潤 閉ざされた楽園

リリーブルー

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第十四章 礼拝堂にて

礼拝堂にて

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 潤は古い鉄製の重々しい鍵を、部屋のどこからか出したらしく、いつの間にか、その華奢だけれど男っぽい手に握っていた。
「瑶、行こう」
瑶は、潤にそう誘われて、玄関から靴を履いて、日の傾いた戸外へ出た。黄色っぽい光が、庭を照らしていて、奇異な写真のように見せていた。
「近道だよ」
そう言うと、潤は、瑶の先に立って、庭を突っ切って歩いて行った。瑶は、潤の後ろ姿を追った。
 潤は、薔薇園とテラスのある東庭を抜けていった。庭の角を曲がり、くるくると水を吹き上げる噴水のある南庭に出た。
 噴水の周りは池になっていて、夕方の陽光が、キラキラと硝子の破片のように、さざなみ立った水面に反射して輝いていた。
 潤は、南庭の木々の間を抜けていった。そして庭の端まで行き着くと、煉瓦作りの塀にある小さな扉の閂を開けた。日差しに色褪せた木の扉は、ギイっと音をたてて開いた。
 潤が身体を縮めて扉を抜け、瑶もあとに続いた。塀の向こう側は森だった。
「ほんとだ、近道なんだね」
と瑶は不思議な気持ちで森の木々を見上げた。潤は、答えなかった。ただ見上げた瑶の目に映る木々の葉が、風で揺らいで、瑶の言葉に相づちをうったように見えた。潤は、黙ったまま、手に持っていた小さい鍵を使って塀の扉を閉めた。

 潤と瑶は、礼拝堂の裏手から正面の入り口に回りこんだ。
 礼拝堂の正面扉の前にある数段の石段を上り、大きな扉の鍵穴に、鉄製の鍵を、潤は挿しこんだ。潤の手つきを見ていると、瑶は、心がざわざわした。
 潤が、鍵をグリグリ回しているのを見て、瑶は、あやしい想像をしそうになった。
 鍵が開き、潤が扉を開けるとギイィッと扉がきしんだ重々しい音をたてて開いた。
 両開きのドアの、開けた片側の扉を、閉まらないように潤が押さえた。
 瑶は、その潤によって開けられた開口部から、内部を透かし見た。薄暗い礼拝堂の中に、扉から一筋の光が射し込んでいた。埃の列が、ゆらゆら揺れ動き立ち上っていくのが光に透けて見えた。
 建物の中から漂ってくる空気は、ひんやりとして湿っていて、古びたアルバムのにおいがした。瑶は、おそるおそる内部に足を踏み入れた。瑶の背後でバタンと扉が閉じて、瑶はびくりとして、振り返った。閉ざされた扉の前には、人形のような表情をした潤が立っていた。瑶は、扉の前に立ち塞がっている潤に、なんとなく、閉じ込められたような気分になった。なぜ、そんな気分になったのかわからないけれど、瑶は、もう後戻りできないのだという悲しみのようなものを感じた。それは、潤のことを思い出すたびに、感じる感情だった。

