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SS:大好きという気持ち【前編】
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クリスティーナのその『報告』に、マクシミリアンは固まった。
「……え?」
メイドが置いていったワゴンの前で、今しもお茶を注ごうとしていたポットとカップを手にしたまま、彼はクリスティーナに向き直る。
目が合うと、彼女はふわりと微笑んだ。
「赤ちゃんを授かりました」
思考が完全に停止する。
赤ちゃん。
つまり、彼と彼女の、子ども。
何も言えずにいるマクシミリアンに、ふとクリスティーナの顔が曇った。
「あの、喜んでいただけないのですか……?」
さっきよりも明るさと強さが落ちた、微かに震える声でそう問われて、マクシミリアンは正気に戻る。自分の反応がクリスティーナにどんなふうに受け取られたのか、考えずとも判った。彼はガチャンと乱暴な音を立てて食器をワゴンの上に戻す。
「いや、違う、違うよ、ティナ! そんなことはないんだ。ないんだ、けど……」
「けど?」
安楽椅子に座って両手を膝に置いて背筋を伸ばしたクリスティーナはいつもと変わらない。けれども全身に緊張を走らせているのが見て取れて、マクシミリアンは慌てて最愛の妻に駆け寄りその前に膝を突いた。そうして、冷たくなってしまった彼女の手を握り締める。それだけでは足りなくて、指先に、両手のひらに、口付けた。
「ティナ、私は――」
何とか取り繕おうとしたものの、その先が出てこない。
クリスティーナの手を唇に押し当てたまま、少しでも不安を汲み取ろうとマクシミリアンは彼女の目を覗き込んだ。
多少は和らいだものの、その表情はまだ少し強張っている。自分がそんな顔にさせてしまったのだと、マクシミリアンは我が身に刃を突き立てたくなった。
が、今はそんな場合ではない。
とにかく、何かを伝えねば。
「嬉しいんだ。本当に。本当に、嬉しい」
ぎこちなく、マクシミリアンは馬鹿みたいに繰り返した。
だが、口から言葉として出し、耳で取り込むと、マクシミリアンの中にもじわじわと温もりめいたものが広がってくる。
脳裏に浮かぶのは、赤子を胸に抱くクリスティーナの姿だ。
(うん、これはすんなりと思い描ける)
しかし、その赤子はと言えば、ぼんやりとした影のようなものになる。
彼女との間に子どもが欲しいと、漠然と思っていた。いや、正確には、『彼女の』子ども、か。
孤児院で子どもたちの相手をするクリスティーナの姿はとても自然で、彼女自身が母親となる姿も容易に想像できた。
だが。
(私の、子ども)
そう考えた時、喜びを上回る戸惑いと混乱と――不安が込み上げてきた。
その子どもは、彼女の一部であるとともに、彼の一部でもあるのだ。
(私の、一部。私は、その存在を受け入れられるのか?)
判らない。
あるいは。
世界は、もう一人のマクシミリアン・ストレイフを受け入れてくれるのだろうか。
世界は、次のマクシミリアン・ストレイフには優しく温かなものであるのだろうか。
もしもそうでなかったら。
(その子を、この世界に送り出してもいいのか……?)
彼の一部であり、同時に、何ものよりも愛おしく大事なクリスティーナの一部でもある、その子を。
(私は、守り切れるのか?)
