きく張り出し、全身は朱に染まり、手にした大槍までもが朱塗りで、長さは総長十二尺もあるかと思われた。
「砲術は上達したか。明日、我が鉄砲隊は上様と共に出撃し、馬廻が砦に入るまで敵と戦う。そなたは如何いたす」
 一益が問いかけると、若武者は槍の柄をぶんと上下に揺さぶり、胸を張った。
「飛び道具はどうにも扱いづらく、好かぬ。それがしは明日、この大槍で鉄砲隊とともに出陣いたしまする!」
 義太夫を上回るような大言壮語だ。常ならば笑い飛ばすところだが、その若武者の眼差しには自信がみなぎっている。
 義太夫が、
「これ、これ。殿の前で何ということを…」
 と色を失って嗜めるので、傍らで聞いていた忠三郎は思わず吹き出した。

「面白いではないか、義太夫。槍で戦わせてやれ」
 その一言に、若武者はジロリと忠三郎を睨みつける。
「何じゃ、誰じゃ、この無礼者は」
 その気迫に押され、忠三郎は苦笑しながら義太夫の顔を見やった。義太夫は慌てて手を振り、
「口の利き方に気を付けよ。これなるは、いやしくも上様の娘婿の…」
 その途端、忠三郎は眉をひそめた。
「待て、義太夫。口の利き方を改めるべきは義太夫ではないか。いやしくも、とは、このわしに向かって如何な物言いか。わしが分不相応と言うておるのか」
「いちいち面倒な奴じゃのう。鶴、これはことばのアヤじゃ。鶴は常よりつまらぬことばかり気に掛ける。それゆえに…」
「そうではない。莫逆の友のこのわしに向かって余りな言い様。いやしくも、ではなく、せめて『いみじくも』くらいは言うてくれてもよいではないか」
「莫逆の友? おぬしが?」
 莫逆の友とは荘子にある言葉で、心打ちとける友を指す。
「何じゃ、違うと申すか」
 二人がまた言い争いをはじめると、帷幕の内はにわかにざわめいた。しかし珍しいことでもないのか、誰一人止めようとはしない。
 一益のみは、この喧騒の中にあっても目を閉じたまま、深い思案に沈んでいるようだった。
 傍で聞いていた若武者は、鶴と呼ばれている目の前の武将が蒲生忠三郎であると気づいたようだ。
「…合点がいった。その方が鳳凰の雛ともてはやされ、裏では鈍三郎と悪口雑言たたかれておる蒲生の子倅であろう」
 その傲岸な言い様に、二人ははたと我に返った――忠三郎は口を開きかけたが、一益が軽く手を上げてそれを制した。
「もうよい。慶次、許す。そなたは槍を持って共に参れ」
 慶次と呼ばれた若武者は、ハハッと頭を下げ、そのまま帷幕を後にした。
「義兄上、あれは誰じゃ?」
 忠三郎が不満げに問うと、一益は笑って義太夫へ視線をやった。
「義太夫…話して聞かせてやれ」
「ハッ、それがしが……は、はぁ」
 いつになく言葉少なな義太夫に、忠三郎は眉をひそめる。常ならば余計なことまで喋り散らす男が、この話題になると口が重い――ただならぬ因縁を感じる。
 そんな二人を横目に、一益は立ち上がり、広げられた天王寺砦の絵図へ歩み寄った。
(明日は久方ぶりに面白い戦になる)
 天気は上々。雨の気配もなく、虎の子の鉄砲隊を存分に使えるだろう。

