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3章 2021年 執拗な誘い

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 元の世界へ帰ってきた翌日、十羽は普段通り自転車で勤め先のデザイン事務所に出社した。
 椎名しいなデザイン事務所は総勢十名の小さな事務所である。職場は雑居ビルの二階にあり、社長兼デザイナーの椎名が事務所を切り盛りしていた。

 小さいだけに職場内は和気あいあいとしており、椎名をはじめ、同僚は基本的にみんないい人達ばかり。時に優しく、時に厳しく、一番若い十羽に仕事を教えてくれる。

 入社して二年目の十羽は、グラフィックデザイナーとして一人前になるために、日々仕事に励んでいた。まだまだ半人前なので大きな仕事は任せてもらえないが、先輩の手伝いや小さなデザイン業務、それにイラスト制作を真面目にこなしている。

 同僚の中で最も多く十羽に声をかけてくるのが、営業マンの牛丸うしまる英太だ。イケメンで明るい性格、仕事もできる彼は同僚から慕われ、取引先の女性にも人気がある。だが、彼の本性は……。

明日見あすみ、お疲れ様」
 一日の仕事が終わり、十羽が自分のデスクの前で帰り支度をしていると、背後から牛丸の声がした。ビクッと震えた十羽の肩に手を乗せ、牛丸が耳元で囁く。

「これから食事に行こうよ。この前デートできなかった埋め合わせをしたいんだ。ね、いいだろ?」
 今日の彼はグレンチェック柄のスーツを着て、深紅のネクタイを締めていた。ツーブロックの髪型も決まっている。何も知らない女性なら、喜んで食事に行くかもしれない。でも十羽はこの男の本性を知っている。

「今日はちょっと用事がありまして……。すみません」
 マスク越しにボソボソと言い訳をして鞄を肩にかけた。さっさと逃げ帰ろう。
「えぇぇ、せっかくいいイタリアンの店を見つけたのに。デートしようよ、デート!」

 大きな声が事務所内に響く。経理を担当している女性の藤本が「わっ、デートって何? まさか二人って、そういう関係なの?」と問いかけてきた。30代半ばの藤本は愛嬌のあるふくよかな丸顔をしており、事務所内で一番気さくな人だ。

「俺達、そういう関係に見えます?」
 牛丸が楽しげに十羽の肩を抱いた。
「あはは、冗談でしょ。牛丸君は女好きだもんね」
 藤本が笑うと、牛丸は「女好きはカムフラージュかもしれませんよ」と言って尚も十羽を抱き寄せようとした。離れてほしい十羽は体をよじる。

「何言ってんだか。明日見君、嫌がってるじゃん」
「明日見は照れてるだけです。さ、行こうか」
 強引に腕を組まれ、十羽は再び体をよじった。
「あ、あの、ほんとに用事が」
「俺とのデートより大事な用事?」
「ちょっと牛丸君、パワハラはだめだよ」

 藤本の言葉に牛丸が、やれやれと腕を解いた。そして笑顔で藤本に向き直る。
「これはパワハラじゃないですよ。明日見は人見知りなところがあるでしょ。だから一緒に食事をして、心を開いてもらおうと思ってるんです」
 藤本が「ああ、ねえ。明日見君はいつも一人でいるしね」と納得した。

「でしょ? 同僚とのコミュニケーションって大事じゃないですか」
「そうだね、私もそう思うよ」
「そこでこの俺が、デートという名の食事会に誘ってるわけです」
「なるほど。でも強引に誘うのはやっぱりだめだよ」

 牛丸の笑顔がわずかに引きつった。
「……ですね。わかりました。今日のところは引き下がります。ではお先に失礼します」
「お疲れ様」
 にっこりと笑む藤本に背を向け、牛丸が事務所を出て行く。カツカツという足音に苛立ちを滲ませて。

「あ、あの、藤本さん、ありがとうございました」
 十羽が礼を言うと、藤本が「いいのいいの」と軽く答えた。
「でもね明日見君、営業マンとデザイナーは連携を取ったほうが、いい仕事ができるって言うよ。人見知りの明日見君には荷が重いかもしれないけど、牛丸君は悪い人じゃないから、次に誘われたら食事に行ってみたらどうかな」

 悪い人ではない。それが、藤本が思う牛丸なのだ。藤本は同僚として牛丸を信頼している。彼に襲われそうになったと言っても、信じてもらえないだろう。
「……考えてみます」

 やるせない気持ちでそう答え、下を向いて事務所を出た。
 日常生活で出会う人を警戒する癖があるため、十羽は男女関係なく人との間に距離を取りがちだ。就職して二年目になるけれど、同僚の誰とも、親しいと言えるほどの関係を築けていない。

 蓮也と楽しく過ごした時間を思い出して溜息をついた。彼と比較的早く打ち解けられたのは、タイムスリップという不可思議な現象について、困惑を共有したからだろう。蓮也が無邪気な子どもだったからということもある。自然と心を開くことができた。もう会えないのは寂しい。
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