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9章 2021年 最愛の人

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 十羽が降り立った場所は、外灯に照らされた歩道だった。
 天樹町の五丁目、22年前は伊桜家があった場所。今は区画整理によって歩道となった場所で、深い溜息をついて夜空を見上げた。

 結局、絶対に待っていてと言えなかった。未来を変えられたとは思えない。42歳の蓮也は多分、既婚者のままだろう。それでも十羽は彼が好きだし、この恋心は簡単には消えない。きっと、ずっと好きなのだろうなと、瞬く星を見上げて思う。

 アパートにはまだ牛丸がいるのだろうか。とにかく警察に連絡しようと決め、靴下で歩いてアパートへ向かった。

 アパートの前にはパトカーが止まっており、赤色灯の光の中に二人の警察官と、大声でわめく牛丸と、彼らを取り囲む何人かの野次馬が見えた。

「だから、俺は恋人と会ってただけだって!」
 髪を振り乱してわめく牛丸を、警察官の男が冷静に制した。
「恋人は窓から逃げたんですよね? なぜですか?」
「ちょっと口論になったからだよ!」
「あなたが暴力をふるったからでは?」
「俺は何もしてないって!」

 十羽が慎重に近づくと、牛丸が十羽に気づき「あっ!」と声を発した。
「ほら、あいつが恋人です!」
 警察官と野次馬が一斉にこちらを見たので、十羽はビクッと震えた。
 警察官が怪訝そうに問う。
「あの方は……男性ですよね?」
「そうだよ! 男同士でつき合って何か文句あります?」
 やけくそな口ぶりだ。
「いえ、別に」

 警察官の一人が十羽に近づき「あなたが、明日見十羽さんですか?」と尋ねたので「はい……」と答えた。
「あちらの牛丸英太さんと、交際されていますか?」
「いいえ。あの人はただの、職場の同僚です」

 警察官が持っていたクリップボードにメモを取りながら「ほう」と言った。
「あの、どうしてここに警察が?」
「アパートの住人に暴力をふるっている男がいると、通報があったんです」

 牛丸がチッと舌打ちした。
「だからさ、さっきから何度も言ってるだろ? 暴力じゃなくて単なる口論だよ。男同士なんだから、ちょっと派手に喧嘩することもあるわけ。それを、暴力をふるったとか言いがかりをつけられてさ。いい迷惑だ。俺は警察には行かないよ」

「しかしですね、通報者は確かにあなたがアパートの住人に暴力をふるっていたと証言しているんですよ」
「知るかよ!」

 牛丸が恋人に暴力を振るい、それを誰かが警察に通報、駆けつけた警察官が牛丸を任意で警察署へ連れて行こうとしている、だが牛丸は拒んでいる、というのが今の状況らしい。

 十羽は牛丸を睨み、それから警察官に向かって毅然と言った。
「牛丸さんは何年も前から僕につきまとっていました。強引に交際を迫られ、僕は脅されて、仕方なく交際をする振りをしました。はっきり拒絶したけどあの人、全然話を聞かないんです。さっきは首を絞められ、服を破かれて襲われそうになりました。警察に被害届を出そうと思っています」

 一気に言うと、警察官が同情するように眉をしかめた。
「確かに、首にアザがありますね。わかりました。とりあえず署までご同行ください」
「はい」

 牛丸が顔を真っ赤にして声を荒げる。
「なんだよそれ! 嘘ばっかり並べやがって! 俺がつきまとった証拠があるのかよ! 襲おうとした証拠があるってのかよ!」

 確かに証拠はない。
 十羽は不安げに警察官に尋ねた。
「つきまとわれた証拠はありません……。でもあの人から送られてきた恐喝のメッセージがスマホに残っています。首のアザが襲われそうになった証拠ですが、証明できるかわかりません……。こんな感じでも被害届を出せますか」

 するともう一人の警察官が「ああ、それなら」と言って後方に控えていた男を見遣った。
「通報者の方が証言すると言っています。明日見さんが戻るのを待つと言い張るので、あなたが戻るのを待っていたんですよ」
「え?」
「彼が明日見さんの部屋のドアを叩いて、我々に連絡をくれました。明日見さんのお知り合いですか?」

 喧嘩なら外でやれと言ってドアを叩いたのは、てっきり隣人だと思っていた。しかし警察官が見遣った通報者の男は、明らかに隣人ではない。

 その男は上背があり、引き締まった体躯で足が長く、品のいいグレーのジャケットと白いシャツ、グレーのスラックスを身につけていた。
 一目見ただけで目を奪われるような端正な面立ちをしている。特に少し釣り目のシャープな目許が凜々しく、高い鼻梁と薄い唇もモデルのように美しい。
 彼は胸の前で腕を組み、厳しい顔つきで立っていた。第一ボタンを外したシャツの隙間から覗く首筋は、以前より大人の男の色気を感じさせ──。

(蓮也、君……!)

 通報者は42歳の伊桜蓮也だった。
 きのう『アトリエ・イザクラ』で見た彼がここにいる。年を重ねて貫禄が増し、より男前になった彼が。
 十羽の足がガクガクと震えだした。

「明日見君が襲われそうになった証拠なら、この中にある」
 蓮也がジャケットの内ポケットからスマホを取り出した。
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