 翌未明。法螺が鳴り、織田家の諸将が次々に城門を駆け抜ける中、滝川家の騎馬鉄砲隊もその後に続いた。その数わずか十余騎。
 一益は三九郎らを率いて信長に先立ち、天王寺砦を取り囲む敵の背後に迫る。
「気づかれる前に焙烙玉を投げよ。ただし味方の合図ののち、ひと時だけにせよ!」
 一益の声に応じ、火玉が一斉に飛んだ。轟音と白煙が辺りを覆い、敵はひるむ。
「撃て!」
 短銃の斉射が轟き、敵兵が倒れる。その一瞬の隙に信長の騎馬隊が突撃し、砦を目指して駆け抜けていった。
 一益は次の鉄砲を受け取り、走り抜ける味方の姿を見やった。ここまでは計画通り。だが――。
 林の向こうから鋭い銃声が響き、味方の騎兵が馬ごと崩れ落ちた。
「殿、あれなるは敵の鉄砲隊では」
 義太夫が右前方を指さした、その刹那、一益の眼前を弾丸が掠めた。
(狙いが正確すぎる……雑賀衆か)
 紀伊の傭兵鉄砲隊の名が脳裏をよぎる。彼らは間合いの読みと射撃精度で名高い。
「雑賀じゃ! 林に入れ。木陰を縫い、撃ったらすぐ移れ。一所に留まるな!」
 命令が飛び、鉄砲隊は右へ左へと馬を走らせ、木立の陰から短射を繰り返す。
 三九郎は歯を食いしばりながら馬を操った。わずか十余騎で挑む無謀さは承知している。だが父の声が響く限り、退くことは許されなかった。
 そこへ、朱槍を振るう前田慶次郎が煙を突き抜け、敵中へ突進していく。
(無鉄砲…だが、不思議と兵を奮わせる)
 三九郎は息を呑み、胸の奥に奇妙な熱を覚えた。
 騎馬鉄砲隊は右へ左へと駆け抜け、林の陰から銃撃を浴びせ、雑賀衆との死地の撃ち合いに挑んでいた。
「ご注進!」
 滝川助九郎が駆け込み、声を張り上げる。
「上様が一揆勢の鉄砲隊により手傷を負われたとのこと!」
「何、上様が被弾?……して、傷の具合は?」
 一益が息を呑む。
「大事には至らず、早や砦入口まで迫る勢いにて!」
 織田軍の一陣が煙の中を走り抜ける。続けて二陣、津田秀重率いる滝川勢や他の部隊が次々に砦を目指して突進していった。
 三九郎はその姿を横目に、馬を操りながら心を震わせた。
(父上は…上様が血を流されても怯まず、戦を進めるおつもりか)
 誇らしさと恐怖がないまぜとなり、胸の奥が熱く灼ける。

 やがて三陣の馬廻衆が姿を現したときには、辺りに敵兵が雪崩のように集まりつつあった。雑賀衆の銃弾が雨あられと降り注ぐ。
 その弾雨の中で、朱槍を振りかざす慶次郎の姿があった。矢も鉄砲も意に介さず、烈火のごとく突進していく姿は、無茶苦茶ではあるが、妙に兵たちの心を奮い立たせた。
(義太夫が二人おるかのようじゃ…)
 誰かがそう呟いたのを、三九郎は耳にした。だが誰も深く追及せず、ただ目前の死地へと駆け込んでいった。
 雑賀衆の銃弾はなおも雨のごとく降り注ぎ、馬と人とが入り乱れて倒れていく。視界は煙に閉ざされ、味方の陣形もあやふやになりつつあった。
「殿!あれをご覧あれ」
 義太夫が前方を走る織田勢の中で、一人、右往左往している騎兵を指さす。
「あれは鶴どのについて歩いている町野長門では……蒲生勢は二陣だった筈…」
 佐治新介が不思議なものを見るように言う。
「おかしな様子でござります。忠三郎であれば先陣を駆けることはあっても、遅れをとるようなことはありませぬ」
 三九郎がそう言ったときには、前方の騎馬武者の顔がはっきりとわかるところまで近づいていた。
「あれは確かに町野長門守…であれば助太郎も近くにおるはずじゃが…」
 あたりを見回しても、忠三郎も、助太郎も姿がない。
 義太夫が町野長門守に声をかけようとしたとき、激しい銃声が響き、馬が仁王立ちになり、長門守が転げ落ちるのが見えた。
「これは拙い」
 義太夫は馬腹を蹴って駆け寄った。
「町野どの! 大事ないか」
「かすり傷にて……」
 しかし足を撃ち抜かれたらしく、おびただしい血が流れている。
 義太夫は慌てて長門守を担ぎ上げ、馬に乗せると林の中へと連れ込んだ。
「鶴は如何いたした。見失ったか?」
 一益が色を失ってそう訊ねると、長門守が傷口を押さえながら答えた。
「面目次第もござりませぬ。若殿が万見どのを仕留めるまたとない機会と申され、一人、馬廻衆を追い回し、探し歩くうちにお姿を見失いました」
「かような大事に、なんとたわけたことを…」
 佐治新介が呆れ果て、他の者たちも皆、唖然とする。戦場のただ中で忠三郎が独断専行とは、誰も想像だにしなかった。
 一益はすぐに顔を強ばらせ、決断を下した。
「三九郎、長門守を連れて先に砦を目指せ。他の者どもも敵を倒しつつ、砦へ入れ」
 と命じた。
「ハッ…父上は?」
 三九郎が問う。
 一益は答えず、背に鉄砲を抱えなおすと、手綱を引きしぼって馬を走らせた。
「あ、殿! それがしも御供仕りまする!」
 義太夫が慌てて叫び、馬腹を蹴ってその後を追った。
 