それに、クリスティーナはマクシミリアンを愛してくれていると確信しているが、その血肉を分けられた子どもが同じように彼のことを愛してくれるとは限らない。クリスティーナがマクシミリアンを愛してくれたのは、海よりも寛容な心を持った彼女だからだ。
もしも、この子が苦しむような目に遭わせてしまったら。
もしも、この子に拒絶されてしまったら。
マクシミリアンは、もしも、もしもと、考えれば考えるほどに負の螺旋に落ち込んでいく。
と。
彼の手の中でクリスティーナの小さな手が動いた。
「マクシミリアンさま」
耳元で囁くようにその名を呼んでクリスティーナはマクシミリアンの手を握り返すと、うつむき加減の彼の顔を覗き込むように身をかがめた。そうして、視線をしっかりと捉えながら、彼の手を自らの腹に導く。
押し当てられたクリスティーナのその場所は、当然、まだ何の変化も現れてはいない。
胴はマクシミリアンの両手でつかみ切れてしまいそうなほど細く、平らだ。その奥に、別の新たな命が宿っているなど、想像もできない。
無意識のうちに彼は彼女をそっと撫でていて、そうしている自分に気付いてハッと手を引こうとした。が、クリスティーナの儚い力がそれを引き留める。
「マクシミリアンさま」
また、彼女が彼の名前を呼ぶ。
薄い腹を凝視していた眼を上げて、マクシミリアンはクリスティーナを見た。彼女はまだその場にとどまっている彼の手の上に自分の手を重ねる。
「まだ、何も感じないですが、お医者さまからここに命が宿ったとうかがった瞬間から、ここにいると思った瞬間から、わたくしはこの子が愛おしくてなりません」
重ねられた小さな手に、わずかに力がこもる。
「マクシミリアンさまは?」
「え?」
「マクシミリアンさまは、この子が愛おしいですか?」
マクシミリアンに感じられるのは、クリスティーナの温もりだけだ。
クリスティーナの温もり、柔らかさ、鼓動。
想像してみる。
その中に宿った、小さな存在を。
「……愛おしいよ」
その一言は、コロリとマクシミリアンの口からこぼれ出た。
気負うことなく、ごくごく、自然に。
と、クリスティーナがふわりと微笑んだ。
「それで、その想いだけで、充分です」
「ティナ……」
今度は彼女がマクシミリアンの手を持ち上げ、口付ける。
「この子が愛おしい。その気持ちで守り、慈しんでいきましょう?」
「だけど、ティナ――」
それだけでは足りなかったらどうするのか。
それをうまくしてやれなかったらどうするのか。
言い募ろうとした彼の唇が、指一本でそっと塞がれる。
「大丈夫です。マクシミリアンさまはその方法をよくご存じですから。貴方は人を愛せます。人を幸せにすることができます。人は、貴方を愛さずにはいられません」
クリスティーナは指の代わりに口付けて。
「わたくしが、その何よりの証拠ですもの」
微笑む彼女に、マクシミリアンは胸が苦しくなる。息すらままならないほどに。
「ティナ。貴女は……」
それ以上は、言葉にならない。
だから、無言で彼女の腰を攫い、この引き寄せる。
何にも代え難い命を二つ灯した華奢な身体を腕の中に包み込み、マクシミリアンはただただその温もりを抱き締めた。
「……え?」
メイドが置いていったワゴンの前で、今しもお茶を注ごうとしていたポットとカップを手にしたまま、彼はクリスティーナに向き直る。
目が合うと、彼女はふわりと微笑んだ。
「赤ちゃんを授かりました」
思考が完全に停止する。
赤ちゃん。
つまり、彼と彼女の、子ども。
何も言えずにいるマクシミリアンに、ふとクリスティーナの顔が曇った。
「あの、喜んでいただけないのですか……?」
さっきよりも明るさと強さが落ちた、微かに震える声でそう問われて、マクシミリアンは正気に戻る。自分の反応がクリスティーナにどんなふうに受け取られたのか、考えずとも判った。彼はガチャンと乱暴な音を立てて食器をワゴンの上に戻す。
「いや、違う、違うよ、ティナ! そんなことはないんだ。ないんだ、けど……」
「けど?」
安楽椅子に座って両手を膝に置いて背筋を伸ばしたクリスティーナはいつもと変わらない。けれども全身に緊張を走らせているのが見て取れて、マクシミリアンは慌てて最愛の妻に駆け寄りその前に膝を突いた。そうして、冷たくなってしまった彼女の手を握り締める。それだけでは足りなくて、指先に、両手のひらに、口付けた。
「ティナ、私は――」
何とか取り繕おうとしたものの、その先が出てこない。
クリスティーナの手を唇に押し当てたまま、少しでも不安を汲み取ろうとマクシミリアンは彼女の目を覗き込んだ。
多少は和らいだものの、その表情はまだ少し強張っている。自分がそんな顔にさせてしまったのだと、マクシミリアンは我が身に刃を突き立てたくなった。
が、今はそんな場合ではない。
とにかく、何かを伝えねば。
「嬉しいんだ。本当に。本当に、嬉しい」
ぎこちなく、マクシミリアンは馬鹿みたいに繰り返した。
だが、口から言葉として出し、耳で取り込むと、マクシミリアンの中にもじわじわと温もりめいたものが広がってくる。
脳裏に浮かぶのは、赤子を胸に抱くクリスティーナの姿だ。
(うん、これはすんなりと思い描ける)
しかし、その赤子はと言えば、ぼんやりとした影のようなものになる。
彼女との間に子どもが欲しいと、漠然と思っていた。いや、正確には、『彼女の』子ども、か。
孤児院で子どもたちの相手をするクリスティーナの姿はとても自然で、彼女自身が母親となる姿も容易に想像できた。
だが。
(私の、子ども)
そう考えた時、喜びを上回る戸惑いと混乱と――不安が込み上げてきた。
その子どもは、彼女の一部であるとともに、彼の一部でもあるのだ。
(私の、一部。私は、その存在を受け入れられるのか?)