 瑶が、薄暗さに目が慣れてくると、じょじょに建物の内部の様子が見てとれるようになった。
 建物の側面には、高いところに細長い窓がいくつも並び窓枠の十字の影が、静かに床に落ちていた。
 建物内部の正面には祭壇があった。祭壇の向こうには大きな窓があり、西日が射し込んで大きな十字架がシルエットになって浮かび上がっていた。
 瑶は、その儚く荘厳な光の美しさに、畏敬の念を覚え、敬虔な気持ちさえ感じた。
 白い壁、ひっそりとした高い天井、古い時代物の照明器具、ゆがんだ古い手吹き硝子のはまった窓。全てが死のように静かだった。古い忘れられた祈りのように。
 潤は、まるで、どこかから戻ってきたかのように、
「曽祖父と、祖父は、クリスチャンだったらしいけど、父の代からは、違う」
と、唐突に口を開き、説明した。
 ベンチが真ん中の通路をはさんで、左右に並んでいた。潤は、その通路を、ゆっくりと進みながら説明を続けた。
「俺は、ノンクリスチャンだから、別に冒涜してるわけじゃないよ。ほとんど、ここって俺の所有物のようなものだし。鍵持ってるってだけだけど」
潤の言葉は言い訳のように聞こえた。言葉とは逆に、潤が罪悪感を持っていることが瑶にすら、容易にわかった。しかし、潤が、この場所で、どんなことをして、そんな罪悪感を抱くにいたったのかは、瑶にはわかりかねた。それで、
「僕も洗礼は受けてないけど、教会に行っていたことはあるよ」
と瑶は言ってみた。
「じゃあ、俺のために祈ってよ」
潤が、意外なことを言った。ドライでシニカルで、あらゆる権威に対して反抗的な潤は、てっきりバカにして反発してくるかと思ったのに。
「祖父が生きていた時には、家庭礼拝があって、ここで礼拝をしてたらしいんだ。俺も、赤ん坊の頃は、参加したはず」
潤は続けた。
「でも幼児洗礼とかは受けてないんだ?」
瑶は尋ねた。
「うん、だって、父と叔父が同性愛で交わってる状況なんだよ?」
「そっか」
「祈れない俺のために祈って」
潤は、また瑶に頼んだ。
「僕もよく知らないんだけど、いい?」
「いいよ。俺なんて、もっと資格ないから」
「祈るのに資格とかないと思うよ?」
「いいの、俺、ここの場所で、いつもセックスしかしてないんだって言ったろ?」
潤は、自嘲的に、吐き棄てるように言った。ああ、そうなのか、と瑶は潤のために悲しく思った。
「わかった」
潤と瑤は、ベンチに腰掛けた。瑶は手を組んで祈った。
「天におられる、僕たちのお父様、あなたのお名前を讃えます。僕たちは、悪いことをしています、許してください。そして、どうか、潤と僕を助けてください。僕たちを導いてください。あなたのみこころにかないますように。イエス様の御名によって、お祈りします、アーメン……ごめん、うまく祈れないや」

 瑶がふと横を見ると、潤の夕陽でシルエットになった横顔がキラリと光った。潤が静かに泣いていた。
 瑶は、動揺した。
「あの……」
自分のつたない祈りが恥ずかしかった。潤が涙を拭おうともしないのは、潤が、恥ずかしいからだろうと思い、瑶は、どうしていいかわからなかった。
 瑶は自分のポケットを探ったが、潤に、渡すハンカチもなかった。見ないようにしようとしても、涙は流れるままになっていて、潤の膝に置かれた手にまで、ぽたぽたと落ちていた。瑶は、気持ちの強い精神的には男らしい潤が無防備に泣いているのを、見てはいけないものを見てしまったように感じた。それで、潤本人よりもよほど動揺してしまい、何か気の利いた言葉も、気の利いた仕草の一つも思いつかなかった。どうすることもできないで手をこまねいている、子どもな自分が瑶は恥ずかしかった。こんなときに、自分が、そつなく振る舞える大人だったらいいのにと我が身を呪った。瑶は、何もできずに、ただ自分の手を膝の上で握りしめたり、開いてみたりしているばかりだった。
 その手を、潤に差し出したかったが、拒否されるのがこわくて、照れくさくて、できなかった。ただ時間だけが、ゆっくりと過ぎていった。細長い窓から射し込む夕刻の光が、刻々と移り変わり息絶えるように静かに衰えていった。
 潤は、しばらく声を殺して静かに泣いた後、泣きやんだ。
 おずおずと潤の方をうかがった瑶に、潤は微笑みかけた。微笑んでくれた潤に、瑶は負けた気がした。潤は、やっぱり自分よりも大人なのかもしれないと思った。潤が微笑んでくれたので、瑶は、やっと安心して、潤の手に自分の手を重ねた。潤の手の甲が濡れていた。
 瑶と潤は、十字架に一礼して、礼拝堂をあとにした。扉が軋んだ音をたてて、潤の手によって閉められた。潤が鍵穴に鍵を射し込んで、鍵をかけた。
 瑶たちは、石段を降りた。赤く血のように染まった夕焼けの空のもと、瑶たちは森を通り、塀の扉と庭を抜け、玄関から潤の家に戻った。
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