 その頃、忠三郎は滝川助太郎に導かれ、辛くも住吉大社の杜に身を潜めていた。
 鬱蒼とした松の梢が風に鳴り、遠くには潮の匂いが漂う。不思議な静けさが、戦場の轟音から切り離されたように境内を包んでいる。
「ここから天王寺砦までは二里にも満たぬ……されど、味方に我らがここにいることを知らせねば…」
 砦に入ることは叶わぬとしても、せめて砦にいる滝川家の誰かにこの場所を知らせることができれば、持ちこたえる道はある。だが敵が近すぎた。こんなところで狼煙を上げれば、味方が来るより先に敵に取り囲まれてしまう。
「それはまことか。二里もないのか。では、もう仙千代は…」
 まだそんなことを口にする忠三郎に、助太郎は呆れたように肩をすくめた。

「とうに砦に入られたものかと」
 忠三郎はその言葉にがっくりと肩を落とした。
 兜を脱ぎ、手に持つと、あちこちに刻まれた銃弾の痕をまじまじと見つめる。
「凄まじい鉄砲の数であった……長門は無事であろうか」
 途中ではぐれた町野長門守の姿が脳裏をよぎる。それもこれも、皆の制止を聞かずに「万見仙千代を討つ」と言い張り、一人で引き返したせいだった。
「義兄上はお怒りかのう……」
 助太郎は腹立ちのあまり、相槌を打つのも億劫な様子で、ただ無言のまま忠三郎を睨む。
「お怒りであろうな……滝川のものは誰も助けに来てはくれぬか。義太夫も、三九郎も、新介も、誰もわしのことを案じてはおらぬのかのう」
 一切返事を返さない助太郎をよそに、忠三郎は独り言のように呟き続けた。
 ふと手持無沙汰にあたりを見回すと、鬱蒼とした杜の中に朱塗りの社殿が闇に浮かび上がっているのが目に入った。戦場の轟音から切り離された境内は、不思議なほど静かで、風に揺れる松の梢のざわめきと、どこからともなく聞こえる潮の匂いだけが満ちていた。
「これなる社は和歌の神を祀ると聞き及ぶ」
 忠三郎は助太郎が怒っていることにも気づかぬふうで、場違いな話を持ち出した。
「海の神と聞き及びましたが……」
 助太郎がぶっきらぼうに返す。
「別の神格として和歌の神とも伝わる。存じてはおらぬか?」
 忠三郎は振り返り、にこりと笑ってそう言った。