判らない。
あるいは。
世界は、もう一人のマクシミリアン・ストレイフを受け入れてくれるのだろうか。
世界は、次のマクシミリアン・ストレイフには優しく温かなものであるのだろうか。
もしもそうでなかったら。
(その子を、この世界に送り出してもいいのか……?)
彼の一部であり、同時に、何ものよりも愛おしく大事なクリスティーナの一部でもある、その子を。
(私は、守り切れるのか?)
それに、クリスティーナはマクシミリアンを愛してくれていると確信しているが、その血肉を分けられた子どもが同じように彼のことを愛してくれるとは限らない。クリスティーナがマクシミリアンを愛してくれたのは、海よりも寛容な心を持った彼女だからだ。
もしも、この子が苦しむような目に遭わせてしまったら。
もしも、この子に拒絶されてしまったら。
マクシミリアンは、もしも、もしもと、考えれば考えるほどに負の螺旋に落ち込んでいく。
と。
彼の手の中でクリスティーナの小さな手が動いた。
「マクシミリアンさま」
耳元で囁くようにその名を呼んでクリスティーナはマクシミリアンの手を握り返すと、うつむき加減の彼の顔を覗き込むように身をかがめた。そうして、視線をしっかりと捉えながら、彼の手を自らの腹に導く。
押し当てられたクリスティーナのその場所は、当然、まだ何の変化も現れてはいない。
胴はマクシミリアンの両手でつかみ切れてしまいそうなほど細く、平らだ。その奥に、別の新たな命が宿っているなど、想像もできない。
無意識のうちに彼は彼女をそっと撫でていて、そうしている自分に気付いてハッと手を引こうとした。が、クリスティーナの儚い力がそれを引き留める。
「マクシミリアンさま」
また、彼女が彼の名前を呼ぶ。
薄い腹を凝視していた眼を上げて、マクシミリアンはクリスティーナを見た。彼女はまだその場にとどまっている彼の手の上に自分の手を重ねる。
「まだ、何も感じないですが、お医者さまからここに命が宿ったとうかがった瞬間から、ここにいると思った瞬間から、わたくしはこの子が愛おしくてなりません」
重ねられた小さな手に、わずかに力がこもる。
「マクシミリアンさまは?」
「え?」
「マクシミリアンさまは、この子が愛おしいですか?」
マクシミリアンに感じられるのは、クリスティーナの温もりだけだ。
クリスティーナの温もり、柔らかさ、鼓動。
想像してみる。
その中に宿った、小さな存在を。
「……愛おしいよ」
その一言は、コロリとマクシミリアンの口からこぼれ出た。
気負うことなく、ごくごく、自然に。
と、クリスティーナがふわりと微笑んだ。
「それで、その想いだけで、充分です」
「ティナ……」
今度は彼女がマクシミリアンの手を持ち上げ、口付ける。
「この子が愛おしい。その気持ちで守り、慈しんでいきましょう?」
「だけど、ティナ――」
それだけでは足りなかったらどうするのか。
それをうまくしてやれなかったらどうするのか。
言い募ろうとした彼の唇が、指一本でそっと塞がれる。
「大丈夫です。マクシミリアンさまはその方法をよくご存じですから。貴方は人を愛せます。人を幸せにすることができます。人は、貴方を愛さずにはいられません」
クリスティーナは指の代わりに口付けて。
「わたくしが、その何よりの証拠ですもの」
微笑む彼女に、マクシミリアンは胸が苦しくなる。息すらままならないほどに。
「ティナ。貴女は……」
それ以上は、言葉にならない。
だから、無言で彼女の腰を攫い、この引き寄せる。
何にも代え難い命を二つ灯した華奢な身体を腕の中に包み込み、マクシミリアンはただただその温もりを抱き締めた。
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