 「住みよしの 松はまつとも 思ほえで  
                君がちとせの 陰ぞ恋しき」

 新古今の歌を吟じる声は、やけに澄んで響いた。
「住吉の松が我を待つはずもなし。恋しいは、ただ上様と義兄上の御影よ」
 この期に及んで和歌とは。しかも勝手に離れておきながら、恋しいとは――助太郎は腹立ちを通り越し、もはや相手をする気も失せていた。
「忠三郎様……今は歌などを詠んでいる場合ではござりませぬぞ」
 思わず声が厳しくなる。忠三郎はおや、という顔で振り返った。
「助太郎、怒っておるのか。和歌には古人の教えが含まれておる。猛きもののふの心をも慰むるは歌なり。……仙千代は取り逃がし、お味方とも、乳人子の長門とも離れ、ここに取り残されたわしの心を察してくれ」
「察しておりまする。それゆえに……早う我が家の者に、この場所を知らせ――」
 助太郎は言いかけて、ふと口を閉ざした。瞳に何かを思いついた光が宿る。
「如何いたした、助太郎」
「古人の教え……」
「そなたも一句、浮かんだか?…おや、短冊がない。長門に持たせていたような…」
 忠三郎が短冊を探し始めるのを見て、助太郎は首を横に振った。
「先ほど詠まれた歌は…」
「おお、感じ入ったか。そうであろう、そうであろう。あれは新古今にある歌で…」
「歌の細かな話はよろしい。名高い歌でしょうか」
 助太郎が真顔で問いかけてきたので、忠三郎はたじろいだ。
「さ、然様…住吉の松といえば歌枕…」
「やはり!」
 助太郎が静かに目を伏せた。
(……三つ、のろしをあげればよい)
 胸に浮かんだ考えを口にせず、ただ小さく息を吐いた。
「しばしここでお待ちを。それがしは少し離れた場所から狼煙をあげ、お味方に知らせて参ります」
 忠三郎は素直にうなずいた。
「では、わしは、しばし古に思いを馳せておこう。そうじゃ、助太郎。短冊と筆はないか?」
 またも辺りを探し始める忠三郎を尻目に、助太郎は返事もせず、社を飛び出していった。

 一益と義太夫は敵の目をかいくぐりながら四方八方忠三郎を捜し歩き、ついに熊野古道まで出た。熊野古道は古より摂津から紀州熊野三山へと続く巡礼道だ。
「おや、あれは……」
 義太夫が遠くに立ちのぼる狼煙に目を留めた。
「殿、あれはもしや助太郎では……」
 一益の目も同じ方向を捕らえる。
「三つ、のろし……『待つ』と言うておるのだ。我らを待っている、と」
「待つ……」
 一瞬、誰も言葉を発せず、風だけが松の梢を渡っていった。
 白い煙が空にたなびき、ひと筋、ふた筋、み筋――やがて義太夫が息を呑む。
「住吉の松か――三本の煙を『松=待つ』と掛けたのじゃな」
 住吉の松――和歌にしばしば詠まれた歌枕である。
「鶴も共におるということであろう」
一益は頷き、苦笑を浮かべて馬の首を返した。
「住吉大社にて、和歌を詠んで待っている……そう伝えておるのじゃ。まったく、この期に及んで和歌を持ち出すとは……」
「ははっ、何が起きても、あやつはあの調子でございますな」
 義太夫も思わず笑いをこぼし、二騎は煙の立つ方へと馬を駆けた。

 二人は住吉大社を目指した。だが社が近づくにつれ、周囲には不審な影がちらほらと見え、敵もこの場所を探っていることが察せられた。
 前方に数人の人影が立ち、辺りを窺っている。
「あれは敵では?」
「撃つな。銃声は敵を呼び込むことになる。近づいて倒せ」
 二手に分かれて回り込み、義太夫が身を翻して一人目に手裏剣を放つと、男は呻き声をあげて崩れ落ちた。振り向きざま刀を抜こうとした瞬間、物陰から騎兵が飛び出し、大槍を振るって雑兵をなぎ倒す。
「慶次ではないか。何処へ紛れていた。案じていたわい」
 義太夫が声をあげる。
 慶次郎は鼻で笑い、
「義太夫殿が案じておるのは忠三郎ではあるまいか。忠三郎なら、あれなる社におる」
 とうそぶくと、また敵に向かって馬を走らせていった。
「殿!」
 騒ぎを聞きつけた助太郎が社の方から飛び出して来た。その後ろで忠三郎が馬に跨がっているのが見える。
「鶴! 助太郎!」
 義太夫が刀を振り払うと、二人は駆け寄ってきた。
 忠三郎は義太夫の背後にいる一益に気づき、思わず馬上で息を呑んだ。
「義兄上……」
 さすがにこれは叱責される――忠三郎の顔には、そんな覚悟とばつの悪さが入り混じる。
 義太夫は安堵のあまり大きく息を吐き、同時に額の汗を拭って首を振った。
「まったく、おぬしという奴は……」
 口では呆れてみせながら、その目には友を見つけた安堵の色が隠しきれない。
 助太郎もまた胸をなで下ろしつつ、主君の無事に深々と頭を下げた。ようやく緊張の糸がほどけたといった顔つきだ。
 一益はそんな三人を一瞥し、口の端をわずかに吊り上げた。
「歌詠みは終わったか」
 苦笑まじりの問いかけに、忠三郎は顔を赤らめ、恥ずかしそうに目を伏せて、
「はい……」
 と小さく答えた。
 一益はふっと目を細め、静かに一句を口にする。
「猛きもののふの心を慰むるは歌なり」
 叱責ではなく、短くも含蓄ある一句。
 忠三郎は息を呑み、胸の奥にじんわりと沁みていくものを覚えた。
 一益は、自らの軽率を責めるよりも、歌に宿る力を諭してくれた――その思いに、言葉を失った。
 一益は扇を軽く打ち鳴らし、静かに続けた。
「されど、歌に酔うて時を逸するな。武士の務めは、まず勝ち残ることよ」
 忠三郎は深く頭を垂れ、歌の余韻とともに、胸奥に重く刻まれるのを感じた。
 その時、遠方から砂塵を蹴立てる馬の蹄音が近づいてくる。
「父上!」
 狼煙を目にした三九郎と佐治新介も駆けつけてきた。その姿を認めると、一益は小さく頷き、
「では物陰に潜もう」
「如何にして敵の目をかいくぐり、天王寺砦に入る御所存で?」
 義太夫が問う。味方はわずか六騎。
 信長率いる織田勢三千は、一万五千の敵に囲まれた砦に飛び込む形となり、進退窮まっている。普通に考えれば、いま砦へ入ろうとするのは無謀にすぎた。
「いや、ここで潜む。砦は飽和じゃ。砦の外に『もう一つの刃』を置く」
「上様と合流せず、わずか六騎でここに?」
 忠三郎が思わず声をあげる。
「鶴、兵は詭道なり。ここに至っては無理に砦に入るは得策ではない」
 一益は静かに言い切った。
 意味を飲み込めずに首を傾げる忠三郎。その様子に義太夫が苦笑して肩を叩いた。
「案ずるな、鶴。そなたと慶次以外は皆、素破じゃ。身を隠すなど児戯に等しいこと」
 三九郎と新介もまた、うなずきつつ周囲を見回した。すでに砦の中では諸将が揃い、軍議が開かれるはずだ。やがて信長も、一益が姿を見せぬことに気づくだろう。
「砦に近い場所で、身を隠すと致そう」
 一益がそう告げると、一同は無言で従った。
 ここは住吉大社の境内。鬱蒼とした杜に守られ、幾つもの小さな社が点在している。敵の目を欺くには、この上なくふさわしい場所だった。
 
 その頃、天王寺砦では――。
 明智光秀が討死覚悟で奮戦し、砦は辛うじて持ちこたえていた。だが一万五千の敵に囲まれ、援軍も侍大将以上とわずかな足軽三千。皆、疲労の色を隠せない。
「荒木殿は明智殿の縁者であろうに。敵を前にしり込みし、さっさと引き上げるとは!」
 佐久間信盛が憤りを隠さず吐き捨てた。
「いやいや、御大将の威光あれば、一揆勢の一万や二万、たちどころに蹴散らせましょう」
 軽口を叩く羽柴秀吉。
「下郎は黙れ!」
 柴田勝家が一喝し、場は一層荒れる。
 信長は黙して諸将を睨み渡した。
「左近と鶴は如何した」
 万見仙千代が答える。
「敵中を駆け抜ける折に、旗を見たのみ」
「……であるか」
「滝川左近は最後まで鉄砲を撃っていたと聞き及びまする。よもや敵の手にかかり…」
 佐久間信盛がそう言うと、信長がじろりと睨み、
「左近に限ってそれはあるまい。いや…むしろ…」
 信長は言葉を切り、ひとり得心したように頷いた。
 そして、にわかに立ち上がる。
「我らはこれより出撃し、一揆勢の本陣を叩く」
 その一言に軍議の場がざわめき、佐久間信盛が真っ先に反対の声を上げた。
「上様、お留まりを。敵は多勢。我らだけで奇襲をかけるなど、到底かなうものではありませぬ」
 佐久間信盛が必死に声を張り上げる。
「いかにも。すでに外は暗く、まずは籠城して時を待ち、敵の隙をつくことこそ肝要かと」
 柴田勝家も口を添えた。
 信長は鼻先で笑い、居並ぶ諸将を鋭く見渡した。
「敵は我らが籠城すると思い、一万の兵は砦を包囲して本陣は手薄。これ以上の好機はあるまい。まさしく天の与うる所である。今こそ撃って出るときぞ!」
 その気迫に、誰も言葉を継げなかった。
「撃って出る!」
 叫ぶやいなや兜を掴み、床几を蹴って立ち上がる。諸将も慌てふためき、我先にと立ち上がった。
 砦の外に潜む一益の姿を思い浮かべる者もいた。主と家臣、離れた二つの決断が、ひとつの戦略に呼応しようとしていた。

 ――その直後。
 天王寺砦の城門が開き、法螺の音とともに鬨の声が轟いた。
「殿! 上様が砦より討って出られた由にて!」
 急報を受けた一益は、即座に号令をかけた。
「よし、我らも参る。続け!」
 鬨の声に呼応するように、滝川勢は側面から銃口を揃えた。
「撃て!」
 轟音の合図とともに、滝川勢の馬上筒が火を噴いた。
 火花と白煙が一瞬で敵陣を覆い、焙烙玉の爆発音がさらに混乱を誘う。
 ――しかし長くは続かない。合図後の一瞬に限り集中させ、すぐさま散開して位置を替えねば、味方同士が誤射し合う危険があるのだ。
「敵が怯んだ、撃て!」
 一益の声に、十余騎の鉄砲隊が林間を縫って次々と火蓋を切る。
 間合いは四十間。馬を止めぬまま撃ち込むその精度は、一益が何度も稽古を重ねて鍛え上げた賜物であった。
 だが、その先から――雑賀衆の応射。
 矢玉は寸分違わぬ狙いで飛来し、味方の馬を次々と撃ち倒していく。
「狙いが確かじゃ!」
 義太夫が叫び、三九郎は歯を食いしばって馬を操った。
 山中で鍛えられた鉄砲傭兵、雑賀衆。狙撃においては他の追随を許さぬと噂される者たちが、まさに敵前に立ち塞がっていた。
「留まるな! 木陰を渡れ、射っては駆けよ!」
 一益の号令に従い、隊は右へ左へと駆け抜ける。
 煙と轟音の中、槍を振りかざして飛び込むのは朱槍の慶次郎。
 銃声も煙も意に介さず突き進むその姿は、兵たちの恐怖を忘れさせ、逆に心を奮い立たせる。
 その刹那――戦場の奥から大音声が響く。
「左近! 続け! 本願寺まで突き進もうぞ!」
 信長の大音声が戦場を震わせた。馬廻衆を従え、砦を飛び出して敵陣を押し崩していく。
 一益は槍を握り直し、声を張り上げた。
「皆の者、上様に遅れるな!」
 こうして、主君の豪胆と家臣の知略とが重なり合い、戦場は一瞬にして織田方の気迫に呑まれていった。
 内と外、二つの刃が同時に走り、包囲は鳴動した。
 烈しく交錯した鉄砲の火花と槍の閃きは、やがて敵の列を押し崩し、退却の波を生んだ。
 信長の声に呼応するごとく、滝川勢の馬蹄も轟き、織田軍は一気呵成に押し広がっていく。
 討ち取られた一揆勢は千五百、あるいは二千とも伝えられる。
 しかしその数以上に重きは、砦を包囲していた鉄の輪が裂け、明智勢が息を吹き返したことにあった。
 夕刻の空には、戦煙の白さがなお漂っていた。
 その下に立つ者らの胸に去来したのは――勝利の歓喜か、それとも、数知れぬ屍の影か。
 いずれにせよ、今日この日、主と家臣の呼吸はひとつとなり、乱世を駆ける勢いを示したのであった。
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